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短編小説:春愁町(短編集・春愁町5)

https://note.com/6016/m/mfae0932aeed9

『春愁町』という小説集に春の物語を書いて、それを春の終わるまでに4つ程書けると良いなと思っていたら、1のお話で独りなった隼太と、2のお話で親に捨てられた杏奈と、4のお話で自立を目指した菜穂が、それぞれの居場所を見つけるという物語になりました。3のお話の草太のことはまたそのうちに書きます。

春が、私達の暮らす町から静かに過ぎ去り、葉桜の間を抜ける風が初夏を運んでくる頃になっても、やっぱり隼太ちゃんは出張やとか突発的な徹夜仕事でもない限りほとんど毎週、ひょっこりと『やきそば おかもと』の裏口に現れた。

隼太ちゃんはウチに来る時はいつもちょっとしたお土産を、例えば職場の近くにあるチーズの専門店においてあったヤギのチーズの箱が可愛かったからとか、仕事の帰りに寄った百貨店の果物売り場に飾られていた白い苺がなんか不思議やったからとか言うてお土産やでて言うて持ってきてくれてそれは

「杏奈がおらん間に手ぶらでここに上がり込んでるてのがばれたら俺、杏奈に飛び膝蹴りくらうしな」

ということやったけど、それは額面通りの意味ではなくて、隼太ちゃんは元々とても周囲に気を使う人で相手の顔色ていうのか、目の前の人が今どう思てて、何をして欲しいかてそういうことをものすご気にする人やからやと思う。それが隼太ちゃんの元々の性格なんか、実の親ではない人に育てて貰った隼太ちゃんのこれまでのことに関係しているのか、どっちなんかは私にはわからんのやけれど。

出張で東京に行っていたというその日も隼太ちゃんは新大阪駅から直接スーツを着たまま私の家である『やきそば おかもと』の裏口にのっそりと現れて、私に「ん」て言うて紙袋を手渡してきた、見たら中には菓子箱くらいの大きさの桐箱が入っていた。

「隼太ちゃん、家に帰らへんかったん?どしたん何これ?」

「卵。春ちゃんは神戸で昔の友達の葬式、同い年やて言うてたわ。あの人ももうだいぶ年やろ、じきに70やしなあ、友達てみんな水商売関係でまあ若い頃無茶ばっかしてきたひとばっかりやねん、そのせいなんかなあ、ここんとこ多いねんなあ、葬式」

「お友達のお通夜やったら春ちゃんうんと落ち込んで帰って来はるのと違う?優しいひとやもん、うち明日お店にいってみようかな。ほんで何?なんで卵なん?」

「なんか顧問先の社長さんがくれはった。なんやったかな、烏骨鶏の卵?普通のスーパーなんかではまず売ってへんええ卵なんやて、なっちゃんと杏奈に食べさしたろと思って」

「うちらに?ええの?春ちゃんには?」

「うちとこはええねん、春ちゃんはコレステロール値が高いし、俺も同じヤツで最近健康診断でひっかかってんやわ、きっと遺伝やな」

「隼太ちゃんて、もうおじさんやな」

「おう、もう36やからな、立派なおじさんや」

隼太ちゃんはその「お高い卵」で卵焼きを焼いたると言うて腕まくりして台所に立つと昔から、先代のミーコおばちゃんがおったころからある古い銅の卵焼き器で甘い卵焼きを焼いてくれた。それは隼太ちゃんが9歳の時に事故で亡くなったお父さんが隼太ちゃんによう作ってくれていたものらしくて、隼太ちゃんはもう30年近く昔の小さな子どこもの頃の記憶の中にしかないその味を再現しようとしてきたのやけど

「なんか全然おんなじようには作れへんねんなあ」

そんな風に言うもんやから、それはきっともの凄く美味しい卵焼きやったのやろて思って私は

「それって、そんなに美味しかったん?」

と聞いた。でも隼太ちゃんはそうやないねんと笑って

「いや、これがまた嘘みたいに不味いねん、他の追随を許せへんていうのかな、外が焦げてて中がどろっとしててバター臭くて、一体どうやったらあんな風に出来たもんか、息子の俺にも弟の春ちゃんにも未だにぜんぜん分からへんねん」

そう言うので、隼太ちゃんの隣で卵焼き器の中の半熟になった卵の板を手際ようくるくると巻く菜箸の先を見つめながら私が

「それは…こんな手際よう菜箸で卵を巻ける人が不味い卵焼きを作んのは無理やと思うわ、隼太ちゃんは背の高いのやとか顔とか見た目はお父さん似やてずっと前にいうてたけど、手先が器用なとことか料理ができるとかそういうのんはきっとお母さんに似たのやろね」

て言うたら隼太ちゃんはコンロの火をかちりと切って完成した卵焼きを私の用意した四角い藍色のお皿にぽんと置いてから、ちょっと驚いた様子で、自分の顔を私の顔のうんと近くまで寄せてから覗き込んできた。

「俺、なっちゃんに死んだ母親の話なんかしたかな」

私は隼太ちゃんとはほんまに長い付き合いなのやし、大抵のことは知ってると思うでと笑った。隼太ちゃんは普段あんまり自分のことをあれこれ話したりはせえへんのやけれど、子どもの頃、七夕夏祭りの日にかき氷の出店の横で夏の大三角形を教えてもらうついでに、空兄ちゃんが「たい焼きおごったるから菜穂も来い」て言うて、私は足がのろいからて背負われて一緒にでかけた駅のたい焼き屋までの道のり、ぽつりぽつりと昔暮らしていた町のことやとか、お母さんがコーヒーとサンドイッチのお店を経営していたことやとか、お父さんが自分にとても似ていて外を歩いてるとよう知らん人に笑われたことやとか、そんな話してくれることがあって、私はそれを全部脳内のデータベースに刻み込むようにして完璧に記憶していた。私がそう言うと隼太ちゃんはそんな細かいことなんでわざわざ覚えてんねやと声をあげて笑った。

「でも俺もなっちゃんが、ホラ、検査入院の日に楽しみにしてた遠足が被ってもてそんなら入院なんかしたないて杏奈と一緒に家出して、そこのお寺の境内に夜まで隠れてて大騒ぎになったんも、クラスのヤツに足のこと揶揄われたんが悔しいて呪いの人形作ってやり返そうてしてたんも全部知ってるもんなあ、あれ小2の時やったやろ。俺らもう初めて会ってから25年やろ、そう思うとほんまに長いよなあ」

「隼太ちゃんも、いらんことよう覚えてんねんな」

「ウン、羆並みに凶暴な杏奈よりなっちゃんの方が敵に回したら確実にあかん子やて、俺はずーっと昔からよう知ってたで」

そう言うと隼太ちゃんは妙に嬉しそうに私の鼻のアタマに自分の鼻をくっつけて来た。そういうことをしてくる日は大体隼太ちゃんは私とセックスをして帰る。でもその行為の持っている意味ていうのは愛でもなくて恋でもない、ただうちらが昔から互いをよく知っていて、そこに穴と隼太ちゃんの感傷みたいなものがあるからなのやと私は思っていた

隼太ちゃんは私のイヤやて言うことは絶対せえへんし、見て欲しくないものは見いひんし、痛がることしたろなんて多分考えてもないやろ、ただ穏やかにじっくりと体を検分して、私の体を舐めたり触ったりしている途中に時折おもしろくない冗談を言うて自分で笑うて、私も「なにそれおもんない」と言って笑う。それが一般に言うセックスていうもんなのかは、他の誰かとセックスをしたことの無い私にはようわからんのやけれど。そんでも濡れるし勃つしその結果収まるとこに収まるモンが収まってんねやからこれはやっぱりセックスなんやろな。

「なっちゃんは、このまま杏奈とずっと暮らすん?」

その日、隼太ちゃんはワイシャツのカフスボタンがうまく留まらへんて言いながら私に、私と杏ちゃんは一体いつまでこういう暮らしをしていくつもりでおるのかと、そんなことを聞いて来た。近所の人にも家族にも、同じようなことを聞いてくる人はこれまでも沢山いたけど隼太ちゃんがそれを聞いて来たのはこの時が初めてやったと思う。

「ずうっとや。うちと杏ちゃんにはこの暮らしがいちばんしっくりくるのやもの。そんなん言うたら隼太ちゃんは?春ちゃんとこの先もずっと2人で暮らしていくのやろ、隼太ちゃんには今、春ちゃんが一番大切な家族なんやろ?」

「そっか、そうやな…」

隼太ちゃんは自分と春ちゃん用に持って来た卵を2つタオルに包んだのを抱えて自分の家である花屋に帰って行った。

「ほなね」

「うん」

それ以上の事はいつも何もなかった。

隼太ちゃんの作ってくれた『不味い卵焼き』はバターとお砂糖、それからほんの少しだけ醤油を落とした甘いお菓子みたいに美味しいもので「やっぱりお父さんの味にならへんなあ」て隼太ちゃんは首をかしげていた。私はここ最近、朝起き抜けやとか疲れている時に車酔いしているみたいに気分が悪くなることが多くて、隼太ちゃんが焼いてくれた卵焼きを一切れだけしか食べられへんかった。それを翌朝、洗濯物の包みを抱えて1週間ぶりに帰って来た杏ちゃんに、隼太ちゃんが「ええ卵」を持ってきて卵焼きを作ってくれたことのおまけみたいにして話した。最近なんでなんかあんまりご飯が美味しくないていうか、朝方は車酔をいしている時みたいに軽い吐き気がするのやけれどと。そうすると杏ちゃんはその卵焼きを2切れ一ぺんに口に放り込んであんまり噛まんままごくんと飲み込みんで

「それってどんな感じ、頭痛は?めまいは?ずっと続く?それとも断続的に?前回の診察の時に安先生なんか言うてた?」

そう言うて問診を始めた。その瞬間に私は「あ、しもた」と思ったけどそれはもう時すでに遅して言うヤツで、杏ちゃんはスマホを取り出して病院に「あ、先生、吉本です」て電話してそのまま月曜日の朝一番に自分の上司である安先生の予約を入れてしもていた。

「なっちゃん、月曜朝イチ受診な、安先生に病棟なんかウチがみとくし、とにかく出勤したら即効で外来に来てって言うといたから」

「杏ちゃんまたそんな上司をアゴで使うようなことして、第一お店はどうすんの」

「雛ちゃんに頼んでちょっと早めに来てもらったらええやんか、なっちゃんの場合、吐き気と頭痛があってそれを『大丈夫やろ、ロキソニンでも飲んどこ』なんて思て甘く見てたら大ごとかもしれへんねんからな」

私は生まれつき足がうまいこと動かんのやけれど、それは脳ていうのか神経の先天性疾患のためで、そしてその脳とか神経ていうのは今脳外科医である杏ちゃんの専門分野で、ほんで更に面倒で厄介なことに私のことを中学生の頃から担当してくれている安先生ていう脳外科の先生が今、杏ちゃんの直属の上司なもので

「ええか、吐き気、頭痛、それとめまいやな、それとヘンなしびれな、そういうのんが出てるてちょっとでもなっちゃんが言うとか、君が微かにでもそれを感じとるとかしたらやな、それがどんな小っさいことでもなっちゃんのこと担いで病院に連れて来い、頼んだぞ吉本」

