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さよならECMO(Unexpected survivors2)


これは、末娘の心臓手術の翌日から1週間の話。

まだ、死の淵の近くをよちよちと歩く我が子をICUに預けている状態でもひとたび自宅に戻れば、普通に普通の生活があるというのは、毎回の事ながら本当に不思議だなあと思う。

これが映画やドラマだと、暗い病院の廊下にたたずむ母親の姿に不安の余韻を残して次のカットに場面は切り替わるけれど、私がしているのはノンフィクションの世界の本当の生活なので、末娘が補助循環装置に生かされているような命の瀬戸際にあっても、家に帰れば掃除も洗濯も食事の支度もしなくてはいけないし、この春中学に上がる息子の塾の手続きにだって行かなくてはいけない。

トイレットペーパーが残り2つしかない無いからドラッグストアに買いに行かないといけないと思う気持ちと、末娘の肺と心臓はこのまま持ち直してくれるのだろうかという気持ち。双方を一人の人間の中に同居させてそれぞれを思考して遂行していかなくてはいけないと言う状態は、普段家の中に兄の2段ベッドによじ登り抽斗からハサミを取り出して振り回す3歳児がいる時よりもずっと消耗する。

月曜、正確には火曜日に日付が切り替わってからずっと、補助循環装置『ECMO』Extra Corporeal Membrane Oxygenationという長い本名の機械が末娘には接続され、この子の心臓と肺を補助し動かし続けてくれていた。今、末娘は静脈血を取り出して、ポンプに流し、回路へ血液を通して人工肺で酸素化、二酸化炭素を除去した血液を再度、体内へ戻す。本来なら心臓と肺がするべき仕事を全てこの機械に肩代わりしてもらっているその状態は

「とにかく状態を安定させて出来るだけ早々に離脱にもっていきたい」

ICUに身柄を預けている間は末娘の主治医である小児心臓外科医の先生から言わせると、出来ることなら可及的速やかにそこから離脱し心臓と肺には双方一本立ちしてほしい、そういうものであるらしい。これは長くつけっぱなしにしているような物ではない、確かにこれで生命は維持できるが弊害も多い。とにかく血圧を安定させて、肺の状態も上向かせたい、そのために今停滞している尿を出して体から水分を出せるように機械とお薬で助けています。

「それが、思った程水が出てきていないんです。今輸液で入れている分を考えるともっと出る筈なんですが、胸にもお腹にも水がない、体の背中や腕が浮腫んでいますが、これ以外にもう少しどこかに水が無いとちょっとおかしいなと」

末娘は普段から例えば姉の大切にしているぬいぐるみだとか、兄のニンテンドースイッチのコントローラーだとかそういうものをTVの裏やソファの下にこっそりと上手に隠しては兄姉に怒られている子で、ICUにいる今は体外に排出するべき水をどこかに貯め込んで隠しているらしい。本来ならそれはどんどん外に出して行かないと状態が上向かない。そう言えば私は初回の手術の際

「とにかく術後は尿が出れば何とか」
「尿ですか?」
「尿です!」
「尿ですね!」

この先生と、あの時はまだ生後3ヶ月だった末娘の眠るICUの今と同じ部屋の同じベッドの前で『尿です』『尿ですね』と連呼した事があるなあと、そんなことを思い出していた。術後はとにかく尿を出す、それが術後の体の再起動の始まりになる。それなのに今回、この子の腎臓の動きというか、それの再起動のスピードが相当に鈍く、腎不全の状態に陥った末娘は自力の尿の排出になかなか勢いをつけられないまま、次いで術後直ぐに行った腹膜透析の効果が思った程ではないと判断され、次の一手として大人と同じ人工透析を実施されることになり、透析初日、早々に回路を3つつぶした。

大人用の機械である人工透析機を繋ぐには末娘の体が小さすぎるのだそうだ。

人工呼吸器で呼吸を、補助循環装置で心臓を、人工透析で腎臓機能を、命を維持するためのそれぞれの機能をそれぞれの機械に委ねている末娘はただ静かに黙って眠っていて、面会に来た私はその顔が、手術の影響と補助循環装置の影響で腎臓と肝臓、双方の機能が低下しているために黄疸で黄色くなり浮腫んでしまっているのを見て嫌だなあと思った。普段は大きな瞳と二重瞼がとても可愛い子なのになんだか重たい一重瞼になってしまっている。この先この子は一体どうなるんだろう。先生はとにかくこのECMOを離脱することを繰り返し言い、あとはひたすら各数値、酸素飽和度、血圧、静脈圧を確認して、その数値が今どういう意味合いを持つのかを説明してくれた、その中で私はどうしてもひとつ分からない事があって、それを主治医に質問した。先生はいつも末娘の状態を説明した後に必ず

「何かここまででおわかりにならない事はありますか?」

と聞いてくれる、だから。

「あの、この補助循環装置から離脱できないとどうなるんですか?」

術後2日目、私がたいへんに素直に屈託なくそう聞いた時、先生はとても微妙な顔をして、そしてかなり言い淀んでからこう答えた。

「ええと…それは、離脱出来ないという事自体が、もう末娘ちゃんの心臓と肺では身体を維持できない状態であるという事なんです。その…このECMOというのは長期使用してそれで命を維持するという性質のものではないんですよ、これが離脱できなければこれから先のお話しは出来ないと、そういう事なんですが」

