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笑わない(Unexpected survivors8)

3月の最後の日曜日の午後、末娘は、1ヶ月と1週間ぶりにICUとPICU、付き添い不可の重症者もしくは重症児のケアユニットを出て、一般病棟に移った。

用意して貰ったのは、いつも入院の時に通される4人部屋ではなくて、個室。それは

「末娘ちゃんは一時期かなり重篤な状態だったから」

という要経過観察の患児である故だった、のかどうかはよくわからない。いつものお部屋が空いて無かったからかもしれないし。理由は多分半々という所だと思う。

『個室』と言っても、よく映画やドラマで見る、どう考えても清拭も点滴も患者が遠すぎてやりにくかろうと小首をかしげたくなるような巨大なベッドに、猫脚でペイズリー柄か薔薇柄の応接セット、ベッドサイドの巨大な花瓶には豪奢な花が絶えず飾られ、そこに患者として鎮座するガウン姿の北大路欣也。とかいうものでは一切無くて、普通の乳幼児の使う高い柵付のベッドに、普通の床頭台、油圧式の長いテーブルと会議用のイス、荷物用の簡素なベンチ。居室とは、空間とはシンプルであることが全て、以上。

そういう造りの部屋で、本当にただの広めの普通の病室。

そもそも、この病棟には『希望して入室出来る豪華個室』というものが存在しない。人間は神の下では皆平等。病室の部屋割りは病棟の神である師長が患児の病状と病態と居室に入れる機材の大きさを見て采配する。

そして、入室して気が付いたけれど、ここは陰圧機能のある病室だった。

それは室内の気圧を室外の気圧より低く調整出来る特別な部屋。ただ、末娘は別に未知の感染症で隔離が必要な子という訳ではないので、この場合陰圧は全然関係ない。むしろその逆で居室の扉は向かいの詰め所の看護師さん達が室内の患児を目視で観察するために常に開けっ放し。廊下を行き交うちびっ子にも親御さんにも私達親子の日常がほぼ丸見え状態で、今、この瞬間も、点滴台をママに持たせて廊下を元気にお散歩している可愛い1歳の男の子が、こちらにニコニコと手を振りながら通り過ぎて行った。

もう人工呼吸器のアラーム音も、ベッドの足元をずらりと埋めるシリンジポンプの列も、普段使いの酸素以外全ての医療機器が生活から取り払われた末娘は手術の日から1ヶ月超。医療機器に繋がれて鎮静され、命を維持するために寝たきりだった生活ですっかり落ちてしまった四肢の筋力と嚥下機能の回復に本気で取り組むことになった。

「とにかく退院までリハビリの毎日やから。仕方ない事やけど筋肉が本当に落ちたからなあ」

主治医やリハビリ科の先生がそう言ったように、病棟にお引越しをして、付き添い入院を始めた3月末の段階で末娘は立って歩く事はおろか、自分の力で背中を支えて座る事もできない、首が辛うじて座っている程度の筋力の低下っぷりで、食事も自力では取る事が出来ず、鼻から胃に入れたチューブで栄養剤を流し込み、ただ静かにベッドに仰臥する事しかできなくなっていた。

末娘はこれまで運動機能はほぼ3歳児相当だったはずなのに術後1ヶ月の今、食事、お風呂、排せつ、とにかく生活すべての事が全介助の子に一時的なのか中長期的なのか不明だけれど、完全にメタモルフォーゼしていた。人間は変態じゃないか、変化していくものだけれど、これは本当に一体何でどういう事なんだろう、機能的赤ちゃん返りという事なのか。まだ3歳とは言え13㎏ある子をこれからお風呂も着替えも1人で全介助。早晩、私の腰が危ない。

