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短編小説:星とおにぎり

上記の続編を書きました。よろしければ。

☞1

今29歳の僕が、自分のこれまでの人生の中で一度も、女の人と付き合った事がない、だから女の人と一度もセックスをした事が無いという話をすると、大抵の人は

「そうなの?へぇ全然そんな風には見えないけどね」

そんな風に言う。じゃあさ、誰かいいと思ってる子とかいないの?そうも言う、誰か紹介しようかとも。でも僕はそういう事を特に望んでいないので僕が相手への返事の代わりに

「でも小学校1年生から小学生4年生の3年間、実の父親に定期的に性的虐待を受けて暮らしていたので、そう言う意味でのセックスならした事はあります」

そう言うと、相手が特に大きな起伏の無い普通の幸せな人生を送る人なら、僕の事を何かグロテスクな生き物を見るような、反面、とても痛々しい小動物を見るような、そんな目をする。まるで世界にもう数匹しか仲間のいない希少動物への眼差しのような、それでいてジメジメとした石の下を這う不気味な虫への視線のような、そんな顔。勿論、僕は誰かれ構わずこんな自分自身の超個人的であまり愉快じゃない過去を話したりはしない。ただ今のように仕事を休んで自分の家に引きこもる以前、外の世界で普通の会社員として普通を擬態して生きている時に、僕に特定の誰かが居ない、即ち定期的にセックスをする相手がいないと聞いた周囲の世話焼きの誰かがとてもしつこく、そして詳細にこの手の事を聞いてくる事があって、じゃあ誰か紹介するよとか、いっそ風俗に行こうとか、僕がとても苦手な話しの流れになる事があった。その時だけ正直に僕が一応童貞ではありませんという事を、いやでもこの場合は処女と言うべきなんだろうか、どっちが表現として適当なのかそれはちょっと分からない、とにかく間に合っていますと言う意味で正直に話していた。

そうすれば大抵の場合、相手はもごもごと口の中で何か言って、それからお天気やその日の昼食の予定なんかに話題を変えてくれた。その後、何となく僕が相手にとって腫れ物扱いになってしまうという問題点はあったが、僕にはそっちの方が、急に知らない女の子を紹介されたり、夜の店に客として連れて行かれたりするよりはずっと気が楽だった。

でも最近になって僕はこの、あまり積極的には人に聞かせたくない類の僕の過去を正直に話しても、気まずそうに話題をお天気やその日食べたお昼の話に変えたりせず、にごく自然に接してくれる人種を見つけた。いや、職種と言うべきかな。

風俗店の女の子達だ。

これは別に、今僕が彼女達の店に客として足しげく通っているとかそういう事じゃない。大体僕の体は例えば裸体の彼女達を前にしても、色々な場所を触られていじられても特に体に何の変化も起きない、強いて言えばくすぐったい位、だから何もできない。彼女達に僕が会うのは、それが僕の同期から振ってもらった仕事だからだ。

僕は、つい最近まで自分自身で人生の幕引きをするつもりで、身辺を綺麗に片付けていた。僕のように、祖父に残された古い民家以外に資産という物を持たない、金もないし、ほとんど友人も居ない。ほぼ天涯孤独の人間がひとり死ぬのすら現代の社会ではそう簡単な事じゃない、意外に複雑で煩雑だ。そこには雑多な事前事務手続きがある。それで僕はひとまず会社を休職し、数ヶ月を掛けて自分自身の後始末をしていた。あらゆるアカウントの削除と消去、各種サービスの解約、不要品の廃棄、そして仕上げに自宅のカーテンを全部綺麗に洗って畳み、あとは最後、診療予約のあった病院に、別にもう行かなくても良かったのだけれど、予定通り行った日に、僕はどういう訳か20年ぶりに血の繋がらない兄の春馬に再会した。そしてその春馬の娘の桜子を少しの間預かる事になり、ややあって僕は、人生をあともう少しだけ期間延長する事にした。

きっと、死ぬ事はいつもで出来る。

春馬の大きな手が僕を、この世界にあと少しの間だけつなぎとめた。



そうしたら、この短期もしくは中期的な生存の為に、僕はまた働く事が必要になってしまった。全く世の中というものはなかなか厳しい。

それで、このロスタイムみたいな人生の維持の為には、まず休職扱いになっている会社に戻るのが妥当ではないかと僕は考えた。今給与は殆ど出ていない、それなのに諸々を引かれたら下手をすると収入がマイナスになる事すらある。それで僕は主治医に復職について相談をしてみた。そうしたら僕がまた会社員に戻ると言う僕の提案を主治医は渋った。君は今外の世界で定期的に他人と関わるというストレスに耐えられる状態ではない、外の世界には、今やっと立て直し始めた君の心の柱を斧で切りつけるのが沢山いるからね。いっそ退職して失業保険を貰いながら治療に専念するのはどうだろうか、通院歴からいけば医療費の補助や手帳、色々と申請できる制度もある。僕を軽い鬱と酷いPTSDだと診断して以後ずっと治療を担当している、僕よりほんの少し年上で、でももう2児の父だと言う精神科医はそう言って僕に完全な休養状態に入る事を勧めてくれた。

でも僕はこの先も、それが少しの間でも、この世界で生存する事を選択した訳だし、それに僕が6歳から9歳だったあの時期、父が酒臭い息で潜り込んで来た布団の中で、僕の体内に無理に押し込んで来た固く湿った内臓の一部のような、それでいて何か人間以外の生物のような、生暖かいそれの正体と意味をはっきりと知った思春期から今日まで、僕がずっと付き合ってきたこの世界からの酷い疎外感と死への強い憧れ、それらは僕が会社を辞めたところでそう簡単に僕への憑依を止めてくれるとはとても思えなかった。

僕はそのふたつに対して29歳の今、むしろ親しみを感じていたし、それにどちらかと言うと僕には退職の現実的な手続きをする為にまた人事担当や産業医、それから直属の上司、とにかくその手の色々な人と会う方が、ずっと精神状態を悪化させてしまう事のように感じられた。それでどうしたものかと逡巡している時、僕の同期の友人と呼んでいいのか、向こうは僕を友人だと言ってくれているらしいが、ともかく同期入社で今は別の大手出版社で週刊誌の記者をやっている友人から連絡があった。昔よくおかあちゃんが鍋敷き代わりに使っていた老舗のゴシップ誌だ。

「オマエ、今暇だよな、何でも書けるよな、仕事も早いよな、それで女の子駄目なんだよな、何だっけ、男なら大丈夫なんだっけ?まあ何でもいいけどさ、風俗嬢のルポとか頼めない?オマエの署名記事には出来ないんだけど」

何でも、彼の週刊誌で雑用的に何でも書かせていたライターにあれもこれもと仕事を振っていたら、つい最近になってその子が仕事を全部放り出して逃げたらしい。週刊誌なんかではよくある事だ。アルバイト扱いのフリーライターにいつまでも署名記事を書かせてやらないまま、資料集めか、偶に何か小さな記事を任せてもひたすらリテイクを食らわせて、挙句勝手に大幅な手直しを入れた記事を編集部記者の名前で掲載する。そういう事が続くと、はじめの内は何でもやりますと言って一生懸命頑張っていた夢とやる気のある若者も、段々と疲弊し、その内書く事がすっかり嫌になってある日突然連絡がつかなくなる。飛ぶんだ。だからもう少し丁寧に扱ってやったほうがいいと言っていたのに、この友人は下の子の扱いが本当に雑だ。彼には自分はそれで育って来たんだし、その程度で飛ぶやつはそもそも記者なんか向かないという確固たる自負と方針があるらしい。

「書きたい奴はさ、例えばそれが23区内ラーメン特集だろうが、新宿特選ピンサロ情報だろうが、いい記事書いてくるんだよ。俺はそうだったし、お前もそうだろ。面白くて高尚で皆の注目が集まる、そんな取材対象なんか世界にそうある訳ないさ、あってもアイツらに振るかよ、そんなモン自分で探して拾って来い」

その手の生存バイアスを他人に振りかざすのは危険だと思う、実際それで僕は潰れたんだ。でもそういう強烈な矜持があってこそ彼は気が遠くなるように緻密で執拗に取材が出来るし、それから少なくとも僕には真似できないような斬新な切り口で誰にも阿らない重厚な文章を書く、とても優秀な記者だ。ただ繊細な若者の上司には向かない。