本気か冗談か、いや本気なのやろな、そんなことを杏ちゃんに命じているらしい。そうでなくても私の身体に感してのみ神経過敏やノイローゼかて言いたくなる程心配症な杏ちゃんは、何年か前に私が体調を崩した時、前回の受診の情報がほしいて病院にある私の電子カルテにこの家から本来できないはずやのに、何をどうやったんか不正にアクセスして病院の情報システム部の人にえらい怒られたことがある位やし、ここで言うことを聞けへんと「心配やから」て主治医を直接ウチに呼びかねへん。それで私は月曜日、大人しく杏ちゃんの言う通りに予約された時間に病院に行くことにして、午前中の店の仕込みの時間を兄嫁の雛ちゃんに頼んだ。ちょっとした吐き気や倦怠感は季節の変わり目にようある体調不良やとは思うけれど、とにかく病院に行って先生にちゃんと診てもろたよと言うたら杏ちゃんも安心してくれるやろと思って。

杏ちゃんの上司であって私の主治医の安先生は、ちょっと前に教授になって今、脳外科の医局の中でいちばんエライらしいのやけれど、私にとっては子どもの頃からよう知っている面白いおじちゃんで、先生がまだ大学病院で駆け出しの助教やった頃からもう20年近い付き合いになる。いつもおんなじ白衣のおんなじサンダルでコアラのマーチとかおにぎりせんべいとかそのテのお菓子の入ってるコンビニの袋をがさごそと提げて、何が起きても大体のことを「まあ大丈夫やろ」て、それは大丈夫と違うやろて時もにこにこしながら言うてしまう人で、それは大らかていうのか雑ていうのか、この人には一体これまで慌てたり焦ったりすることなんかあったのやろかて思うような先生なのやけれど。この日はその長いお付き合いの中で初めてちょっと困惑したような、驚いたような顔をしていた。

「あんなあ、なっちゃんの尿中のhCGが陽性なのやわ、これ…身に覚えってある?」

「先生まずそれ何ですか、うち初めて聞いたのですけど」

この日、診察室で私の体調を聞いてちょっと考えてから「ほんならこの検査しておいで」と言われたのが尿検査で、それは普段あまりしてないことやし不思議やなて思ったのやけれど、先生が「まあ一応や、一応」と言うので言われるまま、いつも患者と名のつく人でいっぱいの中央検査室のトイレで小さな紙コップにおしっこを採って検査用の小窓にことんと出し、30分ほどで私の電子カルテに送られてきた結果というのが、これまで全く聞いたことの無いもので、私はその聞きなれない言葉と眼鏡の奥の先生の瞳がやや泳いでいる様子に少し首を傾げた。

「ああそか、せやな、エート…それはホラあれやねんヒト絨毛性ゴナドトロピンて…ウンまあとにかくこれが陽性ていうのは妊娠してますてことやねんけど、そんでも擬陽性って可能性もあるから一応聞いてるねんけどな、なっちゃん身に覚えってあるやろか?わかってると思うけど、なっちゃんが妊娠するていうのは、普通の健康に問題の無い人間が妊娠すんのとはまたちょっと意味合いの違うことなんや、君も僕もそれなりに準備をせんならん。ほんで聞いてるのやけどな、身に覚えってある?」

今までもこれからも自分の人生にはまずありえない起こりえないやろて思うようなことが知らん間に自分の体の中に起きていて、それが目の前にごまかしようのない事実やと突き付けられた時、人間の心ていうのはむしろとても落ち着ていて、静かな春の海のように凪いでるもんなのやなて、私はこの時初めて思った。

「でもうち昔その…下肢をいろいろ切ったり縫ったりしてて、そんで体の中の組織があちこちくっついてしもてるから自然妊娠は厳しいやろて、普段から生理不順もええとこやて状態やし、せやから将来結婚して、妊娠を希望するようなら、そん時に相談しようかて先生が」

「せやねん、だから僕もちょっと驚いてんねん。せやけど自然妊娠の可能性がゼロってことではないからな。そんならなっちゃん、身に覚えはあるのやな」

「…あります」

「ヨシ、そしたらこのまま産婦人科や、そこで今どういう状態か診てもろてから今後のことは決めよか。なっちゃんももうええ大人やもんな、エート今いくつやったっけ」

「32です。先生でもあの、産まへんと思います。これはその、お恥ずかしい話がホンマに予想外の予定外のことで、うちにはお店も自分の生活もあるし、別にこれから結婚とかそういう予定も全然ないんです」

私がそう言うと安先生はちょっと困ったような顔をして銀フレームのメガネのブリッジを人差し指でぐっと押した。

「それは別に今ここで決めんでもええことや、それに結婚するしないは別にしてお父ちゃんにあたる人はおるんやし、半分はそいつの責任やろ、人間は単性生殖する生き物と違うねんから、そいつと相談してからでも遅ないことや、な?」

そう言うて、杖を手に取って立ち上がりそのまま診察室を出ようとした私の背中を大きくて暖かい手で軽く押して送り出してくれた。

赤ん坊とか出産とか、それをこれまでひとつも望んだことはないて、願ったこともありませんて言えば嘘になるけれど、そんでもやっぱりこれはちょっと無茶な話なのやろうしそれなら早々にカタをつけなあかんて、この時の私はそれしか考えていなかった。それやから私は脳外科外来の診察室の前で迷子になってしもた小学生みたいな顔で私を待っていた杏ちゃんにも、一緒に住んでいる以上これは隠していても仕方のないことやと観念して正直に今自分の体に起きていることと、でも産むつもりはないのやてことを、ざわざわと潮騒のようにして人の声の響く大学病院の通路を歩きながらなるだけ簡潔に、揺れている感情の端も混じらんように気を付けて伝えた。そうしたら

「エッ、なんでもう堕ろす一択なん?奇跡みたいなことなんやろこれは、産もうや、ウチ赤んぼって大好きやで」

杏ちゃんがこともなげにそう言うもので、なんだかそれが妙におかしくて私は吹きだしてしもたのやけれど、これはそう簡単な話やないんやで杏ちゃん。

「杏ちゃんこれは犬とか猫を飼うのとは違うのやで、人間の子どもなのやわ、自分勝手やて思うし酷い話なんかもしれへんけど、うちみたいな色々と不自由で力のない人間が安直に産んでええもんと違う、そっちの方が無責任やし可哀想や、何より周りに迷惑かけてしまうて思うねん」

「せやろか、生まれる前に実のお母ちゃんに捨てられてしまう方が可哀想やて思わへん?それに1人と違うで、ウチがおるやんか、そもそも赤んぼは迷惑なもんとはと違う、世の光やろ、世界への福音や」

杏ちゃんはけろりとした顔でなんやらえらい神がかった、壮大な事を言い出して、赤ちゃんを抱く仕草までし始めた。産んで、赤ちゃんを2人で育てて暮らそうと。

「お金のことが心配なのやったら、うち今ものすごい働いてるからな。それは開業医の2世とか3世で病院を継ぎましたて先生みたいにはいかんけど、年収も貯金も結構あるのやで、赤んぼをお運びするのにベビーカーも、新しい車かてうちが全部買うたるやん」

そう言うて、安先生が院内PHSで予約を入れてくれた産婦人科に私のことをなんだか妙にいそいそと引っ張って連れて行ってくれた。



産婦人科ていう場所は他の診療科とは少し違う場所で、その空間は幸福そうな色調の調度や壁の色で整えられているし看護師さん達の雰囲気も他と比べてすこし、柔らかい気がする。

それはここが人が死んでいく病院の中でたったひとつだけ、人の生まれてくる場所からなんやろか。

でも何しろそこは難しい症例ばかりを扱う大学病院なもので、ただ幸福だけやない、色々な事情を抱えた妊婦さんが色々な事情を抱えていそうな顔でずらりと待合室の長椅子に座っていた。そしてその中の何人かの横にはそのお腹のふくらみの原因である人が、その人を励ますように支えるようにしてぴったりと寄り添っていた。

ただこの時私の隣にいたのは大学病院の医局のみんなお揃いのNeurosurgeryて刺繍の入った濃紺のスクラブを着た杏ちゃんで、私の横には夫である人もそれになる予定の人もおらんかった。

そんでその杏ちゃんが私をソファに座らせて「担当医です」て言うて私ので受付を済ませ、本来は私が書くべき問診票まで「なぁなっちゃん、最後に生理きたんいつ?」て言うて立ったままさらさらと書き始めたものやから、これはきっとただ事やないわて、奥から産婦人科の看護師さんが「脳外科の患者さんですね?」と言うて出てきてしもて、それであれよあれよと診察室に通され、私はなんの心の準備も覚悟もないまま、お腹の子とエコーの画面越しに出会うことになってしもたのやった。

お腹にペタリとついた超音波検査用の透明なゼリーの生暖かさを感じるのと同時に目の前の画面に出てきた小さい宇宙のような暗い子宮の中には白いマメみたいな粒がぽっかりと浮かんでいて、それが、私の赤ちゃんなのやと言う。

「エート、今で10週目に入ったとこですね、ここね、子宮内膜がやや厚いんですけどまあ経過観察で大丈夫やと思います、赤ちゃんの大きさも…ウン、問題ありませんね、ここが胴体で、ここが手と…足ね、ほら今動いてますよ」

ふんわりと優しいサーモンピンクの壁紙の産婦人科の診察室の中で、杏ちゃんと同期やていう美人の先生がエコーの画像を見せて丁寧に説明してくれるのをひとつひとつ頷きながら聞いている間、その白黒の中にあるマメがホンマに今、自分の内側に生息しているものなのか、その辺に全然自覚はなかったのやけれど、胃から食道を上がってくる喉の焼けるような不快感とか、それ以外にも全部の数字や検査データや目の前の小さいマメが私のことを間違いなく「あなた、妊婦です」て結論づけてしもているらしい。

「まあ、色々と悩むでしょうが、今のところ赤ちゃんは元気に育ってますよ。石塚さんの場合はご自身の体のこともありますから、脳外科の安先生ともよく相談して、それから結論を出しましょう、ね」

柔らかな髪色のショートボブで桜色の爪をした先生が私のカルテとエコーの画面を交互に眺めながらそう言うてくれて、わかりましたと言った私はとりあえずそのまま席を立とうとした、でも結局診察室の中に「担当医です」て言うてついて来てしもた杏ちゃんが私の背後で

「コバ、そこはアレやろ、この出産は管理こそ大変やけど不可能とは違いますてちゃんと言うてあげてや、なっちゃんとおんなじような妊婦さんの出産は前例もあるし無理なことやありませんて。そういう言い方するとなっちゃんがやっぱりアカンのやて思てしまうやんけ、このヒト『迷惑ならええんです』て遠慮させたら日本一みたいなとこあるねんから」

仁王立ちしてかつ腕組みしながらそう言うもんで、杏ちゃんがコバて呼んだ先生は『小林先生』ていうのやけれどその人は、ちょっとムッとした顔をして杏ちゃんを軽く睨んだ。

「あんなあ吉本、わかってると思うけどね、どんな健康な妊婦さんでもお産は時と場合によっては命がけの一大事なんよ、それを『いやいや大丈夫です』ってこの段階で断言するような医者がおったら、それこそ大言壮語にも程があるていうかヤブやわ、大体アンタはなんで産科におるのよ」

「脳外の患者の診察に脳外科医がついてきたらアカン?大体こういう特殊事情のある妊婦を引き受けてこそのコバやろ、そこは誠心誠意、全身全霊で頑張ってや」

「いやまず妊婦さん本人がどうするかを決めてへんのやから、なんぼ担当医でも口出しなんかするもんと違うやろ、脳外てどうしてそろいもそろってこう非常識が常識やと思てる変人の泉ていうか…なあこれ、安先生が石塚さんのカルテに書いてるここ、ざっくりすぎて全然意味がわからんねんけど、何よこの暗号みたいな略語」

