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スイセイのこと 7

☞18

お母さんと妹が骨という無機質な塊になって僕達の古い木造家屋に戻ってきてからしばらくの事を僕はあまり覚えていない。

ただ事故の後、生命保険だとか損害賠償だとか被疑者死亡で書類送検だとか民事裁判だとか僕が新聞やニュースで見聞きした覚えのある文言が、事態の終息へのあまりの煩雑さに耐えかねたサカイさんが依頼した弁護士さんとサカイさんとたまにスイセイの間で飛び交っていた事を僕は断片的に覚えている。

僕はこの時のことをずっと後になってからサカイさんから聞いたのだけれど、あの事故の時、銀色のワゴン車に乗っていた加害者はそれまで特に病気なんかしたことも無いとても健康な内装の会社の若い社長さんで、事故のその日、軽い頭痛を周囲に訴えながらも仕事先に向かって運転していた最中にくも膜下出血を起こしアクセルを踏み込んだまま意識を失ったのだと言う。その人には僕と同じ年の子どもがいた。事故からしばらくして加害者の家族、その人の奥さんから弁護士さんを通じて直接被害者家族である僕達に謝罪をしたいと申し入れがあったらしい「許してくださいとは言いません、でも一言だけでも」と。

「そんなもんいらん。加害者いう人は自分でも何やわからん急病やったんや、そんで向こうの家族はお父ちゃんが死んでんねやろ、痛み分けや。それを頭下げに来いとか金払えとかそんなんよう言わん。そんな事してもろてもマリさんもちびも戻らんねや」

警察が被疑者死亡のまま書類送検言うてんのならもうそれでええ、それ以上の事なんか俺は一切いらんと言ってスイセイはそれを退けた。それで加害者側の保険会社から支払われる倍賞金もいらないと言い出したので、それはカイセイの将来の為にアンタじゃなくてアンタの名前でカイセイに受け取らせなさいとサカイさんがスイセイを説得して、僕には、加害者側の保険会社から支払われた賠償金と、お母さんが僕を受け取り人にして掛けていた生命保険の保険金、それとお母さんの遺産として残されたいくらかのお金、これについてもスイセイはそのすべてを放棄すると言ってすべてを僕に渡し、それを全部あわせてそこから税金とか手続の為にお願いした弁護士さんの費用とかそういうものを差し引いたかなりの金額が僕の名義の通帳にまとめて振り込まれた。そのお金がすべて記帳された通帳をスイセイから「これ全部カイセイのや、確認せえ」と言われて見せられた時、そこに印刷されている数字には0が多分8つあった。

でも僕にはそんな事はどうでもいいことだったし、スイセイにとってもそれはどうでもいい事だったらしい。

「金なんか、なんぼあっても命は戻らん」

この点だけは、半壊した事実上解散状態の便宜上家族である僕達2人は感覚がとてもよく似通っていた。起きてしまった事はもう取返しがつかないんだ、何をどうしたって。

その頃の僕の毎日は、特に急がなくてはいけない何かがある訳ではないのに何故かとても慌ただしくて、僕のまわりに流れるすべての音は何か以前よりも耳障りで、冬の入り口に立った季節の朝の寒さも夕暮れの足元からの冷え込みもどうしてなのか僕をとても苛立たせた。1日はそれが始まった瞬間にすぐ夜がやって来て終わり、僕の感知していた時間の感覚は少し狂っていたんじゃないかと思う。実際1日、と言っても僕が覚醒している時間は16時間程度だけれど、その時間がそんな瞬時に過ぎ去るなんて物理的にはあり得ない、でも僕には毎日がそのくらいの速度で過ぎて行った。スイセイはあのお葬式の日、僕が喪主代理の挨拶の中で伝えた「お母さんと妹がいなくなって、家族は半壊してしまったんですけれど、このまま半壊状態の欠損部分を抱えて、人間2人と猫1匹で家族をやって行こうと思います。僕はそう決めました」という僕の決意表明を

「カイセイの気持ちは嬉しい、俺もお前が好きやし大事や。でもな、もう大事すぎて俺にはどうしたらええかわからん。お前は俺の人生に最後に残ってるたった1人の人間の家族なんや。せやけどな…ウン、ちゃうな、せやからな」

そこまで言ってあとは言葉を濁したまま、それでも僕達は何となく普通に暮らしていた。僕達はお母さんと妹を亡くしてから、取り合えず毎日の生活の上では何とか家族としての様式をギリギリのところで保っていた。僕は普段から自分の食べるものは簡単なものなら、トーストとかインスタントラーメンとか塩おむすびとか、あとは極力辛くないカレーとかの程度のものは作る事ができたし、僕はその手の物はあまり食べられないけれど、スーパーにもコンビニにも食べ物は沢山売っていていつでもそれを簡単に購入する事が出来た。それと、これは一緒に暮らし始めた時にとても意外に感じた事だったけれど、スイセイは意外に居室や衣類を清潔に正しく保つことの出来る人間だった。掃除も洗濯もちゃんと出来る。それについては死んだお母さんの方がずっとずぼらというか適当で、僕の白いシャツと自分の赤いワンピースを一緒に洗濯機に回してそれをまだらなピンク色に染めてしまったり、室内に散らかったものをすべて部屋の隅にうず高く積み上げて「大体片付いたと思わない?」と宣言したりする、よく言えばおおらかで、悪くいうとかなり雑な人だった。

だから、僕達は家族の今後の継続については双方の中で中長期的にどうしていくかの結論を明確に出さないままの、すべてを宙に浮かせた状態でも特に大きな不足なく毎日を暮らしていた。僕は毎日食べられる食物を自分で選別して咀嚼し、スイセイが洗濯した衣類を畳んである順に着て、学校に行き、無言で座席に座り下校時間が来たら静かに帰宅した。3年生は2学期の後半に入り、僕は元々持っていた『協調性の極めて薄い物言わぬ変り者』という属性に、不運な事故で肉親を2人まとめて亡くし、その事故の数ヶ月前に母親の再婚によって法律上の父親になったばかりの正体のよくわからない自由業の大体誰に対しても不遜な態度の大男と暮らしているという『問題のある家庭の子ども』というものまでが加わって、そこまで僕の設定が良くない方向に突き抜けてしまうとそれこそもう誰も僕に何か要らないちょっかいをかけてくる事は殆ど無くなったし、僕がこれまで通りの態度を学校で貫いている事について担任の先生も僕の保護者のスイセイにいちいち電話をかけて来たりはしなかった。それにそもそもスイセイはお母さん以外の人の電話なんか自分では取らない。だからお母さんが死んでしまった今、スイセイは未来永劫自分の電話の着信を自分では取らない事になった。