『現状、脳には病理的所見が見られない』

そう判断されているのだから、訓練すれば身体機能はいずれ回復が見込める筈、そう判断した主治医が一日2回、理学療法士・PTさんをオーダーしてくれて、座位、背中を自力で支えて座る訓練と、立位、立ち上がって自分の体重を自身で支える訓練、次いで歩行器を使っての歩行の訓練。そして言語聴覚士・STさんが昼食時に来て食事をしながら実施される嚥下の訓練。

それを毎日フルセット。

勿論親が常に付き添う。特に摂食のリハビリについては昼食以外の時間に主体になって訓練を進めるのは親、とにかく親。リハビリとはすなわち親の気合と根性。それがなければ前に進むことは出来ない。これはちょっとした小学校や中学校の受験みたいなものなのでは。そう言えば、末娘の最初の入院の時一緒のお部屋になった子のママが

「週に3回、STとPTのハシゴして、それから療育、あとは年に1回はリハビリ入院。私、健常の子のママだったら絶対教育ママになったと思う」

と言って笑っていた。それ位、筋力回復や機能維持のためのリハビリは絶え間なく日々繰り返す事が大切だけれど、その分とんでもなく大変で、それに付き添う親は本気で忙しい。

末娘が座位、座る姿勢を自力では殆ど保てていないから、つい最近処分してしまった幼児のお座り椅子の代名詞『バンボ』を泣く泣くもう一度買ったり、食べる気持ちはあるのに舌を動かす筋肉や、嚥下する力が落ちていてなかなかうまく食べられない末娘の為に、何なら食べやすくて喜ぶのかを探す摂食リハビリの旅を続けながら、もう一つ、私には真剣に向き合わないといけない事があった。

末娘は、手術の後から今日まで一言も言葉を発していないし、笑っていない。

長く気管挿管されていた末娘の喉を診察して嚥下の評価をした耳鼻科の先生は

「喉に相応の浮腫はあるけど声帯に麻痺の所見は見られない。嚥下には問題が無いし、声も出ないという事は無い筈」

という診断が出たし、主治医からは末娘のこの筋力の著しい低下、ハシビロコウのように無表情な、鬱状態…なの?と疑いたくなる状態は、ICUに長く留め置かれたことに起因するものなのではないかと、そう言われていた。そしてそう言われると大体の疾患児の母がそうであるように、検索の鬼である私は、じゃあそれは具体的に何なのかと真剣に調べる事になる。その状態の名前は何か、診療科は何処になるのか、どの学会が研究していて、誰が研究論文を出しているのか、科研のHPを見れば分かるんじゃないか。そこに何か解決の糸口はないのかと躍起になって調べて

『PICS』集中治療後症候群

という言葉に辿り着いた。それは読んで字のごとく、集中治療室での過酷な時間を過ごした人が発症する。

運動機能障害
認知機能障害
精神障害

を伴う術後、治療後の後遺症。人は、長く鎮静され抑制され極限状態の中で命の深淵を覗く日々を、非日常である集中治療室で過ごす事で、筋力が著しく低下し、物事を認識する力が衰え、鬱状態になる場合がある。それを示す病態であると言う。

『死線を越えた人間は強い』

私は、末娘のこんな事が無ければ、本当にこの言葉通り

「そうか、だからウチの末娘はこんなに気が強いのか、せやな、そうじゃないと先天性心臓疾患児なんてやってられへんやんな」

と思っていた。人間は土壇場を搔い潜り、命の際をすり抜ける事で精神的に強くなるものなんだと、本気で思っていた。

思えば本当にアホだった。

そんな事はないし、そんな筈はない。3歳の子供だって、あの状況下に置かれば大人と同じように衰弱するし身体機能は低下するし、何より心が傷つく。末娘の胸の中央に走る切開痕がずっと体に残るように、一度ついてしまった傷はそう易々と薄くなって跡形もなくそこから消え去っていったりはしないのだ。

