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短編小説:月とナポリタン

☞1

僕に兄がいたのは小学校1年生から4年生の3年間の間の事だ。

父が勤めていた建設会社から独立して、何人かの仲間と古いマンションや中古住宅をリノベーションする事業を始め、それが当たってとても忙しくしていた頃、温かな雨の降る春の雨の夜に突然、父は家に妙に髪の色の赤い女の人と、そして髪を短く刈り込んだ男の子を家に連れて来た。

当時、僕は小学校に入学したばかりで、実の母親を1年前に亡くしていた。それで、手元に残された僕とその周辺に色々と手の行き届かなくなった父が、継母と兄を僕に用意した。父にはそう説明を受けた。

「この人がお母さんで、こいつがお兄ちゃんだ。これからお前の面倒を見る」

実際、僕には小学校に入学する日の朝、ランドセルが用意されていなかった。

「オマエ、なんさい?」

あの年の春は、温かくなるのがとても早かった。桜前線は3月の半ばに僕の住む街にやって来て、4月が来る前に、初夏の日差しが桜の花弁をすべて街から連れ去った。その日、雨の夜の優しい湿気の漂う空気の中で、突然僕の兄になったらしいその子は、ニヤッと笑って僕の歳を聞いた、僕がつい最近1年生になったんだと言うと

「なんや、オマエちっこいな、幼稚園児かと思たわ。でも大丈夫や、これからオマエになんかあったら兄ちゃんが守ったる」

弟が欲しかった。そう言って嬉しそうに僕の頭をぐしゃぐしゃと撫でてニコっと笑い、自分は小学校の4年生だと教えてくれた。リトルリーグでサードを守っていたと言う、10歳にもならないのに160㎝近く身長のある体の大きな兄。一方の僕は、学年で一番小さくて、運動は全部苦手で、細い、枯れ木のような手足をしていた。3月生まれの、それも予定日より2ヶ月程早く生まれたらしい僕は、兄の言う通りの幼稚園児にしか見えない、体が弱くていつも顔色の悪い貧相な子どもだった。

母親になったという人は、兄と同じ訛りで、腰や胸の周りが柔らかな脂肪に覆われた女の人にしては少し大柄なとても陽気な人で、長いつけ睫毛やキラキラとしたアイシャドウに彩られた一重の目は、笑うと猫のように細くなって、下ぶくれの頬にはえくぼが出来た。それが40半ばの父の再婚相手だと言うには少し若いこの人をもっとずっと幼く見せていた。

「ハルちゃん、お腹すいてへん?」

急ぎの作業があると言い新妻と僕達兄弟を置いてまた出て行ってしまった父を見送り、大阪から来たと言う新しい母は、初めて会った新しい息子の僕に、夕飯は食べたのか、食べてないのなら何が好きかと尋ね、当時も今も人前で話す事が極端に苦手な僕がもじもじしながら

「あかいスパゲティがたべたい…」

そう小声で言うと、よっしゃほんならおかあちゃんが作ったろと言って立ち上がった。

「ほんでも2人して名前がハルて、なあ」

僕が遥で、兄が春馬。今日から突然兄弟になった僕達の顔を交互に見て、今日から突然母親になった人は嬉しそうに笑った。新しい母親は、僕の実の母親が死んでから誰も家の中を片付けなくなった結果、空の段ボールとごみ袋がうず高く積まれて足の踏み場も無くなってしまった台所の、べたべたした何かが焦げて黒くこびりついているガスレンジで大盛りのナポリタンを作り、それをフライパンごと鍋敷きの代わりの週刊誌の上に置いた。

「あかんな、この家、もうキレイな皿がひとつも無いわ」

あの人、忙しくて手が行き届かないって言うてたけど、コレ手が行き届かないとかそういうレベルの問題ちゃうなとため息をついた新しい母は、空の菓子袋やコンビニ弁当のカラがうず高く積まれたダイニングテーブルを使うのは、衛生的にどうかとそこで食事をする事を諦め、僕らは床に新聞紙を敷き、遠足の日のようにそこに座って食事をした。

家具調度はどれもそれなりに立派なのに、実質巨大なごみ箱でしかない家の中を珍しそうに見渡していた新しい母は、次の日から数日をかけて人が住む空間ではなくなっていた家の中を綺麗に片付けて隅々まで磨き上げ、次に箪笥の中身を全部取り出して、何もかもがぐしゃぐしゃに詰まっていた僕の衣類をきれいに整理し、サイズの合わないくたびれた洋服を全部捨て、新しい下着や靴下やシャツを沢山買って来て僕の抽斗に補充してくれた。あの頃の僕の衣類や持ち物はすべて、実の母が死んだ1年前から何も更新されないまま時間が止まってしまっていて、僕が箪笥から何を引っ張り出して着てみても、大体の服の袖や裾の丈が短くなっていた。そうしてあらかた家の中を片付け尽くして最後の仕上げに、新しい母はずっと伸ばしっぱなしになっていた僕の髪を、ベランダで散髪してやると言った。