一度だけ、以前僕に掃除用のバケツで水をかけてきたうちの1人が同級生が昼休みに

「おい、お前んとこのお母さん死んだんだろ」

と聞いて来たけれど、僕はその質問に対して何も答えたくなかったので何も言わなかった。でも僕が何も言わないでいると、その同級生は僕の返答を待っているのか、僕の机の前から動かないまま黙っていたので

「お母さんは時速98kmの車に轢かれて脳と内臓とその中の妹を全部押しつぶされて死んだ。だから何だ、人間が死ぬ事なんかちっとも面白くない。そんなに興味があるなら君にだって死ぬことなんて簡単だ、ここの屋上から飛び降りろ、今すぐ簡単に出来る」

ごく早口でそう言って、僕は椅子から乱暴に立ち上がり、教室から出て手ぶらで家に帰った。以前タチバナ先生が「君が不快だと思ったらまず教室から出なさい」と僕に言ったからだ。僕はその指示を守って教室を出てそのまま誰にも何も言わず家に帰った。以前はお母さんが使っていた鍵で家の建てつけの少し悪い玄関を開けると、留守番をしていたしらたまが僕がいつもよりもずっと早い時間に帰宅した事に喜んで僕の足元に纏わりついて啼いたので、少しだけドライささみをおやつにあげて、それからしらたまを膝に乗せて庭に面した縁側で本を読んだ。それはお母さんが死ぬ少し前に僕の病院の帰りに僕に買ってくれたエンデの『はてしない物語』で、このお話の主人公のバスチアンはお母さんを亡くしていてお父さんと2人きりの家族になり、そしてそのお父さんはバスチアンに興味を無くしていて殆ど構わず学校にも家にもどこにも居場所のないそういう男の子だ。お母さんはどうして僕にこれを買ってくれたんだろう、あの時は「きれいな装丁の本だから、こういうのが1冊位カイセイの本棚にあってもいいんじゃない?生き物図鑑ばっかりだとつまらないから」と言っていたけど、あれはもしかしたら何かの預言だったのかもしれない。赤や黄色に紅葉した葉がすっかり枯れて落ちてしまった庭の柿の木の見える縁側で僕はそんな事をぼんやりと考えた。

初冬を迎えた世界はとても静かでそして穏やかで、その空気も匂いも去年の今頃の季節とそれほど大差なく、僕も今まで通り、教室にも世界そのものにも全くなじめない異分子のままだった。僕の感情は普通の人よりもほんの少し何かが欠損してかつ壊れていて、その欠損と故障は、少し前にその一部分が正常に繋がったような感覚を覚えた瞬間もあったけれど、今度はその接続されたいくつか、主に怒りの感情が突然訳も分からず勝手に誤作動を起こす事がたびたび起きて、それを止める術もわからないまま僕はきっとこれまで以上に壊れていた。でもそれ以外は以前とそう変わらない世界だった。

ただ、そこにお母さんと妹が居なかった。

☞19

2学期の終わりに、学期末の成績の講評のために生徒ひとりひとり個別の個人懇談があって、本当なら学校から指定された日時に保護者が、僕の場合はスイセイが、小学校に出向いてクラス担任と面談をするのだけれど、僕はその日程調整のために配布されたプリントを自分で勝手に書いてそして先生に出すことにした。この半壊状態の家族においては僕のことは僕自身がやらなくては、そう思っていたから。

「保護者は仕事の為、出席できませんので、今学期の個人懇談は欠席でお願い致します」

この文言を僕はワードで打ち出してプリントアウトし、それを提出用の手紙の紙片のサイズに合わせて切り取って糊で張り付けて提出した。スイセイの字を真似て直接書き込む事も考えたけれど、スイセイは普通の人間には全く解読不可能な文字を書く。サカイさんはよくスイセイの書類のサインやメモを見て「こういうのをミミズの運動会っていうのかしらねえ…」と評していたけれど、とにかくそういう文字だ。だから文字については割と普通な、どちらかと言うと正しく丁寧な文字を書く僕にはそれを手書きで複製する事は難しかった。それでもこの多少不自然に見える偽造文書を担任の先生が特に問題視しなかったのは、一度まだ僕の法律上の父になる以前に先生が会った事のあるスイセイが、乱暴な口調で小学生並みの悪態を吐く目つきの悪い黒服の大男だったからだろう。普通の人間なら積極的にもう一度会いたいとは思わない。それにこの頃のスイセイは、依頼のあった仕事をすべてかたっぱしから受けてそれを期限内こなし、あとに残されたわずかに空いた時間を全部自分の写真を撮る事に費やしていて、日のあるうちは家にも事務所にも全く寄り付かないようになっていた。もしかすると肉眼で世界を見ている時間よりもファインダーを通して世界を捉えている時間の方が長かったんじゃないだろうか。それ位、スイセイの世界はカメラだけになっていて、夜は大体夕飯の時間の前には帰って来たけれど、写真の整理があるからとその夕飯の時間もさっさと切り上げてしまって僕とはあまり話さなくなっていたから、僕が学校の提出用の文書を偽造しても特に問題は起きなかった。それに万が一学校からスイセイに電話が入ってもスイセイはお母さんからの着信以外は取らない。僕達は同じ空間に寝起きしていながら、そして朝と晩は出来るだけ時間を合わせて食卓を共にして過ごしているのに、以前は僕とスイセイの間にあった空気の間の密度のようなものが、少しずつ消えてなくなるのを止められないでいた。

水の足りない土地に砂漠が広がるように、北極の氷が少しずつ消えていくように。

冬休みが始まったその最初の日、スイセイは夕方まで仕事だからと出かけて行って、僕はサカイさんの事務所の僕の小さな机に座って宿題をしてあとは『果てしない物語』を読んだり、事務所の人達にコーヒーを淹れたり、宅配の人の荷物をうけとったりして過ごし、それで夕方には事務所の人達が事務所にあった貰い物のパンとか果物とか、サカイさんが「これね、ブリのアラと大根を炊いたの。ウチで沢山作ったのよ、カイセイが食べられなくてもスイセイは多分食べるだろうからもっていきなさい」そんな風に言って白い琺瑯の容器に詰めて持ってきてくれた食べ物、それをみんながきれいに紙袋につめてくれたものを持って家に帰った。僕達の生活は、2人で普通に暮らしているとは言っても、特に食べる事については僕達だけの自助努力というよりは半分位は周辺の人達の、主にサカイさんの事務所の人達に支えられて成り立っていた。それについてスイセイは