「言葉が全然出てこない以上、やっぱり脳に何かが起きている可能性も捨てきれないし、もう一度検査はする予定やから」

主治医から次は脳シンチグラムを撮ると、そう言われてはいたけれど、私も末娘のこの哀しそうな表情と、完全黙秘の状態にどう関わっていくのが正解なのか、それを真剣に探して調べた。でもこの状態どうにかする手立てやアセスメント、資料や文献は素人の私が調べて手に入れられる範囲には殆ど無かった。日本集中治療医学会のHPを手探りながら覗いて、多分界隈では一番研究論文の多い恐怖の術後後遺症、敗血症に妙に詳しくなってしまっただけだった。

シロウトが専門の学術分野の荒野に裸足で駆け出す危険性と困難さというものは、誰が見ても明らかだけれど、普段から疾患や障害のある子の親というものは、特にそれが成長発達生活福祉の分野に及んだ時には、周囲からその判断や対応の選択を迫られるのだ。そしてその時

「知らん、分からん、どないかせえ」

という投げやり3段活用は一切通用しない。ウチの主治医なんか何故か末娘の状態の説明を専門用語を駆使して解説してくる。先生、どうして私が人工呼吸器の換気の種類を知っていると思うのですか。そして薬剤の名称を略すのをやめて。だからこちらも必死で我が子に起こっている事柄を学ばない訳にはいかない。それがいいか悪いかは別にしてこれまでずっと

「お母さんはどう思う?」
「お母さんはどうしたいですか?」

そんな風に選択を迫られ、結果、否応なしに鍛えられてきた。もう癖みたいな物だ。学ばなければ、知らなければ、この少々難解な体を持つ子を無事育てる事は出来ないんじゃないか。実際今回は深刻な私の認識不足だったのだから。

そうやって、末娘が文字通り命を賭して臨んだ手術のその後の状態を軽く考えていた自身を、吉本新喜劇に出て来る棒を模した小道具に『自責の念』と書いて脳内で己をビシバシ叩いて懊悩している間も、治療とリハビリの日々は着々と進む。

付き添い入院2日目には、術後初日から1ヶ月超、ずっと末娘に付きまとい続けていた発熱が突然消えた。一体何の感染なのか、何が原因なのか、創部、カテーテル、針、末娘の身体にある物を散々検査に出して調べてもコレという原因がつかめず、とりあえず当たりをつけて処方してもらった抗生剤もいまひとつ効果を発揮しないまま主治医を悩ませてきた熱があっさり終息した。アイツ、一体なんやったんや。

術後には、この手の

「原因をはっきりと掴む前に終息した。治癒した。で、アレ何やったん?」

という症状が本当に多いという事を私は今回初めて知った。そしてその現象に主治医が禿げる程、頭を悩ます事になるということも。

そして人工呼吸器が抜管されて直ぐの頃は、2㏄のリンゴジュースを飲み込むことさえできなかった末娘は、生来の食い意地を糧に着々と摂食リハビリをこなしてくれていた。今回のリハビリで何より助かったのは、末娘の食べたいと言う気持ちがとりわけ強かった事。

と言っても、その『食べたい』は好きな物に限定されていて、その好きな物は日によってコロコロ変わる。患児に四六時中べったり張り付く事が必要な付き添い親は、ちょっと階下のコンビニに気軽に美味しいものを探しに行くことが難しい、この点は本気で苦戦した。折角STさんが

「ヨーグルトが食べられるなら、嚥下食をお願いしてみましょうか、沢山のお皿が目の前にあったらもう少し食べられる物が広がるかもしれませんから」

看護師さんと相談して、主治医に話を通しオーダーして出してもらったペースト状の嚥下食を一瞥し

(いらん)

と言い放った。言葉は無いけれど確実にそう顔に書いてあった。末娘は現在一切喋らない代わりに、利き手である右手を上げ下げする事で私と意思疎通している。食事の時なら食べたい時には挙手、食べたくない時には無反応。でもこの時、お味噌汁も、炊き合わせも、何ならグラタンさえ細かくミキサーにかけてとろみをつけた『嚥下食』という食事を見た末娘は、絶対に目で語っていた。

