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短編小説:春みたいにやさしい。(短編集・春愁町1)

春なので春のやさしい人たちのやさしい話を書こうと思いました。
『春愁町』というフォルダに春休みの間こつこつ書こうと思います。しかしそもそも春休みというと、これを書いている人は、中学生と小学生と幼稚園児があるもので、小説を書くのはある意味無謀な挑戦というか「お母さんおやつは?ごはんは?俺塾ですけど」という子ども達との攻防戦です。でも春はその芽吹きの勢いに負けそうに心弱る季節でもあり、優しいお話を書こうと思いまして、あなたに読んでいただけるととても嬉しいです。

始めのことば

靴1足分程度、玄関ですらない玄関とひと口コンロの台所とシャワー、あとは作りつけのベッドと机と押し入れだったものを作り変えたらしい収納スペース、1K6畳一間、去年国立に全敗、1浪して今年何とか国立の大学に滑り込んだ俺の春からの新しい住まいになった。

敷金礼金、日割り家賃と次月の家賃、そういうものを全て不動産屋から渡された書類に記載されている口座に振り込んだ月曜、4月、晴れた午後、これからその小さな部屋で使うための家電を買いに出かけた時の春ちゃんの様子はちょっと、尋常ではなかった。

『みんなのくらし、ささえて50年』

多分俺が小学生の頃から変わらない、凡庸という言葉のしっくりくるキャッチコピーを掲げた、古くて騒がしくて時折ほんの少し寂しい商店街の丁度まんなかにある「イシヅカ電機」の新生活家電コーナーに仁王立ちになった春ちゃんはずっと中腰の喧嘩腰やった。不用意に話しかけると怒るし、黙ってても怒るし、仕方なく笑顔を向けると「何がおかしいの!」言うて怒るし、視線を向けたら威嚇してくるの感じ、そこのラーメン屋の裏でよう昼寝しとるノラネコのシロとクロ、あいつらにそっくりや。

「あんなあ春ちゃん、よう考えてみ?俺の部屋なんかもう独房みたいなモンなんやで、狭いねん、そんな大仰な家電必要ないて」

「冷蔵庫は大きい方がいいの、隼太、料理するじゃないの」

「ほしたら、その…それや、アイロンはいらん、ゼッタイ使わん、神に誓っていらんで」

「アイロンは生活必需品でしょ!ぱりっとした白いシャツを着る時はどうすんのよ、学校にシワシワのダルダルのシャツなんて着て行ってみなさいよ僕はだらしないですって女の子に宣伝して歩いてるようなもんよ!モテないわよ!」

春ちゃんの剣幕に困惑気味の俺と、確実に困惑しているやろうイシヅカ電機の社長のおっちゃんに興奮気味に話すと言うよりかはまくしたて、あれもこれもアンタには必要だからと言ってどんどんスマホにメモを取りそれをイシヅカのおっちゃんの目の前

「いや、春ちゃん、それや近すぎや、なんぼ何でもおっちゃん見えへんやろ」

という距離につき出して

「社長、これで大体幾らぐらいになる?」

そう言って1人で勝手にどんどんと話を進めていこうとするので、途中で流石に俺が

「せやからな春ちゃん、俺そういう白いシャツとか?そんなん普段ぜんぜん着てへんやんけ。まじでいらんでアイロンなんか。それにあのクッソ狭い部屋にその春ちゃんの言う…なんやその500L?4人家族用?そんな巨大な冷蔵庫置くのん絶対無理やで。そんなん置いたら室内全部冷蔵庫や、俺はどこで寝たらええねん、冷蔵庫ん中か?」

大体1浪して、その分1年も春ちゃんにタダ飯食わしてもらってんからホンマにそんなん最低限でええねんて。興奮気味の春ちゃんをなだめようとして俺がちょっとふざけてそう言うと、春ちゃんは今度は

「あたしが全部買ってあげるって言ってんでしょ!だいたい独房みたいな部屋って何?アンタが小さい部屋がいいそれが分相応やって言って聞かなかったじゃないの、アタシがあんなにお金のことはいいからもっと日当たりが良くて広い部屋にしなさいって言ったのに、アンタ、最後の最後まであたしにそんな風に遠慮して」

まるで明日世界が終ってしまうような苦い表情で叫んだ後、ほろほろと涙を流して両手でぎゅっと顔面を覆ってしまった。春ちゃんは普段から、感情の起伏がジェットコースター並みに激しい。アレや、ユニバのハリウッド・ドリーム・ザ・ライドや。春ちゃんとは商工会仲間で春ちゃんの気性をよく知っているイシヅカのおっちゃんは苦笑いし、自宅になっている店の奥に向って

「オイ、やっぱ春ちゃんが泣いたで、菜穂の予想通りや、テッシュ持ってきたって」

そう叫ぶと高校1年生で、俺の母校の後輩でもあるイシヅカ電機の末っ子のなっちゃんが、慌てて箱テッシュを3つも抱えて出て来てくれた。

「ありがとなっちゃん、せやけどそんなにいらんやろ」

なっちゃんの姿を見た俺は笑ったけど、俺の4歳下で、中学校に入った頃から俺に対して妙にはにかみ屋になってしまったなっちゃんは俯いたまま「けど」と小さく言って俺に箱ティシュ2個を押し付けるように渡し、春ちゃんにはひとつ

「春ちゃん、だいじょぶ?」

俺に言うたのよりは幾分大きな声と、小さい頃とそう変わらん人懐こい笑顔でそう聞いてからそれを手渡した。春ちゃんは小さい頃からよう知っているここの末っ子には甘いし優しい「なっちゃん、ありがとね」と言ってその時だけは大人しくその箱を受け取っていた。そしてなっちゃんが奥に引っ込むとまたさっきのようにキレ始める。なんやそれ、なっちゃん助けてくれ。

春ちゃんは普段からしょっちゅう何かに激昂し、反対にちょっとしたことに直ぐ感動して滂沱の涙を流す類のものすご騒がしい人間で、知り合いの誰かに赤ん坊が生まれたと聞いては泣き、見知った誰かが死んだと聞けばそれがどんな奴であれやっぱり泣く。春ちゃんの周囲にある人間は俺も含めてそんな春ちゃんに慣れ親しんではいるのやけれど、今日の春ちゃんはいつもに増して感情の起伏が激しくて表情筋も普段の倍、忙しい。

もう10年も一緒に暮してきた甥っ子の門出の春やぞ、そないにいちいち怒ったり泣いたり叫んだりすることないやんけ。


春ちゃんという生き物はすぐ泣く。

あの状態を『涙腺がゆるい』やとか『涙もろい』やとか、そんなありきたりに安直な言葉で表現して果たしていいもんやろうか、俺はそれを少し躊躇する。それくらいに春ちゃんという人は森羅万象のあらゆる事象を目にしては心底哀しみ、愁い、感動し、あるいは憤って、毎日ホンマに賑やかや。

春ちゃんは全然知らない隣の誰かの為にだって心から泣くことのできる、とても稀有な人間なんやと思う、身体の主成分が優しさで出来ているんや、俺には絶対真似できへん。

例えば俺の中学の入学式の日や、あれは酷かった。その日、朝家を出る時

「春ちゃん、今日頼むからは泣かんといてや」

と俺はよう言い聞かせてから出かけたのやけれど、春ちゃんは新入生入場のずっと前から保護者席の紅白の幕を背景に式典の間ずっと白いハンカチを握りしめて絶え間なく嗚咽を漏らし続けていた。俺が真新しい紺色のブレザーで体育館に足を踏み入れた時には、朝、張り切って幾重にも睫毛に塗り付けていた濡羽色のマスカラは涙ではがれて流れ落ち、垂直の黒い小道を両頬に作っていた。お陰で俺を含む新入生は皆、校長の話も来賓の話もすべて上の空で、黒やとか紺のスーツ姿の落ち着いた見た目の普通の母親達よりも頭ひとつデカい、しかし名前の『春』の通りに柔らかな桜色のワンピースを身に纏った春ちゃんをまるで体育館に闖入して来た珍獣でも見るような目で、時折くすくすと笑いながら眺めることになった。

「やべえナニあれ、誰の親?」

そんな言葉がそこかしこから漏れ始めた時、俺と同じ小学校で、俺の家の事情を知っている奴らが俺と春ちゃんの名前を小声で口にした。

(アレ伊勢谷隼太のオカンや、ほら商店街の花屋の背の高いババアや)
(へ?あいつオカン死んでておらんねやろ、うちのオカンが言うとった)
(ほんならアレは何やねん、姉ちゃんか?)
(知らん、とにかく花屋のでかいババアや)

『花屋のでかいババア』『伊勢谷隼太のオカン』そんな言葉がさざ波のように同じクラスの連中に伝播していった式典中の約1時間は

(オイ地球、滅びるなら今やぞ)