「こういうの、いつまでも続けてたらあかんねやろな」

と言っていたけれど、1年半前までは事務所で寝泊まりして事務所のものを勝手に食べ、何なら賞を貰った時は正装用のスーツ一式まで買って貰ったりして、衣食住すべてをあのサカイさんの事務所に依存していたスイセイが今更そんなことを言っても僕は何の説得力も無いと思っていた。でも何となく僕はそういう会話がスイセイと出来なくなっていた。スイセイは今日は夕方には戻ると言っていたけど、もう家には帰っているんだろうか。僕は冬の夕方、駆け足で日が落ちて、もう自分の影が夕暮れの暗さに紛れて見えなくなってしまった路上で、ネックストラップで首からぶら下げている自分の携帯電話の画面を点灯させて時間とメールの確認をした。誰からもメールも着信も来ていない画面にはひとつだけ

『しらたま、カリカリ』

リマインダーの通知が表示されていた。ああそうだ、しらたまの餌をスイセイに頼んで注文しておかないといけない、あとトイレの砂と。そう思いながら、僕とスイセイの家の錆びた門扉に手をかけた。そうしたら家の前にポツンと1本だけ設置されている古臭くてぼやけたオレンジ色の街灯が、門扉の向こうの玄関の引き戸の前に立っている人影をぼんやりと照らしていてそれを見た僕は一瞬、僕はスイセイが一足先に帰って来たんだと思ったけれど、よく見るとその人影は、玄関の引き戸を潜る時に必ず少しだけ膝を曲げて屈まないといけないスイセイよりずっと小柄で小太りの、全然知らない男だった。

知らない男?

違う、僕はこの男をどこかで見た事がある、はかなり昔に。僕は一度見たものはそれが一瞬でもそして何年も前の事でもかなり詳細に克明に覚えていられる。それを僕自身が意図的に忘れようとさえしていなければ。誰だろう、僕は3秒考えた。

「カイセイか」

僕がその答えを見つける前にその人影は僕の名前を呼んで、門扉に手をかけたまま脳内で人物照合をしている僕に近づいてきた。街灯の灯りの真下にある門扉の前でオレンジ色の光の中のその顔を間近で見た時、僕はその人影が誰なのかを思い出した

生物学上の父だ。

僕の目の前に何の予告も無く突然現れた生物学上の父とは、お母さんと生物学上の父の離婚の話し合いのその最中に、生物学上の父がどういう訳なのか僕の親権を取りたいと譲らず、お母さんに強要するような形で弁護士立ち合いの元実施された親子としての最後の話し会いの場で、僕が生物学上の父に親権を取らせる事も養育権を持たせることも勿論同居する事も、もっと言うとこの先未来永劫関わり合う事自体を断固拒否して、僕の人生から永遠に離別した筈だった。でも、今その男が僕の前に立っている。あの日のにやけた顔のまま、いや違う、以前よりも少し年を取って太ったのかもしれない、とにかくそういう姿で。

「何しに来た」

僕は名前を呼ばれて返事をするよりも先にそう聞いた。暴言と暴力でお母さんを毎日酷い目に合わせて、あげく自分の自己顕示欲と支配欲のためにお母さんを毎月土下座させてねちねちと説教をしてそれでも碌にお金も渡さなかった人間がどうしてここにいるんだ、離婚の話し会いの時、お母さんが最後までお前に頭を下げて頼んで公正証書にまでした養育費だって、すぐにどこかに行方をくらまして1円も払わなかった人間の癖に。僕は静かに言った。多分僕はこの時きっと家の天井からたまに降ってくるムカデを見ているのと同じ顔をしていたんじゃないかと思う。普段自分から望んで特に見たくない、あの節だらけの足の沢山生えた気持ちの悪い虫を見ている時の顔。

「カイセイはよく話すようになったな。昔はお父さんには人見知りしているのかあまり話をしてくれなかったのに。いや、あの頃は仕事が上手くいっていなくてな。今日ここに来たのは、マリが事故で死んだって連絡があってね、お前の今後の事もあるし、だからこうして」

「連絡?誰から?」

僕は生物学上の父の言葉を遮った。どうしてこの人は今僕が本来訪ねている事に対して微妙にずれた回答をそれらしく答えているんだろう。僕とは違う方向で脳の回路みたいなものが壊れてしまっているのかもしれない。それに、お母さんが離婚してから今日まで生物学上の父本人ともその父の身内とも一切連絡なんか取っていなかった筈だ。毎年僕が整理していた年賀状にもたまに地方から送られてくる親戚からのちょっとした荷物なんかにも生物学上の父に関係した人物からの物は、少なくとも僕は一度も見た事が無かった。

「マリの叔母さん夫婦だ。つい先月の事だけれどね、マリが事故で死んで再婚した義理の父と2人きりになったったけれど知っているかと、そういう内容の電話を貰ってね。お前が今暮らしている義理の父…といっても、その男はつい数ヶ月前にマリと再婚したばかりなんだろう。しかも向こうは初婚で年齢が35歳でまだ若いと言えば若い。それでついこの前息子になったばかりのお前とこの先ずっと暮らすというのはちょっと不自然だろうという話になったんだよ」

そう話すこの人の背後の玄関の引き戸の内側に猫と人間の気配がした、しらたまとスイセイだ。しらたまは僕が門扉を開ける音を聞くといつも玄関の上がり框まで来て、そこに座って玄関の引き戸が開くのを待ってくれているから。

「それで、その男の携帯の電話番号を教えてもらったんだが、その相手、写真家なのか、そいつが電話に一切出ないから、こうして来てみたんだ。さっき家の中でその本人と少し話をしたが、体は大きいがなんだか覇気のない男だな。お父さんも2年前に再婚して、再婚した相手との間に生まれた女の子が今1歳になるんだ。それで俺は今小さな会社をやっていてそこそこ忙しくはしているんだが、そう暮らしに不自由している訳でもない、お前あと1人位なんとかなる。母親の代わりになる俺の女房と、お前とは腹違いになるが妹もいるし、家庭としてはこちらの方がずっと『まとも』だ。ああいうよくわからない職業の男とこの先長く暮らすよりはな。それに事故の後の事務的な事は、賠償とか保障とか相続とかそういうものはもう全部終わっているんだろう。49日も済ませたと聞いたし、だったら」