「あ、それ本気の暗号やで、うちと安先生にしかわからへん」

「は?なにそれカルテの意味ないやん」

あ、杏ちゃんて仕事場でもいつもこういう感じなのやて思いながら、私は立ち上がる機会を逸したままそのマメが春の虫みたいにしてもぞもぞと蠢く大きなモニターを見ていた。これは私がこの妊娠を継続しますて、これを体外に掻きだすことなくお腹で育てますて決めたらいつかちゃんとした完全な人間の形になるのやろか、今は先生がここが手でここが足ですて言うてくれへんかったら全然どこが何なんかわからへん小さい幼虫みたいなもんが。でも可愛いと言えば可愛いかもしれへん。うん…なんか可愛い、一生懸命生きてる感じがするとことか。

(なあアンタは私がうっかり無責任なことして世界に存在することになったのやけれど、もし産むて私が決めたら、この世に生まれてきたいて思てくれるのやろか、私のとこに)

そんなことをぼんやりと考えていたら、目の前で喧嘩みたいな会話をしている2人に私は呟くような小声でさっきまで言うていたこととは全く反対のことを、あまり考えなしにぽろっと言うていた。

「あの…私が、もし今この人を産みますて、産みたいんですけどて言うたら、それは許されることなんでしょうか、産んで育てますていうたら、ええよてみんなに言うてもらえるようなことなんでしょうか、普通の結婚は多分しないと思うんですけれど」

私の中からつるりと出てきてしもたそれが『産みます』て言うてることと同じ意味の言葉やったもんで私は私にひどく驚いた。今の店を継ぐて言うた時もそうやし、杏ちゃんを自分に下さいて、杏ちゃんの実のお母さんに啖呵切ってしもた時もそうやったのやけど私には時折、決意というかホンマの気持ちていうもんが脳に到達する前にぽんと言葉になって口から出てきてしまう時があって、それは多分、昔々のミーコおばちゃんの

(「これは絶対にほしいねん」て思たモンが目の前に来たら悩まんとパッて掴んでしまうのがええかなておばちゃんは思うねん)

あの言葉が私の内側で今も生きて息をしているからなのかもしらん。最初から考えんほうが幸せやて思てたもんが目の前に差し出されていて、それに色々と理由をくっつけて無理やしいらんて知らんふりをしていても、脳のずっと深いところは自分のホンマの気持ちをわかっているのやて、そういうことかもしらん。

「石塚さんと同じ名前の疾患をお持ちで妊娠されて、それは自然分娩に近い形だったり帝王切開だったりと色々ですけれど、とにかく無事にお子さんを出産された方はいらっしゃるし、私も多くないですが経験があります。石塚さんの妊娠と出産について、一体何が問題で困難であるのか、それは私としても現段階では脳外科の安先生がお話しになっている以上のことも以下のこともないと思っています。母親が子どもを育てていけるかは、それはそれぞれの方の環境によりますけど、石塚さんは今ご結婚はされていないけれど、ここにいる吉本と同居していて、ご自身でお店を経営されてそれで自活されているんですよね。それならこれは私の個人的な意見ですけど、別に結婚は出産と育児の必須条件ではないと思いますよ。実際、私も3歳の子どもがいますけれど今は結婚してません」

「えっ、コバってあの胆膵外科の人と離婚してたん、いつ?」

「ちょっと前にアンタにもそう言うたやん、覚えててや。ああすみません石塚さん、それで、これお渡ししますね」

そういうと、コバは、小林先生は私に優しく微笑んで何枚かのエコー写真を私に手渡し、次の予約をカルテに打ち込んだ。ちょっと間がつまっちゃいますけど事がコトですから1週間後、またいらしてください、その時にこれからどうしたいか、石塚さんのお気持ちを聞かせてくださいと言うて。そうして最後に

「立ち入ったことかもしれないんですけれど、石塚さんの話を伺っていると、産んでいいのかとか、育てていいのかとか、そういう誰かに許可をもらうような感じのことをおっしゃるじゃないですか。確かに石塚さんには先天性の疾患とそれに起因した下肢の障害がありますから、パートナーやご家族、周囲の方の協力がなければ子どもを育てていくことはいろいろと難しい点も多いとは思うんですけど、『産む』ということは石塚さんひとりの、個人の問題なんですよ、だって産むのは石塚さんなんですから、今成人して自立して生きている石塚さんが産むと言うのなら、それは別にどこかの誰かに許可をもらわなあかんことではないんです」

私のことを真っ直ぐに見てそう言うてから、産科医ていうのはね、ほんまのところは産んでほしい医者なんですよねとも言うてちょっと笑った。私は小林先生にありがとうございましたと頭を下げて診察室を出て、杏ちゃんに「コバって、かっこええね」とこそっと言うた、そうしたら杏ちゃんは

「せやろ、一浪してるから留年したうちと同じ年やねん。同期で一番に結婚して一番に子ども産んで、今知ったけど離婚したのも一番やわ」

て言うて笑った。それでもう一度、安先生にこの話をせなあかんからと脳外科のあるフロアに戻ると、午前の診察はそろそろ終盤で、人影のややまばらになった外来の白い受付の前で今度は安先生が迷子の小学生みたいな顔でウロウロしていた。それで私が先生に両手をパーにして声を出さず

(10週目やて)

と伝えてから、今度はちゃんと声にだして

「先生、うちさっきあんなこと言うたけど、もしかしたら産むかもしれません、そういう方向で調整できるか、協力してもらえるか、次の外来が1週間後やからそれまでに家族と相談してきます」

そう言うたら安先生は

「ほうか、わかった、産むとなれば君のお産の為のチームが必要になるな、産科は小林君が引き受けてくれるやろけど、その他の人選も早めに考えとくわ。なっちゃんてちょっと前まで中学生やったはずやのに今や妊婦さんか、俺も老けるワケやな」

頭をぼりぼり掻きながらそう言うて、晴れやかに笑ってくれた。職業柄とても勘のええ先生は私がもう腹を決めてしもたことをすぐにわかったのやと思う。それから勝手に産婦人科についていってしもた杏ちゃんのことを

「吉本、仕事がたまっとる、老眼の俺にルート取りなんかさせんな、はよ病棟に戻れアホ」

て言うて軽く小突いた。

杏ちゃんの脳の構造ていうのか、思考の法則ていうのは一体ぜんたいほんまにどうなっているのやろて思ったのは、私が予定外に店番を頼んでしまった雛ちゃんと交代してその日の店を何とか開け、一日の営業を無事終えた夜のことで、珍しくその日はどこも行かんでええし当直でもないねんて言うて杏ちゃんが8時過ぎに帰宅し、私に気持ち悪いことないかとか、お腹は痛くないかとか、そういうことを聞いてきた時にその話のついでみたいに

「なっちゃんさあ、お腹の豆太郎てな」

「杏ちゃん何よその豆太郎て」

「赤んぼの名前。だってとりあえず名前が無いと呼びにくいやんか、せやから豆太郎。そんでその豆太郎の父親って一体誰なん?うちの知らん人?」

そう聞いて来た時のことやった。そいつと結婚とかそんなんはせんのやろ、なっちゃんは豆太郎とウチとこのままここで暮らすのよなと。私はそれを杏ちゃんがちゃんと分かっていて、知っていて、せやから病院ではそのことにひとつも触れて来いひんのやて思っていたのやけれど、そうではなかったのらしい。

「あ…えっとあの、その…これは黙っててほしいことなのやけど、隼太ちゃんやで?でもそれって杏ちゃん今、わかってて聞いてるのよな?」

「えっ、なんも知らんでうちは、ていうかなに、隼太が父親なん?ウソやろどういうこと?どこで?いつ?」

「えっ、いつて、いつからそうなったのかってこと?」

「違う、その赤んぼはいつどこでどうやって作ったかってことや。お互いの同意があって合意のもとに定期的にセックスしてへんことには赤んぼなんかそうそうできるもんと違うやろ、なっちゃんの身体条件やと宝くじ1等当選並みの確率なのやでこれは、それか何、まさかのレイプ?」

「隼太ちゃんやで?いくらなんでもレイプはないやろ。それにそんな、何月何日いたしましたて、いちいち手帳につけたりしいひん、これはちゃんと同意があって合意をして、その結果起きたことや」

杏ちゃんはうちの隼太ちゃんへの気持ちていうものは、うんと昔の、永久凍土の氷の中で静かに眠るナウマンゾウの化石みたいな子ども時代の初恋であって、例えば隼太ちゃんが結婚してしもたて時も、確かに本気で隼太ちゃんのことを『離婚してまえ』て呪いはしていたけれど、でもそれは

(うちの大事ななっちゃんに長年想われたくせに)

ていうことに憤慨していたのであって、別にうちと隼太ちゃんが肉体のある男女として生々しく関係を持っていてくれたらええて、そういうことを願って祈っていたのではなく、小さい杏ちゃんの親友の小さい女の子やった私の想いを知らんままおっさんになってのうのうと別の人と結婚した隼太ちゃんが気に食わんて、そういうことやったのらしい。人生に『恋愛』という概念の存在しない杏ちゃんのこのへんの思考回路はうちにはちょっとようわからん。

「ほしたらどうなんの、隼太には一応言うのやろ、アンタの子やって、そんことなっちゃんがひとこと隼太に言うてみ、アイツええかっこしいて言うのんか八方美人て言うのんか、世間が正しいて思てることだけが正義やて、それさえやってたら大丈夫やて勘違いしてるアホやから、ほしたらとりあえず結婚しよとか言い出してしまうやんか『とりあえず』て。ていうか何?いつの間になっちゃんと隼太はつき合うてたん?」

「あんな杏ちゃん、別にうちは隼太ちゃんとつき合うてるとかやないねん、そもそもつき合うてないし、せやから結婚がどうとか、そんな話はこれまでにひとつもしてへんねんて」

「ハァ?あいつ、好きも嫌いも、そんなん何も言わんままなっちゃんとなあなあでヤッてたてこと?それで子どもまで作ったって?避妊の仕方も知らんてあほやろ、サルかあいつ。大体それってなっちゃんも隼太にただでやらしてたってことやんな、なっちゃんもなっちゃんやわ、なんぼ隼太が好きやからてアイツにいつでも優しい顔してたらええてもんちゃうやろ」

杏ちゃんの割にえらい真っ当なことを言うた杏ちゃんは、帰って来た時の恰好のまま裏口から私のつっかけを履いて、夜の藍色にすっぽり包まれて店の灯りもまばらな、ほとんど誰もおらん商店街の目抜き通りを全速力で駆け抜けてウチから杏ちゃんの足で走って3分のとこにある隼太ちゃんの自宅の花屋に行って丁度、仕事から帰って来たところで花屋の入り口のガラス戸にただいまて言うて手をかけるかかけへんかて瞬間の隼太ちゃんの背中に多分小学生の時以来の、渾身の飛び膝蹴りをした。

隼太ちゃんはそれを不意打ちで背中に受けて花屋のガラス戸に頭を結構な音を立てて打ちつけ、それを後々「あれは痛かった、星が飛んだていうのか、頭が割れたて思たわ、もうホンマにやばかった」と言うていた。

