見出し画像

旅のとちゅう

入院して退院して、その入院の痛さ辛さを忘れる前にまた入院してというのをくり返して暮らしている5歳にまた退院の日がやってきた。次の入院の予定がなんとなく決まっている、そんな状態の退院だからこれは退院というよりは一時撤退、そういう感じ、そういう退院。

とはいえ、おうちに帰ることはとても嬉しいもの。

今回の入院で5歳は過去最高、8つの検査をこなした。それでさすがの5歳も途中でくたびれてきてすっかりご機嫌が悪くなり、しまいには「もうかえりたい」「いつかえれるの」「たいくつ」この3しか言わなくなってしまった。

それで致し方なく、5歳の酸素ボンベを私がお持ちして病棟を練り歩いた日々、「われこそは!」という重症循環器系疾患の子ども達の集っているらしい病棟の廊下を元気にもりもり歩く5歳児はちょっと異彩を放っていた。お部屋ごとに可愛らしいイラストの描かれたガラス窓の向こうで静かに過ごしているみんなは、一体うちの5歳をどう思っているのかしらんと思うと

「もうさ、お部屋で折り紙でもしておこうよ…」

そんな風に懇願はするものの、5歳が私のお願いを素直にきいてくれたことなんか生まれてこの方ひとつもない、家ではロディを乗り回し、兄姉のおやつをカツアゲする、生まれついての反抗期。

それで結局、折り紙なんかひとつもやらずに、少し前までお世話になっていた大学病院を思うとびっくりするほどゆとりのあるつくりの、それでもやっぱりお散歩にはやや手狭な病院の廊下を右に左にフラフラと歩くこととなり、私自身、退院の日は感慨もひとしおだった。もともと予定を3日超過した入院だったし。

(これでもうあんなに動物園のシロクマみたいに歩かなくていいんやわ)

退院の朝はいつもおんなじ、朝7時を少し過ぎた頃に看護師さんが運んできてくれる朝食を食べたあとに歯磨きおトイレお着替えをすべて済ませ、床頭台ってベッド横の小さな荷物入れからパジャマ、タオル、絵本、靴下その他もろもろを取り出して、持って来た大きなトートバッグにギュウギュウとつめてゆく。一番上には歯ブラシセットとお風呂セット、それからちいさいタオルケット。撤退の朝は出発の晩よりもずっと楽だし、支度もとても簡単だ。

「退院はうれしいことやけどな、ほんでも病棟の外にでるまでは『退院だー!』って大きな声で大喜びしないこと」

5歳は前述のとおり細切れに入院しては退院する子で、そしてこのテの疾患の子の中では自宅で家族と過ごせている時間の比較的長い子だから、ちゃんと言葉がわかるようになってからはいつも退院の前に、呪文のように必ずこんなことを言って伝えるようになった。

その理由はとても簡単で、病院という場所には「一体いつ退院できるのかなぁ」って窓の外の遠くの空をずっと眺めている、ゴールの見えない長期入院の只中にある子どもが必ずいるからだ。

5歳がこの前までお世話になっていた大学病院には、長い時間をかけて投薬治療を続けている子ども達が沢山いた。強いお薬を投与して、すこし休んで、お休みの間にすこしだけお家に帰って、それからまた強いお薬を使ってという治療をしている子ども達。

そして5歳が今回新しくお世話になることになった病院には、心臓のはたらきを大きな機械に預けて、そうして命を繋いでいるお友達が何人も入院している。

5歳のお友達にもその子たちと同じ機械に心臓を預けてずーっと入院している子がいたけれど、その子は今はもうその機械から自由になって、自分の体からも自由になって、家族のいるおうちとか、お友達のところとか、海にも山にもお空の遠くにも、どこにでも行けるようになった。そのかわり私や5歳にはその子の姿を目視できなくなって、それがとても淋しい。

ともかくそれはそういう病気で、それの当事者たる子ども達は一体自分の背負っている、普通に考えれば途轍もなく重たいものを一体どう思っているのかな、やっぱり辛くて、そして恐ろしいとばかり感じているのではないかと私は思っていたし今回、検査の結果がぜんぜん思わしくなくて、1年と少し前「これはもうあかんかも知れへんね…」なんて言われた術後のヤマを満身創痍で乗り越えたはずなのに