こちらに来たらどうだと、まるで油紙が燃えるみたいにぺらぺらと調子のいい言葉を饒舌に話して並べるこの人の話を聞きながら僕が思い出していたのは、スイセイと一緒に暮らしていた時のよく笑う料理以外の家事が面白い位雑なあのお母さんとは全然違う、疲れて哀しそうで少し神経質な顔のお母さんの顔と、そのお母さんの全部を俯瞰して冷笑するもう少し若くて痩せていた頃のこの人の顔だった。お母さんをよくわからない理由で叩いて、蹴りつけた事もお母さんが嫌がっているのにその上に馬乗りになっていた姿の事も僕はちゃんと覚えている。お母さんに対してこの人がどういう事をしていた人間だったかという事を。

「お父さんじゃないだろう」

「は?」

「お前はお母さんと離婚する前から僕の父親なんかじゃない。強いて言うなら生物学上の父だ。それと僕の妹はお母さんのお腹の中で死んだ妹だけだ、お母さんとスイセイの間にできた妹。大体、公正証書にして約束した筈の2万円をお母さんに1円も払わないまま4年間それを放置してきた癖に、今更僕を引き取りたいと言うお前の考えが僕には全く理解できない。それに僕はあの時言った筈だ『もし、僕がお母さんと離れてお前のところに行くことになったら、僕は毎日お前のことを前のようにゴルフクラブで殴る』って」

僕は法律上の父のスイセイとずっとここで暮らす。ここ以外に僕の家なんかない。僕はそう言ったけれど、生物学上の父は昔よくお母さんに向けていた中途半端な半笑いを、その笑いの意味が今の僕にはわかる、人を見下した嘲笑。それを口の端に浮かべて僕にこう言った。

「お前はマリと顔はそっくりなのに、そういう弁の立つ所はマリとは全然似ていないな。あのなカイセイ、さっきそのお前の法律上の父と話したがな、向こうは俺の所かもしくはマリの叔母さんの夫婦、そっちの方にお前を任せるのが自然なのかもしれんとそう言ってたぞ。ここで全く血の繋がらない自分と2人でずっと暮らすよりまだ普通の家庭で普通の暮らしをした方がお前の為なんじゃないかと。その点は幾分常識的で話が分かる男みたいだ」

スイセイが本当にそんな事を言ったんだろうか、あのスイセイが?この人とまともに話し合った?僕にはそんな事全然想像できない、普段のスイセイだったらこんな奴の言いう事なんか一切聞かずに襟首をつかんで外に放り出したはずだ「何やうるさいおっさんやな」と言って。お母さんには両親が、僕にとっての祖父母がもうだいぶ前に死んでいて居ないから、それでその代わりをしてくれていた叔母さん夫婦とお母さんの葬儀の後少し話をしていたのは知っているけどでも、だからって。

「…スイセイがそんな事言う訳ない」

僕は喉から絞り出すようにそう答えた、そうしたら生物学上の父は僕の小さな声を鼻で笑うようにして一蹴して

「まあ、それについては中に入って本人に確認しなさい。お前はまだ子どもだから分からないだろうが、向こうにもいろいろ事情がある、実際血の繋がらない、つい最近まで赤の他人だったお前とあの男がずっとこの先、家族の真似事みたいな事をして2人で暮すのか?それは流石に不自然だろう。それであの男に俺の名刺を渡しておいたから、またこちらからも連絡するが」

お前もよく考えておきなさいと言って、生物学上の父は僕のことを押しのけるようにして僕と生物学上の父を隔てていた門扉を開けて僕達の家の敷地から出ていった。

☞20

「スイセイ、さっき生物学上の父が家の前に居て、僕にスイセイが生物学上の父と再婚した奥さんと子どものいる家か、お母さんの叔母さん夫婦の家で暮すのがいいんじゃないかと言ってたって、それは本当?僕はお母さんと妹のお葬式の日にスイセイとこのまま半壊状態の欠損部分を抱えて、人間2人と猫1匹で家族をやって行きたいと言った筈だ、それは」

どうなったんだよ、僕はスイセイの人生にもう全然必要ない人間なのか、僕は玄関を勢いよく開けてそれから靴もそろえずに三和土の上にそれをバラバラにひっくりかえしたまま、居間にしている8畳間に駆け込んで叫ぶようにスイセイに問いただした。僕はスイセイとここで暮らしたいんだ。

「カイセイ、帰って来るなり怒鳴るな、ほんで脱いだ靴は揃えろ」

「急に普通のお父さんみたいな事言うな、僕の質問に答えろ、あの男が言った事は本当なのか、聞いてただろう、さっき玄関で」

「多少、嫌味くさく誇張されとる部分はあるけどまあまあ事実や。あんなあカイセイ、いくらオマエが賢くて落ち着きがあって妙に自立しとるタイプの9歳児でも、流石に俺みたいな適当な人間と2人だけで家族です言うてこのまま暮らし続けるのはちょっと普通やない。俺も昔似たような環境でじいちゃんと俺2人だけの家で育ったけど、今この仕上がりなんや、ええこと無いやろ。せやからお前はもう少し普通の家で普通に育った方が」

「嫌だ!」

「『嫌だ』てオマエ、子どもみたいな事言うなや。あんなあ、カイセイ」

「嫌だ!スイセイはお母さんに結婚してくれって言った時に言われた事、覚えてないのか『世の中にはそういうふうに普通の、型どおりにしにないでいた方がずっと上手くいくこともあるのよ』って。それに普通って何だよ、大体僕自体が全然普通じゃない子どもなのにどうしてそこで僕には普通の家庭が必要だって結論になるんだ。それにあの生物学上の父は普通のまともな人間なんかじゃない。ちょっと見てわからないのか、あと僕は正真正銘の子どもで今9歳だ。スイセイはバカなんじゃないのか?」

「おま…バカって言うな!」

「じゃあアホだ!だからスイセイは僕にお母さんが死んだ後にドンドン湧いてきたお金を全部僕に渡したのか、僕をいずれ他所の家にやるために?僕はお金なんか要らない。スイセイとここで暮らす。それでいい、それがいい!」

僕は大声で叫んだあと、手に持っていた事務所の人達からの食べ物の入った紙袋を力任せに机に叩きつけて、それからスイセイが膝に抱いていたしらたまを奪い取って自分の部屋に駆け込んでそこに籠城した。僕は多分これまでの人生の中でこんなに声を張り上げてまで人に反抗したことは無いと思う。そもそも僕は人とまともに喧嘩をしたことがない。僕は僕とスイセイとしらたま、その半壊している事実上解散状態の家族と他人になんかなりたくなかった。僕は毎日この家でカメラと機材一式を担いで家に帰って来るスイセイをしらたまと一緒に待っていたい。僕はさっき生物学上の父が言っていた事と、スイセイが僕に言った事、そして今僕の置かれている状況、それを全部ぐるぐると頭の中に巡らした。