「杏奈ァ!夜道に無言で背後から飛び膝蹴りてオマエ通り魔か?ことと次第によっては傷害事件で訴訟モンやぞ、俺が弁護士てわかっててやってんのやろな」

「ハァ?ほしたらウチは医者やで、筋弛緩剤でもなんでもつこて隼太の1人や2人、証拠ひとつ残さんと綺麗にこの世から抹殺したるわ」

「おま…職業倫理てもんがないのか、それは俺に対する殺人予告や、おまえがそんなん言うたらシャレにならへんねやぞ、撤回せえ」

「それを言うならアンタはどうやねん、このバツイチの根性なしが。隼太は昔からうちら中ではいい子の隼太ちゃんで自分からは絶対アレが欲しいとかこれがしたいて絶対言わへん、いつっつもみんながええのでいいよて言う、誰の言うことを聞いたら一番ええかてよう分かってる、全ては相手の出方しだいや、そんなん正義も公正もあったもんやないやんけ、そういうのって別の名前でなんていうのんか今うちが教えたるわ、八方美人の無責任ていうねや、このバーカ!」

「なんで突然とび膝蹴り食らった上に、そんな俺の内面の突かれて一番痛いとこお前に的確に踏み抜かれなあかんねん。おうそうや、俺は忖度させたら日本一の男やぞ、しゃあないやんけ、俺みたいにちっこい頃にふた親亡くして親戚に育てられたて人間は遠慮が癖みたいになるもんやろが、そんなんオマエかて似たような育ちなんやから…オマエは…オマエには分からへんか、だって杏奈やもんな」

「全然わからへん、うちは好きなモンは好きて言うし、欲しいモンは欲しいてちゃんと相手の目を見て言うって、そういう姿勢でずっと生きてんねん、せやからこの先もなっちゃんと暮らすのはうちや、うちとアンタでは基本が全然違うねん、バーカ!」

「そんなん杏奈に言われんでもなっちゃんに聞いてちゃんとわかってるわ、なっちゃんがこの先も一緒に暮すのは杏奈なんやろ、知っとるわ」

「わかってんのやったらええねん、ほしたらもううちのなっちゃんには触らんで、なっちゃんはな…エート…今しんどいねん、大事な身体なんやからな、隼太のバーカ!」

「うっさい、一体なんやねんオマエは、あといちいち俺のことバーカって言うなや、このアホ!」

確実に過度の攻撃に出ているのだろう杏ちゃんと、杏ちゃんの売ってきた喧嘩には子どもみたいに応戦してしまう隼太ちゃんを探して私が隼太ちゃんの自宅である花屋さんに来た時には、杏ちゃん隼太ちゃんは2人してピンクの小花柄の寝間着を着た春ちゃんにゲンコツを貰っている真っ最中やった。弁護士と医者て肩書だけは大層な、ほんでももうええ年の2人を小学生みたいにして叱る春ちゃんは部屋着に薄手のカーディガンを羽織ってゆっくりと杖をつきながら暗闇の向こうから歩いてきた私に気が付くと。

「ちょっとぉ、なっちゃん、この子一体どうなってるのよ、32にもなって男相手に飛び膝蹴りだなんて、この先嫁の貰い手がありゃしないわよ。隼太も隼太よ、いい年してどうして子どもみたいにわざわざあたしの店の前でお女の子と喧嘩するのよもう36なのよアンタ、死んだアンタのお父さん、あたしのお兄ちゃんが天国で泣いてるわ」

「嫁に行くて、いつの時代の話よ春ちゃん、ウチもなっちゃんも結婚なんかせえへんて昔から言うてるやんか。そもそも結婚なんてモンに何の意味があるねん、あんなん面倒くさいだけやんけ。それやったら春ちゃん、隼太の無責任でケツの軽いこの感じて何とかならへんの、忖度させたら日本一て、ただ単に自分がひとつも無いてだけやん、バーカ!」

そんな風に杏ちゃんが隼太ちゃん相手に子どもみたいな悪態をつくと隼太ちゃんも子どもみたいに言い返した。

「あんな春ちゃん、俺は別に杏奈と喧嘩してるんと違う、こいつが夜道で突然飛び膝蹴りなんかかましてくるからやめろて言うてただけや、あといちいちバーカって言うな!アホ!」

「だって春ちゃん、こいつがな、こいつが…エート…もー!なっちゃん、守秘義務てこういう時も必要?」

「ぜったいひつよう」

私は杏ちゃんの喉元まで出かかっているのやろう私の妊娠の事実を上目遣いにじろっと睨んで黙らせてから、春ちゃんと隼太ちゃんに「うちの杏ちゃんがどうもすみません」と頭を下げ、杏ちゃんを引っ張って家に連れて帰った。杏ちゃんは子どもの喧嘩みたいにして隼太ちゃんにとびかかって行ったのやけれど、私にはそれが、杏ちゃんが私のお腹にいる豆太郎の父親が隼太ちゃんやて聞いて、隼太ちゃんはきっとそれの責任を取るて言い出すやろと、それで私が杏ちゃんを置いて隼太ちゃんのとこにいってしまうのやないかと不安になった故のことやと、ちゃんと分かっていた。

「なあ杏ちゃん、ウチらはほら、10年くらい前に杏ちゃんのお母さんにうちが『杏ちゃんを私にください』て啖呵切って、そんで2人で今日ここまでずっと一緒に暮してきたやろ、その約束はうちの中では今もちゃんと生きているのやで、うちは『やきそば おかもと』をおばあちゃんになるまでずっと続ける、うちはどこにも行けへん」

「…うん」

私がそう言うと杏ちゃんは、子どもみたいにニコっと笑って、私たちは小さい頃みたいに手を繋いで街灯の点々灯る夜の商店街の通りをぽこぽこと歩いて『やきそば おかもと』に帰った。


隼太ちゃんはその週の土曜日、いつものように杏ちゃんが当直でいてへん『やきそば おかもと』に小さなお土産を、この晩はきれいなサクランボが仲良う並んだ木箱を提げて裏口にのっそりとあらわれた。

「この前な、杏奈がとび膝蹴りかましてきた時なっちゃんがちょっと具合悪いみたいなこと言うてたやろ、せやから果物がええかなて思って。今日はこれ渡したら帰るわ。この前の杏奈のアレはあれやんな、俺が土曜の晩になっちゃんのとこにしょっちゅう来てるて知れて、それがあいつの逆鱗に触れてしもたてことやんな」

隼太ちゃんは杏ちゃんのあの月曜日の飛び膝蹴りを、自分が杏ちゃんの留守にここに来て、なんとなく私とセックスしてるて、そういうことを知ってしもた故のことやて思っているみたいやった。それもあるのやけれど、それで私はこっちこそ杏ちゃんがごめんなて言うて隼太ちゃんに頭を下げた。そしたら隼太ちゃんは

「なんでなっちゃんが謝るんや、べつに杏奈のああいうのは今に始まったこととちゃう、いつものことやんか。俺が杏奈にムキになんのもいつものことや。でもまあ飛び膝蹴りは小学生以来やし、あいつ背ぇ高くて脚力あるから相当痛かったけどな、今何センチあるんやあれ。ほんで体調は大丈夫なん?病院は…行ってるか、なっちゃんがちょっとでも頭痛いとか言い出したら杏奈が即病院に予約いれて引っ張って行くもんな」

そう言うていつもみたいに優しく微笑んで私の頬をそっと撫でた。私は隼太ちゃんのもう癖みたいになっているその仕草を受けてから、ほんまに普通に、明日は晴れるのやてとか、ラーメン屋さんの白黒ネコがそこにおったよとかそういう話をするみたいにして、自分の体に今起きていることを恬淡と隼太ちゃんに告げた。あんまり慎重に言葉を自分の中に溜めて、選んでしまうと、決意が鈍ってしまうような気がしたものやから。

「大丈夫、これ病気と違うねん。うち妊娠してるねん。今10週目やて」

「へっ」

「うちのこと診てくれてる産科の先生がな、すごい素敵な人で、杏ちゃんの同級生やねん」

「えっ」

「予定日は12月やねん、クリスマスイブ」

「あの」

「エコー写真もろたけど、まだ豆みたいにしか見えへんから、杏ちゃんが豆太郎て勝手に命名してしもてん」

「ちょっと待ってなっちゃん、それってな、それって…俺の子やん…な?」

「ウンそう。うち産もうと思てるねん」

父親譲りの長身やという隼太ちゃんとちびの私とでは30㎝近い身長差があるのやけど、裏の勝手口の三和土に立つ隼太ちゃんとそこの上がり框のとこに立つ私の身長はこの時少し縮んで15㎝程、そんでも私を見下ろす形になってしまう隼太ちゃんはまじまじと私の表情を見下ろして、そんで20秒くらいやろか、酸欠の魚みたいに口をぱくぱくとさせてから一旦深呼吸して

「それは…そんなら、結婚しよ。子どもができたんやんな、なっちゃんは産むつもりなんやな、それやったらちゃんとせな。石塚のおっちゃんとおばちゃんには、俺がちゃんと近い内に頭を下げに行くから、な、そうしよ」

そう言うたのやけれど、言うてくれたのやけれども、私はその言葉の最初の「そんなら」という言い出し方とか「そうせなあかんから」という言い回しがやっぱり、隼太ちゃんのそれやなあと思って首を横に3回振った。

「うち、結婚はしていらん。今隼太ちゃんは、それなら結婚『せなあかん』て言うたやんか、それって、うちが妊娠してその父親が自分なら、みんながちゃんと結婚せえて言うやろってそう思ったからやんな、そしたらそれは隼太ちゃんが今絶対にしたいこととは違うやん。そんならうちは結婚はしてもらわんでもええかなて思うねん。この子はうちと隼太ちゃん、2人の間にできた子どもやけど、産むていうのはうちがひとりで勝手に決めた事や。そんなら隼太ちゃんはみんながどう思うかやなくて、自分が思ってるようにした方がええわ、そうせんと前みたいに、ほら離婚してしもた後に自分は一体何がしたかったんやろて言うて落ち込んでたやろ、あの時みたいに泣いて後悔することになる」

「別にあん時、俺泣いてへんやんけ。いやそうやなくて、なっちゃん、赤んぼ産んで育てるて、健康な…なんちゅうかな健常な?そういう人間をしても金銭的にも体力的にも相当大変なんやぞ、それをそんな身体でひとりで子ども産んで働いて育てるて、いくらなんでも無茶や、それに父親が必要なもんやろ子どもには」

「ミーコおばちゃんは女ひとりで杏ちゃんを育てたやんか、うちでもやれんことないと思う。それにウチには杏ちゃんもおるし、明日、実家の両親にも頭下げてお願いするつもりやねん、今から子どもが生まれてうちの生活が落ち着くまで、しばらくうちの我儘に付き合うてほしいて。そん時に隼太ちゃんの名前は出せへん、今のとここの子の父親が誰かて知ってんのは杏ちゃんだけや」

「それは、赤んぼを杏奈と2人で実家の協力も仰いで未婚のままで育てるてことか?父親の俺は?俺はなんで仲間外れなんや、俺は結婚しよて言うてるやないか、なんもおかしい事ないやろ。大体俺はそういうのが一番嫌やし寂しいねん。両親とじいちゃんと3人もおる兄ちゃんに囲まれて大事にされて育ってきたなっちゃんにはそんなんいっこもわからんかもしらんけど、俺はそういう、おまえはヨソもんや仲間やないねんて言われて世の中からハブられんのが何より一番寂しいねん!」

隼太ちゃんが私に向ってこんなに語気を強めて、怒鳴るようにして言葉を発したのは初めてのことやった。

(あ、このひと、いまうちの前で初めて本当のことを言うた)

私は隼太ちゃんの『寂しい』を聞いた時に昔々、まだこの町に来たばかりで「甥っ子なのよ、よろしくね」と春ちゃんとうちの電気屋に来てくれた日の隼太ちゃんの怯えたような、そして寂しそうな表情を思い出した。あの日、隼太ちゃんは春ちゃんの用事でうちに預けられてお兄ちゃん達の部屋に泊まり、朝帰って行ったけれど、兄達と賑やかに遊びながら、それでも時折ふっとそんな寂しい表情をした。あれはホンマのことを言うのを遠慮して諦めてしもた子の顔やってんやな。