「いいけど、君が行って書くとか、そういう事はしないの、女の子好きだろう」

「俺が好きでも向こうは全然好きになってくれねえんだよ。オマエはモテそうなのに女の子全然駄目なんだろ?勃たないんだろ?ホント世の中って上手くいかないよな。それに今度の別冊の仕事で忙しいんだよ、俺が責任編集なんだ。この話、ルポタージュであって特選風俗情報って訳じゃないから別にサービスは受けて来なくていいし、全然がっついてないどころか性欲皆無のオマエの方が嬢も安心して色々話してくれるだろ、期日結構タイトだけどさ、頼むよ」

こういう時、彼は僕に対して清々しい程無神経だ。でも僕はこの彼の、仕事以外の大抵の事柄に適当かつ鷹揚な性格が割と好きだ。ここまで他人の内側というか個人的な事情に触れる事に留保と躊躇の無い人間は、僕にとってむしろ空気と同じだ。何というか彼は春馬によく似ている所がある。それで、僕は彼が提示してくれたギャラが悪くないのもあって、この仕事を引き受ける事にした。金額的にはこれで僕ひとりの生活を暫くは賄えそうだし、土曜日に春馬と僕の家に泊まりに来る姪の桜子にぬいぐるみとか、ゲームのソフトとか、そういう小さな物を買ってやれる。そうだ、春馬のビールも箱で買っておこう。

「いいよ、取材は直ぐに着手できるし、進捗は随時メールで送る。初稿は来月の頭にはデータで送れると思うし、それに一応赤入れてもらっていいかな。その後の原稿も全部データ入稿で構わないんだろう」

それで頼む、お前はやっぱり話が早いわ。そう言った彼が数日のうちに送って来た取材先のリストと女の子の名前、それをひとつひとつ取材して訊ねる事が、ここ最近の僕の仕事になった。取材対象には編集部から振り込みで謝礼を払う、でもそれとは別に僕は小さな手土産のお菓子なんかを持って行き、そして出来るだけ丁寧な言葉で、それも慇懃にならない程度の濃度で、丁度桜子に接する時のようにして、彼女たちの来し方や、ここにいる理由、収入、これが本業になるのか副業なのか、今どんな生活をしているのか、そういう事をひとつひとつ丁寧に聞いて回った。

例えば、東京で進学したものの、親御さんが自己破産して学費の援助の一切が無くなった、でも退学はしたくないと思って今に至る大学生とか、家族にはとても縁が薄くて、でも代わりに誰よりも好きな人がいてその人がホストクラブに勤めている、彼には私しかいないから助けたいと言う妙に幼い見た目の自称21歳とか、そうかと思えば夫の執拗な暴力から逃げて来て今1人で小さな子どもを育てている線の細いお母さんとか、あとは昔の僕とよく似た状況の渦中に生きている子。皆、肉眼で目視できる距離に彼岸を捉えながら、それでいて最後まで手放したくないものがひとつだけあって、自身の肉体を最後の砦に生きている。そういう人達が取材の対象だった。生存の為の最後の網の中のほつれた糸に絡めとられた、客観的にはあまり幸福とは言い難い今を生きる人たち。

僕は、彼女達に勝手な親近感を持った。

でも取材をはじめて最初の内は、彼女たちは何となく僕の事を客扱いしてお客さんと自分という距離感を崩してくれなかった。何て言うか近いんだ。僕が話を聞こうとすると僕にそっと体を寄せて来たりするし、更に仕事熱心な場合は

「本当に何にもしなくていいの?」

もうお金も貰ってるんだけど、そう聞いてくる。だから僕は、それは取材の謝礼だし、それに自分にはかつてとんでも無い額の借金を残して蒸発した父親がいて、その父親から性的虐待を受けていた。だから無理に挿れられた事はあるけど挿れた事は無いというか、とにかくそういう類の人間なんだと彼女たちに簡単に説明をした。僕はこういう所に来ても特に何も出来ないし、友人のあの彼の言葉を借りると全然勃たない、だから人畜無害な小さな爬虫類か何かが貴方の仕事場に闖入して来たんだと思って接して下さいと。そうすると彼女たちは

「何それ、へんなの」

と言ってくすくす笑って、それから突然、僕を友人のように扱うようになった、それか僕より少し年上の人なら僕を息子か弟みたいに扱うようになる。なんだか急に気安くなって、デリヘルだと待機用の小部屋の机の上に沢山置いてあるお菓子をお兄さんも食べなよと勧めてくれたり、個室のソープだと、ねえアンタも吸う?と自分でタバコをひとつ咥えてから僕にも1本くれる。人によってはタバコとかお菓子とか、そういうものを他人にひとつ差し出す事は親愛の証みたいなものだったりする。思えばおかあちゃんも昔よく僕にポケットから出した飴をくれた。だから僕は普段タバコを吸わないけど何となく一緒になって1本だけ吸うようにした。美味しくも不味くも無い、だってこれはただの煙だ。

幸福という物はそれをひとつひとつ並べ立てると互いの競争心を煽るだけの物になる、でも不幸は実はそれぞれが意外に似通っていて、互いの連帯感を生むものなのかもしれない。

僕が取材したうちの1人が沙羅ちゃんという女の子で、彼女は1人で結構な額の借金を支払っていた。それは両親が彼女に残した負債だと言う。細かい事情は分からないけどまあまともな所からの借金じゃない。それがいくつも重なっているのだろう、アルバイトをして頑張って大学に行っていたのを途中で諦めてもう何年もここにいるのだと言っていた。

「沙羅って漢字の名前、こういうお店だと珍しいですね、夏の花の名前だ」

始め、僕は彼女が、こういう店には珍しい画数の多い漢字の名前が源氏名だったのでその事を何となく指摘したら沙羅ちゃんは嬉しそうに

「私、夏生まれだから」

そう言った。沙羅の花は別名夏椿という、俳句では夏の季語。

「それと、ここのお店に入る事になった時にね、人生は諸行無常だなあと思って、それでね」

「あ、沙羅双樹の花の?」

「そう、盛者必衰の理をあらはす」

沙羅ちゃんを取材した日、僕らは1m程距離を開けて彼女の仕事場である風呂つきの部屋のベッドに座り、僕が取材の中の雑談のつもりで彼女の名前の話しをしたら、そこから何故か2人で中学生以来の平家物語の暗誦をする事になった。僕らはそれを結構ちゃんと覚えていて沙羅ちゃんは楽しそうに

「面白いね、記者なの?ライターってやつ?普段からこういうのの取材してるの?」

僕の事を教えて欲しいというので、僕は少しだけ自分の話をした。沙羅ちゃんは僕が出版社に勤めていたけど少し体を壊して休んでいて、それで今だけ友達に頼まれて副業的にライターをしているんだと言うと、僕の事をとても羨ましいと言った。彼女は文章を書くのが結構好きで、今はもうやめてしまったけど大学は文学部だったのだそうだ。だからここの店舗のブログも結構マメに更新するらしい。でもそれはマネージャーや他の女の子は不評なんだそうだ。

「漢字が多くて読めないって言われる。確かにそうなんだけど、でもさ平仮名だらけの文章って逆に読みにくくない?読み手の事逆にバカにしてるみたいにも感じるし、ハルちゃんはどう思う?」

沙羅ちゃんは僕の名刺を見て僕のことをハルちゃんと呼んだ。彼女には僕と同じ名前の妹がいたらしい、それが過去形なのは彼女の両親が方々に借金をしてそれがもう手に負えなくなってしまい忽然と消えた日、その妹も沙羅ちゃんの前から一緒に消えてしまったからだ。沙羅ちゃんはその時大学2年生で、都内の学生寮で暮らしていた彼女は何も知らないままひとり、家族から取り残された。

「寮に怖いお兄さんが来て、借金払うのに仕事紹介してやるって言われた時ね、うわー本当にこういう人っているんだと思ったんだよね、ドラマみたいって。そしたらさあ私、それがそのまま言葉になって口から出てたみたいで、お兄さんにスゴイ笑われたれたんだよ、お嬢ちゃんいい根性してるなって」