僕はここで暮したい。でもスイセイはもう僕とは一緒に暮らしたくない。それはスイセイが、スイセイの人生に憑りついていると思い込んでいる『死神』に僕がお母さんと妹のように彼岸に連れて行かれてしまうと思っているからなのか、それともただ単に僕が邪魔だからなのか、あるいは普通じゃない子どもの僕が形だけでも普通の家庭で暮す事で僕の何かが好転すると本気で思っているからなのか、僕には全然分からない。でももしスイセイが僕との養子縁組を解消して僕を親戚かあの生物学上の父の元に送ると決めてしまったら、きっと僕はその決定に抗えない。だって僕はとても不本意だけれど生物学上の父の言う通り、そして自分でもさっき言ったけれど、まだ子どもなんだから。

結論も名案もなにひとつ出てこない問題を考えて考えて考えているうちに僕はいつの間にかしらたまを抱いたまま眠ってしまっていたらしい。知らないうちに押し入れから引っ張り出していた毛布に自分としらたまをぐるぐる巻きにした状態の僕が目を覚ました時、僕の部屋にある時計は23時15分を指していた。僕の部屋以外の灯りの消えた家の中は台所の古い冷蔵庫のモーター音が低く静かに響いているだけでとても静かだ。僕は喉の渇きに気が付いた。そしてそういえばしらたまはゴハンを貰ったんだろうか、そう思ってしらたまを見ると、しらたまは丸い毛玉になって毛布の中で静かに寝息を立てていた。

僕はしらたまを起こさないようにして部屋をそっと出て、台所にあったペットボトルのお茶を飲んでから、あの時感情に任せて机に叩きつけてしまった紙袋、それを片付けようと思って居間を覗いたらそれはすべて綺麗に片付けられていて、紙袋に入っていたパンと果物は少し形が歪んでいたけれど台所の食卓の上、お母さんがお気に入りだったブドウの蔦で編んだカゴに整然と収まり、サカイさんの持たせてくれた琺瑯の白い保存容器はきれいに洗われて流し台に置かれていて、あの時、力任せに煮汁の入った容器を居間の机に叩きつけたせいで机の周辺の畳の上に飛び散っていた筈の茶色い液体もきれいに拭き取られて掃除されていた。

でもその整然と片付けられた空間にスイセイが居なかった。僕は1階の廊下の突き当りのスイセイとお母さんが寝室に使っていた和室をそっと覗いてみた。部屋の中には仏壇の代わりの床の間に、お母さんと妹の骨壺とあの時お棺に入り切らなかった小さな洋服、そしてその横にスイセイのニコンのカメラが鎮座していた。白い骨壺の包みの横の黒くて大きいカメラはまるでスイセイの分身みたいだ。でもそこにもスイセイ本人の姿はなかった。それで僕は次に踏み板を踏みしめるとキイキイと耳障りな音のする急な階段を上って2階の、スイセイが写真の大きなパネルや機材や資料をいくつも保管しているスイセイの作業場を覗いた。けれどそこにもスイセイの姿は見当たらなくて、お風呂にもトイレにも庭にも納戸の中にもスイセイは居なかった、家の中のどこにも。そして玄関の電気をつけてあたりをよく見てみると三和土の上でいつも幅を利かせているスイセイの巨大な黒いコンバースのスニーカーも消えていた。

「スイセイ…?」

スイセイが出て行った。

僕はそう思った。お母さんと妹のお葬式が終わって、僕とスイセイ2人だけの生活が始まった時にサカイさんが

「これ、以前カイセイにも言った事あるけど、あのね、いくらカイセイが年の割にしっかりした子どもだからって、この先カイセイがある程度の年齢になるまで夜に1人で留守番させるとかそう言う事は絶対にしちゃだめよ。どうしてもの時はあたしに連絡して、そこのデブ猫共々預かってあげるから。いいわね、これで名実ともにアンタがカイセイの唯一の保護者なんだからね」

そんな風に注意をしていて、この時スイセイは分かったと珍しく素直に頷いていたはずだった。だから僕と2人で暮すようになってからこんな時間にスイセイが例えば仕事でも出かけた事なんか無かった。でもその事だってスイセイにとってはすごく不自由な事だったのかもしれない。それでスイセイは出て行ってしまったんだ、僕が自分の部屋に籠城している間に。

冷静に考えれば、スイセイが自分の命と同じくらい大切にしている仕事道具のニコンのカメラとお母さんと妹の骨を家に置いたまま着の身着のままで家を出て行くことなんかあり得ない事なんだけれど、僕はこの時、冷静さとか客観性とか常識的な考え方とかとにかく僕がいつも持ち得ている視座というものがすべて停止してしまっていてとても短絡的に

『僕は家族を全部無くしてしまった』

そう思った。あの1995年の大震災の日、焼野原になった神戸市の長田という場所で、スイセイもこんな気持ちになったんだろうか。僕は四半世紀前に僕と同じ9歳だったあの日のスイセイの絶望とか悲嘆とかそういうものが時間を超えて僕にそのまま流れ込んでいるような感覚を、普通に考えたらそんな事はあり得ないんだけど、でもとてもはっきりと明確にそして確実にそれを自分の中に捉えていた。自分にとって愛しくて大切な人がすべて自分のいる世界から居なくなった瞬間の気持ち。僕はずっと否定していたし、今でもある部分は絶対違うと思っているけど、タチバナ先生が言っていたことはある程度当たっていたんだと思う。僕達は、過去9歳だったスイセイと今9歳の僕とは置かれている状況がとてもよく似ている。まるで自分達自身を記憶媒体にして人生みたいなものを同期して共有しているみたいに。僕たちの状況とそこから派生した感情とそれを煮詰めて産まれた絶望みたいなもの、その全部を。

僕が9歳のスイセイと同期しているんだと思い至ったその時に僕は僕の顔面を生暖かい液体が流れている事に気が付いた。眼球から流れてくる大体体温と同じくらいの液体は、そのまま頬を伝って玄関の上がり框にパタパタとこぼれて落ちた。僕はスイセイを探して家中を歩いている間、気が付かないうちにどこかに顔のどこかに怪我でもしたのだろうかと思ったけれど、痛みは顔のどこにも感じられなくて、その液体を指で拭って玄関の白い蛍光灯の灯りに照らしてみるとそれは色の無い透明な水のようなものだった。