「おかあちゃんな、向こうで美容師さんやってん」

すっかり黒ずんでいたタイルに水と洗剤を撒いてブラシで磨き上げ、春風でそのまま乾かしたベランダに椅子を出して兄弟2人が並んで座り、僕は伸び放題になっていた頭髪をさっぱりと整えて貰った。春にしては少し強い日差しの中で聞いた髪切りバサミのサキサキという心地よい音と

「ハル、かいらしなったで、なあおかあちゃん」

春馬の関西弁の柔らかな言葉の響きと、その日が4月29日で春馬の10歳の誕生日だった事、それを僕は今でも妙によく覚えている。

僕は死んだ実の母をお母さん、新しく来た母の事を春馬に習っておかあちゃんと、そう呼ぶことにした。

あの日から僕の好物になったおかあちゃんの作るナポリタンには、近所のスーパーで1袋100円の赤ウィンナーで作った6本足のタコが沢山隠れていた。父は貧相な食べ物だと言ってそれを嫌がったが、僕ら兄弟はそれがとても好きだった。赤いウィンナーの最後の1個をいつも必ず春馬が僕に譲ってくれる事が僕にはたまらなく嬉しくて、そんな僕らの姿を眺めるおかあちゃんの目はとても優しかった。

おかあちゃんは、自分で産んだ実の子である春馬と、会った事もない赤の他人が産んだ子である僕、2人の息子を分け隔てるという事をしなかった。

とても、とても愛して貰ったと思う。

☞2

それが、もう20年も昔の話だ。

今更こんなことを思い出しているのは、僕の目の前に、当時の兄によく似た小学生が居るからだろう。

「ハルちゃんのは、タコの足が6本でおばあちゃんのと一緒やわ」

僕が冷蔵庫にあった適当な材料で作ったナポリタンの山頂に、ふと思いついて3つ程残っていた赤いウィンナーで作って飾ったタコ、それにフォークを突き刺している当時の春馬に面立ちがよく似た子どもは、実際、春馬の娘で今小学4年生だと言う。名前は桜子。僕が名前を聞いて、じゃあ君は春生まれなのかなと尋ねたら、桜子は

「そ、ウチのおとうちゃんがな、ホラ桜花賞?競馬場で大穴当てた日にウチが生まれてん。だから、桜子」

そう教えてくれた。春馬は今から10年前、奥さんがまさに分娩台に乗って桜子をこの世界に送り出そうとしていた時、地元の友人達と宝塚の競馬場に行っていたらしい。春馬は昔からそういう奴だ、優しくて付き合いが良くて少し享楽的で、一度思った事は後先を考えずにやってしまう。奥さんはそんな衝動的感情優先の小学生みたいな夫が、陣痛が始まったと何度も携帯に連絡を入れているのに、着信に全く気付いてくれないまま、結局1人で娘を産んだ数時間後に、生まれたての新生児がずらりと並ぶ新生児室のガラス窓の前で、別に連れてこなくていい友人達と一緒になって「なんや全部同じ顔してへんかコレ」と言って笑っている姿を見た時、お産直後の体の痛みを怒りですっかり忘れ、手近にあった点滴台を掴んで振り上げて夫の頭を殴りつけた。奥さんはとても気の強い人だったみたいだ。

でも、当時の奥さんの気持ちは、男の僕にも分からなくはない。

「おかあちゃんな、病院の廊下に1時間、おとうちゃんと友達全員正座さして大声で説教してんて。アンタら一体何考えてんねん、人が死ぬ気で分娩台の上で唸ってた時に競馬て、アンタらも同じ目にあってみたらええねん、死ねこのドアホて。ほんでな、ナニゴトやて廊下に出て来た看護師さんも他のお母さん達もみんな、おかあちゃんの話聞いて、そうやそうやておかあちゃんの味方してな、おとうちゃん達、ええ大人が全員、泣きながらおかあちゃんに謝ったらしいわ。おかあちゃん、腹立ちすぎて、お産の後、お股が痛かったんがすっかり消し飛んだて笑ってはった」

その春馬は天皇賞の日に生まれている。今年32歳の筈だから1989年だ。おかあちゃんは臨月に1人目の夫と出かけていた京都の競馬場で陣痛を感じて、それなのにぎりぎりまで粘って単勝を当て、ちゃんと換金してから産院にタクシーで乗り付けたらしい。だから『春』の『馬』なんだと、おかあちゃんが僕に教えてくれた。