12歳の春に地球が滅亡する事を願うほど恥ずかしかった。その後の各クラスに別れて行われたオリエンテーションのことなんか俺は一切なにも覚えていない。

誰かがくすくす俺の事を笑っている

そんな感覚を以前使っていた誰かがカッターナイフでつけたのやろう『うんこ』という机のかなりしょうもない落書きをじっと眺めて時間をやり過ごした。その時の春ちゃんと言えば教室の一番後ろ、保護者がずらりと横に並ぶそこの中でもまだぐずぐずと泣き続けていて、教室中の同級生のオカン達が

「伊勢谷さん、これ使い?な?」

と言ってどんどんポケットティシュを春ちゃんの手元に回し、教室の後ろに奇妙な一体感を作り上げていたのもまた、12歳の俺には酷く恥ずかしいことやった。もうええからみんな俺と春ちゃんのことは放っといてくれ。

入学式の後、中学の教科書学用品一式と一緒に渡された小さな紅白饅頭の白を口に放り込みながら俺は春ちゃんに訴えた

「なんで春ちゃんは中学校の入学式ごときであんなに泣くねん。あんなんでは入学式が葬式や、なんぼなんでもおかしいやろ」

『入学早々恥をかかされた』

丁度大人と子どもの中間地点のあの時間、世界の全てを、優しい春風の吹くことさえ、桜の花びらがひとつはらりと落ちることにも、空の青いことにすら、何故だか酷くイラつく季節の中にいた俺はぶかぶかの制服のブレザーを春ちゃんの花屋の2階、住居スペースの居間の焼けた畳の上に力任せに叩きつけて不貞腐れた。俺、明日から絶対変なあだ名付けられるで、ほんでいじめられるわ、そうなったら俺もう学校いけへんからな。そう言うと春ちゃんは

「だってお兄ちゃんは、アンタのお父さんは隼太の中学の制服姿を見ずに死んだんやわって思ったらもう胸が心筋梗塞かってくらいぎゅうっと苦しくなってどんどん涙が出て来るんだもの、不可抗力なのよ。お義姉さんだってそう、2人ともこの先もアンタの門出には一切立ち会えないのよ、世界って理不尽よね、そういうの切ないじゃないの、辛いわ、みんなアンタを愛してたのよ、もちろんあたしもね」

そう言って、またホッキョクグマみたいな咆哮をあげて泣いた。

春ちゃんそれはアカン、狡いわ、そんなん言われたら俺もう何も言われへんなるやんけ。それに言うてることがなんか怖いし大体『自分も愛してた』て、それやと故人と同じくくりになるぞ、春ちゃん死ぬんか。俺はほんのりとささくれのある畳の上に転がしていた体を起こして春ちゃんにこう聞いた。

「心筋梗塞て、春ちゃん今までそんなんになったことあんの?春ちゃんまで俺を残して死ぬ気か」

「死なない、心筋梗塞にもならない、今日も超元気よ。アンタが大人になって爺さんになるまで、あたしはええと…120歳まで生きるわよ、でも今日はホントにそんな感じに胸が苦しかったの!」


俺の母親が死んだのは俺が8歳の時で、乳がんやったらしい。

その事を俺はあまりよく覚えていない。母が子どもみたいに小柄で身体が細くて白い人だったことは記憶にある。

でもそれは多分病気になってからの母の姿を俺が強く記憶に残しているせいやと思う。父から聞いたもっと若くて、うんと元気だった頃の母は、とにかく陽気で働きモンで、結婚してすぐの頃に、休みが取れたからと父と白浜に旅行に行ったらそこの中居さんとえらく仲良うなって一緒に料理を運んでいたとか、知らんおばあちゃんを案内してたとか、奥さんもうここで働いたらええやんとスカウトされたとか、とにかく気が利いて小回りが利いて目端もよう利く、そんな感じの人やったらしい。

それに加えて口のよう回る勝気な性格で、普段からのんびりした口調やった父はまあ当然やけど口喧嘩をして勝てたためしがないのやそうや。仕事は調理師をしていて、大阪の専門学校を出てから関西に本店のあるブーランジェリー言うんか、とにかくパン屋さんで一生懸命働いてお金を貯めて、30歳手前で廃業した喫茶店の店舗を居抜き借りて自分の店を開いた。それは時折近所に住んでいる友達何人かに日替わりでアルバイトに来てもろたら回せるくらいの小じんまりとした店で、母が個人で輸入したコーヒーとぱりっとした自家製パンで作るサンドイッチとかそういうのんの店やったのやけど、駅から少し歩く場所にあるにも関わらず、結構繁盛していたらしい。

母は働くことが大好きで、店が忙しければ忙しい程目が爛々として生き生きとする珍しい人種やった。定休日は店が無くてつまらないと言うていたのを俺もよく覚えている。父は最初その店の客で、深夜清掃のアルバイトを終えて午前中一番にコーヒーを1杯だけ飲みにやって来る父に、母はよくクッキーやとか小さな焼き菓子を小皿に入れて「おまけ」と言うてそっと差し入れていたらしい。それでひとことふたこと母と言葉を交わすようになった父は、コーヒーよりもおまけの菓子よりも母に会うことが目的で毎日店に通うようになったのやと、そんなことを生前の父は、母のいなくなった食卓でぼそぼそと俺によく話して教えてくれた。

俺の母親像というのは、俺の酷くぼんやりとした記憶と、父の人生の春の季節の思い出の複合体やから、実際の母とはきっと少し違うのやと思う。思い出は年々美しくなるものやと聞くし、それが場合によっては現実とひどく乖離していくモンなんやと今の19歳の俺にはよう分かってはいるけれど、生前の父が早くに母親と死別した息子の俺を可哀相やと、母親に夢でもええから会いたいと思ってんのちゃうかと考えて、考えあぐねてあの春の陽光のように明るい母親の姿を殊更話して聞かせてくれていたのなら、俺は父の気持ちを汲んで、その複合体の母が俺の母親の姿やということにしておこうと思う。

そんで父が言うていた2人のなれそめみたいなモンはこうや、父が母とお天気の話程度の会話をするようになった頃、父はもう30歳を少し過ぎていたのやけれど、なんでかどうにも仕事が続かず、結果当然お金もないもんで、エアコンがなくて、床が傾いていて、虫どっかから絶え間なく湧いて来て、あと隣に住むちょっと頭のおかしい爺さんが毎晩廊下で訳の分からんことを叫んではその辺で放尿するという、場末もええとこなアパートに住んでいた。父はいつもそれを淡々と話していたけれど俺はそれを父から聞いた時かなり引いたもんやった。ようそんなとこに何年も平然と住んでたもんや。それで父はよせばいいのにその話を母にもしたらしい、そうしたら当然母もえらく驚いて

「そんなんアカン、そうでなくてもアンタ身体弱いんやろ、今すぐうちに引っ越してき!」

そう言ったそうや。この頃の父と母は、特に何か決まった間柄でもなければ将来の事を約束しているような2人でもなくて、父は当然そんな訳にはいかへんやろと遠慮したのやけど

「お母さんて人はな、いっぺん言い出したら聞かへんねん『そんなん暮らしてみてから考えたらええんや』て言うて、俺の首根っこ捕まえてその日のうちにホンマに自分の家に連れて帰ってしもた、善意の人さらいや」

そう言って、父はその日の事をよう嬉しそうに話していた。一緒に暮し始めた母は毎日、朝日よりずっと早く、まだ夜が空から消え去らない内から仕入れに出かけ、太陽がほんのりと東の空を茜色にする頃には仕込みを始め、店を開けてほんの少しでも手のあく時間があればグラスやカップの類をピカピカに磨き、布巾をたたみ、在庫を整理し、お客さんが来たら飛んで行ってにこにこと注文を取り丁寧に1杯一杯コーヒーを淹れ、パンをトーストした。夕闇が西から迫る頃に店自体は閉店するのやけれど、その後の掃除だって1ミリも手を抜かない。店がそのまま生活と人生の全部、そういう人だったのだそうや。そんな母の借りていた小さな部屋で父は、最初の内は週に数日夜間清掃アルバイトを続けていたのやけれど、だんだんと、店が忙しくて暮らしぶりが滅茶苦茶で、そこかしこがゴミと洗濯もんだらけやった母の部屋を掃除し、洗濯機を回し、牛乳や卵やトイレットペーパーなんかの日用品を買って補充し、簡単な食事を作り、それを仕事にする生活に推移していった。

父が家事をして母が働く、そんな暮らしを始めて1ヶ月でそこにはすっかり健康で文化的な生活というものが出来上がり、そしてそれはささやかではあるけれどとても幸福で、それやったらと一緒に暮し始めてから2ヶ月目に2人は正式に夫婦になったらしい。

そんなやからほどなくして母の中にやってきた俺が生まれた後も「産後の体なんやからせめて半年はゆっくり休まなアカンのちゃうか」とか「更年期にがくっとくるんやで」なんて父や母の友達が皆で心配しているのに、母はそんな言葉にはひとつも耳を貸さず