「涙?」

僕は泣いているみたいだった。多分赤ちゃんの時以来だ。いや、お母さんが昔「カイセイは全然泣かない子で、もしかしたら耳とか喉なんかが悪いんじゃないかと思って心配になって耳鼻科につれていった事があるのよ」と言っていたからもしかしたら本格的に涙を流して泣くのはこれが生まれて初めてなのかもしれない。でもともかく僕は泣いていて、そしてその生理現象みたいなものが自分の身の上に起きている事に驚いてから、そして少し遅れて哀しいと言う感情を感知した。始めての事だからはっきりとは言えないけれど多分これは哀しいという感情の事なのだと思う。

『哀しい』は、僕が想像していたのと少し違った。

哀しいという感情は、ひどく痛い。

生まれて初めて哀しみを感知した僕は、体が、心臓を中心にして体中の神経がとても痛かった。そして涙と共に大声が出る。嗚咽というやつだ。その大声に連動する形で僕には僕の脈拍がどんどん早くなるのが分かった。涙は勝手に眼球から流れて来て、脳内には哀しいという感情があふれて止まらず、僕はその感情のまま大声を上げて泣いた。僕は少し前に初めて自覚的に怒りを感じた時、それを自分でもどうにも度しがたいとても激しい感情だと思ったけれど、哀しいはそれとまた違う。これは肉体的な痛みのことだ。苦しくて痛い。僕はあんまり大声を上げて泣き続けたのでだんだんと息が苦しくなって、もうこの『泣く』という行為を一旦停止したかったのだけれど、この感情は怒りと同様、自分では止められないものらしい。涙は止まらなくてその上息は苦しい、僕はその場にしゃがみ込んだ。9歳のスイセイもこんな風にして泣いていたんだろうか、あの日、焼野原の中で。

それで僕はどのくらいの時間泣いていたんだろう。よくわからないけど、泣き出してからしばらくして玄関の引き戸が空いてその瞬間、誰かが絶叫した。スイセイだ。

「カイセイ!」

オマエどうしたんや、どっか痛いんか?苦しいんか?これどうしたらええんや、スイセイは僕がうずくまって唸っている事に驚いて、靴も脱がずに家に上がって僕の事をしらたまみたいに両脇に手を入れて抱いて持ち上げたけど、僕はもう泣きすぎて、顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだし、嗚咽が止まらないからどう呼吸をしていいのかよくわからなくなっていて、しゃくりを上げながら

「…いきがくるしい」

と言った。そうしたらスイセイは、そのまま僕を肩に担ぐみたいにして外に走り出た。「いきがくるしい」はまずかった。僕は泣いているだけだから落ち着け、落ち着いてくれスイセイとそう思ったけれど、その言葉は嗚咽に紛れて僕の口からは全然出てこない。だから仕方なく黙って、というか泣きながらスイセイの肩に担がれてそこからの景色を見ていた。それは僕の131㎝から見るものと全然違う、僕の家を少し行った場所にある坂道のずっと向こうを見渡せる高さだった、いつもなら坂を上り切らないと見えてこない坂の向こうの駅に近い大学病院の病棟の14階建ての建物の灯りが見える。体重26㎏の僕を易々担いで夜の街を全力疾走出来るスイセイは今、大人なんだと思った。9歳じゃなくて。そんな事は当たり前の事なんだけど。

☞21

「過呼吸だね」

タチバナ先生が僕を見て「あーハイハイ、じゃあね、ハイこれ」と言いながら渡してきた紙袋を口に当てて「ハイ吸って、吐いて。も1回吐いて~」あのいつもののんびりした口調に合わせて呼吸をしながら僕は、先生から今の状態の説明を聞いた。要するに物心ついてから初めて『泣く』という行為を経験した僕は、そのかげんが全然分からなくて、泣いている間に息を吸うばかりで吐きだすことを忘れてしまっていて、上手く呼吸が出来ていなかったんだそうだ。

「いやーびっくりしたよ、人相の悪い大男が救急外来に小学生を担ぎこんで叫んでますって救急のナースが怯えてるから何事かと思ったら君たち親子なんだもんなあ。救急、今回は外来だけど、カイセイ君がここに担ぎ込まれて君が大騒ぎするのは今回で2回目だねえ、それで僕が居合わせるのも2回目か、これは一体どういうご縁なんだろうねえ」

あとさ、こういう時はまず落ち着いて救急外来に1本電話してから来てよ、と言いながらそれでもタチバナ先生は嬉しそうに

「いや、そうか、とうとう泣いたか。9歳の段階で涙を流した経験がないってことだったし、これは機能的な事も含めてぼちぼち眼科にでも診せるかとか思っていたから、まあ機能的には何も問題なくてよかったよ。それでカイセイ君、君の哀しいはどんな感じだった」

救急外来の、いつもの小児科外来よりも幾分か簡素な部屋の、不織布みたいなシーツの掛けられているベッドに座った僕に笑顔で聞いてきた。僕は今笑っていられるような状況ではなかったのだれど、タチバナ先生がいつもと変わらない調子で僕に質問をしてきたので、逆になんだか落ち着いてしまって

「…痛いです」

と言った。哀しいのは心臓にきます、と。

「いいねえ、君は感情についての表現がとても文学的だよね。前のね、お母さんと妹さんのお葬式の時の挨拶、あの時も思ったけど、君は将来何か文章を書く人になれるよ。感情の接続状態が良くないというのは、逆に自分自身の事を冷静に俯瞰して見られるという事なんだろうねえ、それと自分の状況を説明する時に選ぶ言葉がとても修辞的だ」

でも、それが僕の狙いなんだよな、と先生は言った。

「君はさあ、知的に問題が無いし身体機能にも何か問題があるわけでもない、それに他害も自傷も無い、ただただ感情の上手く繋がらない子なんだ。だからその感情をさ、今日みたいな突破的に偶然起きたみたいな経験でも、何かで読んだ知識でも何でもいいんだけど、ほんの少しでも自分の中に感知したり記憶したりした感情に類するものをパッチワークみたいにつなげていけばいい。感情の外科手術みたいな感じで。それで出来上がるものは人間の感情としてはかなりいびつというか不思議な感じになるかもしれないけど、それが君の個性だって周りが思うようになれば君の「普通と違う事で産まれる世界との齟齬や違和感」みたいなものも大分軽減すると思うんだよ。要はさ、君のその接続の悪さは治らないんだけど、感情を模した何かを自分で作ってそれを使って生きる君を周りに慣れさせるんだよ、先生の言ってる事わかるかい?」

