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Unexpected survivors

『Unexpected survivors 』予期しない生存者。生存率50%以下からの生存と言う意味の言葉らしい。奇跡的で劇的な生存と救命。そうなる筈だと言うタイトル。大げさだなとは思うけど、何となく。

『大体部長職や教授職にあるドクターだと、オペ室に患者、麻酔、機材、全部がそろってから満を持して登場すると思うけどね「いやあ遅くなってごめんね~」って』

看護師歴も今年で四半世紀、現在は手術室勤務のナースである3歳年上の私の姉がいつだったかそんな事を言っていたので、私は世の中とは、外科医とはそういうものなのかと思っていた。

これは、私の末娘の人生で3度目の心臓の手術の日とその後の2日間の話。


手術の当日の朝は忙しい。前日の夕飯を最後に絶食、当日の早朝から絶飲、そして事前に左上腕に取られていた点滴のルートから『ソリタT2』を注入されて、あとは大嫌いな浣腸。この時点で患児は超絶不機嫌、怒り心頭で母親の事を手荒に叩きなおかつ蹴りそして

「イヤダ!ヌグ!」

「でもそれ着てくれないと、パジャマやとオペ室には行けないから、ね?」

末娘は子供が手術室に運ばれる際に袖を通す病院の病衣を引っ張ってこれを脱がせろと言う。これだったら苺柄のいつものアタシのパジャマの方がまだマシよ。

『この病衣を着ると、自分にとって何か禍々しい事が起きる。』

その事をもう3歳2カ月の末娘は経験則で知っている。だからってその病衣を身体から力任せにはぎ取ったところで、今度は病院の名前入りのタオルで包まれて運ばれるだけなんだし、病棟の外なんか絶対寒いから。そう言って怒る患児を私と担当看護師とでなだめている時に

「娘ちゃん、今日頑張ろうね」

濃紺のドクタースクラブに白衣を引っかけた恰好で普通にカーテンの隙間から本日の執刀医が現れた時はちょっと驚いた。

末娘の手術を初回からずっと執刀医を担当している小児心臓外科医、この人は誠実とか真摯とか慎重とか責任感とかそういうものを全部溶かして煮詰めて固めたような性格をしていて、その人が術前説明の時

「手術も今回で3度目となると、心臓の周囲で強い癒着が起きていると思います。私もそれを見越して前回の手術の際、心臓の周囲の癒着が強く起きそうな場所に特殊なシートなんかを置いて来たんですけれど、それでも…ウン、今回は特に長くかかると思います」

そう説明していた今回の手術、そうでなくとも極めて緻密で外科手術の中でも最高難度と言われる小児の心臓のオペはとんでもない時間がかかる。これまでの末娘の手術は、初回は11時間半、2回目は11時間、どちらも予定時間を大幅に超過。事前に『時間がかかる』と執刀医本人から予告された今回のオペはどう考えても術前説明の為に先生が用意してくれた資料の『予定時間8時間』を大幅に超過するだろうと思って、当日一緒に待機する夫にも

「全部終わって帰宅するのは、深夜になるかもしれないね」

そう伝えていた、心臓外科医、とくにその内でもごく小さくて微妙な状態の心臓を扱う小児心臓外科医はフィジカル、メンタル共に常人を超越した生き物だと聞いているけど、術場に10時間超立ち続けると確実に分かっている日に朝から普通に病棟に現れてどうするんですか先生。

という事を口には勿論出さずに私は末娘共々先生に深く頭を下げた。

「今日はどうぞよろしくお願い致します」

3年前、末娘の疾患を胎児エコーではっきりと捉えた新生児科医が

『ここまでたどり着けたら何とか大人に』

そう告げた最後の手術を初回からずっと同じ執刀医が担当してくれる事が実はとても有難い、僥倖だという事は、私もこの3年間周りを見聞きして知っている。医者も勤務医なら異動も退職もある。そしてそのとても有難い執刀医に末娘は