「隼太はお父ちゃんがみといてあげてよ、隼太は確かに私の子やけど、店だって私の子なんやで」

そう言って生まれたばかりの俺の世話は父に任せて、自分は産後3ヶ月程で店に復帰してしまったらしい。その頃の父と言えば、アレは一体何をしている人やったんやろか、毎日食事を作り、掃除をして、洗濯物を干して畳み、赤ん坊の俺の世話をして暮らしていたのやから一応は主夫いう事になるんかもしれへん。せやけど母は朝は父と俺が寝ている明け方に起き出して出かけてしまうし、昼は店でアルバイトの誰かとまかないを食うし、何なら夜は店の残り物を持ち帰って来てくれるから、そこまで気張って食事の用意なんかせんでもええような生活をしていたし、俺は1歳になる前から近くのお寺の中にある古い保育園に放り込まれていた。

せやから俺の覚えている父は、主夫やと言うても日々を休みなく家事に追われくたびれていたような記憶はひとつもない。父は主夫のようなものであるらしいということ以外は仕事らしいことは何もせず、毎日俺を保育園に送り、その帰りにちょっと母の店で皿を洗うのを手伝ったり伝票を整理したりあとはコーヒーを淹れて貰って飲んだりして、夕方にはまた俺を迎えに行く、そういう生活をしている人やった。父と過ごす夕暮れから夜までの時間、俺と父は帰り道にある母の店を飾り窓からちょっと覗いて中の母に向って変顔をしてふざけて叱られ、いつも行列しているたい焼き屋でたい焼きをひとつ買ってその場で半分こして食べ、公園に寄り道して滑り台をケツがすり切れる程何度も滑って遊び、家に戻ると風呂に入って今度はシャボン玉を吹いて風呂場が泡だらけになるまで遊んだ。

小さかった俺は父と母と俺と3人でこんな生活がずっと続くのやと、なんの疑いもなく心からそう思っていた。

しかし母は死んだ。

まだ40歳にもならん若い死やった。母には少しの自覚症状もないまま、身体のあちこちにがんが転移して病巣を作り、それは手術して切り取るやとか薬で小さくするやとか色々手を尽くしてみたものの、気づいた時には何もかもが遅すぎたらしい。病気が見つかって1年ほどで母の命は埋火がふっと消えるように、静かにこの世界から消えていった。

仕方のないことやった。

どんなええ人のもとにも悪い事は起きるもんなんや、いやむしろ世の中はそういう風にできているんかもしれん。父は誰のことも恨まないし恨んではいけないのやと言っていた。強いて言うのなら1年に1回検診を受けてるから大丈夫やなんて安心していないで、ちょっとでも変やなと思ったら即病院に行けと言うべきやったと、お母さんが自分は元気だけが取り柄なんやと言うているのを「そうやなあ」なんて呑気に信用してへんと、自分がもっと気つけてやっていれば結果は違ったんかもしれんと、そう言って自分のことをずっと責めて、そして悔やんでいた。

とにかく俺が8歳になる年の春や、俺の家の大黒柱で、春の温かな太陽みたいな人やった母は死んでしまった。多分人生で唯一、そして一番愛していた母を亡くした父は葬式の日、俺の細くて小さな肩を抱きながらあたりもはばからずに「俺を置いていかんといてくれ」と言って泣いた。俺はお父さんが、と言うよりは大人の男の人があんな風に慟哭する姿を見たのは後にも先にもアレが最初で多分最後やと思う。母は父と俺、それかお店のお客さん、母の友達、近所の人達、ほんまに大勢の優しい人たちに見送られて、母に近しいだれかが用意してくれたのやと言う大量の薄桃色のチューリップと共に荼毘に付された。これはうんと後になってから花屋である春ちゃんに聞いたことやけど、ピンクのチューリップの花言葉は「誠実な愛」なのやそうや。

あの年、俺達父子にとって春はとても寂しい季節になった。

父はもともと細身で長身で、それに加えて酷く猫背の人やったのやけれど、母が死んでしまってからはその猫背がもうええ加減ホンマの猫になるんちゃうんかという感じにぐんにゃり曲がり、普段から声を荒げることのない物静かでごく穏やかな気性の人やったのやけれど、母の死後は物静かというよりは寡黙な印象の人になった。それと以前からあまり体の丈夫な人ではなかったのが、気持ちと共に体も更に弱くなってしまったのか、日中静かに布団に仰臥している時間が以前に増して多くなった。

そんな父には母が残してくれた店を引き継いで続けていくのは流石に難しい、それで母の店は生前母が言い残していた通り、同じような飲食店を何件か経営している母の知人にいくばくかのお金を貰って什器ごと譲り、父はこれまで通り家事をして俺の面倒を見て、時折母の遺したノートパソコンの前で何かの作業をし、合間にに母の遺したイタリア製のコーヒーメーカーでコーヒーを淹れ、昼は5枚切りの食パンにバターとジャムを塗ってあまり美味しくなさそうにむしゃむしゃと食べ、そうして夕方になると小学生の俺を小学校の校庭の片隅にある学童の教室に雪駄を履いて迎えに行く、そういう生活を送るようになった。俺達の生活から、母と母の店が消えてなくなり、母の元気すぎてやや騒々しい話し声も、賑やかに食器のぶつかる音も、狭い台所の小さなオーブンでイチジクのバターケーキを試作する甘い香りも、そんな柔らかくて優しい手触りものが煙のように消えて、俺達の生活はほんのりと鈍く、そして暗い色になった。

あの春、俺達の世界を形成している要因のうちの一番大切なものが欠けて消えてしまった。俺が生まれる前、母が南港の家具屋でその前から動けなくなり「こんなん、ウチらには分不相応な買い物よね」と母が言ったのを父が「せやろか、2人暫く塩かけご飯食うて暮らしたらなんとかなるよ」と言ってくれたので思い切って買ったんやと言うてたデンマークのダイニングテーブルに座る3人のうちの1人はもうこの世のどこにもおらん。

俺は寂しかったけど、もともとあまり言葉数の多くなかった父がさらに言葉少なになってしまったことになんだか遠慮して、さびしいとか、かなしいとか、そういうことを父に言うのはやめようと、殊更明るく振舞おうと、それを俺は母の葬式の日に決めていた。父と母は子どもの俺から見てもとても仲の良い夫婦やったので、他の誰よりも母のたったひとりの子である俺よりも父が一番寂しいのやろうと、それは8歳の子どもするべき気遣いではなかったんかもしれへんけど、俺と父は互いに互いしかおらん2人やったもので、多分父は俺の事を、俺は父のことを、きっと寂しいやろうと考えて気遣い合いながら暮らしていた。でも代わりに俺は父によくこんな事を聞いた。

「なあ、お父さんは毎日何してんのん?何で他の家のお父さんみたいに会社とかに働きに行けへんの?」

私鉄沿線の、駅前商店街を抜けた場所にある俺の通っていた公立小学校の生徒いうのんは大体がこの辺りの団地の子どもで、それぞれの家庭は裕福かと言えばそないなことはほぼなくて、皆親である人は忙しく働いていた。母子家庭も多かったし、俺のように父親しかおらん家もようけあった、お陰で放課後の学童の教室はいつも子ども達の声でホンマに賑やかやった。その中でうちのように父親はずっと家におるし母親は死んでおらんしなんていう家はとても珍しかった、というよりそんなんウチだけや。当然同級生達には

「隼太のお父ちゃんて、しごと何してんの、たまに木下医院に行って、商店街のあたりうろうろして、あとは何もしてへんやん」

からかいやいじめとは違う、もう心底不思議やと言う顔で質問をされて俺はいつも答えに詰まっていた。うちのお父さんは一体何をしてるんやろうか、父は俺がそう聞くと笑って

「うーん、お父さんは今は生きてるだけでひと仕事やねん、それでたまに病院に行ってるやろ、それ以外は隼太にご飯を作って掃除して洗濯をしとる」

それが仕事やな。そんだけや、隼太はそういうお父さんはイヤか。そう言うので俺はそんなことはないと激しくかぶりを振った。

「ううん、俺はお父さんが仕事で家に全然おらんよりは、仕事してへんままずっとおった方がええ、お父さんの作るご飯、ものすご不味いけどな」

「せやろか、そんなに不味いか」

「うん、やばいで、ほんでもお父さんは毎日家におってくれた方がいい」

俺はその生態が全く謎で一体働いてんのか働いてへんのか、そもそも一体何をしていた人なんか、一切皆目わからん父のことがとても好きやったんや、何しろ父は底なしに優しい人やったから。

確かに働きはしてへんけれど、いつも本を読んでいて、物知りで、夜寝る前には指輪物語やとかトロイの木馬やとかその手の話を沢山してくれたし、心配性で、隼太はお母さんに似て可愛いから変なオッサンに連れていかれるかもしれん、そんなことになったらオオゴトやと言って夕方いつも俺を学校まで迎えにきてくれた。ほしたら友達も「隼太のおっちゃんと帰るねん」と言って一緒にぞろぞろついてくるようになって、それも結構楽しかったし、土日にはよく一緒に電車に乗って須磨海浜公園まで海を見に行ったり、琵琶湖に足を延ばしたり、それから近くの万博公園にもよく遊びに行った。

