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やんのかステップ

普段全く乗ることのない電車を二回乗り換えてやっと辿りつく遠くの白亜の病院に「行きます」と言ったのは確かにわたくしではあるものだけれど、それの予約時間を紹介元の大学病院の主治医から

「じゃあ九時に俺が予約しといたし」

など言われたものでその瞬間に

「あ、やんのか?」

と心で叫んで華麗にやんのかステップ(ネコチャンの威嚇ポーズ、たいへん可愛い)を踏んだのも確かにこのわたくしであったでした。だって診てもらうのは私ではなくて五歳の娘、通称ウッチャンであるもので。

しかもウッチャンの疾患においては国内随一の名医があるというその病院から、現在のかかりつけに送られてきたFAXのぺらりとしたA4用紙には

「初診の場合は予約時間三〇分前には受付にお越しください」

さも当たり前やろという風情でそう書いてあった。ということは現地到着は八時三〇分よりほんのり前、ということは家を七時過ぎにはでなくてはいけないというこのミッションインポッシブル。尚、ウッチャンの兄と姉である中二と小五の二人は普段母であるわたくしが怒鳴って起こさなければまず自力で寝床から這い出してこない上に、夫は「電車に不慣れなママやと乗り継ぎ間違えるかもしれへんし俺が現地まで一緒に行ったろう」など言う割に普通にいつも通りの時間に起きて普通に私の作った朝食を食べていた。

おいコラやんのか。

それでも何とか上の二人を叩き起こして、お家の鍵を「落としたらしばくのでそのように」と脅して渡して一足先に家を出て、ターミナル駅で通勤途中の主にオトウサン達の波にのまれそうになりながら、電車の中ではそのオトウサン方に「あんた、その子、ほらここに座らしたって」と座席を二度もゆずっていただいて辿り着いた白い巨塔、時間はジャスト八時三〇分、初診受付をすませて渡された問診票ではまさかの成育歴まで記入する箇所があり

Q:あやして笑ったのはいつ頃ですか
A:忘れました
Q:お座りをしたのはいつ頃ですか
A:忘れました
Q:歩いたのはいつ頃ですか
A:多分一歳半かもしれない…いややっぱ忘れました

あんたホンマに実の母ですかと聞かれても仕様の無い、たいへん情けない回答を記入していざ挑んだ小児循環器科初診外来。もともとのかかりつけである大学病院で主治医に「連絡したのは小児科部長やけど、別のその先生が診る訳ではないかもしらん、特に初診は若手やと思うよ、それでちょっと話するて感じかな」と言われていたもので

「この中にはこの巨大病院の小児科の若い衆がおるわけか、たのもう」

と思って診察室に飛び込むと、そこにいたのはとても穏やかそうな銀髪の紳士、全く若い衆ではない方がお座りになっていた。名札をよく見たらその人こそが小児科部長。主治医、うそついた、うそ、よくない。その上小児科部長殿は

「じゃあまず、レントゲンと心電図と、あと午後になっちゃうけどエコーにも行きましょうか、それでそのデータを全部計算して小児循環器科のカンファレンスで検討して、今後のことを決定しましょう」

などと仰る。初診で当日可能な検査をフルコース、採血だけは直近で受けていたデータを自ら持参したので免れたものの、全く初見の勝手のひとつもわからない病院で付き添いは方向感覚が完全に欠落していることで有名なこの私、患児はゆるやかにしかし確実に反抗期にさしかかっている五歳児、全部がたいへんにはげしく面倒だった。

とりあえず心電図とレントゲンをひと巡りして戻った小児循環器科で、再び小児科部長の前にちょこんと座ったウッチャンは、紳士然とした部長ににっこりと微笑まれてただもじもじグネグネしていた。五歳の子というのは段々と知らない人に強い恥じらいを示すようになるものらしい。これが五年慣れ親しんだ主治医の前だと彼の目の前でハナクソをほじくる有様なのに、足して割ったら丁度いい。

「心電図もきれいな波形だし、心臓も…術後の肥大のない、良い状態ですね、元気元気」

というのがその時に手に入ったデータをご覧になった部長の評だった。そうでしょうそうでしょうとも、いくつも心臓の奇形を持って生まれはしたものの、心機能の頑健さはゴリラ並み(私見)であるのですよ部長、一度死にかけた二年前の術後も不死鳥の如くあの世の淵から舞い戻り現在幼稚園の年中さんなんですの。

だからこそ、最後の手術からこの二月でもう二年になるのに、在宅酸素療法から解放されないのは一体どうしてなのか、肺血管抵抗が高いままなのは何故なのか、それは一体解決に至るのか、現在の大学病院でこれ以上手が打てないというのなら、別の病院に行って

「何とかならないのですか」

と私は聞いてみたかった。だってウッチャンは色々の発達こそ普通の子どもより遅れているものの、本当に、本当に元気なのだから。これで酸素の細い管から解放してやったら、きっともっと元気に遊びまわって、今よりもっとできることが増えるはず。我慢することの多い幼稚園生活を終えて、まだ我慢することの多い小学校生活に入ることはこの子にとって幸せではないはず。そういう個人的決意のもとでの受診だったのだけれど、部長は私のこの気持ちを優しく笑ってふんわり牽制なさった。