ECMOという機械はそもそも緊急措置的な生命維持装置なのだから、それから離脱する事ができないという事は、もう自力で自身の循環機能を維持できない状態になるという事、心肺機能の悪化から波及して起こる全身状態の悪化、多臓器不全、それはあまり考えたくない事ではあるけれど、即ち命が静かに終わるという事なんだと私が理解したのは、ECMO装着の3日目に入った頃だと思う。

『離脱できないとどうなるんですか?』

あの全然何もわかっていない、医学生なら循環器系医師御用達のケンツメディコの聴診器で思い切りよく殴られたに違いない私の質問に、先生が酷く言い淀んだのも無理はないことで、今、機械を頼みに循環機能を維持し、なんとか命を立て直してこの先を生きようとしている小さい人を目の前にして

「あ、死にます」

なんて間違っても言う人ではないのだ、この先生は。

それを理解した術後3日目、いつもの時間通り訪ねたICU、末娘の病床の傍らで補助循環装置を末娘の体から取り外せるのかどうか、それを先生が慎重に経過と数値を観察し、各種機器の設定を詳細に確認して調整している間、私はずっとモニター上の数値、心拍は、血圧は、酸素飽和度は、静脈圧は、人工呼吸器の設定は何%なのか、それを解らないながらつぶさに確認しながら、もうひとつ、先生の表情と言葉を注意深く観察していた。

末娘の疾患については門前の小僧レベルの知識程度しか無い上に、理科系科目がとてつもなく苦手だった経歴を持つ私には、専門医の主治医が最大限わかりやすくかみ砕いて懇切丁寧に、多分中学生レベルに易しく説明してくれている末娘の現状も、それが一体良いことなのか悪いことなのか、悲観するべきか楽観するべきか分からない事が結構頻繁にある。そしてそれを質問しようにも、まず質問する内容が分からなかったりする。そういう時にはひたすら先生の顔を見ていた、あとは先生の微妙な言葉遣いの違いと音調。

それで、私は気が付いた。先生はとても深刻なフェーズの時には一人称が『私』になって、多少上向いてきた時には一人称が『僕』になる。多分これ家に帰ると『俺』になるんじゃないかと思う。その家には多分全然帰れてはいないのだろうけど。

先生は、この日の最後にこう言った。

「明日の朝9時に、補助循環装置を外せるかどうか、僕が数値を見て判断します、それで行けると判断した場合、午後に離脱にチャレンジします」

先生はこの時、自身を『僕』と言った。それに、そう言えばこの先生はECMOを装着したICU初日、こんなことを言っていた気がする。

「補助循環装置を外せるかどうか、そのタイミングは、末娘ちゃんが僕達に教えてくれると思います」

末娘は私が見ていない間に、先生に何か言ったんだうか。瞼を半開きにして深く眠ってはいるんだけど

「センセイ、アタシコレモウイイヨ」

末娘がそれを言ったのかどうかは分からないが、それでも末娘は、静脈圧と血圧、そして人工呼吸器と酸素飽和度、強心剤の量、それぞれの条件をクリアして、更に細かな設定条件を調整し、術後4日目に最初の関門であるECMOを離脱する事に成功した。

手術室も緊急手術以外は動いていない土曜日の午後、私はICUで先生とME・臨床工学士とICUの担当看護師が細心の注意を払いながら末娘からその機械を取り外し、状態を確認している3時間程の間を、ICUと同じフロアにある薄暗い手術室待合でぽつんと1人で待っていた。

その薄暗い待合室で、私がこの日たまたま着ていた黒いワンピースがいけなかったのか、私の全身からにじみ出ている暗い雰囲気ががまずかったのか、設備点検の為にワゴンをガラガラと押しながらやって来た設備課の人に「うお!?」という怯えた声を出されてしまった。

違います、私生きてる人間です。

「結構すんなり抜けましたよ」

午後4時過ぎ、手術の時に着用する薄い緑色の術衣の先生がECMO離脱を伝えに来てくれた。笑顔で。その後すぐに面会した末娘は、勿論その装備が外されただけで、人工呼吸器も透析も体に繋げたまま深く眠り続けていたけれど、末娘の血液を体内から吸い上げてぐるぐる循環させていたあの大きな機械は、先生の言った通り、体から取り外され、ICU の個室から跡形もなく片付けられて無くなっていた。まるで最初から何もなかったかのように。

あんなに自分の子どもの血液を目視する事は、この先の人生でまず無いだろうと思う、と言うかもういい。本当にもう結構です。

「あとは2日間程様子を見て、これで再度ECMOに頼る事はないだろうと判断出来たら今度は閉胸します。今開いている胸部をですね、あんまり末娘ちゃんの体を動かすと状態が悪くなることもあるので、ここで閉じます」