「そんなんはうちにはわからへんよ。せやけど体がどこも悪くない隼太ちゃんには、子どもの頃から遠足もプールも運動会も、あれもアカンこれも無理やて言われて、普通の子ができることでも菜穂にはでけへんねやから無理はせんでええし我慢しなさいて言われて育ってきた私の気持ちはひとつもわからんやろ。そんでもうちは、杖で歩くことから始まって、車の運転とか仕事とか自立とか、そういう普通の人が難なくやれることを人の倍頑張って必死にいっこずつ手に入れてきてんや」

「そんで最後が子どもか?それをひとりで産んで育てんのがゴールか?それやったらそれはなっちゃんのエゴやぞ、子どもはなっちゃんの…なんやそのジコジツゲンていうのんか、そう言うモンの道具と違うのやで、生き物なんや」

「ほんなら堕ろした方がええてこと?でも杏ちゃんは『生まれる前に実のお母ちゃんに捨てられてしまう方が可哀想や』て言うてくれたしうちもそう思う。何より今母親であるうちが産みたいんやから、それはうちが決めて良いことのはずや。うちはやりたいようにやるねん、その代わり責任も自分でとる。ほんなら隼太ちゃんは?今、それが当たり前の常識でみんながそれを望むやろて思うから『結婚しよ』て言うたのやろけど、そんな風に回りがそれを望んでるからて結婚して後でまた『俺は一体何が好きで何がしたかったんか、よう分からんようになったんや』って夜中にビール飲みながら机にアタマ打ち付けることになったら?うちはな、うちがずっと大好きやった人がそんな風に言うて泣いてんのを見るのが何より嫌なんや」

(あ、このひとの前で、うちはいま初めて本当のことを言うた)

「せやから泣いてないし堕ろした方がいいなんて俺は言うてないやろ、俺は、赤んぼを産むのやったらちゃんと結婚しようてごく普通の当たり前のことを言うてるだけや、それやのにどうしてここで話がねじくれてこじれるんや」

「うちごく普通で当たり前の人間やないからや。うちは体のことがあるから結婚も出産も、全部自分には無理なことやろて思てたし、でもその代わりに杏ちゃんがおるし杏ちゃんとずっと一緒に暮そうて10年前にそう決めて今日まで暮らしてきたんやもの。それやったら隼太ちゃんは?隼太ちゃんは今36歳で大人で、弁護士さんて立派な仕事もしてるし一ぺん結婚もしてるけど中身の芯のとこはまるで子どもみたいやわ。お父さんとお母さんが早うに亡くならはったのは可哀想や、うちには親に置いて行かれた子どもの哀しみとか傷は想像できてもきっとホンマのところは分からへん、でもそれやからって一生、置いてかれた子どものまんま、この先も人の顔色ばっかり見て生きていく気なん」

そこまで言い切ったら私は息が切れてしもていた。妊娠してまだほんの10週と数日てとこやのに、ちょっと興奮すると眩暈がするていうか、とても疲れやすくなっている気がした。隼太ちゃんは私がいつになくはっきりと、そして強い口調でモノを言うもんやから驚いたのやと思う、私の上気した顔を見ながら少しぽかんとしていた。私も隼太ちゃんに喧嘩を売るようなものの言い方をしている自分にとても驚いていた。

「なっちゃんてなあ…」

「えっ、何?」

「やっぱり杏奈よりきついな」

隼太ちゃんは「ふう」と静かに息を吐いてから、今日はこれで帰るわと言うて、お店はこの先も開け続けるんかと私に聞いた。それで私が体調が許す限りは働くつもりやて言うたら、ちょっとだけ険しい顔をして、無理だけはせんといてほしいと言うた、子どもがおるなら余計に、身体だけは大事にしてほしいて。

「おばちゃん、俺、宇治金時な」

「おばちゃん、うち、イカ焼きそば」

「えー!順番飛ばさんでや、おばちゃんうちね、うち、ええと、かき氷のイチゴ!」

「大丈夫やで、おばちゃん全部聞いて覚えてるから、できたらちゃんと順番に呼んだるから静かにして待っとき、な?」

嵐のような1週間が過ぎて病院にも行き、コバこと小林先生に改めて「産みます」と伝えると、小林先生は嬉しそうに

「そしたら私が取り上げますからね!」

と言うて私と握手をしてくれた。その笑顔があんまり輝いていて頼もしくて私はそれがとても嬉しかったのやけれど、その5月の空みたいに透き通った晴れやかな感情とは裏腹にむかむかと胃から上がってくるつわりは一層きつくなって、私はまだお腹なんかひとつも出てきていないのに身体がだるくて酷く重いような感覚が特に朝、体にずっしりと憑りつかれるようになっていた。

そんでも夕方お小遣いを握りしめてお店に駆け込んでくる子ども達や、昼食にするからて午前中の開店と同時にテイクアウトの焼きそばを買いに来てくれる近所のおばあちゃんらの姿を見ると自然に笑顔になれるし、身体がしゃんとするのは、ほんまにありがたいことやなと思う。10年間ずっと潰すわけにいかんのやて頑張って続けてきたお店が、今度は私のことを助けてくれてるのやと思うと何か、嬉しい。

隼太ちゃんの来てくれた土曜の晩の翌日の日曜日の昼前、お店の斜め向かい徒歩3分のとこにある実家に行き、ちょっと大事な話があるのやけれどええかなと、両親と、長兄である陸兄ちゃん、その妻の雛ちゃん、それと例によって休みの日になんもすることがないからて言うて実家に来て甥っ子たちと遊んでいた空兄ちゃんに、自分が妊娠していて、そのお腹の子を産むつもりであること、今のところ父親である人とは結婚するつもりがないこと、今後も今まで通り『やきそば おかもと』で杏ちゃんと暮らすつもりであること、そういうことをできるだけ落ち着いて、簡潔に話した。

「これはうちの我儘ていうのか、ほんまに勝手なことなのやけど」

お願いしますとそう言うてリビングの大きなダイニングテーブルにずらりと並んだ実家の家族を目の前に、そして午後からの出勤やからと実家について来た杏ちゃんを隣にして頭を下げると、なんでなんか杏ちゃんも一緒になってぴょこんと頭を下げた。そうしたら両親はそこだけ時間の流れが止まってしもたみたいにしてぴたりと固まり、長兄である陸兄ちゃんは麦茶の入った切子のグラスを掴んで中身を一気飲みしてから

「ちょっ…俺、海に電話してくるわ」

ひと駅先のマンションに暮している真ん中の兄、海兄ちゃんに電話すると言うて立ち上がり、リビングと和室を隔てる柱に足の小指をぶつけて

「いて!何やこれ何でこんなとこに柱があるねやクソが」

もう50年近く前からそこにある柱にキレて文句を言うていた。その怒号の響く中で、ダイニングテーブルの一番端っこの席に座っている一番末の兄である空兄ちゃんはなんも言わんと静かに腕組みして俯いていた。

「なっちゃん、お店のことは大丈夫やで、うちが今以上にバリバリ働いたるから。体の方は大丈夫なん?じきに12週になるてとこならもうつわりかてあるやろ、きつかったらいつでも言うて」

陸兄ちゃんが別室に移っていった後のすこしの沈黙の中、最初に口火を切ったのは、いま10歳と8歳の男の子の母親である兄嫁の雛ちゃんで、雛ちゃんは2人目の子の妊娠中につわりがきつうて水も受け付けへんなってしもて、それで脱水をおこして長いこと入院してたことがあるものやから、つわりはきつないのかて、まずそれを一番に心配してくれた。

「朝、起き抜けから午前中は車酔いした時みたいに気持ち悪いねやけど、雛ちゃんが圭ちゃんを妊娠してた時みたいに何も食べられへん上に水もあかんなんてことないし、働いてる方がなんか身体がシャンとするねん。でもありがとう、妊娠後期になったらきっと雛ちゃんにお店のこと、色々お願いせんならんと思うねやけど」

「そんなん遠慮せんでなんでも言うて、うちとこの子はもう2人とも大きくてもうそんなに手がかかるわけと違うし全然、大丈夫やで」

自分の実家の弟や、私の上の2人の兄である義弟は「どっち向いても男ばっかりや」てリビングに転がってんのを足蹴にしたりして結構雑に扱うのに、私にだけは「うち妹がほしかってんもん」て言うてなにかと優しくしてくれる雛ちゃんとそんな話をしていると、丁度私と向かい合うような形で座っている父が、怒っているような赤い顔色で、そして泣きそうな声で、私ではなくて杏ちゃんにこう言うた。

「あの…それは、あの…誰の子…いやそれより身体や、菜穂の身体で妊娠できても出産するて、そんなんはちょっと菜穂には負担が大きすぎるのと違うか、それはどうなんや杏ちゃん、杏ちゃんはあれやろ腐っても医者やろ」

「別に腐ってへんわ。あんなおじちゃん、そんなんはやってみなわからへんねん、第一うち産科医と違うねんで、脳外科医や。でもできんこととは違う、なっちゃんみたいな人でも妊娠して無事子どもを産みましたてことは最近は結構あることなんやで。まあいざ産むでって時は切ることになるんちゃうかて思うけど。でもそん時はウチがちゃんと立ち会うしな、ウチはなっちゃんの担当医のひとりなのやし、何ならウチが執刀したる」

「杏ちゃんがか?そんなんあかん、杏ちゃんは脳外科医なんやろ、産科医と違うねん。それに切らなあかんて、菜穂は子どもの頃からもう散々体のあちこちを切ってるねやぞ、また腹を切るんか、そんなんこれで人生何回目や。せやったら産むな、誰の子やとかそんなよりもまずお父ちゃんは菜穂の身体が一番や、俺の孫なら息子のお嫁さんらが産んでくれたんが4人もおる、菜穂まで無理して産まんでええ」

私が妊娠できてもそれは一体出産に無事にこぎつけられることなんかと尋ねて、それに答えた杏ちゃんがあんまりに雑ていうのかざっくりなもんやから、よけいに混乱した父が絶対産むなと言いだしたその隣で、こういう席では一番発言力のある母は暫く眉間に皺を寄せて黙っていたのやけれど、ふっと肩で息を吐いてからひとことだけ

「菜穂はもう産むて、そう決めてしもたんやな」

そう聞いて来たので

「うん、そうするて決めた」

私は静かに穏やかに、そう答えた。

「そんならお母さんは何も言わへん。あんたかてもういい大人なのやし、父親はだれやのとか、結婚はせえへんのかとか、お母さんはあんたが言うてくれるまではなんも聞けへん。でももしな、その…菜穂がひとりで赤ちゃんを産んでひとりで育てんねやて言うてるのがな、お母さんはずっと菜穂に足が悪うてもできるだけなんでも1人でできるようにならんとあかんて言い続けてきたやろ、それで今、子どもかてひとりで育てられるわて意地みたいな気持ちになってるのやったら、それはお母さんが菜穂にしっかりしなさいて言いすぎたのやわ。菜穂の相手の人がどんな人かはお母さんは知らんで、そんでもあんたに子どもがでけたて言われて『そんなん知らん』て逃げてしまうような人ではないのやろ」