「イナリワンが、2着と5身差のぶっちきりで優勝した年や」

当時の僕には競馬の事はよく分からなかった。今でも賭け事はやらないのであまり詳しくない。でもおかあちゃんは偶に洗濯物を畳みながら日曜日の競馬中継を横目で見て歓声を上げる事があって、そんな日は決まって夕飯に団扇程の大きさのトンカツが出る。きつね色の団扇を見て歓声を上げる僕と春馬に、おかあちゃんは

「ウチな、結構当てるねんで」

そう言ってエプロンのポケットから出した小さな紙片をヒラヒラさせて笑い、熱い内に早う食べと言って僕達を食卓に急かした。あの頃僕達の暮していたマンションは府中にあった、心臓の病気を専門にしている大きな病院の近くだ。父は、仕事なのかそれともまた別の用事なのか、再婚した年若い妻であるおかあちゃんをほったらかして毎日夜遅くにしか家に帰らず、偶に帰宅しても酔っぱらって夫婦の寝室ではなく、僕の布団に潜り込んで来た。あの頃僕はその時にしか父に会ってなかったように思う。だから僕は今も父の記憶は断片的にしか僕の中に存在しないし、僕と春馬とおかあちゃんの3人はまるで母子家庭のような暮らしをしていた。

おかあちゃんがそんな毎日をどう思っていたか、それは知らない。でも僕はその3人で過ごす毎日がとても楽しかった。

でも、そんな僕と晴馬とおかあちゃん、3人の暮らしはそれが始まった雨の降る静かな春の夜から数えて3年目の夏に突然終わっている。父が仲間と起こした事業を広げすぎた事が躓きの石になって資金繰りに行き詰まり、そのまま多額の負債を残して蒸発したからだ。普段から何日も帰宅しない事が特に珍しくない父が1週間程音沙汰が無い事を、今回は随分帰ってこないねと呑気に構えていた僕らに、父が家を捨ててどこか遠くに逃げたらしいと教えてくれたのは僕の知らない男だった。

「坊主、オマエの親父、どこに逃げたか知ってるか?なあ?」

夕方、玄関チャイムを聞いてドアを開けた僕の顔を覗き込んで来た男の着ている喪服のようなスーツと、焦点が少し合っていないように見える瞳が恐ろしくて、僕は慌てて奥から玄関を見に来た春馬の背後に隠れた。あの頃の春馬はもう父より上背も肩幅も大きい、とても中学1年生には見えない立派な体をしていた。

「あんな奴の行先なんか俺が知るか、帰れオッサン、シバきまわすぞ」

そう言って啖呵を切って男を上から睨みつけた春馬はその男の人に思い切り顔面を殴られ、よろけて靴箱の角で顔を打って鼻血を出した。後から聞いた話では、無計画に事業拡大をしてきた父の借金はまともじゃない所からの物がいくつもあったらしい。というより、その頃はもう、父の会社にはまともな所はお金を貸してくれない状態だったらしい。

その日は、男に殴られた事に逆上した春馬が鼻血も拭かずに、玄関に立てかけてあった野球のバットを掴んで振り回したので、それに気圧されて男と背後にいたもう1人は、これまで僕が聞いた事も無いような汚い侮蔑の言葉を吐き捨てて帰って行った。でもこの日からその手のおじさんやお兄さんが僕達の家の前に途切れずに張り付く日々が始まり、挙句僕の通っていた小学校の校門にまで来て僕に父親の残した借金の返済を迫るようになった。

でも無い袖は振れないし、父からの連絡も一切無い。それでもうどうしようもなくなった僕達は、1学期の終わりを待って一家離散、二手に別れて府中のマンションからそれぞれ別の土地に逃げる事になった。おかあちゃんは僕を手放す事にしたのだ。あの時のおかあちゃんには子どもを2人連れて逃げる力はなかったし、そもそも元は赤の他人のおかあちゃんが、多額の負債を押し付けて蒸発した夫の連れ子である僕を養育する義務も義理もそんなもの普通に考えればある訳がなかった。

僕は、お母さんが死んだ後、殆ど連絡をとっていなかったお母さんの実家の、横須賀の祖父の元に引き取られ、おかあちゃんと春馬は知り合いを頼って以前暮らしていた大阪に戻る事になり、僕は2人の転居先が大阪の一体どこの何という場所なのか聞く事ができないまま、月の出ていない蒸し暑い夏の夜、3年間一緒に暮らしたマンションの前で別れた。

最後に見たおかあちゃんの顔は泣き顔で、春馬はずっと眉間に皺をよせて、陽気で情に厚い性格に反して他人を威嚇する造作の顔を余計に険しくしていた。春馬は泣くのを一生懸命堪えていた、弟の僕が春馬にしがみついたままずっと泣いていたからだ、兄の自分まで泣く訳にはいかない、そう思っていたんだろう。