だって、そういうテレビでしか見た事ないのが目の前にあったら普通そう言わない?沙羅ちゃんがあまりにもその手の話を、明日のお天気の話題程度にさらりと話すので、つい僕も、実の母が事故死していて、僕の事を虐待していた父は借金だけを残して現在も生死不明の蒸発中で、その後僕を仕方なく引き取った祖父は去年死んで今は1人で、でも最近に血縁の一切ない兄と再会して、その娘である血の繋がらない姪も近くに住んでると言う僕の家族のようなものの事を話した。特に幸福でもなく、かと言って苛烈な程不幸でもない僕の話。

そうしたら沙羅ちゃんはそれをとても羨ましいと言った。沙羅ちゃんは膨大な借金を押し付けて消えた両親は終生許せないけど、妹さんの事を今でもとても大切に想っているのだと言う。

そして僕と同じ名前のその子は当時、今の桜子と同じ年齢だったらしい。

「じゃあ今、中学生になったくらいかな」

「うん。今中1になる筈、生きてればね。お金の方はだいぶ算段が付いて来たんだ、もうじき完済。ずーっと逃げたかったけどね、でも私がここから飛んだら万が一遥が帰ってきた時、可哀相でしょ。この話するとさ、お客さんの中で特におじさん達は妙に同情して余分にお金包んでくれるし、闇金のお兄さんは『姉ちゃんは優しいな』って利息少し負けてくれたりするんだよ。あの人達って、借金の棒引きはしてくれないし利息が法外すぎでしょって弁護士に相談に行ったりしたら冗談抜きで私のこと殺して山に埋めそうだし、現代の法律と常識とは完全に違反して乖離してる存在だけど、なんか情があるっていうか人間の勤勉さとか家族の絆とか、そういうのが好きだよね。むしろ機械かって位非情で恐ろしいのはさあ、何といっても税務署だよ」

沙羅ちゃんは、僕が持って行ったたい焼き屋の紙箱からカスタードクリームのたい焼きをひとつ取り出しながら僕にそう言った。沙羅ちゃんの言った事の意味は僕にも分かる、特に最後のところ。

「税務署は延滞税が元金の14.6%だからね、どこのどんな闇金より凄い利率でしかも待ったなし。僕の父親もそれを先に払いたいって更に闇金に借金して大変な事になってたなあ、最終的に僕の家と家財は税務署に全部持って行かれた、競売になったんだ」

非情だよね。かつて親に遺棄されて、本来は子どもがあるべき温かで柔らかな世界から締め出された僕達は互いに世界の非情を笑った。沙羅ちゃんが笑うと、丸顔の彼女の頬にえくぼが出来る。それが丈の短い花柄のキャミソールワンピースを着て、ベッドの上にふっくらとした白い足を投げ出している彼女を、真夏のひまわり畑の中にいる小さな子どもみたいに見せた。

僕らは、お店の中の紫色と桃色の中間位の色のなんだかおかしな色の灯りの下、換気扇をどんなに回してもバスタブからの湿気が酷いベッドの上で取材とは関係の無い話を沢山して最終的にひとつの結論を導き出し、そして2人でくすくす笑った。

「ひどい世界」

☞2

「春馬が仕事で居ない土曜日は僕の家に来てもいいし、夜に春馬が来て一緒に泊まるのなら、一泊してくれても構わないよ」

僕と桜子がそんな約束をした最初の土曜日の午前中、僕の家にパジャマや洗面用具を入れたチェリーピンクのドラムバッグと午後のバレエ教室の為の荷物の入ったリュックサック、結構な大荷物を持って来た桜子は、チャイムを聞いて玄関に出て来た僕の顔をじっと見つめて、次に頭のてっぺんからつま先までをくまなく点検し、そして一呼吸おいてから結構な大声で僕の事を叱り飛ばした。

「ハルちゃん、アンタご飯食べてへんやろ!」

その言葉とイントネーション、それから手を腰に当てて体を大きく反らせた仁王立ちの姿勢。全部がその昔、小食過ぎて食事の時によく春馬の皿にこそこそと自分が食べられなかったお菜を置いて食べて貰っていた僕を見とがめて叱責するおかあちゃん、即ち桜子の祖母とそっくりで、僕は弁明も説明も忘れてお腹を抱えて大笑いし、桜子から余計に怒られた。

「何がおかしいねん!ハルちゃんウチが居てないからって自分で全然ご飯作らへんかってんろ、ほんで水とコーヒーだけ飲んで暮らしてたやろ。大体何やこの冷蔵庫、水とバターとコーヒー豆しか入ってへんし、野菜室でほうれん草がミイラになっとる、コレどういう事?」

ハルちゃん、ウチが一緒に住んでた時から絶対3㎏は体重が減っとる、桜子はそう言いながら、僕の家の中にどかどかと入って来て、キッチンを隅々まで点検すると、冷蔵庫や戸棚に食べ物が全然無いと言って僕のお尻を結構強めに叩いた。将来、職業的なダンサーを本気で目指している桜子は自分にも他人にもとても厳しい、主に体重管理と健康管理において。僕がこれくらいの子はおやつにお菓子なんかを食べるだろうと用意しておいても、例えばポテトチップスなんか小さな欠片3つを摘まんでそれ以上は絶対食べない。桜子が言うには

「あんまり食べると、高く跳べなくなる気がするねん」

という事らしい。実際桜子も、同じ教室に通う友人達も、まるで妖精のように細くて華奢だ。そうでなければ舞台の上で精霊や妖精、この世の者でない何かの動きは出来ないんだと、そう言っていた。だから桜子は食べ盛りの年齢に反して食べる事にとてもストイックで、僕は少し前、それを少し是正するように軽く叱った事がある、それだとバレリーナになる以前に健康な大人になれないよ。僕は君に心身ともに健康な子でいてほしいんだ。その事を桜子は引き合いに出して僕を叱った

「ウチは、間食を控えてるだけでちゃんと朝昼晩、食べてるんやで、でもハルちゃんはその3度のご飯すら碌に食べてへんやんけ、ええ大人がそんな事してたら不健康を通り越して早晩棺桶行きや。ハルちゃんここにウチがいてない間、一体何しててん。大体今、無職のニートで引きこもりなんやろ、暇やん、ご飯くらいちゃんと食べ!」

「あのさあ、ニートで引きこもりは言い過ぎじゃないかな。僕は別に家に引きこもっている訳じゃないよ。それに最近、友達から仕事をひとつ頼まれて、夜に取材に行って明け方それをまとめて、昼に連絡して、とにかく本当に忙しかったんだよ。だから今日、桜子が来てくれたら一緒に何か買いに行こうと思って待ってたんだ。今日の夜はちゃんと…そうだ桜子の好きな物を作るよ、ナポリタンとか。それに1人だと面倒で何か作ろうとか食べようって思わないじゃないか、桜子は家に1人でいる時にご飯を食べてもあんまり美味しく感じないとか、そういう事って無い?」

「全然。ウチはいつどこで何を食べても大体美味しい」

「強いなぁ…じゃあ言い換えるよ、僕は桜子が居なくて寂しくてご飯が食べられなかったんだ」

「最初から正直にそう言うたらええんや。ハルちゃんはホンマにしゃあないな」

そう言って桜子は満足そうに笑い、それなら今からお昼を買いに行こうと言って僕の腕を引っ張った。桜子の自宅のマンションと僕の家の中間地点にある古い商店街の中におにぎりの専門店があって、そこのおにぎりがとても美味しいから、それを買いに行こうと。桜子が言うには、そこの店はおにぎりの具がいくつも自由に選べて、それにテイクアウトできるお味噌汁とお惣菜が何種類もある。その味付けが関西風でとても美味しいらしい。

「ついこの前そのお店に、『手作り、いかなごのくぎ煮』っていうのがショーケースあってな、ウチ感動して店番してたお姉さんとちょっとだけお話してん。なんかな、そこのお店番のお姉さんはアルバイトでこの辺の人やねんけど、お店のおばちゃん達…おばあちゃんかな、その2人が姉妹で、元は兵庫の垂水の方の人やねんて、ウチのおばあちゃん、あ、だからハルちゃんのおかあちゃんもな、元々はそっちの人やん」

「え、おかあちゃんて、大阪の平野区に実家があるんじゃないの」

「ちゃう、平野はおばあちゃんが美容師の学校に行くのに出て来て住んでた所で、実家は垂水やで、毎年親戚からいかなご送ってもらっててんもん」

そう言えば、おかあちゃんと一緒に暮らしていたあの頃、毎年春になると、甘辛く炊かれた小さな魚の佃煮がどこからか送られて来ていた。あれは僕も好きだったな。おかあちゃんは、これが来たらやっと春になった気がすると言っていたように思う。