「そんなんとは違う、むしろそれとは真逆の人やねんけどな、でも、結婚はせえへんつもりやねん」

「そしたらな、菜穂、でけんことはでけんで言うてくれたらええし、無理やてことは無理て言うてくれたらええ。お母さんは小さい頃のあんたがあんまり弱々しくて泣き虫なもんやから、これは何とかして強い子に育てな世の中でやっていかれへんやろて思て育ててきたのやけど、お母さんがしっかりしなさいて言いすぎたのやわ、ここ10年程の菜穂を見てたらほんまにそう思うねん」

ごめんね。

母が少しだけ、3粒ほどの涙をテーブルに落としてそんな風に言うものやから、私はちょっと泣きたくなったて言うのか、鼻の奥がつんとして、何かがじわっとこぼれて来そうになってしもて、実はこの子の父親は隼太ちゃんで、その事実を知った隼太ちゃんはちゃんと私と結婚しよて言うてくれたのやけど、うちはそれはなにか違う、今のこの状況にかみ合わんことのような気がして「結婚なんかしていらん」て言うてしもて、でもこれはこれで凄く不安やねんてあらいざらい白状してしまいたい気持ちになった。

でも、そうはいかんものやからとりあえず天井を見た。そうしたら天井の木目のある筈の私の頭上に陸兄ちゃんと、ひとつ先の駅の近くのマンションで奥さんと子どもらと暮している海兄ちゃんが私の顔を覗き込んでいて「うわ、なに?びっくりした」て変な声が出てしもた。

「えっ、海兄ちゃん久しぶり、ていうかさっき呼ばれてもう来たん、えらい早ない?」

「ママチャリで全速力や。菜穂おまえ結婚もしてへんのに妊娠てどういうことやねん、父親はどこの誰や、そいつにちゃんと責任取らせろ、まさか既婚者か?それとも怖気づいて逃げたんか?そんなら弁護士や、おい空、隼太に電話せえ、あいつ日曜はそこの花屋におるねやろ」

「…いや、俺は今のこの場に隼太はよう呼ばんで」

空兄ちゃんが難しい顔でそう言うて、そんで杏ちゃんが私の隣でひひひて笑いだしたもんで、私は杏ちゃんの足をテーブルの下で踏んづけた。

「あ、いて」

杏ちゃんが小声でそう言うと、今度は空兄ちゃんが皆にわからんようにそっと手で口を隠して噴き出したので、私が隼太ちゃんを想ってきた長さとおんなじ時間だけ、隼太ちゃんの一番の友達として付き合うてきた空兄ちゃんはきっと全部知っているんやて思った、知ってて黙ってくれているのやわて。そして両親が難しい顔をして黙り込んでしまい、そこに久しぶりに兄3人が揃い、私の妊娠についての話が紛糾してきそうな空気の中、空兄ちゃんは突然ポンと手を叩いてこれから子どもらと出かけてくると言い出した。

「ウン、ほんなら今日は菜穂は実家で寝とけ、妊娠てお腹の目立たへん時期も身体は相当しんどいもんなんやろ。それに父ちゃんと母ちゃんとあとこの場合は雛ちゃんか、みんなと詰めなあかん話もようさんあるやろし、杏奈は午後から病院やろ、陸兄ちゃんは店があるやろし、海兄ぃ、今日エリカちゃんは?」

エリカちゃんて言うのは、海兄ちゃんの奥さんで、同時に杏ちゃんと同じ病院のICUに勤めている看護師さん、背が高くて面差しがちょっと杏ちゃんに似ている理知的で穏やかな人なのやけれど、杏ちゃんが言うには「あのエリカ姐さんと結婚して、そんで幸せ感じて日々を笑顔で暮らしてる海兄ぃは真性のドМや」ていうことらしい。私には雛ちゃん同様優しいお義姉さんなのやけど。海兄ちゃんは今は療育園に勤めている理学療法士で、大学を卒業してすぐの頃は今杏ちゃんとエリカちゃんの勤めている大学病院のリハビリ科で働いていた。そこでICUの主任看護師として患者さんの状態に目を光らしているエリカちゃんにそれこそもう周囲が見えへんなるほど、うっかり各種医療機器に体当たりしてアホか弁償せえてどやされるほどの一目惚れをして、何年もかけてどうか俺と結婚してくださいて、最後は職員通用口で土下座までして頼み込み、とりあえず付き合おうてなった後は毎日好きや愛してるて言い続け最終的にはエリカちゃんの方が根負けして海兄ちゃんの粘り勝ちで結婚した。今は甥っ子がここにも2人おってそれぞれ8歳と5歳、時々うちの店にも遊びてきくれるけれど、その時はエリカさんを先頭にして子どもらを抱えた海兄ちゃんがいそいそと付いてくる。

「今日は夜勤やから家におる」

「えっ兄ちゃんそれやのに子ども2人置いて自分だけ実家に来たてしもたんか、今ひとりで帰ってみ、エリカちゃんにあんたどこ行ってたんやて言われて、殺されるで」

「いやだって、陸兄ぃが突然『一大事や!』て電話してくるもんやからな…」

「そんなら今から、海兄ぃの家に行ってチビ2人連れ出してファミレスにでも連れてったろうや、そしたらエリカちゃんも出勤まで1人でゆっくり寝とけるし。雛ちゃん、律と圭も連れてってええやろ?今日は俺らが子どもらと遊んどくわ。あいつらに今年中にもう1人イトコが増えるのやでて教えたろ、きっと喜ぶわ」

空兄ちゃんは陸兄ちゃんに、車貸してくれと言うて椅子から立ち上がり、そしたら車のキー持ってくるわて陸兄ちゃんは部屋を出て行った。雛ちゃんもそれやったら子ども達に支度をさせてくるわて2階に上がって行き、そうしたら少し落ち込んだような、哀しいようなそれでいて嬉しいようなやや複雑な表情をしていた母も

「杏ちゃん、午後から仕事なんやったらちょっと早いけどお昼食べ行き、お素麺でええ?」

「うん、揚げたおナスと大根おろし入れてくれたら食べる」

「杏ちゃん、おナス好きやもんな」

そう言って台所に立ち、杏ちゃんも母について行った。そうしてリビングにいた人間が皆それぞれの用事に出て行ってしもてから、空兄ちゃんが私のことを小さく手招きして、自宅から電気屋の店舗へと続く廊下の扉の前、半畳ほどの小部屋みたいな隙間に私を呼んだ。それは昔かくれんぼする時によく使ていた場所で、家の中では一番人目に付きにくい所や、そこで空兄ちゃんはなにやらえらく改まった顔で今から兄ちゃんの言う事をよう聞いとけて前置きしてから、私にこう言った。

「菜穂、俺はお前の気持ちもわからんではないのやけどな、ほんでも俺は結婚もせんと子どもを産むてのは反対や、というかホンマのとこは産むこと自体に反対や。お前は普通の健康で健常な人間とはちょっと違うねん、それがどんなに理不尽なことでもそれはしゃあないやんけ、そういう風に生まれてしもたのやから。俺にとってはまだ見たことない未知の赤んぼよりも、目の前の妹の方が大事や。そんでももし産むて出産を強行してやな、そんでそのお産でお前がうっかり死んだりしてみ、ほしたらその子はどうすんねや、赤んぼはとりあえず産まれたらええてもんでもないやろ。生まれましたお母ちゃんはいませんお父ちゃんは法律的には赤の他人ですてなるのやぞ。それは俺ら実家の人間はおるで、杏奈も自分が育てたるて言うやろ、せやけど全員ホンマの親とは違うねん、そういう環境で育つてのがどんなもんなんかは、それは…あれや、隼太に聞け、厳しいもんやぞ、しらんけど」

「それは分かってる。分かってるからお産でうっかり死んだりせえへんように気を付けるし」

「分かってへん、大体おまえは隼太の何があかんねや、バツイチやけど独身で背も高いしシュッとしてるし、何よりもええやつやで、相当にヘタレやけど。でもホンマにええやつなんや、アイツが周囲の人間の考えを優先してしまうんは癖や、それはええとこでもあるやろ、菜穂の今やってることは強情を通りこしてただのへそ曲がりやぞ、生まれてくる子のことを一番に考えたれ」

「それも分かってる、せやけどな」

ほんのりと電気屋の店舗の照明の漏れてくる廊下で、やっぱり全部を知っていて分かっていた空兄ちゃんは、私のことを怒ったような顔で諭した。空兄ちゃんは私と一番年が近くて、そんで顔もよう似てるし性格やとか考え方も似てる、せやから私の考えていることが何となく分かっているのやと思う、そして隼太ちゃんの長年の友人として、隼太ちゃんの考えていることも。

「めんどくさいなお前らは」

そう言う空兄ちゃんが私の事を軽く小突いた時、丁度

「オーイ空、車、裏に回しとくぞ」

「ん-、ありがとー行くわー」

陸兄ちゃんの声が奥から聞こえて、私と空兄ちゃんのこの話はそこでおしまいになったのやけれど、空兄ちゃんは話の最後に

「あいつ、ヒトの妹に手ェだしやがってよ、ホンマやったらこんなん絶交やで、あのアホ」

私に聞こえるか聞こえへんかのほんの小声でつぶやいてから2階から競争するみたいにして駆け下りてきた甥っ子の、下の子をおんぶして、上の子を腰にくっつけてそのまま出かけて行った。空兄ちゃんは、妹の私と親友である隼太ちゃんが今こんな少しややこしい関係になっても友達をやめたりはせんのやと、私はそれに少し安心した。隼太ちゃんは人一倍寂しがり屋やし、大人になると友達って減りはするけどそう増えてはいかへんものやし、せやからこれで空兄ちゃんと隼太ちゃんが険悪になってしまったら嫌やなて、妊娠が分かった時に、それをまず最初に思っていたものやから。

「菜穂は大人しい見えるけど、そんで普段はあんまり我を通すてことはないのやけど、その分一度言い出したらテコでも動かん、ほんまに困ったもんや」

父がそう言うて、私の妊娠と出産をしぶしぶ受け入れてくれた7月、周囲が心配していた私の体調もそれほど悪化せず、つわりで常に口の中が

「なんか味の素をかみしめた時みたいな味せえへん?」

と言うたら、私の周りの経産婦が、母と雛ちゃんとエリカちゃん、それから杏ちゃんの友達として親しくなった産科の小林先生が口をそろえて

「あーわかる」

と言うてくれた口腔の違和感のようなものは常にあって世界のすべてが不味く感じられるものの、私は雛ちゃんと、時折母の助けも借りて何とか店を開け続ていた。でもこれは安先生から言わせると

「君みたいな先天疾患ていうのか障害のある子で、普通の…まあ健康な人間が基準になってる世界で生きてる人っていうのはな、痛みやとかしんどさの閾値が普通と比べてちょっとおかしいのやわ、せやからなっちゃん、そのへんは意識して無理せんように気を付けな」

ということで、それは一体どういうことですかと私が聞いたら

「我慢強すぎるてことや、君みたいな子は我慢が癖になってるのや」

そう言うてくれたのやけど、私にはそれがちょっとピンとこなくて、それよりも、赤ちゃんが自分の人生にやってくるのやから、もっと頑張ろう、もっともっとしっかりせなて、そればかりを思っていた。隼太ちゃんはあの土曜日の晩から、時々差し入れを持ってくるみたいにして、果物やとかお菓子とかそういう小さなお土産を持ってきてくれてはいたけれど、家に上がっていく事はもうしなくなっていた。そしてもうすぐ七夕やて頃の晩に

「なっちゃんが俺と結婚したないていう気持ちはようわかった。せやけど、認知と養育費については、これはなっちゃんの気持ちとは関係のない、お腹にいる子どもの権利なのやから、それは生まれる前にちゃんと話をしとこう」