「ネガイマース」

野球部みたいな挨拶をした。3歳児はまだ口が上手く回っていない。

先生が看護師に点滴の指示をしてから爽やかに病室を去った後、私はその場にいた担当看護師にそっと言った。

「先生って今病棟なんかに来ていいんでしょうか、抗生剤の指示なんて他の先生にお願いしたらいいのに」

「ねえ、凄い偉い先生なんですけどね」

「オペが終って、この子がICUから小児病棟のPICUに移っても来ちゃうんでしょうねえ…」

「来ちゃうんでしょうねえ...」

「疲れないんですかね」

「なんか、気になる患児が病院に居るのに家に帰る方が疲れるんだそうですよ」

そういう人に今回も私は文字通り、娘の命を託した。

今から始まる、長い長い1日。

それでも、きっと夕方には手術室の看護師から現状報告が来て、それからいくら遅くても9時位には終了の報告を先生がしてくれる筈。

慣れというのは恐ろしいもので、私と夫は、3度目になる末娘の心臓の手術時間を勝手に予測して、じゃあ上の子ども達が帰宅する時間に合わせて夫は帰宅した方が良いだろうとか、間に交代で食事に行こうかとか、そんな段取りを立てていた。3度目になる今回は手術の終了を落ち着いて待てるだろうと、終わる時間には先生が手術室の自動扉からごく早足で手術室待合に現れて

「遅くなりました」

笑顔でそう言ってくれるだろうと思っていた。



朝9時に手術室に入室した末娘の途中経過報告が全く来ない事を、少し不安に思い始めたのは夜7時を過ぎた頃だったと思う。

いつもなら、大体7~8時間を超えたあたりに手術室の看護師さんから患者家族に状況報告がある。大体それは『予定通り進んでいます』というもので、そこで私達親も少し気持ちを休憩させる事が出来る。でもこの時は大体この時間だろうと予測していた時間に末娘の手術室から担当の看護師さんは現れずそうしている間にも、手術室から

「...さんのご家族様、手術終了です。このまま病棟に上がります」

「先生から簡単に説明がありますので、今から面談室の方に」

そんな風に案内の看護師がやって来て、ひと家族、またひと家族と待合室からは人影が消えていく。これは本気で手術が長引いているんだと思った時、時計は夜の8時を過ぎていた。待合室には私と、1人でぼんやりとテレビを眺めている若い男の人と、かなりお年を召した親御さんを待っているらしい年配のご夫婦の3組だけになっていた。

まだ伝令ない?

まだ、伝令ないまま過去最高時間更新の予感。

前回何時終了だった?

8時。

私達夫婦は、この手術室からの経過報告を『伝令』と呼ぶ。高校野球なんかで監督の指示をチームの誰かがマウンドにいるピッチャーに伝えに行くアレのこと。3年前の末娘の初回の手術が3月の末で、その時『春の選抜高校野球』をずっと見ていた名残だ。LINEでそんなやりとりを夕方自宅に帰った夫と交わしたのが8時10分だった。朝から手術室待合のソファにずっと座っていた私は腰とお尻がすっかり痛くなり、それを何とか解消しようとして立ったり座ったりしていた。出来たら少しその辺りを歩きたかったけれど、もし持ち場を離れた時に伝令の看護師さんが来たらと思うとそう遠くへも行けない。当然お腹すいたからと言ってちょっと何かを買いに1階のコンビニに行く訳にもいかず、カバンに入っていたアルフォートを少しずつ大事に齧った。

そう言えば、外は今日はとてもいいお天気だったらしい。2月なのに春のような温かな空模様。でも今日は一度も外で空を見てないな、病院は、特に手術室と重症者のための施設のあるフロアには窓がないからな。この時、そんな事を考えたのを覚えている。

そして、この時間を境に私はいよいよ春先に冬眠から目覚めた熊のように待合室の辺りをウロウロし始める。朝から長時間じっと座り続けて、体の節々がすっかり痛くなっていたというのもあるけれど、もう夜だと思うと、そしてこれまでの最も長い時間、末娘がオペ室に留め置かれているんだと思うと途端に着かなくなってしまって。

その『春先の熊』に手術室からの便りが届いたのは午後8時50分。

「あの、娘ちゃんのお母さんですよね?」

「ハイ、お母さんです」

受け答えが若干おかしい。

「今予定通り、人工血管を下大静脈から肺動脈へ繋ぐ事は出来ました。今人工心肺装置をはずして様子を見ています、長くかかってしまって申し訳ないんですが、まだもう少し時間がかかりますので、このままお待ちください」