「そう言えば、そうだったかもしれない」

「そうやで。アレ見るとウチ、ああ春やなーって思うねん」

母親が産後早くに仕事に復帰したので、乳児期から幼児期を桜子の祖母である僕のおかあちゃんと過ごす時間の長かった桜子は、こういう所が妙に老成しているというか、本当に

「桜子はおかあちゃんにそっくりだね」

僕は嬉しくなって言葉にしてみた。おかあちゃんは僕が知らない間に死んでしまったけど、そしてそれはとても哀しい事なんだけど、今、僕の隣のこの子の中にちゃんとその面影が宿っている。血縁というのは本来はとても善いものの筈なんだ。

「それな。おばあちゃん、おとうちゃん、ウチ、三段落ちで似てんねん。よう3人並んで歩いてたら知らん人に笑われたわ、おんなじ顔が歩いとるって。『ウチはおかあちゃんの顔に似てる方がええねん』ってこれまでの人生で何回言うたことか。あ、ハルちゃんあそこ」

桜子が指さした商店街の隙間の一角、多分夜に居酒屋として営業しているのだろう店舗と、おばあさんがぼんやりと店番をしている和菓子屋の間にその店はあった。多分中でも食事が出来る形式の細長くて小さな店舗のそこで、エプロンをした若い女の人が商店街に面した販売接客用のガラス戸の内側に立って商品を取り出し、包装していた。まだお昼前なのに結構な客が居て、桜子の言うように、沢山種類のあるお惣菜を指さしてはそれを買い求めていて、僕らは少しの間、そんな店の賑わいを少し離れた場所で眺めていた。

「あ、桜子ちゃん」

遠目にもとてもにこやかに接客しているその人が客足の途絶えた一瞬、桜子の存在に気が付いてこちらに向かって手を振った時、僕はその子の顔を見てちょっと驚いた。

沙羅ちゃん

そう言いかけて、あれは彼女のソープ嬢としての仮の名前であってこの昼日中の商店街で読んでいい名前じゃないなと思い直し、その一言を飲み込んだ。

「葵ちゃんや。ハルちゃん、あのお姉さんバイトさんなんやけどな、ウチがホラ、いかなごの事聞いてから、ちょっと仲良くなってん」

桜子は彼女を葵ちゃんと呼んだ。それもまた夏に咲く花の名前だ。僕は彼女にどんな顔をしたらいいのか分からなくて戸惑いながら、先に駆け出した桜子に少し遅れて桜子の後ろについて行った。そうしたら彼女、葵ちゃんは僕の顔を見て、何の躊躇もなく

「ハルちゃんだ!え、どうして?桜子ちゃん、この人お父さん?」

そう言った。違うよ。僕は君とも誰ともセックスは出来ないって言ったじゃないか。だから子供はいないよ。とは言葉にはしなかったけど。

「あのいや、この子が姪、前に言ってた。今日は僕の兄が仕事に行ってて家で預かってるんだ」

「え?ハルちゃんと葵ちゃんて知り合い?」

「仕事でちょっと」

「ウン、私、夜も少し仕事しててそこでね」

「フーンそうなん?あのね葵ちゃん、この人ウチの叔父さんのハルちゃん、おとうちゃんと違うで、ウチのおとうちゃんはもっとこう…やくざのゴリラや、ほんでスゴイでかい。ハルちゃんな、今無職のニートで家に引きこもっててご飯全然食べてへんから、ウチがここに連れて来てあげてん」

桜子は、多分、自分に親切にしてくれる年上の友達のような彼女と、叔父である僕が知り合いだった事が嬉しかったのだろう、僕の事を説明しようとして色々と話をした、でも内容がちょっと酷くないか桜子。

「だからさ、僕は今一応仕事はしてて、それが忙しかったから、最近食事があんまり摂れなかっただけなんだよ、それで今日は桜子と一緒にここに買い物に来たんだろ?」

僕は桜子が、沙羅ちゃんの、もとい葵ちゃんの『夜のちょっとした仕事』には特に触れずに、むしろ僕についてかなり偏った紹介をしてきたので若干の訂正を入れた。とは言ってもそれは葵ちゃんもよく知っている事だ。僕と桜子のやり取りを見て葵ちゃんはクスクスと両手をマスクをしている口に当てて笑った。

「いいな、ウチの妹も、桜子ちゃんみたいに元気で、そういう事言う子だったな、今一緒に住んでたらきっと毎日喧嘩になったね、もうそんな事できないけどさ」

そう言って、僕らが注文したおにぎり、鮭とたらこと、梅、それから昆布あと

「ハルちゃん、ウチ、筋子も食べたい」

レッスンの前は沢山食べていいと言うルールのあるらしい桜子が言ったイクラの入ったおにぎりを包んでくれた、あと蓋つき容器に入った豚汁をふたつ。僕はその商品をビニール袋に入れながら、桜子とちょっとした女同士の会話をしている様子を眺めていた。まるで年の離れた姉妹のように見える桜子の長い髪と、葵ちゃんの頭を覆う赤いバンダナがふわふわとショーケースを挟んで楽しそうに揺れる。

「あ、ねえハルちゃん、あの仕事どうなった?無事終わりそう?」

あったかいウチに食べてね、そう言って商品を詰めたプラスチックケースの入った白いビニール袋を僕に差し出した葵ちゃんが、僕に何の屈託もなくあの例の仕事の進捗を聞いてきたので僕は少し面食らった。え、ウン、まあまあ。今初稿を送って返答待ちなんだ、僕がそんな事を言うと葵ちゃんは

「あの時に貰った名刺のアドレスって仕事用?そこに私の連絡先送ったら今、普通にハルちゃんに届く?」

「えっと…あれは僕の仕事用のアドレスだから、一応届くけどそうしょっちゅう開けるもんじゃないし、えっと何?なんか相談?記載してほしくない内容があるとか、そういう事なら」

僕は、僕の仕事用のGmailのアドレスに自分の連絡先を送りたいという葵ちゃんの申し出に戸惑った。偶に記事が出来上がってから、やっぱりあの時のあの内容はNGでという差し止めが入る事があって、それをやられてしまうと、特に紙媒体では結構訂正と差し替えに時間を食う。特に今回の仕事は代打で回って来たやつで、それだけに校了の予定も凄くタイトだ。それなら今言って欲しいけど場所が場所だし、僕はどうしようかと少し考えていた。そうしたら僕の横で桜子が

「何や、まだるっこしいな。ハルちゃんスマホ貸して、ロック解除してな。葵ちゃんのもちょっと貸して、ロック外してや」

そう言って僕の白い無機質なiPhoneと、葵ちゃんの水色のレザーケースに入ったGalaxyを取り上げて、10秒程操作し

「ハイ、LINE繋がったから、あとは若いお2人でどうぞ」

若いって、僕は少し呆れたけど桜子はそう言って僕らにスマホを返してくれた。見ると僕のiPhone画面には、多分これが妹の方の遥ちゃんだろう、葵ちゃんによく似た桜子と同じ年位の女の子と、今より少しあどけない顔の葵ちゃん、2人が砂浜で並んで笑っているアイコンが表示されていて、それに僕はふっと微笑んだ。この子が葵ちゃんが帰りをずっと待っている妹なのかな。

「ね、何でハルちゃんのアイコンて、タコウインナーなの?」

葵ちゃんは葵ちゃんで僕のアイコンを見て笑っていた。それ、僕のicloudに画像というものが全然無かったから、以前桜子が僕のカメラで撮ったのを適当に使ったんだ。何しろ僕はついこの前まで死ぬつもりで、画像のフォルダとかその類のものをかなり消去していたから。でもそんな僕の超個人的な事情をこの明るく賑やかな商店街の中で説明も出来ないので僕は

「桜子と僕と、僕の兄の好物」

そう言った。そうやって僕達が話し込んでいる間に、店舗の飲食スペースに結構お客さんが入って来て、女主人の2人が少し慌ただしく狭い店の中を動き回っているのが見えたので僕は、じゃあまた連絡してと葵ちゃんに声をかけて自宅に戻った。帰り道、桜子はなんだか浮かれて、ぴょこぴょこ飛び跳ねているかと思うと、僕にわざとぶつかったり、急に僕と手を繋いでそれを振り回したりして、なんだかとても浮かれていた。