先生は、ICUにオペ室のスタッフと機材を呼ぶと言った。

最先端の医療機器を湯水のごとく使って生かされ、人工透析機の回路を1日3つつぶし、なんなら予備の機械含めて透析機2台を占有し、更には先生を手術日の朝からほぼ独占している末娘は更に、この場所に手術室を出張させると言う、お大尽だ。

閉胸できれば、やっと末娘の手術は終わる、これまでの手術の時には、必ず執刀医であり今は主治医でもある先生が、縫合まできっちり担当し

「僕が出来るだけ細かく縫いましたから」

そう告げてくれて、それが手術終了の言葉だった。今回1週間のタイムラグを置いてやっとその言葉を聞く事が出来る。

と思っていたら、手術から1週間目の今日の夕方、突然病院の代表番号から着信があり、画面に出た病院の名前に何事かと驚いて携帯に飛び付いたら、それは先生だった。

「末娘ちゃんの血圧が急に下がりました。どうも胃から出血しているようです、お母さん今すぐ来られますか」

夕方18時前、末娘の血圧が急に下がり、次いで口と鼻から軽い出血、鼻から入れているNgチューブから結構な量の血液が引けたらしい。心臓の手術をした術後にどうして胃から出血するのか、そして今から焼こうとしていた生姜焼きを私はどうしたらいいのか。重度の心臓疾患児の親でも、意外と緊急の呼び出し、搬送、予定外の入院と言う事態からは縁の薄かった私はすっかり動揺して、玄関と台所を豚バラ肉の入った耐熱ガラスのボウルを持って3往復し、それを見ていた息子にこう言われた。

「ここはいいから早く行って!」

それで今、私は病院のICUの面談室の中にいる。末娘に関わる事は何にしても待ち時間が半端なく長いのを知っているので、病院に行く時には大体PCを大きな帆布のカバンに入れている。何もしないでただ待つという事が今の私にとってはとても辛いからだ。私は1人で先生の「終わりました」のひとことを待つ、それの時間を耐える事が今、本当に出来ない。

「これは予想というか蓋然の話ですが」

そう前置きしてから先生が言ったこの出来事の原因、それが末娘は今、身体に入れた人工血管の血栓を防ぐために抗凝固薬とステロイドを使ってるせいで、ちょっとした傷でも出血が止まりにくい状態になっている。それで術後管理のために鼻を通して胃に入れていたNgチューブが偶発的に胃壁に傷を作り、そこから出血したのではないかと、そういう事だった。心臓とは直接関係のない原因の出血でも、量が多ければまだ体の小さな末娘には命取りになってしまう。

末娘は、外科と言えば小児心臓外科医の主治医だけ、それを守り通して3年目の今回初めて消化器関係を司る精鋭・小児外科チームのお世話になった。内視鏡を使って胃の中で何が起きたのかを念入りに診てもらい、出血の原因を探ってもらった。胃の中はもう出血は止まっていて血の塊がいくつも見つかったそうだ。さっき私がいる部屋のドアのすりガラス越しに見えた賑やかな話し声と共にやれやれと病棟に帰って行った緑の術衣の集団が、よく病棟でお見かけする小児外科のチームの先生方だと思う。

「お父さんお母さんには、今回かなりご迷惑と言うか、ストレスと言うか、そんなものを常時感じさせてしまう状態が続いてしまっていて、本当に申し訳ないです」

すべての処置が終った後、先生は私に状態と状況を説明しながら深く頭を下げだ。そんなとんでもない、こちらこそウチの娘がお世話ばかりおかけして本当にすみませんと私の方も深く深く頭を下げた。

申し訳ないのはこちらの方です。

これが小説なら、ちょっ盛りすぎじゃないかと思ってこの辺りを割愛したくなるこの展開も、実際、今ここで起きてしまっている事なのでもうどうしようもない。今回は本当に先が読めない。展開の波が荒すぎる。それに毎日付き合っている小児科医というのは、小児専門の外科医も含めてタフ過ぎないかと、本当にそう思う。

私は来世、どんなに頭脳明晰な体力オバケに生まれついても小児科の医師だけにはなれる気がしない。術後3歳の娘が死にかけて、でも少し安定してきたなと思ったら、今度は緊急の呼び出し。それだけでも今、人間の形状を保つだけで精一杯な自分がいるのに、もしこんな事を生業として年間何度もやっていたら早晩道に倒れてしまう、それより先に緊張と疲れとストレスで人の形がぐずぐずに崩れ落ちて無くなるか。先生は本当に大丈夫なんだろうか、もう術後1週間になる、そろそろ家に帰って寝て欲しい。

でも、先生は今晩一晩経過と状態を観察して、何事も無ければ明日予定通り閉胸するつもりでいるらしい、こんな緊急事態の起きた次の日もちゃんと外科医の姿をして明日の現場に立つ。

「何より感染症を避けたいですし、閉じなければ手術が終わりませんから」

明日、傷口を綺麗に洗浄した後、執刀医自らの手で縫合され、末娘は1週間越しの長い長い手術をやっと終えることになる、多分。



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