大丈夫です、時間超過は織り込み済みです。私は大きく頷いてから

「ハイ、先生に頑張ってくださいとお伝え下さい」

そう言って、術衣を着た看護師さんが再び手術室に戻る背中を見送ったものの

「今、人工心肺装置をはずしました」

その一言が何か引っかかった。それ、どういう事ですか。末娘の今回の手術では心臓の中を触るにしろ、その周囲を触るにしろ、心臓が体内に血液を送り出すというポンプの仕事を一旦機械に切り替える、人工心肺装置を使用しますと言う事は事前に言って聞いていたし、前回も、更にその前の手術でも末娘は人工心肺のお世話になっている。

そしてその使用時間は術前説明の資料によれば、大体180分前後。

それが、この時間にやっと外して『様子を見ています』。

その疑問を解消したくても、私は普段、普通の主婦をしている患児の親で、医者でも看護師でもないし、それならと誰かに訊ねようにも、もう待合室ににいるのは私ひとりだけ。一体中で何かあったのか、それはもしかしてとても良くない事なんじゃないのか、でも癒着が酷いとあらかじめ言われていた訳だしそれで時間が押しているかもしれない、今手術室に入っている末娘に何かあるとかそんな事じゃない、私はそう逡巡しながら、悪い思考と可能性を払拭して良い方に予測を傾けようと努力した。だって術前最後の外来では小児循環器医である主治医にも

「肺も心臓もベストな状態」

だと言われていたし、体重だって『体重が増えにくい』と言われるこの手の疾患の子にしては珍しく14㎏と3歳児の平均値で、とにかく万全の状態で今日の朝9時に手術室に送り出したはずなんだから。



結局、手術終了の報告が来たのは11時直前、末娘が手術室に入ってから13時間を超えた頃だった。予想通り過去最長の手術時間。そしてこれまでは大体、執刀医自らが待合に現れて

「お待たせしました。無事終わりました!」

その言葉から始まる筈だった術後の説明は、『無事』では始まらなかった。

先生の表層には笑顔も無かった。とても固い表情をして私をまずはこちらにと面談室に案内し、若い助手らしい医師を背後に、私に向かってまず初めにこう言った。

「予定の術式はすべて終わりました。人工血管は、結局心臓の裏ではなく、心臓の中を通す形になりました」

今回の末娘の手術では、生まれつき心室の左右の別が無い、正確に言うと右室が未形成の、まるで魚類のような造りの心臓の中で静脈血と動脈血が混ざり合ってしまう、即ち年中酸欠状態になる循環を作り変えるために、静脈血を心臓を介さず直接肺に送り込むという普通の人間の基準では少し無茶な新しい循環を作る事を、最終の着地点に設定していた。

そのために前回、1年7ヶ月前には上半身部分の循環、上大静脈と肺動脈を接合した手術に続いて、3歳2カ月の今回は下半身の循環、下大静脈と肺動脈を人工血管で繋ぐ、それが今日の手術の目的で、その人工血管を心臓の真裏から右肺動脈に繋ぐか、右心房の中を通して右肺動脈に繋ぐか、あともう一つ別の左側のルートを取るか、それは手術のその日に胸部を切開して現状を目視してから決定しますと執刀医に言われていた。

その結論。

「予想以上に心臓の裏側の癒着が酷く、裏側を通すにはスペースが足らなかったので、心臓の中を通す結果になりました」

末娘は今回の手術が人生3回目。前回からは1年7ヶ月と比較的長い時間を隔てたこの子の心臓とその周辺は、何度も手術を繰り返した事で出来た傷を自身が修復しようと酷い癒着だらけになっていたらしい。そしてそれが手術の進みをかなり阻んだのだと言う。癒着を丁寧にはがして綺麗にしなければ人工血管を第一希望の予定のルート、心臓の裏に通す事が出来ない。予想を遥かに超えて難渋した癒着の剥離、予定外に超過していく時間。

結局、先生は当初「できればこれがベスト」と言っていた、心臓の裏側に人工血管を通して右肺動脈に繋ぐ方法から、もうひとつ別の術式として予定していた心臓の中に人工血管を通す方法に術式を切り替え、末娘の心臓の右心房の中にトンネルを通すようにして人工血管を通した。

末娘は元々心臓が右に大きく傾いている、右胸心と呼ばれるそれがこの子の手術を難航させる元凶になった。人工血管を通す場所が幼児の小さな身体の中に上手く見つけられなかったのだ。そのために末娘は最後の手術を1年半待ち続け、結果的にそれが体内に酷い癒着を生んだ。直径16mmの人工血管を通す隙間を心臓と背骨の間に作ることが出来ない程に。