(そんなもんは食わん)

末っ子、超我儘。

この子は一度嫌だと言ったらテコでも動かないし、レッカー車を連れて来てもダメだと思う。それでひたすら、夫と付き添いを数時間交代して自宅に帰る夕方のほんの1~2時間の間に好物のプリンやヨーグルトやゼリーを用意する事に終始した。量が食べられるようになれば、そして水分を口から取れるようになれば、鼻から胃に入っている経管栄養用のNgチューブは抜ける、せめてこれを抜いてから退院したい。

「よかったですねえ、食べられれば、覚醒の具合が全然違いますよ」

少し前に末娘がヨーグルトを食べられた日、執刀医から言われた言葉を私は頼みにしていた。食べる事ができれば、すべての事が解決する。とまでは思わないけれど、何かが少しは好転してくるのではないか。

食べてさえくれたら。そう思いながら毎日夕方、病院で出た洗濯物を抱えて駆け足で自宅に戻ると、そこには家事を代行しに来てくれている優しい祖母が何も言わないからと、荒れ果てた自室の中でゲームと漫画に溺れてゴロゴロダラダラしている中1と小4の末娘の兄と姉の姿。私は末娘が復活の狼煙を上げ始めたら、こうはのんびりできないんやで、塾は?水泳教室はどうしたの。大体末娘が帰宅したらその辺の本もゲームも全部破壊されるんやで、とっとと片付けなさいと妙な叱責をした。

今、寝たきりの状態にある末娘の兄と姉である2人は、あの元来横暴な妹が身動きも出来ず、十分に食べる事も出来ないという状態であるという事がいまいち信じられないと言う。

わかる、お母さんもちょっと信じられない。

でも私達家族のその妙な懐疑が祈りとなって嚥下の神に通じたのか、末娘は付き添い入院4日目、あまりの食へのやる気と、それでもまだ飲み込む力が弱いからと用意してもらった嚥下食を断固拒否。それが駄目ならとオーダーした刻み食も一切拒否する姿勢をSTさんに見込まれてとうとう

『幼児食』

を一足飛びに手に入れた。それは3歳児の普通の食事。そしてその開始初日に出てきた本当に普通のコロッケをたまにムセて親の私をひやひやさせながらもペロリと全部平らげた。

勿論腕も碌に上がらず、箸もフォークも持てない状態なので、私が全て食べさせたのだけれど。その介助者の私が

「もうお腹いっぱいじゃない?」

だとか

「お願いだからそんなにどんどん食べんといて、誤嚥がコワイ」

そう言って躊躇しているのに、ひたすら目で訴えて来る。

 (そんなんええから、食べさせえ)

つい1ヶ月と少し前に補助循環装置と人工呼吸器と人工透析機、生命の危機3要素を全て満たして三途の川に肩まで浸かってきた子がこの食欲。座った姿勢で食事をとると、飲み込みが悪い今、気管に食物が入り込むことがあって危険だからと、仰臥位、横になったまま久々の『普通のゴハン』をもぐもぐ食べる末娘の姿は我が子ながら鬼気迫るものがあった。

あの機械音しかない静謐なICUの中、たったひとりで死の淵を歩き、身体的にも精神的にも満身創痍になって、私の元に戻って来た末娘が、それでも自身の命を絶対取り落とさずに、ひところはかなり危なかった心臓と肺と腎臓の機能を確実に自分の体内で維持できている。その理由を見たような気がした。

食い意地、大事。

この日、本当に久しぶりに通常の食事を取った末娘は、コロッケをまるまる1つ、白いごはんを130g、お味噌汁のお豆腐を全部平らげ、そしていつものように野菜を全部お残しした。うん、想定内。