「ウチはお金はないけど、海と湖と公園は交通のみでただやからな」

というのが父の言い分で、俺達は2人で、春には須磨に電車で行ってさくら貝を拾ってよう遊んだ。父はそういう時には必ずお弁当を作ってくれたのやけど、それがまた今もネタに出来る位に下手くそで不味い。俺は卵焼きをあれほど不味く作る事の出来る人間を父の他に知らん。バターと醤油と砂糖、それぞれが全部大量に入れて適当に攪拌して焼いたそれは、表面は酷く焦げているのに中身はどろりとした生焼けで味はと言うと、身体がしびれる程甘い。大きくなってからアレを何度か再現しようと試みたのやけど無理やった。父がなんで卵焼きみたいに単純明快な料理をあんなに不味く作れたもんか俺には皆目わからん、不器用もあそこまで行くと一種の技術や。ウインナーはよせばええのに飾り切りに挑戦して哀しい位に真っぷたつやし、おにぎりもよう作れへん人で、大体いびつな丸と三角くらいの間の塊にいつも具がはみ出ていた。でも俺はそれを面白がって笑った事はあるけれど「イヤや、食べへん」なんて言うたことはない。

「卵焼きまずいな!」

「せやろ、ここまで不味く作れんのは世界広しと言えどお父さんくらいやで」

「おにぎりの中身が半分はみ出してんのんはわざと?」

「当たり前や、これなら何が入ってるのんか一目瞭然やろ」

それがいつもの俺達2人の会話で、潮風のぷんと香る春の海辺にはお父さんとお母さんと子ども、そういう普通の家族が、唐揚げやとか飾り切りのニンジンやとか俵のおにぎりの詰まったキレイな弁当を広げたりもしていたけれど、俺はそれを羨ましいと思った事は一度もない。俺のお母さんの代わりになれる人はおらん。お父さんもお父さんだけや。

春、遠く水平線を眺めながら浜辺で小さな貝をいくつも掘って持ち帰り、夏は100均で買うた浮き輪を担いで琵琶湖に行って泳いで、秋は万博記念公園の森でどんぐりを沢山拾った、冬はお父さんは身体弱くて寒いのはあかんから遠出はしやんとこなと言いながら珍しく雪の降った日、自転車で河川敷の広場に行って頭上からいくらでも絶え間なく降って来る細雪を眺めながら1本だけ買った暖かい缶コーヒーを半分こして交互に飲んだ。

「なあお父さん、雪もただやな」

「ほんまやな、雪もただやな」

母を亡くした俺と、妻を亡くした父の生活は豊かでも賑やかでもないけれど、どこまでも穏やかやった。父には時折、布団からおきあがれんような日があって、悪いけど今日これでご飯食べられるかと布団の中から千円札を俺の掌に握らせてくる日があって、それは大体季節の変わり目に起きる事が多かったと思う。陽気のええ春の日とか、台風の前なんかもアカンみたいやった、大体は数日で良くなるのやけれど、子どもにはそんなことは分からないし、俺は父のことが心配で心配で

「なあ、お父さん、死なへん?」

頭からすっぽりと掛け布団をかぶって横になっている父の隣に腹ばいになって布団の隙間から中を覗き込み、父が母のように世界から消えてしまわないかと真剣に確認したものやった。

「俺のこと、おいていかんといてな、ほしたら俺はいよいよひとりになってしまうんやから」

俺が心細さで泣きそうな顔をしてそう言うと父は決まってこう言った。

「大げさやな、世界で一番大事やと思てる隼太をおいてどうしてお父ちゃんが死んだりできるんや、ちょっと頭が痛いだけや。それにもしな、もし俺になんかあってもやな、隼太のことはちゃんと俺が一番信用しとる人に頼んである」

それを聞くと俺はほんの少しだけ安心して、父から渡された千円札を握りしめ同級生の家である近所の『みよし』という弁当屋にのり弁とコロッケ弁当を買いに走って行った。みよしのおばちゃんは俺がひとりで店に行くと

「隼ちゃんひとりか?お父ちゃんは?またしんどいんか?」

そう聞いてくれていつも味噌汁とか唐揚げをおまけしてくれた。

俺たちの行く道をがんがん踏みつけて舗装し「こっちやで」と松明の灯りをともしてくれていた力強い母の亡きあと、そこに残されたこの上なく頼りない2人の静謐な生活は、近所の人たちにも助けられながら1年程続き、そうして翌年の春。

父は何の前触れもなく、突然死んだ。

春休みの最初の日のことやった。朝、父が団地の屋上に昇ってテレビの共同アンテナを見てみようかなと言った。数日前に隣の部屋に住んでいる穂村さんて言う優しいおばあちゃんが俺に「新しく買うたテレビが上手いこと映らんの、おじいちゃんはアンテナがどうやら言うんやけどねえ」と言っていて、それを俺が

「穂村のおばあちゃんは足が悪いねん、転んだら危ないからて、買い物はじいちゃんがひとりで行くし、楽しみはテレビだけなんやて」

可哀相やし俺が何とかしてあげたいねんけどと話していた事への答えやった。父は近所の人と自分から親しく付き合ったりする人ではなかったけれどちょっとした家電の修理とか家具の組み立てとかパソコンが動かんとか、その手のことを頼まれても嫌な顔をせずに「ほしたら、今やりましょか」とすぐに引き受けてくれるので近所の、特におじいちゃんとかおばあちゃんにとても好かれていた。俺は、父が穂村のおばあちゃんのテレビを何とかしたると言うてくれたのが嬉しくて「うん、早う写るようにしてあげてな」と答え、その日の午後は同じ団地の別棟にある友達の家に遊びに出かけた。その間に父は屋上に上がり、転落防止用のフェンスを乗り越え、5階建て四角い箱の上から転落して死んだ。俺は事故やと聞いているし、それを今も信じてる。

父と俺が最後に交わした言葉は

「隼太、今日カレーやで、早よ帰っておいでな」

「お父さん、俺が帰るまで、絶対にカレー仕上げたりしやんといて。お父さんな、カレーが旨くなるねんぞいうてカレーになんでもかんでも入れすぎやねん。イチゴジャムとかチョコとか味噌とか、まずは箱の説明に忠実に作ろうや、隠し味とかいらんねん」

「そうやろか、隠し味ているもんやろ、おかあちゃんかてカレーに色々入れてたで」

「お母さんはプロの料理人やから適量言うモンがわかってたんや、お父さんのは隠し味言うモンを入れすぎて隠し味が隠し味になってへんねや、何なんやチョコ味のカレーて」

そういうもので、俺達は玄関でくすくす笑った、それが最後の会話や、ホンマに哀しい位しょうもない。

 

父が5階建ての団地の屋上から鈍い音を立てて駐車場の縁石の上に落ちた数分後には近所の人の通報で救急車と消防車とパトカーが次々と団地の敷地に乗り入れて辺りは騒然となった。周囲にはテレビでしか見たことの無い黄色の規制線というのが張られて、その規制線の外側はケイタイで動画やとか写真を撮る知らん奴らで溢れた。ついさっきまで生きていて「カレーを作るから早く帰っておいで」と言っていた父は亡骸になり、駆け付けた救急隊と警察の手によって手際よく青いビニールシートに包まれそのままどこかに連れていかれた。事故の知らせを聞いた大人たちに現場に連れてこられた俺は『保護』と言う名目で紺色のバンに乗せられて白い建物の中に少しのあいだ留め置かれることになった。

この辺りの事を俺はよく覚えていないのやけど、多分あれは警察署ではなくて児童相談所とかそういう場所やったのやと思う。そこでは濃紺のスーツを着た若い女の人が大丈夫かとか、気分は悪くないかとか、何か食べられるかとか、親戚で連絡を取れそうな人はいないかとか、そういうことを俺に矢継ぎ早にいくつも何度も聞いて来た。

大丈夫とは違う、気分は悪い、なんも食べたくない、友達のおばちゃんと、死んだお母さんの友達くらいしか連絡を取れるような大人はおらん。

俺はそう答えた。当時はそこにある現実に対して何も感情がついてこないままで霧がかかったように頭がぼんやりとしていた。そんな状況では何を聞かれても上の空や。何を口に放り込んでも味がしないし、何もまともに答えられへん、何しろ俺はまだ9歳やってんや。しかし父の携帯の履歴や手帳を調べた警察が数名の関係者を辿って連絡をつけてくれたらしく、父の突然の死の翌日には父の両親、せやから俺の祖父母が俺のことを引き取りに三重県からやって来た。それは俺にとっては全く初めて会う人達やった。