「桜子、そんなに揺らしたら、僕が持ってる豚汁がこぼれちゃうよ」

ちょっと落ち着いて歩きなさい、僕がそんな事を言うと、桜子は

「ハルちゃん、良かったな、友達できたやん」

そう言った。桜子が言うには、叔父である僕が、いい年をして無職で古い一軒家に1人で暮し、訪ねて来るのは姪の自分とその父で兄である春馬だけで、友達も全然いなさそうだし、勿論彼女もいないだろうし、何なら将来孤独死するんじゃないかと今から心配だったのだそうだ。すごい余計なお世話だけど、中らずと雖も遠からずと言うか、いい線はいってると思う。

「そういうんじゃないよ、仕事の事だよ」

「でも、仕事で知りあった人とは仲良くなったりするモンやろ、おとうちゃんはそうやで。葵ちゃんなら優しい親切やし、ウチはええと思うわ。ハルちゃんの家に遊びにきたりせえへんかな、そしたらウチとも遊べるのに」

遊ぶって、もう成人している大人の葵ちゃんと、桜子、2人で何をして遊ぶんだろう、僕は不思議に思って桜子に聞いた、そうしたら桜子は

「え?そんなん、ウチとハルちゃんも一緒にマリカーやるやろ。アレ1人やと全然おもんないし、葵ちゃんもウチとやりたいって。でもな、葵ちゃん彼氏がおって、そいつが時間には煩いし、お金はかかるし、束縛するし、なんかちょっとアカン奴なんやって。だからハルちゃんがなんぼ草食っぽい無害なタイプでも、一緒に遊んだりしたら葵ちゃんの彼氏が怒らはるやろか、もう早う別れたらええのに、そんでハルちゃんとかと付き合ったらええねん、無職やけど、ご飯全然食べへんから、お金はそんなにかからへんやろ」

そう言った。桜子、お見合いおばさんじゃないんだからさ、それに男女の事は本人達以外には分からないものなんだよ、そう言いかけて僕は、その金がかかる束縛の酷い『彼氏』というのが、実在の人間のそれではなくて、あの莫大な額面の借金、そういう事だろうかと思い直し、そうだねとだけ言った。それを聞いた桜子は僕が葵ちゃんに対してそれなりの好意をもっていると、そう思ったのかもしれない、何だか妙に嬉しそうだった。でもあの店で彼女を見た時に感じた嬉しいような少し恥ずかしいような驚きは、好意と言われると広義の意味の好意なのかもしれない。恋じゃない情、憐憫じゃない練達。それから、2人はどこでどう知り合ったのか、一体どういう2人なのかと桜子が改めて葵ちゃんと僕の事を聞いたので僕は

「世界を呪ってる2人」

そう答えておいた。そして桜子は僕がそういう抽象的な事を言うとため息をつきながら大抵同じ事を言う。

「ハルちゃんの言う事は私には難しくてようわからんわ」

でもね桜子、本当に僕らのいる世界は猥雑で冷淡で、結構酷いところなんだよ。

そしてそれは君が一生知らなくていい事なんだ。

☞3

葵ちゃんが、僕のLINEアドレスに連絡を入れてきてたのはその日の夜の9時頃だった。

『突然なんだけど、預かって欲しいものがあって、今からハルちゃんの家に持って行っていい?桜子ちゃんて帰った?』
『ううん、今日は僕の兄と桜子2人で僕の家に泊まってる、預かって欲しい物って何?』
『黙って預かってくれたら嬉しいんだけど。でも別に変な物じゃないよ、生き物だとか、すごい貴重品とかでもない』
『犯罪に関係してるとかでも?』
『違うよ、でも中身は見ないで欲しいの、今から行っていい?』

もう夜だし、この辺は夜暗いし、もし君が構わなければ僕が取りに行こうか、そう打とうとして、葵ちゃんは多分1人暮らしの女の子なんだし、他人に自宅をあまり知られたくないというのもあるのかもしれないと思い直した。何しろ相手は夜の仕事をしている女の子だ、勘違いした客に付きまとわれる事もあるだろう、過去に本当に自宅まで来られてしまったとか、そんな嫌な経験があるのかもしれない。それに葵ちゃんは、僕の家と葵ちゃんの自宅はごく近所だと言った、だから僕は

『分かった、住所と地図添付するから気を付けて来て』

そう返信した。近くに来て貰ってそれで『預けたい物』の受け渡しをすればいいだろう。僕は軽い気持ちで葵ちゃんの申し出を引き受けた。この日桜子は、発表会前のレッスンが熾烈を極めたらしく9時になる前にくたびれて居間でテレビを見ながら眠ってしまった、なんでも

「人間はあんなにピルエットで回ると頭がおかしくなる」

らしい。くるくる回りすぎて頭が痛いのだそうだ。遠心力で脳が攪拌されているんじゃないか、僕が冗談でそう言ったら、春馬が無言で台所にある薬箱からバファリンを探し出して持って来た。冗談だよ、そう言う事じゃないんだと僕が笑うと

「笑いごとか、オマエは無駄に漢字っぽい表現をすな!」

僕が叱られると言うひと悶着があった。春馬は凄く桜子を心配して育てている。その桜子は春馬がお姫様みたいに横抱きして2階に敷いた布団の中に運ばれ。それから春馬は風呂に入り、今から縁側でビールを飲むんやと言って出て来た。春馬は僕の家の縁側がお気に入りらしい。

「ハル、この冷蔵庫に入ってんのって飲んでええの?」

「あ、ウン。春馬に買っておいた、この前ご馳走になったし」

「オマエ、無職の癖にそういうの気にすんな、兄ちゃんがちゃんと買うて来たったのに」

「僕は今完全に無職な訳じゃないんだから、春馬と飲むビールくらい買えるよ」

「それやけど、桜子が、ハルちゃんは友達から仕事紹介してもろて、最近ご飯も食べずに働いてたて言うてたけど、大丈夫なんかそんなに根詰めて仕事して、第一オマエ今、鬱やろ」

春馬はいつも僕に真っ直ぐすぎる質問をぶつけてくるので、そういう時、僕は一瞬息が止まる。確かに僕はこの兄の前で己の自殺願望、というか希死念慮にずっと憑依されていて、ついにはそれを実行しようとした事を吐露はしたけれど、その詳細については何も明かしてはいなかった。でも目も勘も物凄く良い春馬は、さっき桜子のための頭痛薬を探している時に見つけた僕の薬が、昔更年期のせいで鬱症状が出てしまったおかあちゃんが飲んでいた物と同じだった事を見逃していなかった、それでその事を躊躇なく僕に訊ねて来た。

「僕のは軽い鬱だよ」

だから心配ないんだと言って、今日は自分で買ってきたビールを一口だけ飲んだ。本当に軽いからホラ、偶にならお酒も少し飲めるんだ。

「でも鬱は鬱やろ、そんなもんに軽いとか重いとかあんのか、大体そういう時は無理してじたばたせんほうがええん違うんか、もうずっと家で寝とけ、な?あとビールは止めてコーラでも飲んどけ。ハルひとり位にいちゃんが暫く食わしたるから」

春馬は心配そうな顔をして僕の顔を両手でぎゅっと挟んだ。桜子と同じ、子ども扱いだ。本当に春馬は昔から僕に甘い。

「今は薬でかなりコントロール出来てるし、それに僕の場合は鬱よりもその大元のPTSDが問題なんだよ、もう20年来の付き合いなんだ」

「なんやソレ、なんかの病気かそれも」

「心的外傷後ストレス障害。僕の場合はホラ…その、過去性的虐待を受けていたっていう事に起因する、精神的な病気」

「何やオマエ、この前僕は大丈夫だとか言ってた癖に、全然大丈夫やないしめっちゃ気にしとるやないか。あんなん男でも女でも平気な訳ないやんけ、大体オマエは子どもやったんやぞ、今の桜子と同じ年や、やっぱりあの変態、オマエの父親や、あん時に俺が殺しとくべきやったな」

アイツが今ここに顔出したら、すぐそこの三浦海岸から太平洋に流したる。そういう物騒な事を言いながら持っていたビールをひと缶一気に飲み切って大きなため息をついた春馬は、寝間着にしているジャージのポケットからタバコを出して一本口に咥えた。