そう言うて、自分の勤めている法律事務所の封筒に入った何枚かの書類を直接渡しに来てくれた。それはお腹の子の認知やとか養育費の取り決めについてのことで、そこにそれまで私と隼太ちゃんの間にあった親密で優しい空気はどこにもなく、ただの現実だけが整然と何枚かの白い紙の上に羅列してあった。

「じゃあこれ」

封筒の中身を簡単に説明した後にそれを手渡して帰って行った隼太ちゃんからは、少し前までもう癖みたいになっていた私の頬をそっと撫でる仕草やとかすぐに私の顔を覗き込んで来る時の優しい表情やとか、そんなモンはもともとなかったことのように消え去ってしまっているように見えた。でもそれは仕方のないことや、私は自分の妊娠を告げたあの夜、隼太ちゃんにけっこう酷いことを言うたし、実際隼太ちゃんは私のことを「杏奈よりきつい」て言うていたのやし。

でも別に杏ちゃんはきつい子とは違うと思うけど、杏ちゃんは隼太ちゃんと同じで、人よりうんとアタマがええとか背が高くて滅法足が速いとか色々と能力の高い分、引き算みたいにして欠けたとこがいくつかあるだけや、いびつなんや。それやからこそ私は2人をとても好きなのやけれど。

杏ちゃんはその日も当直で病院に泊まりで、自分ひとりしかおらん食卓で簡単な夕飯を終えた後、隼太ちゃんの持って来たその書類の中をもう一度読んでみようと思って取り出してみると、隼太ちゃんが甲、私が乙という別の名前で書かれた文書の中に提示されている養育費、それが結構な金額やったもので、驚いた私はその数字を3回数え直してからその場でスマホを手に取り、隼太ちゃんに電話をした、深呼吸をしてから。

「もしもしごめんな、今ちょっといい?あのな、この…毎月の養育費の提示金額?これ何?うち別に3つ子を産むんとは違うのやで、こんな額支払ってたら隼太ちゃんが干上がってしまうわ、弁護士て言うほど儲からへん仕事やねんて前に自分で言うてたやんか、その上、隼太ちゃんにはこの先ずっと面倒みてあげなあかん春ちゃんかておるのやし、うちこんなに払っていらんで」

そう言うたら、隼太ちゃんは電話口でやけれど、久しぶりに私の前で楽しそうな声を出して笑った。

「なっちゃんて面白いなあ、俺、普段は倒産専門で離婚訴訟なんかは1年に1ぺんくらいしか扱わへんけど、慰謝料やら養育費を受け取る方の人から『こんなにいらん、減額せえ』て言われんの初めてやわ。ええねん貰といてや、なっちゃんが普段の定期健診とは別に毎月行ってる産科の検診かてタダとは違うのやろ。このテのことの誠意っていうのはな、いざ法律が絡むと結局『0』の数でしか表現できへんねや、それに俺もう春ちゃんの老後はあんまり見てあげられそうにないし」

「えっ、春ちゃんどっか悪いの?大丈夫?」

「いや違うねん、お店畳んで、引っ越すんやて」


それは、春ちゃんが昔大阪のミナミで働いていた友達と相談して決めたことなのらしい。春ちゃんはもともと男の人として生まれたのやけれど、その中身というか内面は女の子やてそういう人で、これは春ちゃんが5月の終わりの暑い日、うちのお店に「なっちゃん宇治金時ってもうやってる?」て寄ってくれた時

「あの時代はね、アタシみたいのは総じてまとめて『オカマ』って呼ばれて、働くとこは殆ど水商売しかなくてね、嫌な時代だったのよう」

なんて昔話をしてくれたのやけれど、そのゲイバーとかショーパブとかそういう場所で働いていた時代に親しくなった何人かの仲間が今、家族を持たないまま年を取り、それぞれのお商売やお店を畳んで、さあいざ終の棲家を探そうとなった時に

「あたし達、男でも女でもないから、そういうグループホームとか、ケアハウスとか?そういう場所に、お宅様みたいなのはちょっと困りますって言われるのよねえ…」

そう話していたのを聞いてはいた。だから春ちゃんみたいな人達は終の住処になる施設を探すのが難しいのやと。でも私は、春ちゃんには隼太ちゃんがおるのやし、このままこの町で暮らして年を取って、そしてここに骨を埋めるのやろと思っていた、でもそれが

『お店を畳んで、それで昔の仲間と一緒に支え合って暮らそうって、そういうことになったの』

そういうことを、私が隼太ちゃんから電話をした翌日に、可愛いミニバラをたくさん仕入れて、それを私にひと鉢あげるからいらっしゃいて呼ばれて出かけた閉店前の花屋で、春ちゃん本人から聞いた。

春ちゃんは私がまだ3歳か4歳の頃、ここで花屋をやりますて越してきた時には極彩色の賑やかな柄のワンピースのよう似合う元気なおばちゃんとお姉さんの間くらいの人やったけれど、私が32歳の妊婦になった今は年をとって脂肪の落ちた身体は昔より一回り小さくなり、おちついた菫色やスモーキーピンクのエプロンのよう似合う綺麗なおばあちゃんになっていた。

「みんなとお別れするのは寂しいけど、ここで身動き取れなくなるほど年取る前にと思ってね、だってここで要介護老人になっちゃったら、隼太の人生の邪魔になっちゃうじゃない?」

いくつもつぼみのついた素焼きのミニバラの鉢に霧吹きで水をあげながら伏し目がちに話す春ちゃんは、大事に育ててきた息子のような存在である隼太ちゃんの邪魔になりたくないのやと言うたけれど、でもそれは

「隼太ちゃんはあかんて言わへんかったの?あんなに1人でいるのが嫌いな人やのに」

隼太ちゃんが嫌がったのではないのかと私は聞いた。そうしたら春ちゃんは

「そりゃあね、でももういいかげんにあたしから離れなさいって怒鳴りつけてやったの、隼太はもう立派な大人なんだから、親代わりだった人間の顔色なんか伺わなくていいのよって。あのねえなっちゃん、あたしはあの子が大好きで大切で自分はあの子の母親と父親の両方になってあげるんだって思って一生懸命育ててきたつもりだったけど、でもきっとその考えは、ちょっと間違いだったのね」

とても意外なことを言うて私の顔を見て、そして少し寂しそうに微笑んだ、自分が間違っていたのやと。

「そんなことないと思う、昔、春ちゃんと隼太ちゃんがうちの実家に1人暮らし用の家電を買いに来てくれたことがあるやろ、隼太ちゃんが19で、うちが高1になる年のことよ、そん時に春ちゃんと隼太ちゃんがアイロンがいるいらんで喧嘩して、そんでその後に自分は寂しいのやて春ちゃんがわんわん泣いて、隼太ちゃんが苦笑いしてたのうちよく覚えてるもの、うち春ちゃんのことを隼太ちゃんのほんまのお母さんみたいやわて思ったんやで」

「ヤダ、そんな昔のことなっちゃんよく覚えてんのねえ。でもね、それがダメだったのよ。あたしが母親として気遣ってあげようって、父親みたいにうんと愛情をかけてあげようって努力すればするほど、あの子は『こんなに良くしてもらってるのやから』ってあたしに気を遣うようになるの、いつもあたしがどう思うか困らせてないかってどこかで気にするようになっちゃったのよ、あたしにはそれがわかるの。それだからこの前の結婚もうまくいかなかったのよ。だからね、もうここでもう親子ごっこみたいなものはおしまいにしてあげないと。あの子の再婚とか、あの子の子どもとか?そういうのをここで見届けたかったけど、でもあたしももう70になるんだもの、待ってる間にボケてその辺徘徊しはじめちゃうわよ」

そう言うてから、このバラ、あとひとつ石塚のお家にも持って行きなさいなて言うてお花の鉢の並んだ床に屈んだ春ちゃんの背中が、昔よりひと回りもふた回りも小さくなっていたのを見た時、うちがここで

『実はうちのお腹には隼太ちゃんの子がおるんよ春ちゃん』

て言うたら、春ちゃんはものすごく喜んでくれるのやろうな、もしかしたらこの商店街にやっぱり残るて言うてくれるかもしらんと思ったのやけれど、それは今言うこととは違うのやて思ってその言葉をぐっと喉の奥に押し込んだ。

(ああ世界ってなんでそれぞれに上手くかみ合って行けへんのやろ)

そう思って、私は思ったほどにはせり出しては来ないまま、それでもその中で豆太郎が順調に育ってもうすぐ17週目になる自分のお腹をそっと押さえてお店の外を見た。

花屋の外の通りにはいろいろな、おじいちゃんやとか、おばあちゃんやとか、それから若い人も、仕事帰りのお母さんに連れられた子どもも、いろんな人が歩いていた。この人らはそれぞれに家に帰れば待っているひとがあるのやろか、そしてこの風景を眺めながら隼太ちゃんはこの先ひとりでここで暮らすのやろか。

そうしたらその通りの向こうを、私のよく知っている背の高い男の人がゆっくりと歩いて来て、それで花屋のガラス戸の中にいる私の姿に気が付くと、ちょっと驚いたような、それで中に入るのをためらうような顔をしてから、それでも花屋の中にただいまて言うて入ってきた。

「隼太、あんた今日早いのね、どうしたの、事務所クビになったの?」

「何でクビにならなあかんねん、俺今日は裁判所から直帰するて言うてたやんか」

「そうだっけ?今ね、なっちゃんにミニバラ取りにいらっしゃいって言って来てもらったの、あたしからの形見分けよ」

「そんなんが?なんかもっとええもんあげたらええのに、ダイヤの指輪とか」

「そんなモンないわよ」

春ちゃんはそう言うて隼太ちゃんのお尻を軽くたたいてから、なっちゃんに鉢植え2つも持たせらんないからお家まで送ってあげなさいよて言うて、私と隼太ちゃんを夕暮れの中、足早に買い物を済ませる人が水のようにして流れる商店街の外に送り出してくれた。私はすぐそこなのやしええよて言うたのやけれど、隼太ちゃんは「素焼きの鉢植え2つはなっちゃんには重たいやろ」て譲らんかった。

隼太ちゃんと夕暮れ時の商店街を2人で歩くていうのは、子どもの頃から何度もあったことやけれど、そん時は隼太ちゃんにとって私は友達の妹やし、私にとって隼太ちゃんは末の兄の友達で、それ以上のことは何もなかった。それやのに今私と隼太ちゃんは私のお腹の子どもの母親で父親なんやと思うととても不思議な気持ちになる、人生て何が起きるかわからんもんやなて。

そう思って花屋のすぐ横の古い洋品店のショーウインドウに映る私と隼太ちゃんの姿をちらりと見たら、背丈がひどく小さい上にちょっと丸い体つきをしている私は、それが昔からコンプレックスやったのやけれど、こうして長身の隼太ちゃんと並ぶとそれがまた余計際立つていうか、着ぐるみが歩いているてそんな感じで、急に昔、隼太ちゃんが同級生の子とつき合うてるて聞いただけでふた晩ずっと泣いていた中学生の頃の気持ちになり、自分のことが恥ずかしくなった。それで自分のつま先を見るようにして俯いたら隼太ちゃんが少し屈んで