その人工血管が末娘の心臓の右側を貫いているその間、末娘の肺と心臓の機能、体内に血液を送り出すための循環機能は末娘の体の外に繋がれた人工心肺がずっと肩代わりをしてくれていた。そうやって心臓の中と周辺を丁寧に切って剥がして繋いでいる間に時間は予定をかなり超過し、結果、心臓と肺にひどく負荷をかける形になってしまって、末娘は

「人工心肺を一旦外して経過を見ましたが、そうすると不整脈が起きる状態が続きました。肺と心臓の機能が低下している状態で。、そのため、今回は末娘ちゃんを人工心肺に繋いだままICUに移動させることにしました」

心臓の機能、即ち命を人工心肺に預けてそのまま手術室を出る事になった。それ、私がこれまで同じ心臓の疾患のお子さんをお持ちのママから聞いて知っている知識を総動員するとかなり恐ろしい状態だし、しかも

「人工心肺に繋いだままということはアレですか、閉胸して縫合してないという事ですか」

「おっしゃる通りです」

人工心肺、それを付けたまま手術室を出るような微妙な状態であるという事は、即ち末娘は切開された術野を縫い閉じてもらっていないという事になる。多分切開した胸骨もそのままだ。普段からお風呂から上がるとなかなか服を着てくれずにお尻丸出しで家中を逃げ回る娘ではあるけれど、心臓までまる出しってどうなのよ。人間は、受けた衝撃が大きすぎるとなんだか妙な事を考えるものだ。

思えば服を着るのが嫌いな子なんですよね...

普段、外科外来で会う時には、終始笑顔で末娘の胸にちょっと珍しいラパポートタイプの聴診器を当てる時は必ず、末娘が末端の金属の部品の冷感を直接感じたりしないように掌でぎゅっと握って慎重に温めてから

「もしもししてもいいですか?」

そう聞いてくれる優しい執刀医はずっと、まるで怒っているような厳しい表情をしていた。とりあえず事態が予想の範疇を越えて深刻であることは私にも重々よく分かった。そしてこの時末娘は人工呼吸器、人工心肺ならびに

「腹膜透析を行っています」

心肺機能の低下に併発する形で機能が低下してしまった腎臓を補助するために透析をしていた。それを私は術前に先生が末娘の手術の為に作成してくれれた手術説明別紙の9ページ『手術に関連した合併症』の心不全への対処にあった事を記憶していた。というよりも聞いた限りでは今、末娘は資料に記載されている『心不全への対処』それをフルで装備している事になる。

「それは、事前にお伝えいただいていた起こり得る事態の中ではかなりグレードの高い『悪い状態』という事ですか」

「そういう事になります」

『試合に勝って勝負に負けた』

多分それに近い形で末娘の13時間超の手術は終わり、幽霊だって歩いていない全く人気のない病院の救急用の出入り口から、唯一そこにいた守衛さんに見送られ、夫が迎えに来てくれた車に乗って私がやっと自宅に帰り着いた時には、時計は夜中の3時を回っていた。

思えばこの末娘を産みに来た時も病院は深夜、1人タクシーで乗り付けた妊婦を迎えてくれたのは守衛さん1人だけだった。あの日の私、お元気ですか、あなたがタクシーでここに来た日から3年2ヶ月後、予定されていた3度目の手術は終わりましたが、残念ながら状況は最悪です。


翌日から、親はICUへの日参が始まる。面会できるのは1日1回15分、それを本来なら現在のこのコロナ禍の影響で面会禁止の所を小児心臓外科医の先生とICUの心臓外科チームが掛け合い、ICU、集中治療部から許された。そして先生は手術当日のあの朝、病棟に現れた時から今日まで多分家には帰っていない、末娘の状態をずっと傍らで注意深く見守ってくれている。命の門番だ。

当の末娘は瞬きもしない程深く眠ったまま。強い鎮静と麻酔、その影響下で眠っている状態だと薄く開いた瞼の中の眼球が乾いて来てしまう。そのためにワセリンを塗布されてテカテカになっている顔。手術の影響での心臓の機能、それに続いて腎臓と肝臓の機能が下がって来る事で起きてしまう黄疸と浮腫み。そうでなくとも心臓の手術の後は浮腫が付きもので、いつも顔が末娘が今大好きなアンパンマンのようにまん丸になる。