「春馬、タバコ吸うんだ」

「桜子にちょっと喘息の気があるから、自分の家で絶対吸わへんで、アイツも臭いて怒りよるしな。でも俺みたいな仕事やとどうしても現場でみんな吸うし、それで何となく1日に1、2本程度な。今、ここで1本だけ吸ってもかめへんか?」

「いいよ、僕も1本だけ貰っていい?」

「何やハルも吸うんか」

「僕も仕事の付き合いでたまにだよ」

何が仕事や、第一オマエ定職についてへんやんけ、そう言って春馬は白くて細いそれのフィルターをそっと僕の口に差し込んで笑った。そして僕が口に咥えた1本にライターで火を着けてくれてから、あの小さくて可愛かったハルが咥えタバコでビール飲んでるなんて、おかあちゃんが見たらきっと泣くわと言って大げさにウソ泣きをした。うるさいなあ、僕はもう29歳なんだよ、僕がそう言うと春馬は

「知らん、俺の中でオマエはずっと9歳のままなんや」

そう言ってほんの少し星の出ている夜空に向かって白い煙をふわりと吐きだした。




「あのー、ここって津山さんのお宅でいいですか?」

突然、僕らがタバコを咥えてふざけている庭の生垣の向こうで、女の人の声がしたので、僕らは街灯の光のあまり届いていない薄暗い夜道に目を凝らした。

「ツヤマさんて誰や」

「僕だよ」

「そうか、今は俺とオマエで苗字がちゃうんやったな、で、アンタ誰?」

葵ちゃんだ。缶ビールを片手にタバコを咥えて暗闇の向こうに歩いて行く大男の春馬がいつも通り全然カタギに見えないので僕は慌てて春馬の手を引いて止めた。春馬の顔にはご丁寧な事につい最近ついてしまった事故での怪我の痕もある。普通の女の子ならまず怖がるだろう。

「春馬、僕の友達なんだ、ちょっと頼まれごとしてて、今から来る予定で」

そう言うと、春馬は、友達か?なら入っといでや、ビールもあるでと言って葵ちゃんを手招きした。そうしたら葵ちゃんは特に春馬に臆せずに裏木戸からこんばんはと言って入って来た。闇金とかその手の連中と付き合いの長い葵ちゃんは春馬の顔面の圧を全然怖がっていなかった。僕の家の庭に入って来た葵ちゃんは両手に白い紙袋をひとつずつ持っていて。ひとつは

「これ、ウチの店のおにぎり、お店のおかあさんがね、お友達のところに行くなら持って行きなさいって。ええと、たらこと、ツナと、紫蘇昆布と、梅と、唐揚げと、それからちりめん山椒。好き?」

「アレ?あの人達ってお母さん…?じゃないよね」

「アホ、関西の人間はな、おばちゃん全般に親しみを込める時、相手がどこの誰でも『おかあさん』言うんや、オッサンは『おとうさん』や、向こうもそう呼ばれたら喜ばはるんや、なあ?」

「そうなんです。オーナー達2人して『おかあさんて呼んで』って。だからどっちも『おかあさん』なの。あ、お兄さんも関西の人?じゃあこの人?桜子ちゃんのおとうさんって」

葵ちゃんは、勿論あの店の老姉妹の娘ではなくて、今から半年ほど前、あの商店街に買い物に来た日に、たまたまあの姉妹の姉の方が風邪で欠勤していて、妹の方がとても忙しそうにしていたので『私、今暇だから』とレジを手伝った事が縁で土日と偶に平日、だから週3回程度アルバイトをしているのだと言う。そして夜は夜で週に5日は店に出勤する。まあかなりよく働く方だと思う。僕が葵ちゃんがそういう店の子だという点をかなりぼかしながら

「じゃあ、毎日凄く忙しいね」

そう言うと、春馬からビールを渡された葵ちゃんは、それを一口飲んでからこう言った。

「うん、でもおにぎり屋さんはお昼前後の数時間だけだし、それにね、日中1人で家にいるとなんか逆にしんどくて、友達もいないし」

「せやで、夜遅い仕事やとしても定期的にお日様には当たっとき、それで人間割と体壊すモンなんや。あ、ごめんもう一本吸うてええ?俺、風下行くから」

春馬は、僕と葵ちゃんを挟むような並びで座っていたのを立ち上がって、風下に移動し、もう一本タバコを口に咥えて火をつけた。それからあとは大体、葵ちゃんが昼にアルバイトをしているあのお店の話をした、あのおばあちゃん達は一体幾つなのかとか、春馬も僕もあそこのたらこがとても好きだとか。それから桜子の事、10歳の女の子は段々生意気になってくるけれど、でもそこがなんとも可愛いねと。それは今実際10歳の娘を育てている春馬と、その10歳の叔父の僕、そして何より、10歳の時に離別した妹をずっと想っている葵ちゃんの実感と言うか正直な気持ちだった。あの子には今のまま天真爛漫に育って欲しいな、葵ちゃんがそう言うと

「天真爛漫ていうか、アレはもう大阪のおばちゃんとしての完成形やぞ、俺はどうも育て方を間違えた気がする。嫁さんの遺言どおりのバレリーナにする筈やったのに、なんや可憐さいうモンが全然足らん」

春馬がそう言って夜空を仰いでタバコの煙を吐き、それで葵ちゃんは大爆笑した。僕らが僕の家の庭で話したのはそんな他愛もない事だ。それから30分ほど僕らはそんな話をしてから、最後に葵ちゃんは

「じゃあコレ、中身見ないで、私が取りに来るまで預かって」

なんだか妙に持ち重りのする白い紙袋を僕に渡し、珍しく星の綺麗に出ている夜空の下を、はくちょう座の方向に向かって帰って行った。夜道に夜光虫のように光る彼女の日に当たっていない白いふくらはぎが、あの取材の日のように何となく、僕の目に焼き付いた。



僕が夜道の向こう側、見えなくなるまで葵ちゃんの姿を見送り、玄関と縁側のガラス戸の戸締りをしてから家の中に戻ると、春馬がビールの缶や、葵ちゃんから貰ったおにぎりを台所できれいに片付けてくれていた。僕が、おにぎりは明日朝ごはんに食べようか、春馬にそう言うと

「なあハル、あの子、風俗の子やな、ソープか」

春馬が、水でゆすいだビール缶をゴミ箱に放り込みながらそう言ったので僕は驚いて春馬の背中を凝視した。確かに葵ちゃんは普段は夜に仕事があると言ったけど別にそれは、飲み屋とか、キャバクラの可能性だってあるのに。

「なんでそう限定するの」

「あの子、幾つ位や、若いやろ?20半ばいかへんってとこか、それが夜に友達言うてもつい最近知り合った奴の家に来て、男2人に挟まれて座って酒飲んでも堂々としたもんやったやろ、肝が座っとる、場慣れしてるんや。その割に俺がタバコ吸おうとした時に普通に俺の事見てたやろ、せやからキャバクラとかその手の接客の子ちゃう。あの関係の子はな、男がタバコ吸うと条件反射でライター持ってなくても身体がフッと浮くねん。ほんで手がな、エライ荒れとった」

お湯やら泡やらに触りすぎると肌弱いヤツはすぐ手が荒れんねや。春馬はそう言った。

「僕は何も答えないよ」

「うん、別にせやからどうとか言うつもりないねん。やらせろとかな、そんなんもいらんねん。俺は死んだ嫁1人で今んとこもう腹いっぱいや。職業に貴賤なんか無いと思てるしな、それにあの子はものすごええ子やと思う、でもな、なんかな…」

「なんか何?」

「おかあちゃんに似てんねや」

「おかあちゃん?だっておかあちゃんは美容師だっただろ」

「おかあちゃんも、おんなじ事やってたんや、昔あのえげつない額の借金返すのにな。アレはなあ、本人は肝座らせてもう何でもないって気でやってるのかもしれんけどな、手も荒れるし、意外と魂削んねん。俺ら男やから実際はどうやとか何とも言えへんのやけどな。ハル、あの子と友達や言うなら、よう気つけて大事にしてやり」

お前は俺よりもう少しあの子の気持ちが分かるんかもしれん。春馬は僕の頭をポンと叩くと、俺はもう寝るぞと言って、桜子の寝ている2階に上がって行ってしまって、僕はオレンジ色の灯りのともる台所に葵ちゃんが持って来た白い紙袋と2人きりで取り残された。