「しんどいか?」

と聞いて来たので、うちはそうやないねんと言うて笑った。

「そこにうちと隼太ちゃんが映るやろ、そしたらあんまりうちが丸っこくて小さいもんでちょっと不細工やなて思って、そんなこと今更思てる自分が可笑しくなってしもたんやわ。うちはホラ、足が悪くて、体のあちこちは傷だらけやし、杏ちゃんみたいにキレイやないし、それにうちとこのお兄ちゃんらみたいに賢くもないし、せやからなひとつくらいは人並みにできるようにならなんて意地になってる部分が子どもの頃からあったのやけど、きっと今もそれがあるのやろね、それでお母さんにこの前ちょっと泣かれたわ『お母さんが菜穂にしっかりしなさいて言いすぎたのやわ』って、そんなんと違うのに。これはうちの元々の性格やねん、隼太ちゃんの言う通り見た目に反してえらい気がきついねん、この前も隼太ちゃんにきついこと言うたよね、ごめんね」

そう言うたら、隼太ちゃんは鉢植えの入ったビニール袋を両手に提げていたのを、左に全部持ち替えてからショーウィンドウに目をやっていた私の背中を軽く支えるようにして、大真面目な顔でこんなことを言うた。

「でも、そうやないとそう何べんも手術や検査やて、そんなんやってられへんやろ。俺が記憶してるだけでもこれまでで10回はそういうのあったはずや、あんなん気ィきつくないと乗り越えられることと違うやろ、あとなあなっちゃん」

「うん、なに」

「不細工な女の子言うもんはこの世に1人もおらん、みんなそれぞれに可愛らしいモンや、俺から見たなっちゃんはものすごく可愛い」

「隼太ちゃんいきなり何言うてんの?うちが女の子って、うちもう32やで?今やお店に来てくれる子どもら全員に『おばちゃん』て言われてんのに」

「…て、俺の死んだお父さんが言うてたんや、せやから女の子に不細工とか言うたらあかんねやて、それから自分ではどないもしようのない事で人をからかうなんて一番あかんことやとも言うてたな」

「やさしいお父さんやな」

「うん、優しい人で、優しすぎて世の中の流れにうまく乗れんまま、ウソみたいな事故であっさり死んでしもた。俺が9歳の時や、哀しかったわ。そん時は春ちゃんの存在もよう知らんかったし、お母さんはそれの1年前に死んでしもてて、これで自分はひとりになってしもたんやて、俺はじめて会ったじいさんの家のある三重のな、ホラじきに春ちゃんが引っ越すて場所や、そこのすぐ近くにある川に飛び込んで死んだろて思ったもんなあ、それやから迎えに来てくれた春ちゃんの手に必死にすがったんや、春ちゃんがええ人でほんまによかったわ」

「そんなら今、春ちゃんが遠くに行くのは、やっぱり寂しい?」

「まあなあ、家族が目に見えるところにひとりもおらんて、俺にはそれが世界から疎外されて自分の全部を否定されてるような気持ちがするのやわ、足元も頭の上も、全部が真っ暗な宇宙に放り出されてしもたような感じがするていうのかな、あの時のあの感覚は俺に一生付きまとうのやろな、これはほんまになんちゅうかなあ…」

「つらい?」

「うん、俺はもうええ年やけど、こればっかりは子どもみたいにつらい」

嘘偽りないホンマの気持ちを吐露する隼太ちゃんを前に、あの5月の晩、あれだけのことを隼太ちゃんに言うた私は、7月のこの日の夕暮れ、どこかの家の夕餉のカレーの香りのする商店街の優しい空気の中で子どもの頃みたいな気持ちになって、昔々、初めて隼太ちゃんに会った日、確か私が小学校1年生のやった時に最初に淳太ちゃんに言うた言葉を突然思い出して、それをそのまま口に出していた。

「それやったら、もうずっとうちにおったらええわ」

「は?」

「えっ、いや、違うねん、昔な、隼太ちゃんがうちとこの実家に預けられた日があったやろ、春ちゃんの用事で、そん時のこと思い出して、そんでな…」

そうやあの時、春ちゃんが隼太ちゃんをうちに連れて来たのは、知り合いのお店のパーティーの装花を頼まれたて、それが夜通しの作業になるからてうちに隼太ちゃんを預けにきたからで、そん時私は隼太ちゃんがお父さんもお母さんも死んでしもておらん子やて聞いて、その上叔父さんにあたる春ちゃんもその日ひと晩だけやけれどおらんて、それがすごく可哀想やな寂しいやろなて思ってつい、そんなことを言うたのや「隼太ちゃん、それやったら、もうずっとうちにおったらええわ」て。

隼太ちゃんはあの時、私になんて言葉を返したのやったっけ。それを考えながら隼太ちゃんが驚いて止まってしもている顔を眺めていたら、隼太ちゃんは私にちょっとうわずったような声で、こう言うた。

「ほしたらそうしようかな。てあの時言うたな俺、それって今も有効か、なっちゃん」

「へ?」

「この前の5月な、子どもがでけたなら結婚しよて言うたけど、あれ撤回するわ。俺が寂しいから結婚してくれ、なっちゃんが法律上の結婚が嫌やて、あかんて言うねやったら事実婚でかまへん、杏奈ももれなくついて来るのでええ。俺はなっちゃんのことが一番好きやぞ、というかある意味世界で一番頼りにしてんねや、そんで俺は今ひとりになるのがほんまに滅法気が狂うくらい何より怖い、頼む、結婚してくれ、ひとりになんてようならん」

「…うん」

隼太ちゃんがあまりにも捨て身で、正直すぎて、それでつい同意するような返事をしてしもた場所が丁度自分の実家の前やったもので、隼太ちゃんは

「その『うん』は合意てことでええかなっちゃん、おし、おじちゃんおばちゃん隼太です、俺なっちゃんと結婚します、俺がなっちゃんのお腹の子の父親です!」

腹式呼吸の大声で叫びながら店の扉を開けて、そのまま結婚に王手をかけてしまった。焦った私はなんやそれて言うて隼太ちゃん脇腹をつねったのやけれど、隼太ちゃんはその私の手をしっかり掴むと

「人間て土俵際まで追い詰められへんと、ほんまのことが分からんもんやねんなあ」

と言うて、そして今のは合意や有効やて言うて絶対譲らんかったし、掴んだ手も放してくれへんかった。多分この時の隼太ちゃんは両親が生きていて、隼太ちゃんにはものすごく優しかったて、いっこも怒ることがなかったて言うお父さんとお母さんに甘えていた子どもの頃の顔をしていたのやと思う。隼太ちゃんは奥から驚いて飛び出してきた両親にどういうことやて問い詰められ、それからお店にいた陸兄ちゃんから結構本気の蹴りを入れられていたけれど、これまであんまり見たことの無い、とても晴れ晴れとした顔をしていた。

こういう結婚かてあるのや、多分。

そうして、冬、私は流石に身体がもたへんからということで37週に入ってすぐ、予定日より少し早めにお産をすることになるのやけれど、それまでがちょっと大変やった。だって私と隼太ちゃんの結婚について杏ちゃんが

「隼太なんかいらん、だいたいうちが先になっちゃんと一緒の暮らしてたのやで、それがただ単に赤んぼの生物学的父親やからて、これからはなっちゃんは全部俺のもんやてそれはおかしいやろ、バーカ!」

そう言うて断固反対やて譲らなかったのや、でもこれは結局隼太ちゃんが

「お前はこのままあの家の2階にいといたらええやろ、別に出て行けなんか言うてへんやんけ、とにかく入籍はさせてもらうぞ、入籍前に子どもが生まれてもうたら色々ややこしいやろ」

と言うて杏ちゃんはそのまま『やきそば おかもと』の店舗の2階に住み続けることにせえと言い、そんで私はひとまず隼太ちゃんと花屋の店舗やった家で暮すのやけれども、でもこれまで通り『やきそば おかもと』は続けるし、そうすると私は昼間ほとんどの時間を『やきそば おかもと』で過ごすもんやから、私には家がふたつあるて、そういうことになった。それを聞いた安先生はなんやそれはて呆れて笑っていたけれど、コバこと小林先生は

「子どもが生まれてその後も仕事を続けるのやったら、そこに関わる大人は1人でも多い方がええわ、吉本でも猫の手よりは使えるやろ、それに子どもの居場所が2つあるていうのは私からしたら羨ましいことやけどな、絶対助かるてなっちゃん」

そう言うて別に傍目にはやや不思議な形になった私の結婚を「ええやんか」ととても肯定的に祝ってくれた。そして私と杏ちゃんのうちが飲食店やと知ったコバは『やきそば おかもと』によく遊びにくるようになった。その時いつも連れてくる3歳の娘さんはコバによう似た賢い美人ちゃんで、将来は「医者にだけはならへん」と言うていた、それはママが忙しすぎるからや、お化粧もろくにしてへんしお洒落もできてないやろて。それを聞いてママであるコバは

「女の子はまあよう喋るし3つでも立派に女や、ほんまに生意気やねん、なっちゃんも今から覚悟した方がいいで」

て言うて笑っていた。お腹の子は豆太郎やなくて、豆子やていうのは8月にわかったことで、これには隼太ちゃんよりも杏ちゃんよりも雛ちゃんが喜んでしもて、うちの実家には豆子が生まれる前からベビーピンクとかパウダーブルーの可愛いらしいベビー服がどんどん積まれていくようになる。

そうして、いよいよ私が子どもを産むてなったその日、それは当初の予定通り帝王切開やったのやけれど、脳外科のチームのひとりとして手術室に入った杏ちゃんは、執刀医であるコバがうちの身体から無事に赤ちゃんを取り上げてくれて、その子の無事を、呼吸とか頭蓋骨とか手指の数、体の色々を検分して確認した後

「なっちゃん、うち隼太に無事に生まれたでて、伝えてくるな」

そう言うて手術室の外に飛び出すようにして出て行き、手術室のガラスの自動扉の前で、いてもたってもいられへんて、ずっと立ったまま待っていた隼太ちゃんに

「生まれたで、元気な女の子や、あんたがお父ちゃんやて、ほんまに憎たらしいなバーカ!」

笑いながらそう言うたらしい、なんちゅう医者やろ、ほんでも隼太ちゃんも隼太ちゃんで

「元気なんやな、なっちゃんも無事なんやな、おい、俺が実の父なんやからな、おまえは法律上では完全なる他人なんやからな、わかってんのか杏奈のアホ」

そう言うて、その場で口喧嘩をしていたらしい。2人を止めに入った安先生が後からそんなことになってたぞと私に教えてくれて、そのついでにこんなことを言うて笑った。

「あれは実のとこ基本がよう似た2人やな、肩書は大層やし見た目も立派な大人やけれど芯のとこが完全に子どもや、あんなんがそれぞれの家に1人ずつおんのか、なっちゃんも大変やな」

でも、その透明のガラス扉の前で、赤ん坊の明るい声の響く空間の中で、2人は幼くて何も力が無いが故にこれまで何度も手元からなすすべなく無くしてきた家族とそれに似たもんをもう一度取り戻した。赤ん坊が生まれて今そこにあることが、そういうことなのやと分かった時、体中の細胞がひとつひとつ泡立つようにして目の前に赤ん坊が無事に生まれてくれた事実を途轍もなく幸せな事やと思ったと、後から杏ちゃんが私にそう言うてくれたし、隼太ちゃんも似たようなことを言うていた。俺には今ちゃんと家族があるのやなて、当たり前のことが当たり前に与えられていることを途方もなく幸せやと思ったんやと。

その子には12月の寒い日に生まれた子ではあるのやけれど、その分、春に向って育っていく子やからて、そう思って『春香』と名前をつけた。


昔々、隼太ちゃんが両親を亡くしてしもた辛い春が、杏ちゃんがミーコおばちゃんを亡くした哀しい春が、それを愁う季節ではなくなるようにと思って、私が名付けた。



おわり。

長いお話にお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。書き始めた最初は10歳にもならなかった子ども達を幸福にできて本当によかったなあと思います。


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