父と父の両親の折り合いは酷く悪く、今も俺はその人達とほどんど連絡を取っていないし、その当時も10年程は全く音信不通やったらしい。俺もこの時までそもそも自分に父方のじいちゃんとばあちゃんが存在していること自体を全く知らんかった。死んだとも生きているとも聞かされていない、ただ初めからそこにないから全然気にしたことがなかった。向こうも父が結婚したらしいことは人づてに聞いて知っていたのやけれど、俺の存在については全く知らんかったらしい。特に祖父と言う人は保護されて1泊したあの四角い建物の無機質に白い部屋の中で、パイプ椅子に座ってぼんやりと窓の外を見ていた俺の顔を見てえらく驚いていたようやったし、その後そこの職員さんとは何かもめていた、それでその時に初めて会った祖父と俺が最初に交わした会話が

「誰か他に親戚はいてないんか、お母さんの方のじいちゃんとか、ばあちゃんとか」

「死んだて聞いてる、そのほかの人のことはよう知らん」

というものだったので、俺の事を引き取りたいなんて気持ちはかけらもなかったんやろう。互いに初対面やったしその辺は仕方がないと思う。とは言えまだ小学生だった俺を「こんなんいりませんわ」とそこに置き去りにして来る訳にもいかなかったらしい、それに祖父は警察署で検死を終えた父の遺体の引き取りも迫られていた。それで父の身体はとりあえず斎場で焼いて骨にし、その白い包みと共に俺は三重県の山奥の古い大きな家に車で連れて行かれた。

そこは玄関だけで俺が住んでいた団地のひと部屋がすっぽり入ってしまうような広大な屋敷で、襖を開け放した大広間には既に数人が集まっていた。それは皆親戚やと祖父に教えられたけれど、子どもや若い人はひとりもいなかった。動きが緩慢で物静かな老人ばかりや、まあ田舎やし過疎地や言うことなんやろけど、そん時の俺にはそれがとても奇異なことに感じられた。そしてその親戚一同の揃った座敷で俺は特に歓迎される風もなくその辺に放っておかれて、大人達の間では一体この子をどうするのやと、俺の今後の身の振り方が議論されたけど、まあ当然のごとく堂々巡りやった。

「俺のとこは無理や」

「向こうの、ほら、死んだ嫁さんのとこの実家はどうなってんねや、堺の」

「あっちの両親はもう随分前に2人とも死んだんやて、実家はもう影も形もないらしいわ、まだ独身のお兄さんがおるとかおらんとか…」

「せやったらいっそ大阪に戻して、ほんでこの子の住んでた所の福祉課とかそういうもんに任したらどうや、突然知らん場所連れてこられて、殆ど初対面のじいちゃんとばあちゃんと暮せ言われても、この子かって辛いやろ」

「いや、そういうのは、児童相談所言うんか、向こうがうちみたいに血縁者がようけおる場合は、なんやかんや言うて渋るモンなんや」

「まあそやな、流石に人聞きが悪いやろな…」

父の実家は、屋敷の回りをぐるりと水田が囲み、俺の育った街のように団地も給水塔もそれから夜だけぎらぎらとした明かりの灯る飲み屋ばかり入ってる雑居ビルも、そういう視界を遮るもんが何もなくて、うんと遠くにこんもりとした春の山の見えるホンマになんもない場所で、俺かて普通の時ならのどかできれいでええ所やあなって思えるはずの場所やった。せやけど俺は突然あの寡黙で優しい父が世界から忽然と消えてしまった現実を脳内で上手く処理できないまま、頬を撫でる春の風がぬるくて優しいことも、向こうの山が芽吹いたばかりの新芽の色で美しい事も、何ひとつ良いものを感知することが出来ず、親戚の大人達の紛糾する座敷に背を向けて庭に面した日当たりの良い縁側に座り、広大な庭に植えられたソメイヨシノの花が風に揺れるのをぼんやりとただ眺めていた。

時折親類らしい誰かが俺の事を気にして

「隼太ちゃん、稲荷ずし食べるか?」

山盛りの稲荷寿司や、巻き寿司の乗った座敷の机の上の大皿を指さして聞いてくれのやけれど、誰に何を言われても、夏のプールで耳の奥にぬるい水が入ってしまった時のようにぼんやりとした遠い音に聞こえてきた。それで何も答える気になれず「ふん」と、どうとでも取れるような返答をしてずっと縁側から動かずにいた。それは普段ならもう小3になる子どもの態度としては生意気と言うのか、ひどく不遜で、叱責やむなしという態度やったのやろうけれど、父親の喪に服す子どもの態度としてはかなり正しかったようで、周囲の親戚や時折何かを持って庭から入って来る近所の人達は俺がただぼんやりとしている姿を見て可哀相やと口々に言った。

「可哀相に。お母さんも亡くなってもういてないんやろ、夏樹ちゃんもなあ、かしこい子やったけど、ちょっとホラ…かしこすぎたんやわ」

大人たちはそんなことを座敷の一角で塊になってそこそと話し込んだかと思うと、突然俺の近くににじり寄って来て食べ物や着る物を「これを食べ」やとか「これお下がりやけど着てな」と言って俺に渡してきた。祖父のイトコやと言うおっちゃんなんか通りすがりに急に俺の顔を覗き込んで「夏樹君とそっくりやな」と言って突然泣きだした。

夏樹というのは死んだ父のことや。

春に死んだ父は夏生まれの人やったから。

でもそうやって、もう死んでしまった人の面影を俺の中に見つけて哀しむだけでええ人間は幸せや、呑気なもんや、俺はこの時とにかく不安やった。3人でいつまでも続くのやと思っていた優しい生活は母が死んで大きく欠損し、父が生きている事で辛うじて続いていた俺と父との静かな生活も父がこの世の人でなくなった今すべて瓦解して跡形もなく消えてしまった。俺はこれからこの見も知らない人達と、なんやらセブンもファミマもなさそうなド田舎で暮らすことになるのやろうか。

俺のこの先の人生はもうだれも俺の事を『世界で一番大事な子や』なんて言うてはくれへんのかもしれん。

きっとそうや。

俺はそんな哀しい結論に思い至った。父の死から4日後のことや。ずっと固まったままやった脳みそが再起動するようにして突然、さみしいとか、かなしいとか、つらいとか、そういう感情が体の中の細胞という細胞を駆け巡って涙があふれてきそうになって、しかし俺はそれを必死にこらえていた。なんやようわからんのやけれど、父親を亡くしてただ茫然と涙を流すような、あの時あの場所にいた大人達の思う通りの『可哀相な子』になんかなってやるもんかという意地みたいなモンが、こいつらの想う通りになんかふるまわへんぞという気持ちだけが、きっとあの時の俺の身体を真っ直ぐに垂直に支えていたのやと思う。


「もう骨にしてしもたとは言え、何もせえへんのもなあ、さすがに外聞が悪いやろ」

という祖父の発案で行われた父の死後5日目にごく内輪の葬儀と納骨が執り行われてそして終わり、まるでお祭りの後のようなビールの空き瓶と空き缶、寿司桶、これ一体なんぼあるねんと俺が密かに驚愕した小皿と食器類、それからかさ高い深草色の座布団がすべて綺麗に片付けられた後も、父の両親と、親戚が数日手を尽くしてやっと連絡のついたらしい母の兄と言う人、その他親類たちとの俺の今後を巡る話し合いは何一つ折り合う所を見せず、その間中、縁側の藤の椅子と古びた文机の置かれた空間を自分の部屋のようにして過ごしていた俺が仰向けになって天井の木目の数を数え飽きてしまった頃、春ちゃんはやって来た。

「アンタ、隼太?」

縁側に仰向けにひっくり返り、天井の木目の渦を数えていた俺の顔を覗き込んだ人の顔を見た時の衝撃は相当なもんで、俺は「ウワ―!」とか「キャー!」とか、その類の大声を上げた、父が死んで以来の大声やったと思う。そこには、やや緑がかった金髪をふんわりと綺麗に内巻にした、ウソみたいなつけまつげの、桜色のワンピースの妙にでかい女が立っていた。数日間、子どもや若者のおらん、白黒に近い色味の、体の小さな年寄りばかり見ていた目にはなかなか鮮烈な初対面やったと思う。

俺は最初春ちゃんというその生物が一体何なんか認識することができんかった。第一身体がでかい、肩幅が野球選手言うかハンガーみたいに広くて、その背丈が、なんて言うのやろ、女の人でもいくらも背の高いひとはおるやろうけど、その肩幅と相まって当時の俺には途轍もなくでかい人間に見えた。それに当時の俺はまだ小学生で、その上学年で一番チビだった。

「え、誰?」

絶叫の後、辛うじて出た一言はこれやった。まあ普通聞くよな、9歳の俺はその未知の人間である『春ちゃん』が一体どこのだれかなのを知らなかったのやし。俺があの時春ちゃんのあの極彩色に驚いて裸足で庭に飛び出したりせえへんかったんは、あの時の俺が自分を取り巻く色々に心底くたびれ切っていたからやと思う。早くに両親を亡くした小学生を誰もが『可哀相』やと言うてはいるものの、実際引き取って面倒見いと言われると、それは流石に面倒やし嫌やなと、そう思ってるんやろと、誰もそんなことハッキリ言わへんけれど、俺はそれなりに勘のええ子どもやったし、そういうのはちゃんと分かってて、知ってたんや、そしてそういう空間に在り続けるというのんは心と体双方が酷くくたびれるモンなんや。

