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それは、豆腐でできている。

うちの3歳の娘は、生まれて1歳6ヶ月になる迄。病気がきっかけで口からご飯を食べる事が出来なかった。

1度目の手術を終えるまでは口からミルクを飲む事さえ負担になるからと言われて、経鼻栄養と言って鼻から細いチューブを直接胃に入れて、そこから胃にミルクを流し込んでいた。

この子の前に2人産んで育てているんだから、1人目の時より2人目の時より、手が育児を覚えていて少しは楽に育児が出来るだろう、2番目の娘から6年ぶりに産んだ赤ちゃんが家にいる生活を楽しみにしていたのに、目の前にいる新生児は看護師さんの補助がないと抱き上げる事も出来ないし、鼻から決まった時間に機械的に搾乳した母乳かミルクを与えられているその姿は可哀相とか辛いとか、勿論そんな事も感じた気がするけれど、鼻から何かを摂取しているその状態から突然思い起こされるアレ

「鼻から牛乳」

私の悲壮感の前に立ちはだかる懐かしのフレーズが哀しみみたいなものを妙に阻害していた。というより目の前の現象に思考がついて行っていなかった。そのまま4ヶ月、間に小児病棟へのお引越しや1度目の手術挟んでやっと帰宅した娘は家に帰ってもそのまま1歳半までずっと鼻から牛乳人間だった。

その鼻から牛乳、もとい経鼻栄養の娘にはちゃんとリハビリの先生がついた。眼鏡をかけた理知的な優しい2児のお母さん。先生は離乳期に入っていた娘には、今から哺乳瓶の練習をさせるよりも

「色々試して娘ちゃんが好きな味を見つけてあげましょう、時間はかかると思いますが、頑張りましょう」

実は沢山用意していた哺乳瓶を諦めて、毎日これなら食べるだろうかと思えるものを、豆皿に沢山用意してひとつひとつ試した。ニンジンの裏ごし、卵豆腐、ペーストにしたホウレン草、カボチャのスープ、ほんの少し砂糖を入れて片栗粉でとろみをつけた牛乳。

当たり前のように全部食べなかった。全戦全敗。

いい加減何やったら食べるんやワレ。

これが甲子園で阪神巨人戦ならタダでは済まないこの負け方に、この子はこのまま一体どうなってしまうんだろうと追い詰められて何を口元に持って行っても絶対に口を開けない子の口の隙間から食べ物を無理やり突っ込むような真似をした事もある。

ごめん娘。

だから、食べるならもうなんでもええわと思って、1歳を前にプリンもアイスクリームもチョコレートも子どもが3つになるまで食べさせたくないオールスターズを全部解禁した。先生は沢山は駄目だけれど、小さな子は甘い味を好むからと言ったから。

お陰でこの娘は親が成人してから初めて食べたハーゲンダッツを1歳になる前に口にしている。でもそれも当然のごとく全く食べてくれなかった。そしてお余りを貰うこの子の兄と姉は超絶嬉しそうだった。

「次はいつアイスあげるの?」

そう言って普段は滅多に買ってもらえないお高いアイスクリームのおこぼれを喜び、そして毎回のこの子の食事に張り付くようになった。特に当時年長だったこの子の姉なんか、何が嬉しいのか食卓に肘をついてぴょんぴょん飛び跳ねながら妹のご飯を見学するので、食卓の上でお皿が踊って毎回大変だった。

兄と姉、2人のハイエナに付け狙われながらの『食べる訓練』は、生後4ヶ月から1歳半になるまで続いて、その間この子の体を作る為の主な栄養は、普通の粉ミルクだった。

特にアレルギーや健康上の問題のない元気な子なら、一般に生後6ヶ月前後に始まって1歳半頃までに完了するらしい離乳食、この子はその間もずっと明治の『ほほえみ』だけで生きていた。それでじゃあさぞ小さくてか細い体をしていただろうと思いきや、そんな事は全然無くて普通の大きさの赤ちゃんだった。当時の映像を確認すると娘の顔はムチムチだ、横綱級のドスコイ。

人体の不思議。ありがとう明治の人達。



そんな娘が最初に食べてくれるようになったものは、お豆腐だった。

飲み込んだり咀嚼したり『食べる』事が人より苦手だったり事情があって遅れがあったりする子は、少しとろみのある状態にして食べ物を用意してあげるのが良い、そもそも飲み込みが下手なのだからうっかり気管に入る事があってそれはとても危ないからと言われて、出汁にとろみをかけたものの中に沈めた絹豆腐。

と言っても、それは全然大したものじゃなくて、生協のだしパックで適当に出汁をとって適当に薄口醤油と、みりんと、それからほんの少し濃い口醤油、それだけいれて片栗粉でとろみをつけたもの。それ、よく考えたら揚げてない揚げ出し豆腐だ。それのネギとショウガ抜き。

私はずぼらと言うか、マメじゃないと言うか、あまり写真を撮ったり、動画を撮ったりそれを綺麗にフォルダに分けて整理したり、そういう事が全然出来ない性質で、子ども達の写真は一番上の息子から、次の娘、そして3人目の娘とどんどん目減りしている。自分の写真なんかここ10年の内に多分1枚か2枚程度しかない。でも、この揚げてない揚げ出し豆腐をこの子がパクパク食べた日の動画だけはちゃんと保存してある。

