2月22日
普段ひとりで電車に乗るなんてことは本当に稀なもので、ひとりで電車に乗るとそれがどんな用事でも私は嬉しい。
同じ車両に乗り合わせた人達がいつもの通勤電車のいつもの車窓の景色に目を凝らすことなく、大体がなんとなくスマホを眺めている中で、ずっと車窓を流れている景色を見ていたら、市内の雑駁なビルとビルの間にひょっこりと
「来夢来人」
なんていうスナックの看板を見つけて「わーほんまにあるんやああいうの!」とマスクの下でこっそり笑ったり
「やかんちゅうがく」
という平仮名の横断幕のある古い学校の建物に「はーそんなのがあるんや…」となんだか妙に感心したりして辿り着いた先は、赤青黄色、ビビットなひかりの三原色のオブジェで賑やかに装飾された室内型の遊興施設。
ガイドブックを頼りにここにやってきたらしい旅行者風の親子連れの後ろに並んで入場チケット『大人ひとり』を購入し、鮮やかな黄色のツーピースを着たお姉さんにそれを差し出すとものすごく怪訝な顔をされた。
「あのう、お子さんは…?大人おひとりでいいんですか?」
「はあ、大人おひとりです」
仮にわたしが、数ヶ月前に6歳の子を亡くしたママで本当ならこの日、子どもとここに来るはずだったんです、約束していたんですと言ってひとつぶ涙をぽろりと流すと、きっとそこから長い物語が始まるのだろうけれど、別にそういう訳ではなくて
「えーっと、わたし今日団体で来園予定の幼稚園の子の親なんです」
「はあ」
そう言うとお姉さんは更に怪訝な顔をした。なんでお子さんと一緒に来なかったんですかぁ?という顔。
わたしが親単独でこの施設に前乗りしているのは、色々と理由があるのだ、というかモノゴトには大抵理由があるのだ。
この日、年長児最後の記念遠足に来る予定の6歳の娘は、普段医療用酸素を使っている疾患児で、お家では冷蔵庫に似た小さな機械を、外出先ではポータブルの小さな爆弾に似た酸素ボンベを使っているのだけれど、この日の遠足は長時間になる、そういう時は間に酸素ボンベの交換をしなくてはいけない
「遠足の日、園の看護師さんは来られないのですけれど、酸素の付け替えは多分医療行為にあたるので…」
ということで、保護者としての帯同を幼稚園から依頼されてわたしはひとりやってきた、と同時に時間時間、要所要所で6歳の体調の変化を確認し、疲労が強く出ている場合は6歳を休ませる、その判断をするという任務を負って電車を乗り継いできたのです。
…ということを説明するとそれはそれでちょっと面倒なもので「はあまあ、えへへ」という曖昧な笑いを浮かべて館内に入り、館内入り口近くのベンチに陣取って幼稚園バスに乗ってやってくる予定の幼稚園のお友達と我が子を待った。
ところでこの日は団体客のとても多い日だったらしい、10時を回る頃に幼稚園、保育園、多分小学校の1~2年生、そういう団体客が次々と館内にやって来て、仔犬みたいにはしゃぎながら目指す展示や遊具を目指してわたしの前を通り過ぎて行った。そして子どもというのはこういう時大抵早足かもしくは本気の駆け足だ、当然引率の先生に叱られるのだけれどそれがまた
「コラッ!走らないの」
と先生が言うと、子どもらが今度は物凄くわざとらしくスローモーションの動きをするというもので、それは傍から見ているとちょっと面白い。しかもそれを全然違う小学校、もしくは幼稚園、それか保育園のお友達も真似してそれぞれの先生に
「なんでやねん」
を言われているあたりは大阪の子どもって先天的にこうなのかもしれへんなと、お約束の遂行がみんな完璧で流石すぎるやろと、わたしはちょっと笑った。
その後、どうやら予想外に道路が混んでいたらしくやや遅れてやってきた我が子6歳とそのお友達も10時半頃にはワーッと歓声を上げながら入館し、あんまり母親が分かりやすい場所にいるとはずかしいかしらんと心配していた6歳は、入り口ベンチの隅に遠慮がちに座っていた母親のことなんか一瞥もしなかった、というかアレ、気づいてへんのでは。
結局、疲れはしないか、不穏にならないか、興奮しすぎて心臓に負担がかかり結果突発的な何かが起きて病院搬送なんてことにならないかと心配した6歳は、途中はしゃぎすぎて「疲れた」と言った時にほんの少し医務室で休憩させただけで特に何も起こらず、私は大半の時間を『待ち』に費やすことになった。お陰で読書ははかどった、本谷有希子と今村夏子がいまブーム。その2冊をぱらぱらとめくりながらわたしはこう思ったのだった。
(今日は『待つ』日やな、というかそういう星回りの日なんやろな)
3年前の丁度同じ日、6歳は(というか当時3歳は)手術室にいた。
朝9時から開始された手術が終わって6歳の顔を見ることができたのは、とっぷりと夜の更けた深夜0時のことで、決して良好で大成功には至らなかった『心臓の中に人工血管を通す手術』の終わりを、わたしは今か今かと暗い手術待合でひとりずーっと待っていた。あの時、普段とても朗らかでにこやかな執刀医の先生があまりにも、ひとかけらの笑顔も見せてくれなかったために
「この子はもうここまでなのかもしらん…」
そう思って、世界が真っ暗になりついでに終るような心持ちでいた手術のあの日に、今日のわたしが訪ねて行って
「いや、この子いまは死にかけてるけど、3年経ったら幼稚園のお別れ遠足に行くし、あの室内遊園地みたいなとこで1日中お友達と遊び呆けるで」
と言っても、あの日のわたしは信じてくれないだろうなと思う。そのくらい元気に飛び回っていた6歳は、それでも3年前のあの日から今日まで医療用酸素を手離せないままであって、実のところ「もしかしたら、酸素は一生使い続けることになるかもしらんね」なんて言う話が最近は出て来てはいるけれど、ともかくあの日から3年後の今日、6歳はとても元気だ。
元気という言葉の定義に健康とか健常を入れなくてはならないのだよと条件づけられてしまうと「それは違うよ」という話にはなるのだけど。
(きっと物凄く元気になって、酸素も使わなくてよくなって、外見上はほとんど普通の子と変わらなくなるのやわ)
そのように思っていた術前のわたしの期待というか希望とはかなり違う地図の上を歩いていることになる6歳は、それでも今日も元気で、自分が何やら他のきょうだいとは違う心臓の病気であることは知っているのだけれど、未来には善いものが沢山待っているのだと信じていて、この春には小学生になる、ランドセルは水色。
これは本当に大したことのない、ありがちな今日の日記だけれど、3年前のあの日、13時間を共に戦ってくれた執刀医と、術後命の砦を守り続けてくれたICUチームのスタッフ、それから病棟で退院までの道のりを伴走してくれた看護師と先生、なんとか歩いて退院させたいと奮闘してくれたチーム・リハビリ、それから色々と我慢ばかりさせてきた6歳の兄と姉、皆に「ありがとうございます、お陰様で、あの日の子どもは体調万全ではないけれど元気だし、頑張っていますよ」を伝えるために書いた。
特に誰に届かなくてもよいのだけれど、そして世界は全くままならないけれど、娘は元気です、どうもありがとう。
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