あの時俺は

(お父さんがこの世界のどこにもいてないのなら俺も静かに消えてしまいたい)

そう思っていた。それはこの古い家の天井の梁に紐通して首を吊ろうとか、ここにくる途中にあった大きな川に行ってそこに飛び込もうとか、そんな具体的な方法論を持った明確な希死念慮やなくて、誰にも見えない透明な人間になりたいとかそんな感じのことや、俺は子どもやったし、やっぱり具体的な『死』を未知のどうしようもなく恐ろしいもんやと思てたんやと思う。でも春ちゃんは俺のことを「隼太?」と、過たずに見つけて、そして目をそらすことなく俺にこう言った。

「おそくなってごめんね、迎えに来たのよ、一緒に帰ろう」

きっとこの時の俺はあからさまに「この金髪何を言うとんねん」と言う顔をしていたのだろう、それで春ちゃんは自分の事を少しだけ説明し始めた。

「アタシのこと覚えてない?春ちゃんよ。アンタがこーんな小っさい頃何回かあったことあるわよ、覚えてない?」

そう言ってその「小さい」を表現する春ちゃんの両手の幅が15㎝位しかなかったもんで俺は思わず

「なあ、アンタ、その…春ちゃん?それは人間の赤んぼの大きさちゃうやろ」

そう言って俺が父の死後5日ぶりにふふっと笑ったら、春ちゃんは今度は突然俺の事を抱き起こし、それから羽交い絞めにするみたいにして抱きしめて、おいおい泣き出した。今もそうやけど、春ちゃんはとにかく感情のふり幅の広い、喜怒哀楽の忙しい人なんや。

俺を抱きしめた春ちゃんの腕と肩は筋骨隆々言うのんがホンマに相応しい感じに逞しく、それやのに俺の顔にふわりとかかった金髪からは優しい春の花の香りがした。なんやこの人、逞しいんかたおやかなんかどっちなんや、それにさっきにんまり笑って俺のこと「隼太君?」とか聞いといて今度は泣き出すんか。ほんでもなに今春ちゃん「一緒に帰ろう」って言わんかった?

「あの…なあ、春ちゃん、今なんて言うた、一緒に帰るって何?俺と?何処に帰るん?」

春ちゃんが俺の体を持ち上げるようにして抱き、過呼吸になる程わんわんとひとしきり泣いて泣いて「もうええ加減にせえ」と突っ込みを入れてもええかなと言うタイミングを待って俺は訪ねた、なあ春ちゃん、今更どこに帰るんや、両親が死んだ俺にもう帰る家はないんや、嫌でもここで暮らすか、よしんば大阪に戻ってもきっと俺みたいに親を亡くした子の施設やら言う所で暮らすねやろ。それに『一緒に帰る』て春ちゃんは一体どっから来たんや、あとホンマにアンタ誰なんや。

「大阪。これからはアタシとアンタで一緒に暮すの。ただ隼太の住んでた団地で2人で暮らすっていうのはちょっと今、難しいの。それはごめんね。でもアタシお商売やってるのよ、お花屋さん。そのお店があるからそこに一緒に行こう。転校する事にはなるけど、お店はアンタが住んでたのと同じ大阪にあるんだし、友達にはまたいくらでも会えるわよ。落ち着いたらあたしが車で連れて行ってあげる、だからそこは妥協して頂戴よ。これはずうっと前、アンタが生まれた時にお兄ちゃん達と交わした約束なの、俺達にもし何かあったら、隼太を頼むって」

だからホラ、行こう。大阪に戻ってアンタの家を片付けて荷物をまとめてそれから友達とか近所の人?お世話になった人達みんなに挨拶もしないと、転校の手続きもあるし忙しいわよ、お兄ちゃんのお骨は?ウッソもう納骨したの?いいやお墓から勝手にだしちゃえ。

「なあ春…ちゃん?あの「お兄ちゃん」ていうのはお父さんのこと?ほしたら何?春ちゃんはお父さんの」

「きょうだいよ、アタシが5歳下なの、なんかおかしい?」

「イヤその…春ちゃんはずっと大阪におったんか?俺とあった事もあるん?」

「隼太が生まれた頃は東京で働いてたの、大阪に来たのはつい3年ほど前、お義姉さんが亡くなって、それでお兄ちゃんの具合が少し悪くなってからはたまにお兄ちゃんの様子を見に行ってたのよ、アンタ知らなかった?」

そう言えば、学童から帰った時、幾重にも花びらの巻いた大きな白いバラやとかフワフワとしたミモザの花がジャムの空き瓶に綺麗に活けられていたことがあった。それとお母さんのお葬式の日に祭壇と棺の中に飾られたおびただしい量のチューリップの花、俺が出棺の時「お父さんこれ一体どないしたん、ものすごきれいやけど」と聞いたら、知り合いがお母さんが好きな花やからってようけ持ってきてくれはってんやと言っていたアレは近所の人やとか、お母さんのお店のお客さんやなくて、春ちゃんのことやったんか。

「ホラ立って、ここに置いてある荷物とかある?大事なモンはお兄ちゃんのお骨ともども全部持ちなさいよ、この先アタシ達こんなとこには2度と戻ってこないんだから」

「えっ、いやそれ、俺は全然かめへんけど『こんなとこ』て、ここがお父さんの住んでた家なら、春ちゃんの家でもあるんちゃうん、あのじいちゃんとばあちゃんは、春ちゃんのお父さんとお母さんやろ、それやのに『もう2度と来えへん』て、それはええのん?」

「隼太がここに連れてこられてんのが相当計算外だったのよ、そうでもなきゃ終生、ここに足を向ける気なんかなかったのに、お兄ちゃんもきっとそう。それが今あの墓の中に納骨されてるだなんて、あの温厚を絵に描いたみたいなお兄ちゃんだって『ギ―ッ!』ってなっている筈よ、早く出してあげないと。それに隼太、アンタはどうなの、ここに数日おいとかれて、ここって良いとだなあって、ここで暮らそうかなあなんてちょっとでも思った?」

春ちゃんが俺の顔を覗き込むようにしてそう聞くので、俺は少しだけ考えて

「いや、俺はそこの桜の花しか好きになれへんかった」

「それ、正解よ」


その日、言葉通りに春ちゃんは、俺を庭から連れ出して、まず父の遺骨の納められた墓の下のアレ何言うんや、抽斗みたいな所をこじ開けてホンマに勝手に骨壺を引っ張り出し、それを抱えて両親である俺の祖父母の前に行って、床柱を背にして悠然と俺と父のお骨を大阪に連れて帰ると宣言した。祖父母は春ちゃんが俺を連れて帰る事には何も言わへんかったのやけれど

「アンタ…その恰好でここに来たんか、やめてえな、ホンマにみっともない」

祖母である人は顔を真っ赤にして春ちゃんの華やかな服装や髪や爪をみっともないと言って泣き、祖父である人は顔を真っ赤にして実子である筈の春ちゃんを罵った。

「オマエも夏樹もホンマにろくでもない、2人とも頭がおかしくなってんや、あんなに手も金もかけてやったのに、夏樹みたいなモン死んで当然や、その子もどう育つもんが知れたもんやない、ええから早うそいつを連れてここから出て行け!」

それ以外にももっとえらく酷い事を言っていたような気がするねんけど、祖父は俺の大阪弁とはちょっとちゃう、訛りのきつい向こうの言葉で俺には聞き取りづらく、春ちゃんに「醜い」やとか「不細工」やとか「死ね」て言うていたんは辛うじて聞き取れたんやけど、それ以外のことはようわからんかった。

不思議やな、うちのお父さんは息子の俺に「この世で一番大事な子や」て言うて、いつでもなんでも俺が最優先、半分にしたたい焼きは大きい方、苺もパックの上の一番立派でええやつを全部、1つ余ったたこ焼きは絶対隼太が食べたらええって、いつもそういう感じやったのに、ここんちのじいちゃんは自分の子どもに「死ね」て言うんか、ちょっと頭がおかしいのと違うか、もしかしたらもうボケてはるとか。

そういうことを俺は、自分の乗って来たハイエースで田舎道をブッ飛ばす春ちゃんに言うた。こん時俺は春ちゃんの隣の助手席に座ってガタガタと揺れる田舎道に何度も体を上下左右に揺らされ、舌を噛んだ。俺はまだ、世界中の大人は全部うちの父のように自分の子どもを何よりも、自分よりも大事にして慈しむもんなんやと呑気に心から信じている何も知らんアホな子どもやった。