「春馬と離れて暮らすなんて嫌だ」

月の出ていない夏の夜、僕の願いは叶わなかった。



僕は、かつて自分が『あかいスパゲティ』と表現したものを、フォークで器用にくるくると巻き取る桜子の真剣な顔をじっと見つめながら、ずっとそんな事を思い出していた。

「何、ハルちゃん、ウチの顔に何かついてる?」

姪の桜子が少し怪訝そうな顔をした。姪と言ってもつい3日前に初めて出会った姪だ。それまでは桜子の存在自体、全く知らなかったし、春馬が僕と別れて移り住んだ大阪の喜連瓜破という難しい地名の街で、また野球をしながら元気に育ち、恋をして子供が出来て結婚して奥さんを亡くして、それからつい最近、僕の自宅の結構近所に越して来た事も、何もかも僕は一切、知らなかった。

「いや、よく似てるなあって」

「私が?おとうちゃんに?私あんなやくざみたいな顔してへんわ、やめてやハルちゃん」

ハルちゃんに似てる方がええわ、おとうちゃんの言ってた通りの、かいらし顔やし。そう言いながらタコのウィンナーをまたひとつ頬張る桜子の憮然とした顔の切れ長の一重はやっぱり春馬によく似ていて、僕は笑った。桜子の祖母である僕のおかあちゃんは3年前に癌で亡くなったそうだ。

「僕は、桜子のおとうちゃんとは血縁上は赤の他人なんだからそれは無理だよ。それに『かいらし顔』って、僕はもう29だよ、桜子から見たら随分オジサンだろ」

僕は死んだ僕のお母さんに似てるんだ。そう言うと、それなら私も死んだ自分の母親に似てる方が良かったと言った。桜子の母親は小柄な可愛らしい感じの人だったらしい。

「私、昔からおとうちゃんに『オイ、桜子、俺にはホンマは、弟が1人おるねん、今は会えへんけど、かいらし顔した、俺よりずっと頭のええヤツや』ってくどい程言われててん。せやから、ホラあの何?腹違いとか種違いとかそういうの?おとうちゃんにはどっちかで血の繋がった弟がおるんやと思っててんけどな。おばあちゃん昔2回結婚して2回離婚した言うてたし」

「桜子、種違いはやめなさい」

「なんで?兄弟でお父ちゃんが違う事をそう言うんやないん?ほんでも何で種なんかな、なぁ、ハルちゃん」

「それは僕にはわからないな。ホラ、食べたらお風呂に入ってもう寝ないと、明日から学校だし、初日は一応保護者として僕がついて行ってあげるから」

「ハルちゃん仕事は?明日も行けへんの?」

「僕は暫くお休みなんだ」

「ふうん、ええなあ」

ナポリタンをあらかた食べつくしてケチャップとほんの少し玉ねぎだけが残っている白い楕円の皿を前に少し膨れて見せた桜子は、ちゃんと10歳の体の大きさに合った、猫のイラストの描かれたカナリアみたいな色のTシャツを着てデニムのショートパンツを履いている。僕が春馬に言われて必要そうなものを詰めてやった桜子の荷物、チェリーピンクの大きなドラムバッグの中の清潔な衣類や日用品、昔、おばあちゃんに買って貰った宝物だと言うゴマフアザラシのぬいぐるみ、本人が背負ってきた菫色のランドセル、それに初めて顔を合わせた時に僕にぴょこんと頭を下げた時の桜子の頭を飾る編み込みの柔らかな髪、その全部は桜子というひとりの子どもが、これまでずっとまともな大人の手で大切に育てられてきた、その証拠なんだと僕に見えない誰かが小さな声で教えてくれた。

(この子はオマエとは全然違うんだよ)

それが僕を少し嬉しいような、そして寂しいような気持ちにさせた。

桜子は、あの頃母親を亡くして父から一切の世話を放棄された僕とは全然違う、10歳にしては少々起伏の激しい人生を生きていても、周囲の大人に大切にされて、幸せに生きている子どもなんだ。

☞3

春馬と僕が20年ぶりに再会したのは、本当に偶然の出来事だった、多分。少なくとも僕はそう思っている。

僕と春馬は、僕が2週間に1回通っているこの家の近くの病院で再会した。と言うより春馬が僕の目の前で搬送されてきた。僕はその日の、診察を全て終えて会計を済ませた後、いつも人の多い正面入り口を避けて病院の裏側の救急外来の出入り口から外に出た、その時に丁度救急車で運ばれて来た怪我人が春馬だった。後部ドアが明け放された救急車とにわかに活気づいている救急救命センター入り口を見て、事故かな、そう思って視線をそちらに向けた僕はストレッチャーから身体がはみ出した、大きな人間の体を見つけた。その時、ふと野次馬的な出来心を起こした僕は、悪いかなと思いながら、救急車からストレッチャーで運ばれて行く人相の悪い大男を近くに寄って少しだけ眺めていた。