「大体」

僕は答えた。そして僕の横で僕の背中をさすっていたスイセイは

「いや俺には全然わからん」

と言った。そうしたら先生は

「まあ、普通の人間なんていないって事だよ。みんなどこかが少しずつ異常で機能不全で、それでもどこかで折り合いをつけるようにして生きてるんだ。その調整が上手くいかない子が僕みたいな人間の所にたまたま相談に来ているだけでさ、君も僕も突き詰めていうと結構異常な人間だよ。だって、君は自分がとても常識的で健全でごく普通の人間ですって胸張って人に言えるかい?」

スイセイは僕の背中をさする手を止め、フフフと肩を震わせて笑った

「まあ、せやな、言えませんね」

「だろ?僕も家で奥さんに、貴方が医者だなんて信じられないってよく言われるんだよ。僕は仕事以外の事はなんでも直ぐ忘れちゃうタチでねえ、去年は娘の誕生日を忘れて、今年はとうとう我が子の誕生会に呼んでもらえなかった「パパなんか呼んでも来ないじゃない」って。と言ってもウチの子は血の繋がった実の娘じゃないんだよ、養子なんだ。色々事情があって他所で産まれた子を生後1ヶ月の時に引き取ったんだよ。今12歳でね、僕とも奥さんとも血の繋がりが無いお陰でなかなかの美人だ。まあ普通の人間も普通の家庭っていうのも突き詰めて言うとあんまり存在しないよ、僕の言いたい事、わかるかな」

「大体」

今度はスイセイがそう答えた、その隣の僕は呼吸が整ってもう不要になった紙袋をきれいに畳みながら

「僕にはよくわからないです」

そう言った。僕のその言葉を聞いたタチバナ先生は「君は今はそれでいいよ」と言って笑った。それで僕達は先生にお礼を言って診察室の外に出ようとしたら、僕は靴を履いていない事に気が付いた。スイセイが慌てて僕の事を担いだままここに連れてきたからだ。

「スマン、忘れとった。しゃあないからホラ」

スイセイは僕を背中に背負ってくれた。それで僕はスイセイに背負われて診察室を出る時、診察室のドアの上に頭をぶつけて、僕は将来大人になってもスイセイみたいに無駄に背を伸ばすのはちょっと考えモノだなと思った。スイセイは救急外来受付で治療費、というかあの紙袋代を払う時、お財布に全然現金が入っていなかったらしくて、洋服のあらゆるポケットというポケットを探って小銭を探してそれを全部駆使して支払いをしたら、スイセイがその時持っていた現金は10円玉があと1枚だけだった。

「帰りも歩くか」

そう言ってスイセイは僕を背負ったままもう日付の変わってしまった夜の駅前を家に向かって歩いた。深夜の駅前はロータリーに沢山タクシーが止まっていて、酔っ払いのおじさんが少し楽しそうに蛇行しながら家路を辿り、制服を着た高校生くらいの女の子が携帯を見ながら誰かを待っていて、若い男の人が駅の中に全力疾走で駆け込んでいた。それから小学生の僕を背負う大男のスイセイ。その全部を月の灯りが静かに照らしていた。

「夜って割と明るいね」

「うん?せやな、駅前はな」

僕は何を話したらいいかよくわからなくて、とりあえず目の前に見えるものの話をした。僕はこんなに遅い時間に外にいるのは大晦日位だったから、周りの景色が珍しいと言って。

「カイセイ」

「何?」

「なんかごめんな」

「何が」

「まあ色々や」

「スイセイ」

「何や?」

「なんかごめんね」

「何やそれ」

スイセイは笑った。いろいろだよ。僕はスイセイの首の後ろ、スイセイのいつもの鳥の巣みたいなもじゃもじゃの固い髪の毛に自分の顔をうずめながらごく小さい声で、僕はスイセイと暮らしたいんだ、よその家に行くなんて嫌だと言った。僕はスイセイと一緒でいい、僕はスイセイと一緒がいい。

「そんな事俺かて思てる。俺は俺に自信がなかっただけや、ほんのちょっとだけな」

スイセイも僕に小さい声でそう言った。

僕達はそれから家に帰って、突然僕達が外に出て行った事に少し腹を立てている様子で不満そうに啼くしらたまをなだめながら、2人でラーメンを作って食べた。スイセイが家について玄関の電気をつけるのと同時に何やハラ減ったなと言いだしたからだ、オマエまだ夕飯食ってなかったやろと。

「スイセイはもうサカイさんのくれた大根のヤツ食べたんじゃないの」

「カイセイ抱えて全力疾走したら腹減ったんや」

僕達はいつもの、サッポロ一番のみそ味に僕が「妥協して」乗せるモヤシを5本と、スイセイはそれに卵を乗せて食べた。時間は夜の1時だった。スイセイがカイセイ明日学校休みやったか、と僕に聞くので

「僕はもう冬休みだよ。来年の7日まで僕はずっと休みだ、気づいてなかったの?」

少し呆れてスイセイに聞き返した。スイセイは本当に写真の事ばっかりで僕の事に気づかなかったんだねと

「知っとるわ、カイセイが学期末の個人懇談の事、俺に言わんままにして無い事にしたのも全部知っとるわ」

スイセイはラーメンを口に運ぶ箸を一旦止めて、僕のことを見て少し笑って、それから僕にこう言った

「3学期の時は俺がちゃんと行ったるから、絶対懇談のお知らせの手紙出せ、あの担任のクソババアは気に入らんけど、俺がオマエの保護者やからな」

「僕をよそにやるんじゃなかったの」

「気が変わったんや」

そう言うと、スイセイは今度は食卓に箸をおいて、それから僕に向き直り

「さっきな、家の周り15周位しながらずっと考えとったんや、どうすんのが一番ええ事なんか。俺はじっと止まって考え事すんの苦手なんや。ほんでまず思いついたんやけどな、俺はお前と出会う前の自分がどんなやったんか思い出せへん。可笑しいやろ、1年半程度の付き合いのはずなんやけどな。毎日誰と何話して何考えてたんか、お前と知り合う前の自分がよう分からん。オマエが居なくなるっちゅうことが自分の半分持ってかれるみたいな感じって言ったらわかるか?俺とカイセイが似とるってタチバナ先生に言われた事あるけど、それってそう言う事なんやろか。俺達は親子っちゅうには不自然な見た目やし実際機能的も不十分なんやろうけど、そんでもカイセイはこの先ずっと俺の法律上の息子で半壊状態の事実上解散状態のこの家の家族や。大体養子縁組解消の手続きなんか俺にはやり方が皆目分からん、アホやから。それに突き詰めて言えば普通の人間も、普通の家庭も無いんやろ、ほんなら俺達もこれでええって事や」