そうか。

おかあちゃんも、寂しい赤紫の灯りの、あの場所にいたんだ。

僕は、さっき帰って行った葵ちゃんに『沙羅ちゃん』として出会った日、僕らのいる世界をこんな風に結論づけた事を想って、なんだか少しだけ泣きたくなった。

「ひどい世界」

☞4

葵ちゃんから、あの白い紙袋を預かって1週間、彼女からは何の連絡もないまま、時間は静かに過ぎて行った。僕の入稿したあの記事はそれから無事に週刊誌に掲載され、ネットニュースにも取り上げられてそこそこ話題になっていた。女性の貧困のセーフティーネットとしての風俗産業、その現場の女性たちの言葉を、静かにそして俯瞰的に聞き取った良記事だと評価され、部数も悪くはなかったらしい。でもそれは僕の同期のあの彼の名前で世に出た記事だ。僕の、津山遥の名前はどこにも無い。でも僕はその方が気持ちが楽だった。それにそういう

前に出すぎない

という僕の姿勢はあの界隈では意外に重宝がられる。あの辺りにいる連中は大体が自己顕示欲の塊だ。でもそうでなければ物書きなんか出来る訳がない。それでフリーライターとしての僕にはこの1週間で少しずつ仕事が舞い込むようになった。便利で仕事が早くて、署名記事を書かせなくても絶対文句を言わないライター。それに僕に名指しで依頼があったのはそこまでタイトな日程のものじゃないし、どちらかと言うと平和な内容ものばかりだった。でも今の僕にとっては、そこそこ食えてそこまで精神的に僕を追い込まない内容の仕事なら何でもいい。それこそ実録風俗ルポでも、子ども連れで行ける都内のレジャー施設でも、生活保護受給の為の裏技でも、本当になんでも。

僕は少しずつ舞い込む仕事をコツコツこなしながら、また土曜日に桜子が遊びに来て、あのおにぎり屋さんに一緒に行き、葵ちゃんが元気にしているのを確認する日が来るのを待っていた。そうやってひたすら何も考えずに仕事をしていた。僕がこの1週間で書いたものの文字数は30万字を越えていて、僕の今後の生活を気にして色々と仕事を振ってくれた同期のあの彼も流石に

「小説家かおまえは」

と言って呆れていた。でもなんだか僕は何もしないで休んでいるという事が出来なくて、ずっとそわそわしていた。これは躁状態というヤツなのかもしれない、だから

「ハルちゃん、あんな、葵ちゃん、最近あのお店で全然見いひんねんけど、何か知ってる?」

土曜日にいつものように僕の家に泊まりに来た桜子が平日に全然葵ちゃんを見かけなかったのだとそう言った時、僕は少しだけ落胆した。と言うより落胆したと言う感覚を久しぶりに思い出した。それまでとても長い間、僕は他人に期待をしたり愛情を請うたりする生活をしていなかったから。

「そうなの?僕の所には何も連絡がないから…わからないな」

「連絡しいな、いくじなしか。せやし今から見に行こ、それで葵ちゃんがお店にいてへんかったら、その場でハルちゃんのスマホから葵ちゃんに連絡取るか、あそこのおばあちゃんのどっちかに葵ちゃんの事聞いてみて!」

桜子は必死になって僕をあのお店に引っ張って行った。桜子はこの3年ほどの内に肉親を2人亡くしている。だから自分にとって大切な誰かが、忽然と世界から消える痛みを10歳という年齢の割によく知っている。そう思うと僕は黙って桜子に言われるままあの店に行き、いつもならあのショーケースの所で店番をしている葵ちゃんの代わりに、あの老姉妹の内の姉だか妹だかが立っているのを見た時に、特に躊躇なく

「あの、ここにいつもいた女の子、葵ちゃんて、今日お休みですか?」

そう聞いていた。あの子、どこ行きましたか?と。

「葵ちゃん、なんかねえ、暫くお休みしたいって、ずっと休んでんのよ」

うちらも連絡が取れない、そんな事を昔は多分美しい人だったろう風情の老姉妹の姉だか妹だかは僕に言い、逆に

「葵ちゃんから、アンタんとこに連絡あったら、アタシ達が心配してたって言っといて頂戴よ」

そうお願いされてしまって、僕はわかりましたと頷き、桜子と4つおにぎりを買って帰って来た。桜子はすっかり元気をなくしてしまって、いつもなら3つ食べるおにぎりを1つだけ食べてもうええわと言って残した。僕はなんだか体に力が入らないまま、夜、仕事を終えて僕の家に合流した春馬に葵ちゃんが居なくなったことを告げた。LINEも既読にならない。春馬は、そうかと言ってから腕組みして、少し考えてから僕にこんなことを言い出した。

「なあハル、オマエが葵ちゃんから預かったアレ、あの紙袋、中身って何やった?見たか?」

「中身?あの紙袋の?だってアレは葵ちゃんが『中身見ないで、私が取りに来るまで預かって』って、だから見てない」

「俺、あの重さに何か覚えがあるねん」

「ウチも」

「桜子、アレ触ったの?預かり物だから触っちゃだめだよって僕、言ったよね」

僕は、お風呂から上がって、髪の毛を拭きながら僕らの会話に入って来た桜子を叱るような事を言った、僕の部屋には仕事の資料なんかが今散らばっているから入っちゃダメって言ったよね?

でも、確かにあの紙袋の重さ、固い物が入っているあの感じには僕も感覚的に覚えがある。何て言うか、多分円柱形の物が入っているあの感じ。

「オイ、アレ紙袋だけでも開けてみ?俺の予想が当たってんのなら結構物騒なモンが入ってんのちゃうか」

春馬は立ち上がり、僕の部屋にしているこの家の奥の突き当りの和室に置いてある葵ちゃんからの預かり物の紙袋を持ち出して来た。僕はそれを止めなかった。多分、僕も春馬も、何なら桜子もきっと同じ事を考えていたんじゃないだろうか。春馬は、居間の食卓の上に置いた紙袋の中から紫色の風呂敷包みをそっと取り出して、更にその結び目をほどいて、中身を改めた。

「…骨壺やな」

僕と桜子は、静かにため息をついた。春馬が紙袋から取り出したそれは、少し小さめに見える骨壺だった。

「子ども…?」

僕は誰に言う訳でもなく小さく呟いてみた。そうしたら春馬も僕と同じ事を感じたらしい。骨壺らしき円筒形の白い筒を躊躇なく持ち上げてからすこし左右に振った。やめなよ、骨だよ。

「俺な、これまでおかあちゃんと自分の嫁と、両方見送って来たけどな。なんかそれより妙に軽いなコレ、もしかして子どもか」

「葵ちゃん、妹がいたって言ってた」

「妹?生きてんのか?」

「両親と一緒に行方不明だって」

僕がそう言った時、僕はあの商店街の隅にあるおにぎり屋の前で初めて、葵ちゃんに『葵ちゃん』として会った日、僕が桜子とちょっとした言い合いをしているのを見て言った言葉を思い出していた。

「いいな、ウチの妹も、桜子ちゃんみたいに元気でそういう事言う子だったな、今一緒に住んでたらきっと毎日喧嘩になったね、もうそんな事できないけどさ」

『もうそんな事出来ない』

僕たちの目の前にあるこの白い筒は、葵ちゃんの妹の、遥ちゃんのお骨かもしれない。そう思った時、僕は無意識にiPhoneを取り出して、葵ちゃんが沙羅ちゃんとして働くお店のホームページを開いていた。でも『本日出勤』のどこにも彼女の名前はなかったし。店舗ブログの中にも、とにかくそのURLの中のどこにも沙羅ちゃんの名前は無かった。消えている。何といってもその日払いの仕事だ、店に居なくなればそれまで。桜子には、葵ちゃんにはまた明日の朝、連絡してみるからと、もう寝るように言って2階に上がらせてから春馬は僕に

「オイ、オマエ、今からあの店行ってこい、それで店のマネージャーに、葵ちゃんがどこ行ったか知らんかて聞いて来い」

そんな事を言った。でもああいう所の店長だとかマネージャーだとか言われる人種は意外に口が堅くて、僕のような一見に、そうそう女の子の所在を明かしたりはしてくれないんだ、春馬だって分かってるだろ。僕がそう言うと