「ウーン…これ前の手術をもう一回やり直しってことになるかもしれへんなァ…」

なんてことを、今回心臓の端から端、心臓に繋がる血管の細部、肺に流れ込む血流、全部をシラミつぶしに調べた末に新しい病院の、はじめましてのお医者さんに言われてしまった5歳の親であるところの私も、命の終わりをわりに近しいものとして考えるようになって、とにかくこの先の未来に起きることをあまり明るいものだとは考えられなくなっていた。

そうして当の5歳はいずれ自分の背負っている運命のようなものをどんな風に考えてどんな風に受け止めるのかなとも、考えるようになっていた。

それを辛くて恐ろしいこととして拒絶するか、それとも意外と己に近しいものとして親しく思うのか、こちらとしては別に親しくなってほしい訳ではないのだけれど。

「するともし、あたしの心臓がいつか鼓動をやめてしまったらどうなるの?」

ミヒャエル・エンデ『モモ』1973年

ところで今回の入院の慌ただしい準備の最中、たまたま家の本棚から掴んで持ってきていた1冊がミヒャエル・エンデの『モモ』だったのは一体どういう巡り合わせだったんだろう。前述のこれは作中、主人公であるくしゃくしゃにもつれたまっ黒な巻き毛の、これもまたまっ黒でおおきな瞳のモモという女の子が、カメのカシオペイアに導かれて巡りあった不思議な老人、マイスター・ホラに聞いたこと。

このページを病院の、それも消灯後のくらやみで読んだ時、私はこの本をくり返し何度も読んでいるはずなのにちょっとだけ「ひい」となったものだった。だってそこは心臓の病気の子どもばかりのいるフロアだったし、そうするとこの留保も躊躇もない問いの直接的な答えというものを

「ひとつも考えたことがない」

なんて人はここには多分いないはずだから。それは病気の子どもの親に、もしくは本人に、目に見えないガスのようにふんわりと、もしくはぺったりといつもくっついているものだ。作中、マイスター・ホラはモモの聞いた「心臓が鼓動をやめてしまった末にたどりつく場所」のことを

「そこは、おまえがこれまでになんどもかすかに聞きつけていたあの音楽の出てくるところだ。でもこんどは、おまえもその音楽にくわわる。おまえじしんがひとつの音になるのだよ」

ミヒャエル・エンデ『モモ』1973年

そう言っていた。

命の終わりに辿り着くところがすてきな音楽の出てくる場所で、自身もいつかその一部になるのだよというのは、いずれ私に起こりうることとしては『なんだか素敵なことだな』とは思うけれど、いざそれが自分の子どもに起こることと思うと、そもそも音というものはまったく目視できないものだし、あの子の大きな瞳も、勝気そうな眉毛も、まっすぐでさらさらとした髪の毛もすべて透明になり風と一緒にふいと消えて見えなくなり、いつか中空を漂う美しい音になってしまうという世界観は、なんだかとても寂しい。

そんなことを考えながら、家から病室に持ち込んだ結構な量の荷物を全部まとめて2つのトートバッグに放り込み、持ってきていた『モモ』も大きい方のトートバックの隙間にそっと入れて、酸素ボンベを入れたリュックなんかも全部ベッドの上に並べて置いた退院の朝、ひとり廊下に出て退院に必要な書類のもろもろを「どうしたらいいですか」と聞きにナースステーションまで行くと、その時たまたまそこからすぐの場所にあるプレイルームで前述の『大きな機械に命をあずけているお友達』が集まって遊んでいた。

楽しそうに笑いながら、時折ちょっとふざけたりして、この日のどんよりとした梅雨色の空のことなんてぜんぜん関係ない、そこだけまるでうんとお空の澄んだ初夏のよう、もしくは厳しい冬の後にやってきた優しい春のよう。いつか美しい音楽の一部になってしまうだろうことを何より恐れているんじゃないのかと思っていた子どもたちは、にこにこと嬉しそうに頭を寄せ合って笑っていた、白い病院の中でずっと静かに戦い続けている子どもたち。

『心臓が鼓動をやめてしまったら、どうなるの?』

その言葉を頭の中に何度も反芻していた私は、春先の、もしくは初夏のただ中にいるような子ども達をしばらくぼんやりと見ていた。そしてあの子たちはお家を出て、帰りの予定のちょっとわからない長い長い旅をしているのだよねって、突如としてそう思った。

うちの5歳も、あの子達も、長い長い旅の途中、そうしていつか辿り着くところは、きっととても良いところだ。

そのはず。


サポートありがとうございます。頂いたサポートは今後の創作のために使わせていただきます。文学フリマに出るのが夢です!