「あのねえ、肺血管抵抗が高いという状態の場合はね、勿論肺の血管拡張のお薬をこの子は飲んでいるんですけれど、それ以上に酸素がその症状への薬になるんです。だからこの子は在宅酸素療法をしているのであって、たとえばこの子のうけた手術をうけて成人した人は、この病院には沢山いますが、肺血管抵抗が高い状態では、小児から成人する間にはそれなりに元気だったのに、肺血管抵抗が高いことが影響してじわじわ肝臓や腎臓を傷めたという症例はとても多いんですよ」

だから例えば今回、問題になっている肺の不要な血管(側副血行路)の問題を解決しても、それで二年前の術中、心臓にあけた人工的な穴を閉じることができても、必要があれば酸素は使い続けるということは起こります。そうしてでも、できるだけ健常な状態で臓器を長く持たせなくては。

「折角フォンタンを越えてきたんですから」

ウッチャンが二年前、そのままだと成人までは持たないだろう奇形の心臓と肺循環を何とかするために受けた手術は『フォンタン手術』と言って、ウッチャンのような心臓をお持ちのお子さんにはとてもメジャーな手術ではあるのだけれど、それによって作られる人工的でやや無茶な循環はいずれ体の細部に悪影響を及ぼすことがある、肝硬変、腎機能の低下、腸炎、心機能の低下、弁逆流…あとなんだっけ。

ともかく、手術をした後、もともと脆弱でそれをさらに人の手で作り変えた特殊な肺循環と心臓をそれの二次被害的な症状から出来得る限り守ることが、『フォンタン手術』に辿り着いた子を診る医者とその子を育てる親の勤めであるということで、私はそれを聞いた時、首が折れるレベルにがっかりして同時に

「でもそうやって、酸素の透明なホースにつながれたまま、不便に耐えながら、やりたいことをその時々に諦めつつ、細く長い人生を送るというのは果たしてこの子にとって幸福かしらん」

ということを考えたのでした。それは心臓のエコ―が午後であるがために、病院の食堂でウッチャンの好きな醤油ラーメン(¥六〇〇)を二人で半分こして食べながら、真白く真新しい病院の建物のガラス窓から冬の光が静かに差し込んでくるのを眺めながら、そしてちょっと早めに受付を済ませてちょっと早めに呼ばれた心臓エコーの最中にも。

それでふと少し前に、予定より随分早くに生まれたために医療的ケアをフル装備、更に寝たきりの状態になったお子さんを育てているご両親のお話(新聞のネット記事)にぶら下がったコメントを読んだ時のあの何とも言えない気持ちを思い出した。

「あたしなら産まない」
「それってその子にとって幸福ですか?」
「わかっていて産んだのなら、助けを求めるのはおかしい」

その記事にぶら下がったコメントを全部スクロールして目を通した私には『生命倫理と共生と個人の感想とエゴと優性思想の垣根が全部取り払われた場所に匿名性を放り込んで攪拌するといたたまれないことになるものだな』という感想だけが残った。あとは、やんのかコラとも。他人の幸福を他人がジャッジすることを醜悪以外の言葉で表現することは私にはすこし難しい。

しかしですよ。

ということは今日、酸素がはずれなくて、それで医療的ケア児の状態をこのまま続けることになり、それが未来の、いつか大人になったウッチャンのためだと言われても、未来の為に今を我慢し続けることは一体この子にとって幸せなのかなと、そういう子ども時代を抱えて生きることは未来のウッチャンにとっても幸福なのかしらんと勝手に考えていた私は結構醜悪だったということになる。

なにこのお見事ブーメラン。

だってそれが、幸福なことなのか不幸なことなのか、決めるのは私ではないからだ。

ひととは違う、謎の形と機能を兼ね備えた心臓を抱えて産まれて色々の不自由を背負って生きることを、ただ不幸だと思うのか、それでも生きているから幸福だと思うのか、それはウッチャンの自由なのだ。私が「これができるから幸福でしょう」「これができないから不幸でしょう」と我が子の幸不幸を決めてしまうのは、その上それを押し付けるのは端的に言うと母親としてちょっとやばめにキモい。だってこの子は私ではないのだから。

そんな訳で、私は一時間も慎重に真剣にデータを取っていたエコー室の暗闇の中で、エコーのプローブを首にぺったりとくっつけられるのがくすぐったくてかなわんとくすくす笑うウッチャンを「静まりなされ」と宥めながら、自分のエゴについてあたらめて真剣に考えたのでした。

私は、この子を産んでもう五年も色々頑張ったんやから、そろそろ全部スッキリ解決してくれよとずっと思っていたもので、多分とても焦っていたのだと思う。

私がやるべきことは、ウッチャンの幸福と不幸をジャッジすることではなくて、この子自身が己の幸福と不幸とは一体何なのかを考えることのできる未来にこの子の命を運ぶことだ。ここ数年色々な人達のお陰様である程度、未来の命の安定が約束された状態になったもので、その辺を随分あっさりと忘れていた。

さあ来月もまたあの白亜の病院にカンファレンスの結果を聞きに行こう、毎日をできるだけ楽しく、ウッチャンの人生を五歳からその先の未来に運ぶことだけが、いまの私の仕事だ。

ウッチャンは次は食堂でかき揚げうどんを食べるそう。どうせあれやろ、かき揚げの玉ねぎだけお母さんにくれるんやろ。

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