「何やオマエ、何でそんなに詳しいねや、俺の知ってる純情なハルは何処にいったんや、不良か」

なんだか違う方向から僕を叱った。春馬は、多分葵ちゃんが僕らとよく似た境遇を生きている子だと分かっていて、彼女の周辺で起きている諸々を他人事だと思えなかったんだろう。それにもし、この骨壺の中身が僕らの予測通りのものだったのだとしたら、葵ちゃんは、実態のないものの帰る場所を守るために、これまで体の感覚を麻痺させながら、でも必死に自分の体を切り売りしていた事になる。

僕なら、そんな時どうするだろう。僕はその時、春馬に再会して2週間経ったのあの日の夜、自から命を捨てようとしていた僕の手を強く握って離してくれなかった春馬の気持ちの輪郭を脳内で静かになぞっていた。

「春馬、僕はこれまで死ぬ事をずっと考えていて、今もそこから完全に自由になった訳じゃないんだけど、僕と親しい誰かが僕を置いて自ら死んでしまうって、そうかもしれないって可能性を考えるのは、結構きついね」

「せやろ」

「葵ちゃんは生きてるんだろうか」

「どうやろ」

俺、庭でタバコ吸うてくる。春馬がそう言って立ち上がったので、僕も一緒に立ち上がった。お茶飲む?僕が春馬にそう言うと、アホ、なんで土曜の晩に麦茶飲まなあかんねん、子どもか。そんな返事が返って来たので、僕は冷蔵庫から、1缶ビールを取り出して春馬に渡してやった。そうしたら

「あのー、ここって津山さんのお宅でいいですか?」

庭の奥の生垣の向こう、夜の暗闇の中で声がした。

「ツヤマさんて誰や」

「僕だよ、いいかげん覚えてよ」

葵ちゃんだった。

☞5

葵ちゃんの両親と妹の遺骨が見つかったのは、僕が『沙羅ちゃん』に取材で会った日よりずっと前の事だったらしい。葵ちゃんが遠くで静かに生きていると信じていた家族は意外と近くで死んでいた。葵ちゃんの両親と妹は心中なのか事故死なのか、とにかくそういう不審な形で3人一度に亡くなり、少しの間、警察署の冷蔵庫の中で保管されていたものの、その後火葬されて暫くの間警察署に留置されていた。

「なんか本来なら、市役所の人が引き取って、無縁仏みたいな形で埋葬されるらしいんだけどね、それが事故みたいな心中みたいな不審死だったから暫く警察署預かりで、宙に浮いてるみたいになってたんだって」

「どこに?」

「町田」

「すぐそこやないか、町田て神奈川県やろ」

「違うよ、東京都だよ、町田の人に怒られるよ」

それが、借金返済を1年以内に射程に収め、大体の目処がついた葵ちゃんが、行方不明者の届けはどうやって出したらいいのか、それも両親の届けは出さずに妹だけを、そう思って警察署に相談に行った時


「貴方の情報に該当する3人の親子の御遺体が預けられていますけれど、確認しますかって言われてね、それで鑑定に出してもらったの。見ますかって言われても、まあ骨だしね。流石にこれが妹の遥だ!なんて姉の私でもわかんないもん、それでちゃんと鑑定に出して貰って結果」

「家族だった?」

「そう」

葵ちゃんはその段階で、色々な事を止めて全部をやり直す事も出来た。改めて聞いた彼女の年齢は24歳。20歳程の未来は無くても、29歳の僕程の可能性の減退も無い。対応してくれた定年間際の警察官も、民事は不介入とは言え、君の関わっているそれは明らかに違法金利だから、もし君が望んで、例えば弁護士を挟むとかそういう手続きを取れば君は自由になれるんじゃないのか、そう言ってくれたのだと言う。僕もその意見に頷いた。葵ちゃんが支払ってきた特に金利なんかは本来殆ど違法だ。でも葵ちゃんはそれをしないで、借金を完済する事を望んだ。それは

「だってさ、ずっと帰りを待ってた妹はもう結構前に死んでて、それで店まで辞めたらさ、私には何も無くなっちゃうんだもん。今となっては闇金のお兄さんさえ、自分の家族みたいに思えるんだよね」

葵ちゃんは、必死になってやって来た借金返済を突然取り上げられても、大学もずっと前にやめてしまっているし、そうしたら自分は何をどうしていいか分からないんだと、そう言った。でも

「両親の骨はあの人たちの実家の近くのお寺に放り込んで来た、警察の人が引き取るなら全員分お願いしますとか言うし、だからって不要だと思ってる2人分の骨をその辺には捨てられないでしょ。死体遺棄ってヤツ?それでハルちゃんに遥をお願いしたの。私がずっと留守にしている間にね、部屋に1人きりだと遥が寂しいかなって思って。ハルちゃん優しそうだし、同じ名前のよしみって言うか」

葵ちゃんは、親御さんの出身地である湯河原まで行って遺骨を預け、それからここに帰って来たのだと言う。途中、あのLINEのアイコンになっている妹の遙ちゃんとの思い出の海にも行って来た。だから今、足が砂だらけになのだと言った。そう言えば、身に着けているワンピースの裾も砂で汚れているし、彼女の髪からは潮の香りがする。

「それで?」

「それでって何?」

「海に入って死ぬつもりだった?」

「…わかんない。でもそうなのかな、私、遥を託して行ったんだもんね、ハルちゃんに」

僕と春馬と葵ちゃん、3人はまたあの土曜日の夜のように縁側に座って、ビールを飲みながら、居間の食卓の上に置かれた白い骨壺をたまに振り返って見たりしていた。足が砂だらけだと言った葵ちゃんはサンダルを脱いで裸足で、多分ここ何年もずっと夜働いて昼に眠る仕事をしていた彼女の足の甲は真っ白だった。何だか痛々しい位。

「葵ちゃん、もう今日遅いからここ泊って行き、風呂入って、着替えはハルの服、なんかキレイなヤツ貸してやれや。多分葵ちゃんの家は、もう人が暮らせへんレベルに全部捨てられて片付いてしもてんねやろ」

「え、なんでわかるの?」

「だって、こいつも一緒の事やっててんもん。つい最近、葵ちゃんと全く同じようなことして、カーテンまで外して洗ってキチーンと部屋の中央に畳んで置いてたんや、律儀モンやな、2人とも。」

死んでもええこと無いぞ、死んだこと無いから知らんけど。

春馬は僕と葵ちゃん、2人の頭を交互に軽く小突いてから、今晩は桜子の横に寝たらええ、俺、布団敷いてくる。そう言って2階に上がって行ってしまって、縁側には僕と葵ちゃん、2人だけが残された。

「ハルちゃんもやってたんだ、同じ事」

「まあ」

「でも今、生きてんだ」

「うん」

僕は、ほんの少し生存を期間延長する事にしてるんだ。そう言ってから僕の手の届く場所、もう指と指が触れそうな所にあった葵ちゃんの手にそっと触れてみた。そうしたら、葵ちゃんは僕の手をしっかりと握り返してきたので、僕達はそうやって手を繋ぎ、世界の外側の更に向こうに落ちないように互いを強く支えながら、暫くの間、静かにそこに座っていた。

「私、本当に今日ここに泊っていっていい?」

「いいよ、2階の桜子の横で寝たらいいよ、朝起きたら桜子が喜ぶよ」

「桜子ちゃんに、彼氏と別れて来たって言わないとね」

「やめて来たんだ」

「そ、身辺整理のつもりでね」

そう言うと、葵ちゃんはふいに立ち上がろうとして僕に顔をよせた。その時、僕の口元に柔らかい何かが触れて、それが一体何なのかよく分からなかった僕は暫くパソコンがフリーズした時みたいに固まってしまった。

でも、その柔らかい何かの正体が葵ちゃんの唇だと分かった時、ほんの少しだけ僕の体内で脈拍と血圧が上がったように思う。

「ねえ、僕は誰とも何もしないし、出来ないよ、無理に挿れられた事はあるけど挿れた事は無い、全然勃たない人間だから」

「知ってる、人畜無害な小さな爬虫類か何かなんでしょ」

葵ちゃんは、ひまわり畑の小さな子どもみたいに無邪気に笑って、そのまま小走りに洗面所に行ってしまった。



ひまわり畑の小さな子どもである彼女と、人畜無害な小さな爬虫類の僕が、僕の祖父の残したこの古い家で一緒に暮らすようになったのは、それから半年後の事だ。

桜子は相変わらず、春馬と一緒に毎週土曜日に僕の家に泊まりに来る。

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