そうしたら、男は僕の顔を驚いたような顔をしてじっと見つめてから

「遥?」

突然僕の名前を呼んだ。大腿部にぐるぐると巻きつけられた止血用の白いタオルに染みた血液の鈍い赤色が生々しい男の顔を僕も10秒程凝視して、それから少し首をかしげた。あんな出入りで刺されたやくざみたいな見た目の、多分その筋の知り合いは僕には居ないはずだ。きっと聞き間違いだろうと思って僕がそっとその場を離れようとした時、男はもう一度、今度は

「兄ちゃんや、春馬や!遥!」

大声で自らを20年前、あの夏の夜に別れた兄だと名乗ってから、もう一度僕の名前を呼んだ

「春馬?」

迎えに来た祖父が無理に指を剥がすまで、固く握っていた春馬のTシャツの裾を手放す事が出来なかったあの惜別の夜から、約20年ぶりに兄の名前を呼んだ僕は、僕らの様子に気が付いた救急隊員そのまま腕を掴まれて救急救命センターの扉の内側に連れて行かれた。

ご家族ですね?ではこちらに

違います

そう言いかけて、でも僕らは過去、確かに家族だったと思い直して否定の言葉を飲み込んだ。でも3年間だけ家族として暮らし、ささやかな思い出だけを残して今は全くの赤の他人になっている人間を家族と定義する事の正誤が僕にはわからなかった。僕らは一体なんだろう。そして数秒の間そんな事を逡巡していた僕の隣で春馬は、オマエ大きなったな、今なにしてんねや、元気か、そう言って頭部の打撲や大腿部の裂傷の痛みと、血の繋がらないかつての弟である僕との突然の再会の喜び、2つの感覚と感情が脳内で大渋滞を起こしていた。その春馬に付き添う形で僕は、あの時と変わらず僕より一回り大きな春馬の手を握った。

「僕はまあまあ元気だけど、春馬こそ一体どうしたの」

僕は春馬の今のこの状況について訊ねた。何故こんな所にいるのか、大阪にいるんじゃなかったのか、それに僕の事を元気かって今、救急車で運ばれて来て下半身が血まみれなのは春馬の方じゃないか。

「春馬こそこの怪我はどこでどうしたんだよ、組同士の抗争?出入りってやつ?」

「アホ!久しぶりに会えた兄ちゃんにむかってそんな人聞きの悪い事言うな!」

20年ぶりに会った春馬は、中学1年生だったあの頃よりも更に背が伸びて、20年の時間を経て、痩せた子どもから痩せた小男に育った僕よりはるかに立派な体躯の大男になっていた。あの頃と同じ、切れ長の一重、言い換えれば目つきの悪い細面の顔面は当時から相当他人を威嚇する見た目だったのに、今は更にその濃度を増している。でも春馬は別にやくざになったとか、それで抗争に巻き込まれたとかそういう理由でここに搬送されている訳ではないと言った。

「労災や、現場でアホの新人が重機の扱い間違えよったんや。兄ちゃんはな、カタギの建築屋の現場監督さんや、誰がやくざやハルのボケ」

大体その筋のヤツが何で作業着なんか着てると思うねんドアホ。一通りの処置が終った後の病室で、よく見たら打撲と裂傷以外も体のあちこちが細かい傷だらけだった春馬は僕に多分無理に笑いながらそう言った。そして自分の携帯がビニール袋に詰められている自分の作業着のポケットの中にある筈だから出して来て欲しいと言い、言われた通り春馬の携帯を取り出して、そこに少し付着していた血液をハンカチで拭って渡すと、待ち受け画面で元気に笑うお団子頭の女の子を僕に見せてくれた。実は娘がいる、今日は流石にこのまま入院になるだろう、そうなったら家には今、自分と娘だけで自分以外に娘を頼めそうな人間が居ないのだと言った、要は

「暫く娘の事、預かってくれへんか」

そういう事だった。

「預かるって、この子を?この子って今幾つ?この子の母親は?そうだ、それにおかあちゃんは?」

「全員死んだ」

娘、まだ10歳なんや、頼めへんか。僕が春馬の急な申し出に驚いて答えあぐねていると、大腿部に裂傷、頭部に強い打撲と裂傷、ついでに首も少しおかしいかもしれないという結構な大怪我を負っている春馬が起き上がって僕に頭を下げようとするので、僕は春馬を慌てて止めた。とにかく父親が怪我した事だけでも伝えるから、僕は差し出された春馬の携帯から、急な仕事で転居したばかりで、小学校に通うにもあと数日かかるので、今日は家で留守番をしていると言う娘に電話をかけて、自分は君の父親の弟だと名乗り、そして今日現場で怪我をした父親の依頼で君を暫く預かる事を頼まれたけれど、君はどう思うだろうか、それでも大丈夫だろうかと聞いた。春馬の娘は、父親の携帯を使って突然連絡をしてきた叔父を名乗る見ず知らずの男からの電話に特に臆せず