ところで、春の病棟には朝、緑の集団が歩き回っている。

小児外科チーム。

普段病棟を持ち場にしている内科系小児科医とは多分また違う組織の小児外科チームの元には、桜のこの季節、学校が春休みの内に手術や検査を済ませてしまおうと言う学童組が大挙してやって来る。手術を受けて数日で無事に退院するという春の学童祭りが開催されているこの時期、外科の先生方はとても忙しい。毎朝教授先生を先頭に担当患児の病室をくまなく見て回っている。

「おはよう、どう?」

そう聞かれても、患児は術後の創部は痛いし、術前は慣れない病室に緊張しているし、そこに現れたやたらと背の高い男性医師ばかりが隊列を組む術衣の集団を見て

「どう?どうって?どういうこと?」

と困惑している、と思う。現場を間近に見た事が無いのでよく知らないけど。

末娘は常に『小児心臓外科』が執刀する患児なので、小児外科の守備範囲の子ではない。当院ただ一人の孤高の小児心臓外科医の担当患児。だからあの緑の集団の朝の回診に遭遇した事は無い。仮にあの人達が末娘の病床に来たら多分以前の末娘なら呻って威嚇する。皆優しそうな先生方なのだけれど圧が凄いから。普段、朝の末娘の元には

「おはようございます、どうかな?傷、見せてもらっていいかな?」

そう言って、お1人で颯爽と小児心臓外科医の先生が病室にやって来る。末娘がICUを出て小児病棟のPICUに転棟し、そして一般病棟に移床した今も毎日。それが、末娘を執刀した外科医としての正式な回診だったんだと気づいたのは昨日だ、気付くのが遅い。

この先生の職位は確か『教授』だったと思うけれど、その人がお付きの若手も連れずに、クロックスを引っかけて階段を上がり、やあどうもとやって来る様があまりにも

『ついでにちょっと顔見に来たよ』

という感じだったので私は全然気が付けなかった。ラフすぎる。話す事も世間話だし。ついこの前も私が、今回は摂食リハが上手く行きそうだし早めに決着がつくかもしれないんですよと話すと先生は

「アメリカのICUでは心臓のオペの後即、アイスクリームを出す所があるそうですよ、末娘ちゃんもアイスクリームを買って貰ったらいいね」

そんな医者なんだか、おじいちゃんなんだかわからない事を言った。だからこの先生が実はオペ室とICUでは多分ご自身に課しているのだろう完璧さとか正確無比さを周囲のスタッフにも課すが故に、患児とその親に向ける笑顔とは真逆の顔をしていると聞いた時はとても驚いた。

「すっごい厳しい先生なんですよ、小児病棟では物凄く優しいって本当ですか?それ先生本人ですか?違う先生じゃなくて?」

そう言ったのは確かICUで末娘が褥瘡を作ってしまってハゲた事を謝ってくれた看護師さんだったと思う。でもそれは分かる気がする。自分にも他人にも厳しくなければ患児は死ぬ。小児心臓外科医というのはそういう仕事なのだと思う。そして多分この先生は末娘が退院を迎える日まで毎日来る。

そして先生の回診と言う名の日参が良かったのだろうか、それとも、末娘は無表情な緘黙状態の中でも、今回のこの入院手術術後回復という長い経過の前半部分を支えてくれていた人が一体誰なのかをちゃんと理解していたのだろうか。3月の最後の日、いつものように病室に様子を見に来てくれた先生に向かって末娘は、術後初めて、ほんの少し口角を上げた。

笑った。

「今、笑いましたね?」

「笑いましたよね!」

その時の笑顔は春霞の如くふっと消えて即いつもの無表情の末娘に戻ってしまったけれど、そのハシビロコウの表情に戻ってしまった末娘を他所に、私と先生は互いにスゴイ偉いを連呼した。私はあんなに嬉しそうに笑った先生の顔をこの3年の間では初めて見た、オペ用のごついマスクをしていてもはっきりと分かった。あの時の嬉しそうな顔、出来たらICUのスタッフにもあの場所に居て見てもらいたかった。