「それに春ちゃんは不細工と違うで、それは女の子としてはちょっとその…何や、少しでかい気もするけど、俺と同じ団地におるマナなんか俺と同じ歳やけど俺の2倍位でかいしほんでも別にそれは不細工とは関係ないやろ、それにそんなん女子に言うてみ、その場で殺されるで、とにかく春ちゃんは不細工と違う、ピンクのその服かてその…すごく可愛い」

俺はちょっと前に、マナがその身長やら見た目を男子に「でかい、不細工」とからかわれて泣きながらそいつらと喧嘩していたのを思い出して春ちゃんを慰めた。あん時は父が家から出て来て、間に入って仲裁してくれたんや「そういうのはあかん」と言うて。父は

そもそも世の中に不細工な女の子なんか1人もおらん、みんなそれぞれ可愛らしいもんや、それに体の大きさなんて自分ではどないもしようのない事で人をからかうなんて一番あかんことや、恥ずかしい事なんや、ちゃんと謝りなさい。

そう言って珍しく厳しいに注意していた。俺は道中春ちゃんの隣で春ちゃんに、俺のお父さんがいかに優しいひとやったか、きっと春ちゃんも知っているとは思うのやけど、そんな話を淡々と話して聞かせたら、春ちゃんはもう祖父の家の見えんようになった地点で急にブレーキをきつく踏んで車を止め、その勢いで俺はダッシュボードに頭をぶつけた。

「春ちゃんどうしたんや、猫か狸でも飛び出したんか?」

「…お兄ちゃんが、そう言ったの?不細工な女の子なんか1人もおらんて」

「うん、そうや、うちのお父さんは働いてへんけど、ものすごい賢い、優しい人やってんで」

「知ってる。それ、昔アタシにも言ったのよ」

そう言うと春ちゃんはハンドルに頭を打ち付けるようにしてまた泣いた。でもそれはさっきの吠えるような泣き方とはまた違う、泣き声を押し殺した、だからこそ狭い車内にうんと哀しく響く泣き方で、俺は胸がぎゅっと詰まった。思えば父が急に不慮の事故のような形で死んでしまって、それから友達とも隣のじいちゃんやばあちゃんにも会わず慌ただしくここに連れてこられて今日まで、父が死んでしまったことがただ哀しいのやと泣いてくれる人はひとりもおらんかった。多分春ちゃんが最初の人やと思う。

春ちゃんはこの日、父の実家から大阪に帰る間、夕暮れの迫る高速を100kmで飛ばしながら俺が全然知らんかった父の事をぽつりぽつりと話して聞かせてくれた。昼間、春ちゃんの事を不細工やと罵った、俺には皆目意味不明やった祖父は、春ちゃんと父にとって厳しいを通り越して春ちゃんからすると

『超絶にアタマがおかしい』 

人物やったらしい。小さな頃から頭の良かった父に主に、そして時折春ちゃんにも酷い暴力をふるっていたらしい。大体はその日たまたま機嫌が悪いやとか箸の持ち方が悪いとかホンマに仕様もないことが理由やったそうなんやけど、例えば父は子どもの頃から勉強がようけ出来てあの地域では他に並ぶんモンがおらんような神童やったそうで、祖父はその賢い父を更に賢くして誰からもうらやまれるような、アンタは凄いなと言われるような、そんな息子にしたかったのらしい。それは春ちゃんが言うのには

「見栄よ。自分が田舎の工業高校出も途中で辞めたアホなもんだから、たまたまお兄ちゃんが賢く生まれて育ったことに舞い上がったのよ、だってアホだから」

そういうことやったらしく、俺とそう変わらん年頃から1日机に座らしといてとにかく勉強をせえと急かし、少しでも成績が落ちるとか、思ったようにふるまわんとかそういう事があるとわざわざ子どもを殴るために買うてきた竹刀で身体に酷いアザが残るほど殴ったのやそうや。春ちゃんのことは父がいつもかばってくれていたのやそうやけど、父が京都の大学に進学すると、今度は春ちゃんが殴られるようになった。

「それは、頭がおかしいわ、春ちゃんもお父さんも可哀相や」

「そうでしょ、いいわねえ、隼太はまともで素直で、お兄ちゃんとお義姉さんがちゃんと育てたのね」

結局、春ちゃんは高校に入らず15歳で家を出た、平たく言うと家出や、それで友人を頼って東京に出てそこで最初はトイレ掃除やら新聞配達、あとは飲食店、そういうものを掛け持ちしながらずっと働いていた。でも3年前にうんと年上の友達が大阪で花屋をやっていたのを身体を壊したので手放すのやけど、アンタやらへんかと言われて戻って来たのやそうや。

「アタシこんなだけど、綺麗で優しいものが好きなの、だからお花なの。東京に出て最初は色々アルバイトで食いつないでたんだけど、その後の20代の頃は水商売ってわかる?お酒出したりお客さんとお喋りしたりするお店でずっと働いてたのよね、でもまあ、あたしってこの見た目だからとにかくヒマでさ。そういうのをね、あの界隈では『お茶ひく』って言うんだけど、暇すぎてお茶どころか、お花も活けるようになったのよねえ、あと掃除とか、伝票整理に売掛の回収、キャスト以外の仕事全般よ」

なんやようわからんけど、とにかくそういうキラキラした服でお酒を売る店で働いている時、春ちゃんにはあんまりにも『きれいでカワイイ女の子』としての需要が無いもんで、暇を持て余した春ちゃんは、クビにならへんように控室を掃除したり帳簿をつけるのを手伝ったりお店に飾る花を活けるようになり、そこで自分は花を触るのが好きやし向いてると気が付いたのやそうや。それで春ちゃんは本格的に学校に行ってそれを勉強することにした。そのためのお金を出してくれたのは兄である父だったらしい。

「お兄ちゃんもねえ、大学を出て数年はあのクソジジイの言う通りの固い仕事にもついて本当に頑張ってたんだけどね。人間てねえ、どんなに心が美しくて頭脳明晰でも成績優秀でも『お前はアカン、これが出来ないなら死ね、ほら失敗した、やっぱりオマエはあかんねや』なんて常に言われて嗤われて殴られて育つとね、きっと心ひび割れをおこしていつかぱりんて割れてしまうのね、子どもは本当は大切に愛されて育つものでしょう?あれはお兄ちゃんが確か28歳の春よ、朝起きたら突然『外に人殺しがおるぞ、オマエは狙われてるぞ』って低い男の声が聞こえたんですって、それで外に出られなくなったの。ホントはそんな声なんかしていないのよ、幻聴って言うの。それで仕事に行けなくなって、そうしたらお兄ちゃんを心配した職場の人が家まで来てくれてね、病院に連れていかれて、そこからまあ色々あって、山奥の病院に入院して結構長くそこにいたのよ、お兄ちゃんが昔何してた人か、隼太は聞いたことない?」

「知らん、俺はお母さんの店で皿洗いしてたお父さんしか、働いてるお父さんは見た事ない」

「弁護士だったのよ、司法試験に一発合格したの、凄かったんだから」

「へえ、弁護士ってすごいん?」

「すくなくとも元夜職で花屋のあたしよりは確実にスゴイわね」

「ふうん、弁護士がなんぼすごいか俺はしらんけど、俺はお父さんが誰の事も『あいつはあかん』とか言わんかってん、人の悪口とかを死ぬまで一切言わんかったんや、俺はそれが一番すごいことやと思てる、びっくりする程優しいひとやった」

『お父さんは優しいひとやった』それを俺は自分で言うてみてから、でもその優しいお父さんはもういてへんのやと、2度とあの不味いカレーも食べられへんねやと、そういうことに改めて気づいてしまった俺は泣いた。涙が出たのはお父さんが死んでから初めてのことやった。

「お父さんはな、隣のおばあちゃんがテレビを見られへんのが可哀相やて言うてそれで屋上に昇って間違って下に落ちてしもたんや、お父さんはな、俺がいるのに死んだりせえへんていつも言うてたんや、せやから自分から死のうとした訳ちゃうよな春ちゃん、それだけは絶対違うよな」

俺は父が死んでからずっと体の中に黒い澱のように溜まっていた憂患の塊を突然春ちゃんに向って吐き出した。父は俺を置いて自ら死ぬことを選んだのと違うか、父が時折通院していた商店街のはずれの「木下医院」が精神科ていう心の病気の人のための病院やて知ったのはその年のお正月のことで、そう言う人は『死にたいなあって』気持ちに憑りつかれてどうしようもなくあらがいようもなく、彼岸に飛び移ろうとすることがあるモンなんやと、それをすこし年上の友達に「ああいう人らは死にたがりなんや」といういささか乱暴な言葉で表現やったのやけど、そういうのを聞いて知ったのやった。

「当然じゃないの、あのねえ、お兄ちゃんは昔から勉強はできるけど、運動は全然ダメで凄いどんくさかったのよ、アタシと正反対だったの、だからきっとうっかり足を滑らせるとかコケるとかしたのよ、あれは絶対に事故なのよ」