「おとうちゃんが怪我したん?現場で足切って頭打った?ユンボにでも轢かれたんかいな、アホやなあ、ほんで頭打ってちょっとはかしこなったん?」

ほんでホンマはアンタ、何処の誰?娘は電話口で結構な大声を出して僕の素性を問いただした。きっと僕の事を詐欺師か誘拐犯か何かだと思ったんだろう、なかなかしっかりした子だと僕は思った。

「オイ、これは詐欺ちゃうぞ、そいつはホンマにおとうちゃんの弟のハルや、それとオマエ、ちょっとはおとうちゃんを心配せえ」

あとユンボに轢かれたりしたら今頃生きてへんわ。娘は廊下に出て電話をする僕の話し声に耳を澄ませていた春馬に文句を言われた。

「冗談ちゃうねんぞ」

2人は仲の良い親子みたいだった。娘は遠くから聞こえた父親の声で大体の事情を飲み込んでようで、それなら今日は僕の世話になると、電話の向こうで父親の提案を了承した。

「アイツの荷物は、本人に聞いて、ピンクのでかいカバンに適当に詰めてやって貰ってええかな。アザラシのぬいぐるみは入れてやらんと寝られへんからそれだけは忘れんように頼むわ。あとは習い事のバッグとランドセルか。急な仕事でこっちに慌てて越して来てて、まだ段ボールも開けてへんのが沢山あってややこしいけど、どこに何が入ってるとかそういうのは大体箱に書いてあるから」

「夜逃げみたいだ」

僕が冗談でそんな事を言うと、春馬は突然真顔になって僕の事をじっと見た。

「昔のことやな」

オマエ、あの頃の事覚えてるか。春馬がそんな風に聞くので、僕は静かに頷いた、忘れようとしたけど、春馬とおかあちゃんの事は今でもよく覚えているし、あの後何年もかけて始末をつけた事も、いまだに手つかずの事もあるから、ちゃんと覚えてるよ。

「夏にマンションの前で別れて、それから暫く後の事なんだけど、僕の知らない間に、父の名義のマンションも、中にあった家具も家財も全部売れるものは売り払われて借金とか税金とかそういうものの一部は清算されたらしいんだけど、そういう事、春馬はおかあちゃんから何か聞いてる?」

「何やアイツ、死んでへんのか」

「いや、不動産に関しての手続きをしたのは父じゃないんだ、競売になったんだよ。あの人は結局今もどこでどうしているのか全然分からない、もうとっくに失踪宣告を出して戸籍上死んだ事にもできるんだろうけど、それをやってまた新しい借金が露見するとか、本人がひょっこり出て来るとかそういう面倒な事になったら困るからって、結局そこはまだ何もしていないんだ。行方不明のまま。それであの後、春馬とおかあちゃんは大丈夫だったのかなって僕はずっと心配してた。マンション1室、家財丸ごと売り払ってもまだあちこち借金は残ってたはずだし、そういうお金を借りてた相手って、大体はちょっとまともな人達じゃなかっただろう」

僕達は、あの時一家離散して父親の作った借金から逃げた。おかあちゃんは、逃げる直前に、身の安全を一番に考えて父とは何の相談できないまま離婚届を出し、父との婚姻関係を一方的に解消した。双方の合意の無い、本来は無効の離婚届の代筆をしたのは僕だ。春馬は幸い僕の父とは養子縁組をしていなかった。だから一家離散の時、父の血縁者は当時小学生の僕1人だけになった筈だった。でもそもそも法律を全く無視して成り立っている所謂闇金相手に、この人は離婚した妻だからもう一切関係が無いとか、法律に違反した利率の借り入れは本来無効だとかそういう常識は全然通用しない、少なくともあの時代はそうだった。

「関西まで追いかけて来たしつこいのがひとつだけあって、おかあちゃん、暫くの間昼は美容師やって夜は夜でまあ…色々やって、言われてた分は返したみたいやけど、俺は細かい事、全然よく知らんねん」

「ごめんね」

「なんでハルが謝るんや、あのおっさんのやらかした事の一番の被害者はお前や。あの時の3人の中で一番小さくて…その、一番辛い思いしたんや。せや、あの時迷惑そうにお前の事引き取って行ったあの陰険そうな爺さんは?元気か?」

「去年、死んじゃったんだ」

そうか、ひとこと言ってから春馬は少し傷が痛んだのか、少しの間、目を閉じた。

「まあもう相当な年やったし無理もないか、人間はいつか死ぬ。あの爺さん、オマエの事ちゃんと面倒見てたんか?そうやないなら今頃地獄行きやで。ほんであのおっさんな、オマエの父親、アイツは今頃きっと東京湾の底に沈んどる、それか樹海で腐っとるか、二者択一、どっちかや」