「状態としては、楽観も悲観もできません。今日が火曜日ですから木曜には一度数値を見て、そこから週末に補助循環装置からの離脱にチャレンジします」

末娘の身柄がこのICUに置かれている間は、普段主治医である小児循環器医から、この小児心臓外科医が主治医になり、診療科も書類の上では一度小児科から退院して循環器外科に再入院している形になる。

今、この小さな人の生存の全責任を背負ってくれている小児心臓外科医の表情は手術終了の日からずっと険しいままだ。ICUを訪ねるたびに末娘の眠るベッドを挟んだ状態で、その日の状態を報告してくれる先生の顔を見ていると泣きたくなるので、私はできるだけ末娘の顔を見るようにしていた。分からない事はなんでも質問してくださいと先生は仰るものの、この膠着状態を抜けなければ先の事は一切わからない事だけしか分からない、だからあまり質問する事が頭の中から探し出すことが出来ない。あるとしても

「この状態を抜けて、元のあの横暴な末娘に戻れるんでしょうか」

「手術して出来上がった循環はちゃんと機能するんでしょうか」

「ケア状態は変わりますか、今は在宅酸素だけですけど」

その質問のどれもがこの人工心肺、補助循環装置を離脱して、もう少し先に進めなくては分からない事ばかり。しかもつい昨日知ったけれど、この人工心肺、先生が補助循環装置と呼ぶこれこそが、昨今一躍有名になったあの『ECMO』というものであるらしい。それをICUの担当看護師さんから教えてもらった時、私は思わず

「最先端ですね!」

「最先端でしょう?」

そんな私の馬鹿みたいな驚きのコメントを発してしまった。初めて見ました!

その場にそぐわないアホみたいなコメントに対してICUの看護師さんは『そうです!これがその!』というテレビショッピングみたいな言い方をした。でもねえ最近はこの機械の名前が独り歩きしている事が現場の我々には逆になんだかおかしな感じがするんですよねと、これはこの途轍もなく暗い状況の中ではひとつだけ面白かった会話だ。

多分最大限に慎重に言葉を選んで厳かに状態説明をしているのだろう先生とはかなり対照的に、ICUの看護師さん達はとても明るい。大体ケアユニットと名の付く部署の看護師さんは凄く明るい人が多い気がする、重篤な患者ばかりが集う病院のフロアにあって、彼等は患者やその家族のためにあえて感情のふり幅を大きくして、つとめて明るく振る舞ってくれているのかもしれない。


『楽観も悲観もできないし、後退も進展もしていない、とりあえず木曜日の数値を見て今のこの状態が悪化しているのか改善しているのかを判断します』

そう言われて、私は術後2日目、先生の話の中以外では事態の深刻さには一切触れずに、担当の看護師さんとこの子肌弱いんですよだとか、今年の春幼稚園なんですよ制服のお金もう払うんですけど、全然起きてくれなかったらどうしようとかだとか、あとは

「この子、起きたら大変ですよ、挿管もCVも引き抜こうとしますから」

「知ってる〜前回の入院の時に夜中に吠えてたの見ました」

そんなことしてたんですか?もうほんまにスミマセンという1年7ヶ月越しの謝罪、本当にとりとめのない会話をしてICUを後にし、乗って来たはずの自転車を病院の駐輪場に置き忘れ、バスで自宅に帰り、翌日自転車置き場を見るまで自転車を置き去りにしたことに気が付けなかった。

更に今朝は夕飯用に作った豚汁に豚肉を入れ忘れた。これ一体、何汁になるんだろう。

もう、絵に描いたような上の空。

でも今、自身の主観に任せて現状を真正面から把握して受け止めてしまうと、悲観的にしかならない上にいちいち泣きたくなるので、私はこの子が補助循環装置から離脱してせめてICUを抜けるまでは、自分の中にある客観性を総動員した俯瞰の第三者の視点を貫きたいと、そう決心した。今。

悲観に乗じてひとりで塞ぎ込んだところで、家では上の2人の子ども達がお腹が減ったのでご飯はまだですかと言ってくるし、喧嘩はするし家は勝手にどんどん散らかる。

人間の生存もその逆の出来事もすべて生活の一部だと思う。

今は、そう思う事にしよう、そう思わなければ。

あの子は心機能も肺の機能も、腎機能も肝機能も自力で持ち上げていくだろう、何と言っても手術開始直前、麻酔科医を相手にあれだけ大あばれした娘だ。何とかなるんじゃないかと私は思っている。

根拠は私の経験則と勘、それだけ。

先生、娘は大丈夫だと思います。

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