そんな風に言って嬉しそうに笑った。それから、自分は今新しい写真をアホ程撮ってる、その個展が来月や、カイセイも手伝ってくれんねやろ、マリさんとちびの葬式の日にそう言ったもんな、俺の事、助けてくれるって。そう言ってきたので僕はなんだか話がすり替えられている気がしたけど、でもいいよと言った。それで、スイセイは今度は何を撮ったの、僕は聞いた。その個展のテーマみたいなものは何したの、まさか前みたいにお葬式の写真じゃないよねと

「…いのち…?みたいなもんやな」

そう言ってからスイセイは踏みしめるとキシキシと音の出る煩い階段を上って2階の物置から自分用のパソコンを持ってきた。これ今出来上がってるモンのデータなんやけどなと見せてくれた画面には

「赤ちゃん?」

小さな赤ん坊の顔が沢山映し出されていた。生まれてすぐ位の子だろうか、でも皆なんだか度を越して小さい気がする。それに着ているものが全部真っ白い肌着みたいなものか、もしくは紙おむつだけだったり、あとは顔にテープで細い管や透明なチューブが張り付けられている子ばかりで、僕の思っている普通の赤ちゃんが全然いない。

「この子達どうしたの」

僕はスイセイに聞いた、この子達、何か病気なのと。

「これな、ほとんどが病院に入院しとる子なんや、生まれつきの病気とか、ちょっとフライングで産まれてきたとかそんなんで。この手のな、生まれてから即入院して何ヶ月も病院に居る子は、こう…プロに記念写真みたいなモンを撮ってもらえない言うてお母さんらが嘆いとるって。アレや、あの100日がどうとか初…なんやったかいな、初詣ちゃうくて、生まれてすぐ行くお参りみたいなやつとかそんなん全然行かれへんから。ほんでタチバナ先生が「君、プロの写真家なんだろ、撮ってよ」ってものすご軽い感じで言わはるから、ほんならって撮影したんや。病院に行って、なんや給食当番みたいな服着てからカメラも自分もよう消毒してな。そしたら思った以上にええのが撮れた」

ホラ、この子なんかは産まれた時に500gしかなかったらしいで、可愛いやろと言って、特別小さな、それでも黒々とした瞳の赤ちゃんの画像を指さした。

「俺はなあ、これまでずっと爺さんとか婆さんとか、挙句の果てには人の葬式とか、自分の身内の葬式とかそんなんばっかり撮って来たやろ。まあ俺のこれまでの人生言うか来し方を考えたら、そういうモンの方が俺にとっては親密さのある被写体やと、俺はそう思ってたんや。命みたいなもんに向き合うのが恐ろしかったんやろな、アレが俺の人生の最大のトラウマや、命はいつか無くなる。特に俺の周りにいる人間の命なんかは早晩に。この件はな、最初は赤んぼ撮りに行くだけやと思てたんや、ごく気軽に。せやけどこの被写体はなあ…躊躇も留保も抜きに命そのものやな。みんな小さい分体がものすご弱いし、今日明日どうなってもそう不思議やないらしいねんけど、なんか纏ってるモンがあまりにも神々しくて夢中で撮ったんや。赤んぼの瞳って不思議よなあ、まだよく見えてへんモンらしいけど、宇宙みたいや。なんか達観しとる」

スイセイが撮った赤ちゃんの中には、撮影した後に急に状態が悪化してもうこの世にはいない子もいるらしい。それでもその子のお母さんは、その写真を個展に出してもいいと言ってくれたという。自分の子が生きていた事をみんなに見て覚えていて欲しいと言って。

「そういうの、カイセイにはもう分かるやろ」

スイセイは、僕の頭をくしゃくしゃとかき回した。

☞おわりに

スイセイの個展は年が明けて1月の末に無事開催された。会場にはパネルにして展示された赤ちゃんのお父さんとお母さん、協賛した医療機関の関係者、写真の専門家の人、それと一般の人達が沢山やって来て、皆スイセイの写真を静かに眺めていた。僕は写真展というものが何をどうしたら成功なのかはよく分からないけれど、展示の中でもひときわ大きなパネルになったあの宇宙の瞳を持った、体重500gで産まれた小さな赤ちゃんのお母さんだという人が、男の人、きっとその子のお父さんだろう人に寄り添われて写真の前で嗚咽しながら涙を流しているのを見た時、この個展は成功するだろうと思った。

なんの根拠もないんだけれど。

スイセイはこの先、子どもを沢山撮りたいという。

「ほんでもし、俺が写真家としてコケてしもたら、スタジオアリスとかでカメラマンするわ」

と言っていたけど本気だろうか。サカイさんはスイセイの個展の盛況を喜びながらも

「スイセイには、たとえ写真館でも普通の務めなんか絶対無理よ、常識が無さ過ぎるわ。大体、マリちゃんの前のダンナが家に来たときにアイツを追い出しもしなかったんでしょう。月2万の養育費も出し渋った男が、死んだ元女房の子どもを引き取るなんて言い出したら、そんなのお金が目的に決まってるでしょ。カイセイの名義になってるあのお金よ。だから私はせめて賠償金はアンタの名義にしておきなさいって言ったのに」

そう言って、ハイヒールでスイセイの足を力任せに踏みつけた。マリちゃんが草場の影で泣いちゃうわよと言って。カイセイは私が守るから、とにかくスイセイは写真を撮って稼ぎなさいと。

「恐ろしい姑がおるな」

スイセイは足を踏んづけられながらも嬉しそうだった。へんなヤツだ。

『普通の人間も普通の家庭っていうのも突き詰めて言うとあんまり存在しないんだ』

僕達はそれを体現するように、半壊状態の欠損部分を抱えて、人間2人と猫1匹の家族をこの先も続ける事にした。

僕達はそれでいい。

僕達はそれがいい。


「スイセイ、しらたまが待ってるから僕は先に家に帰る」

「おう」

僕は、外に小雪が舞う1月末の街を、しらたまの待つ僕達の家に向かって走って行った。

ここまで読んでいただいて本当にありがとうございました。  きなこ

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