春馬はそう言ってまた僕の顔をじっと見て、オマエは相変わらず白い顔しとるな、ちゃんと飯食うてんのかと僕に聞いた。おかあちゃんがずっと心配していたんやと。あの子は優しい子や、頭もええ、えらい人見知りで、あかんたれで、好き嫌いは激しいし、夜1人でトイレによう行かんかった、体も弱かったなあ、風邪ひいてへんやろか、そう言ってしょっちゅう僕の事を思い出しては自分に話していたんだと僕に言った。

「後半、最悪な子どもじゃないか」

「アホ、おかあちゃんは俺と違ってハルはかしこやって褒めてたんやぞ。それに最後の最後までお前をこっちに置いて来た事を悔やんではった。あん時どうして手を離してしもたんやろて。ハルは今、ひとりか、仕事は?」

僕は、特に結婚もしていないし、子どももいないし、その予定も無い。仕事は事情があって暫く休職中で、祖父が残した古い家に1人で住んでいる。そんな僕のあまり幸せそうには聞こえない状況を簡単に伝えた後、何故だか、だから娘さんさえかまわないなら家に部屋は余っているし、娘さんも了承してくれた、だから暫くの間、僕の家で預かる事は出来ると思うと、つい言ってしまっていた。

どうしてだろう。いくら何でも初対面の小さな女の子を、その子の父親にとって3年間だけ弟だった、本来は何の血縁も無い僕が暫く預かるなんて不自然だ、今日はともかく、明日以降はいっそ福祉とかそういうものに頼る方がいいんじゃないか、そう言って継続的な保護を断る事がどうしてだか出来なかった。

「オマエ、暫く仕事休みて、どっか悪いんか?」

春馬は昔から、僕に対して全然忌憚や遠慮が無い。どっか悪いんか、そう聞かれた僕は少し考えてから、右側のこめかみを人差し指で軽く押さえてこう言った。

「頭が、おかしいんだ」

「そうか、俺もや」

春馬は笑った、僕は冗談を言ったつもりなんか全然なかったんだけど。

☞4

春馬からつい勢いで引き受けてしまった桜子との暮らしは、思いのほか問題のない、むしろ生産性の無い僕の空虚で単色の毎日に鮮やかな色をつけてくれるような賑やかで楽しいものだった。

桜子の亡くなった母親は、おかあちゃんと同じ美容師をしていた。中学の2つ上の先輩だった春馬と付き合い、専門学校を出て美容師になってすぐ桜子を妊娠して結婚して出産した時、当時、仕事がお天気次第で収入の安定しなかった春馬が頼りにならないからと、桜子が生後3ヶ月の時に保育園に桜子を預けて復職し、不慮の事故で死ぬ直前まで美容師としてフルタイム勤務を続けていた。だから桜子は家の事を母親から仕込まれていて、家事はかなりよく出来る方の子どもだった。少なくとも9歳当時の僕と比較したら本当にしっかりした子どもだ。朝の身支度も早いし、長く伸ばしている髪も自分で器用に結う、洗濯物を干したり畳んたりする作業なんかはとても丁寧で僕よりずっと上手に出来た。僕も相手がまだ小学4年生、10歳の一応姪で僕が一応叔父だとは言え、実際には何の血縁もなければ親族でも無い30近い男がである僕が10歳の女の子の下着を洗ったり畳んだりすることは果たして一般的に許容される範囲の事なのか少し心配だったので、これは割と助かった。

料理には火と刃物を使うし、まだ背丈が130cm位しかない桜子には古い造りの僕の家のキッチンは使いにくい、それで無理をして怪我や火傷をしてもよくないから料理は僕が全てやると僕は桜子に伝えていた。戸棚や冷蔵庫にあるものは何でも好きに食べたり飲んだりして構わないけど、君は絶対に火の傍に立っちゃいけないよ、そういう約束をした。

そんな桜子は食べ物の好き嫌いが殆どないらしく、僕が何を作っても

「それ!ウチ大好き!」

そう言って飛び上がって喜んで、実際なんでもよく食べてくれるので献立を考えるのは楽だった。料理は1人分を作るより2人分作る方がやりやすい。僕は毎日買い物に行って、色々な料理を作った。桜子は食わず嫌いもしなかった、例えばずっと関西で育ってきた桜子が口にした事がない、黒はんぺんなんかを食卓にのせても

「何コレ?はんぺんが黒いん?静岡名産?変なの!でも好きやと思う、食べた事無いけど」

と言って珍しそうに食卓に顎を乗せて皿の上の料理をしげしげと観察する。その姿は、年相応の9歳の女の子らしくて可愛い。僕は桜子が来てくれて、久しぶりにまともな食事が取れるようになって少しだけ太った。それまではあまり食べる事に僕の意識が向いていなかった。