「お豆腐でちゅよ~」

「美味しいでちゅか~」

「あと一口食べるでちゅよ~」

その動画に入っている声の主は私ではなくて、この子の兄と姉である息子と娘で、動画の日付は2018年の12月だから3番目は1歳になる直前、と言う事は2番目の娘は小学1年生、一番上の息子は小学4年生。今あらためてその動画を開いてみたら、息子の声がとんでもなく甲高い事に気が付いてものすごく驚いた。息子は今中学1年生、全然声変わりしない、いつまで経ってもタラちゃんの高音ボイスだと思っていた息子の声が、実はもう結構低くなっている事に気が付いた。そして1歳の娘はピンクのロンパースに赤いキルティングのベストを着ていて、ムチムチの羽二重餅みたいな顔、鼻から垂らした細いチューブさえなければ、健康そうな、本当に元気な赤ちゃんに見える。



その画像の日から2年と少し経って、3歳になった娘は、今も顔についているひとつの医療機器を除けば普通の3歳に見える。娘はあの当時の、顔に白いテープで張り付けられている細い経鼻栄養用のチューブを卒業し、生きるための全栄養を口から取る事が出来るようになった。でも代わりに酸素用の透明なチューブを顔につけている。今度は3歳の体を自前の循環だけでは保つことが出来ない、それが今の娘。

あの頃、とろみのある出汁のかかった豆腐ばかり食べていた娘は、今も豆腐が数少ない好物のひとつ。お陰でお味噌汁の具が毎度豆腐になるし、その豆腐をあらかた娘が食べつくすので、この子以外の家族のお椀は、全部具ナシの味噌汁になるし、わかめと豆腐にするとわかめ汁になるし、えのきと豆腐にするとえのき汁になる。

相変わらずの偏食。これは、この子が食べ始めた頃の事情の特殊さが尾を引いているのかそれとも元々そういう性質の子なのか全然わからないけれど、この子の事で例えば主治医とか、幼稚園の先生なんかに

「どう、ゴハン食べてる?」

と聞かれても、小食の猫ちゃん程度には、としか答えられないし

「何が好きですか?お豆腐?じゃあそれ以外は?」

と聞かれても

「こっちが聞ききてえよ」

また脳内に甲子園のスタンド席のおっちゃんがひょっこり顔をだしてしまう位、全然食べない。麺類も好きだけれどそれだって一口食べて直ぐ満足したりする。他のものも凄く気まぐれに食べたり食べなかったり、昨日の夕ご飯に作った夏野菜、ナスとパプリカとズッキーニと鶏の手羽元を煮込んだ鶏肉のトマト煮も、スープだけをほんの少し飲んでお肉も野菜も全然食べてくれなかった。果物は大体嫌い、野菜はニンジンだけ、でも野菜ジュースは飲む。毎日お弁当を持って行くこの子の兄と父のついでにこの子にもお弁当を作るけど、それも2、3回箸で刺すだけで終わる。食べない。




少し前にこの子がちょっと長く入院していた時、何の因果かまた何も食べられない時期が少し続いて、それで1ヶ月半位の間またあの鼻から牛乳、経鼻栄養のお世話になっていた。その時はもう3歳の娘にはミルクではなく特別な栄養剤が先生から処方されて、娘が横になったベッドの点滴台に吊るされたビニールのパックからゆっくり流れる薄茶色の液体を眺めながら

「何なら食べるかなあ…」

真剣に考えた。そして落胆していた。あの1歳の頃の苦労が今また再び。

丁度同じ頃に、その子は経鼻栄養では無かったけれど、殆どまともに食べてくれないからと手を変え品を変え、食べられる物を必死に探していた同じ病棟の入院患児のママがいて、よく病棟の廊下で2人顔を突き合わせては

「うちらの子は一体何なら食べるのか…」

半分本気、半分冗談で一緒に悩んだりしていた。その子は1杯で200カロリーを摂取できる医療用の特殊なスープだけで生きているのだとママが教えてくれた。

「あとはポテトなら食べるんですけどね、でもそれってマクドのやつなんですよ」

病棟に毎回Uber eatsの人を呼ぶ訳にもね、そう言って困っていた。その子は治療のために使う強いお薬のせいで味覚が変わって、以前大好きだったものが全然美味しく感じなくなってしまったのだそうだ。そういう「食べられない」もある。

機能的な問題、お薬の為、過敏、身体の衰弱の故、世界は色々な『食べられない』に満ちているものなんだなとその時、思った。

普通に食べられるって本当に大変な事なんですよね、お互い早く美味しくご飯を食べてもらえるようにしたいですね。私たちはそう言って笑った。

この時も、食べられない娘はヨーグルトとかリンゴジュースとかプリンを順繰りに試し、嚥下食、ペースト状の食事が許される体調になった時はお豆腐を持ち込んで食べた。人生の最初から何も食べられなくて飲めなくて、一度はそれを克服し、次にもう一度3歳でまたほんの1ヶ月半程だけれど食べられなくなった娘は、そこから幼児食と呼ばれる普通の子ども用のご飯に辿り着いた時には、突然何でもよく食べる子に変貌し、そして退院する頃にはまた偏食に戻った。

今は元の木阿弥、食べたり食べなかったり。テッパンは豆腐、以上。それで成長曲線からまあまあ逸脱しない体形を維持しているんだから謎だ。明治の『ほほえみ』のみで1歳半までちゃんと成長していた事といい、この子の体は一体どうなっているんだろう。

それで今日も私はとりあえずお豆腐を食卓に出す。出汁のかかった豆腐ばかり食べていたこの子の今のお気に入りは、シンプルな冷ややっこ、最近は鰹節を際限なくかけたがるので困る。

あの病棟のお友達は、もう一度目の治療が終わる頃かもしれない、それで今、それが次の治療までの少しの間の事でも、美味しくご飯が食べられるようになっているといいなと思う。


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