そしてこの口角を少し上げてくれた日を境に、末娘には徐々に表情が戻って来た。末娘の病室のフロアの看護師さんが『末娘ちゃん笑って~』と言ってベビーカーに乗って病棟を周遊する末娘の前にしゃがんで挨拶をしてくれると、末娘は微笑み、PTの先生が来て

「今から先生とリハビリする人~!」

と聞かれると、無言だけれど笑顔でゆっくりと挙手してPTの先生を感激させている。

それなのに、肝心の主治医には全然微笑まない、超塩対応。今、入院生活の後半を全力で支えてくれているのはこの先生で、一生足を向けて寝られない程お世話になっているというのにお前ときたら。でもその理由は少しだけわかっている。この先生は、子どもが好きすぎて構いすぎるのだ。ちょっとご本人には言えないけど。

先生は、よくいる飼いネコが好きすぎて構いすぎ逆に嫌われるタイプの人というか、ああいうテンション。対する末娘は元々我儘な飼い猫気質の子だから、そういうのがちょっと苦手なのかもしれない。でも凄くいい先生なのに、あんな人なかなか居ない。

今、体の中に出来上がったフォンタン循環自体はとても良い立ち上がりを見せ、それだけならこのまま外来でフォローしていける状態になった末娘は、本来の疾患である心疾患の術後としては完全に退院が見えて来た。ただただ問題は、この術後の筋力低下による座位も立位も歩行も出来ない状態と、表情は出て来て、こちらの言葉を理解して何かしらアクションは取れるものの、発語が一切無いという事。

それが一体何なのか、主治医はその可能性がありそうなものを一つずつ今、潰して言ってくれている。それは脳外科の守備範囲の事なのか、児童心理の守備範囲の事なのか、それとも小児精神科か神経科か、とにかくしらみつぶしに可能性に当たってくれている。そのうち全国の小児精神科医にウチの主治医から連絡が行くかもしれない。本業は小児循環器医なのに、完全に担当外の場外。

それでも、

「俺がなんとかしたるからな」

という空気を纏って対応してくれている主治医を見ていると

「しばらくか当分か、もしかしたらずっとかもしれないけど、このほぼ動けない子の育児を自宅で頑張ろう」

という気持ちになるから不思議だ。「思ってたんと違う」状態で自宅に連れて帰る事になる末娘の事で、自分以外にこけつまろびつ奔走してくれる人がいると思うと、なんだか妙に明るい気持ちになれる。

ひとはそれをやけくそと言うのかもしれないが。

そうして今、医療ソーシャルワーカーさんを病室に呼び、退院後の訪問看護、訪問リハビリをお願いする先を大体決めて、それから支援コーディネーターさんに電話をし、今、末娘の状態が大幅に変わってしまっているがそれでも今契約している児童発達支援施設の方は受け入れをしてくれるのかを確認している。

本当なら5月からと思っていた幼稚園はこれで更に入園が遅れるだろう。

退院は忙しい。特にこういう、これは何というのだろう、なんだか掴めない状態で子どもを家に連れて帰る時には。

先はどうなるのか分からない、今日の末娘の脳シンチグラムの結果によってはこの子の状況はまた変わるのかもしれない。

それでも末娘は、懸案だったNgチューブが鼻から抜去する事に辿り着いた。これで経管栄養の自宅ケアは無しになる。そしてこの4月、大好きだった看護師さん2人が、末娘がこの病院にお世話になっている3年の間に実は結婚していて、そして職場を移って行った。わざわざ病室に挨拶に来てくれた彼女達の晴れやかな笑顔とそれにふさわしい穏やかな春の日の門出は嬉しかったけれど、同時に心から寂しかった。何なら前任の主治医が退職した時と同じ位心もとない。特に2人の内の1人は最初の手術の日にずっと付き添ってくれていた人だから。

でもいいのだ。

人間は、人生はメタモルフォーゼするものだから。


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