あんなに愛してたあんたを置いて死のうなんて考える訳ないのよ、そんなこと考えてはダメ。春ちゃんはそう言って、多分毎日水仕事をしているからそうなったのやろう、ざらりと荒れた暖かい掌で俺の背中をさすってくれた。そして

「そうだ、あのねえ、今日は絶対おそくなるやろうなあと思って、お弁当、作って来たのよ、隼太が知らない場所に連れてこられて何も食べられなくてそれでお腹が減ってたら可哀相だなあと思って、食べる?ていうか食べなさいよ、アンタきっと何日もちゃんとごはん、食べてないでしょう?」

そう言って後ろの座席に置いてあったクラフト紙の袋から、使い捨てのプラスチックのパックに入ったおにぎりと卵焼きと、カニなんかタコなんかようわからん赤いウインナーを焼いたんをごそごそと俺の目の前に出して来てくれた。俺は泣いていてそんなん食べられるような気持ちではなかったのやけれど、春ちゃんもまた涙を目の端に溜めながら、それでもあんまり優しく笑うので、俺は勧められるままに鼻水を垂らしながらそれをひと口もらった。

「どう、おいしい?」

「…まずい」

何それ、ひどくないアンタ。そう言って春ちゃんは膨れたのやけれど、俺はそのまずい卵焼きがうれしくてうれしくてあとは声にならんかったのや、それはお父さんの不味い卵焼きの味にそっくりやった。あのレベルには不味くはないのやけれど、でもよう似た味で、あとから聞いたらこれは春ちゃんが父に習った卵焼きなのやそうや。それなら似ていて当然や。

俺はこの人ときっとうまくやっていける。

お父さんは死んでしもたけど、俺はきっと大丈夫や、大丈夫にならんとあかんねや、そう思いながら俺は春ちゃんの不味い弁当を涙と鼻水と一緒に掻きこんだ。


それから10年の時間が経って俺は19歳になった。この10年、春ちゃんと俺はたまに喧嘩をしながらそれでも割と楽しく暮してきたと思う。

春ちゃんは見た目はともかく、性格自体は死んだ父によう似てとびきり優しい人で、初見の衝撃さえやり過ごしてしまえば、人懐こくて親切で、ちょっと年上の友達から引き継いだのやと言っていた生花店のある商店街でも皆に親しまれて、とてもうまくやっていた。心遣いがこまやかでちょっとした花にも心がこもっているからと、近所の皆はお祝い事でもお悔やみでも春ちゃんの店でようけ花を頼んでくれたし、ミナミでお店をやっているとかいう春ちゃんの昔の友達もようバースデーイベントやらの花輪とか胡蝶蘭の鉢植えを頼みにきた。皆顔がくどいというかその存在自体が強烈というか口が悪いというか男か女かわからんというか、とにかくおもろい人達ばかりでそのバースデーイベントという言葉を聞いて

「お誕生日なんや、ほしたらおばさんは今年で幾つになるんや」

と俺が聞いたら「うるさいわね、おばさんて何よ」と言うて怒られたけど、みんないつも俺に洋服やらケーキやらを持って来ては、食べなさいよとか、これ着なさいよとか、いつか店にも来なさいよとか言うて可愛がってくれた。

春ちゃんは俺が9歳から19歳になる今日も毎日朝から晩まで張り切って働いている。俺はいつも活気のある春ちゃんの店の花と花の隙間で勉強もしたし遊びもしたし飯も食うたし、とにかくそこで大きくなった。春ちゃんは働くのがとても好きな人で、その辺は死んだ父ではなくて、他人ではあるのやけれど死んだ母の方に気性がよう似ていた。実際、死んだ母と春ちゃんはとてもウマがあう仲の良い義理のきょうだいやったらしい。だから母は隼太の運動会においでよとか、発表会を見に来てやってよと言うて春ちゃんをよう誘っていたらしいのやけれど、春ちゃんは見た目がアレなモンで『隼太と隼太の友達が泣いたらあかんと思って』親戚であると名乗るタイミングをずっと見計らっていたのらしい、何やそれは、早う言うといてくれてたらあの時、春ちゃんの実家に連れていかれんくて済んだのに。

何にしても俺がふた親を亡くしたあの春から今日まで、そのままずっと普通の小学生で、中学生で、高校生でいられたのは、その『見た目がアレな』春ちゃんのお影やと思う。

「せやから遠慮とかと違うねんて、感謝や、感謝。俺みたいなもんを手元に引き取ってやな、10年やぞ、授業参観やらPTAやら三者面談やら入学式?卒業式?そういうのを全部をちゃんと引き受けて、くまなく来てくれて、俺のためにって色々やってくれたやないか、そういうの大変やったやろ?これで俺がこの家から出ていったら春ちゃんは晴れて独り身や、旅行でも夜遊びでも何でも好きにしたらええやんけ」

結局、普通に『初めてのひとり暮らしに』と銘打たれたそれぞれに小さな家電を必要最低限、ただしアイロンは春ちゃんの言う通りにちゃんとしたのをひとつ、イシヅカのおっちゃんに頼んだその帰り道、春ちゃんはなっちゃんに貰った箱ティッシュをぎゅっと胸に抱えて潰したまま、まだ嗚咽をもらしていた。春ちゃんがよう泣くのはこの界隈の人には周知の事実やけれどいいかげん泣き止んでくれへんかと、俺はそう言うたのやけれど

「お店があるもの、旅行なんかいかないわよ、朝だって市場に行くんだから飲みになんか行かないもの、それに隼太がいないとどこに行ってもつまらないのよ、大体アンタを面倒やとか、引き取って損したなあとかそんなこと言った覚えはないし、心の片隅にでも思ったことないわよ!」

俺は人を慰めるのが下手なんよなあ。俺の言葉は春ちゃんの激高に燃料を、火に油を注いだだけやった。こういう時、人間はどう言うのが正解なんやろうか。俺は小さな女の子みたいにして嗚咽を漏らし続ける春ちゃんの背中を不器用に撫でた、初めて会うた日、ゴリラみたいにでかい女やなと慄いた春ちゃんは、今、父の遺伝子のお影ですっかり背の伸びた俺より頭ひとつ小さい。

「アンタはね、あたしにとって世界で一番大切やったお兄ちゃんの一人息子で、結婚もできない、子どもも産めない、そういうあたしの理想からすると欠けと虫食いだらけの人生で唯一手に入れられた最良のもんなのよ、宝物よ、世界で一番大事やと思ってるのよ、その子とのお別れの日が迫ってるのが淋しくて哀しくて何がいけないの!」

「いやべつにそれは、悪くない、悪くないんやけどな」

春ちゃんの名前は、伊勢谷春樹と言う。

兄である父が夏生まれの夏樹、弟の春ちゃんが春生まれの春樹。

昔々、春ちゃんは13歳の、もうそろそろ女の子が女の子の身体であるらしく変わっていく季節に、実は自分は男の子の恰好をしたくないのやと、何ならこんなごつごつした不細工な男という生き物ではたくないのやと、思い切って兄である父に打ち明けたのやそうや、そうしたら父は数分間真剣な顔をして考えてから

「そうか、そんならお前はそれでええ、好きな服を着て、自分の思うように生きろ、不細工?そんなことあらへん、大体不細工な女の子言うもんはこの世に1人もおらん、みんなそれぞれに可愛らしいモンや、俺から見たお前はすごく可愛い女の子や」

そう言うてくれたのやそうや。それで春ちゃんは自分は思うように自分らしく生きようと思えたのやと、せやから父にものすごい恩があるのやと言うていたし、俺は俺で春ちゃんと暮らしだしてから3年程の間、春ちゃんが父の『弟』である事実に気がつかなかった。春ちゃんの告げた事実に驚愕の悲鳴を上げた俺を目の前にして「そういう鈍重なところが隼太のいい所よねえ」と言って嬉しそうに春ちゃんが笑っていたのは、俺が13歳の、あれも春のことや。

そして19歳の春、10年一緒に暮した息子同然の俺を手放すのが淋しい言うて春ちゃんは商店街のど真ん中で泣きっぱなしや。困ったなあ、春ちゃんは引っ越しの日までこの調子でいるつもりなんか。俺はちょっと呆れて春ちゃんに

「春ちゃんはホンマに大げさやなあ、俺京都の大学に行くんやぞ、ここ大阪やで、梅田まで出て新快速か、阪急乗ってもすぐそこやんけ」

そう言って笑った。俺と春ちゃんは通学の都合上、暮らす場所が少し離れるだけで、休みの時は帰って来るし、親子みたいな間柄はこれからもひとつもかわらんねや。春ちゃんの好きな『おかもと』の焼きそばかて来週の日曜日、一緒に食べにいこうや。

春ちゃんはそれでも、あの日の優しい桜色のワンピースを着て「だって淋しいのよ」と言ってずっと泣いていた。

春みたいに優しい春ちゃんという人は、ホンマによう泣くんや。

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