桜子はたまに少し我儘を言った。でもそれは一緒に買い物に行った近くのスーパーで、小さな女の子が好きそうな文房具をひとつどうしても買いたいから春馬から預かっているお金で買ってくれとかその程度のものだ。僕はそうやって、関西訛りも手伝って口が悪いと言うか、口調に少しきつい印象のある桜子がこういう時だけ遠慮しながら、大した値段でもない物をねだってくる姿が可愛く思えて、つい春馬に内緒で、小さなキャラクターものの文具をいくつかと、小さな猫のキーホルダーを買ってやった。

「ハルちゃんありがと!大事にする!」

そういう時桜子は僕の背中にわざと額をぶつけて、まるで猫が飼い主に甘えるような仕草をする。たった数日の間に、僕らはまるで生まれたその日から互いを知っている姪と叔父のような関係を作った。おかあちゃんも僕が息子になったあの頃、僕と春馬をつれて買い物に行くと、別に買わなくてもいいような小さな消しゴムや、駄菓子を

「1人いっこやで!」

と言ってよく買ってくれた。ああいう別に無くても死なない程度の小さな何かを買い与える事は、この年頃の子の内面の何を育てているんだろう。僕には遠い記憶としてただ『嬉しかった』としか残されていないそれは、今、与える側に立ってみると、こんな他愛のないもので喜ぶ子どもの姿は、大人にとって案外嬉しいものだったんだと、僕は桜子を通して初めて知った。

「なあ、ハルちゃんて今、仕事しないでどうやって暮してんの?ウチに何か買ったりして大丈夫なん?ゴハン食べれられんの?買ってもらっててアレやけど」

「何?急に」

「だってな、ウチのおとうちゃんはな、今は違うけど、ちょっと前まではひとり親方いうて、仕事無かったらそのままおカネが全然貰えへんていう仕事してはってん。雨が降ったらお休みで、怪我したらもう絶体絶命ってそんな感じ。おとうちゃんは儲かる時はめっちゃ儲かるんやぞ言うてたけど、まあそれもホンマかどうかは知らん」

桜子がうちに来て1週間程経った土曜日の午後、居間にしている庭に面した和室で宿題を終わらせた桜子にアイスココアを作って出してやると、桜子が突然そんな事を僕に言った。要は桜子は僕が仕事をしないでずっと家に居る事が、一般的な大人としては危機的状況なのではないかと思って心配していると、そういう事だった。桜子が言うには、父親である春馬はこれまでずっと一人親方、個人請負の職人として建設の現場で働いていたらしい。それは桜子の言う通り、働けばその分収入になり、休めば即収入が止まるという類の職種で、それでも腕のいい職人の春馬には、毎月それなりの収入があったらしい。大体春馬は体が丈夫で病気なんかしないし、多少の怪我でもまず休まない。それは僕もよく知っている。僕と一緒に暮らしていた頃も春馬は、しょっちゅう風邪をひいて学校を休んでしまう僕と違って、全く病気をしない、とても見た目通りの頑健な少年だった。おかあちゃんは

「なんちゅうか、アホは風邪ひかへんてホンマやな」

と言って、少しの暑さ寒さで直ぐ熱を出して寝込んでしまう僕と、その布団の横で寝転がって漫画を読んでいる年中半そで姿の春馬の顔を交互に見て困惑していた。でもつい1年ほど前に妻を亡くし、桜子をこの先男手1人で育てていく事になった春馬は、娘の為にもう少し有給や保険、福利厚生がしっかりした、安定的な身分を求める事にしたらしい。それでこの土地で親御さんから建築会社を継いだという友人から請われて転職をし、今回、社員の待遇を貰って初めての仕事で早速大けがをして、労災が下りる、だからそれはまあ正しい判断だったのかもしれない。

とにかく桜子は、大人とは毎日真面目に仕事に行かなければ即干上がり、何なら早晩餓死するとか路上で生活しなくてはいけなくなるものだと言う、社会への厳しい認識があるらしい。だから傍目には健康そうな僕が毎日家事以外の事を何もしないでずっと家に居て、本を読んだり桜子の宿題を見てやったりしている事が、ここに来て数日で心配になってきたのだと言う。本当にしっかりした子どもだ、その点は本当にあの春馬の娘なんだろうか。

「うーん…桜子のおとうちゃん、春馬はさ、すごく真っ当な人生を生きてるんだよ、毎日汗水たらして働いて、そのお金で食べて暮らして、ちゃんと誰かを好きになってその人と結婚して家族を作って、奥さんは亡くなった、それだけはとても哀しい事だけど、それでも娘の桜子を一生懸命育ててる。体も心も凄く頑丈で正常だ。でもね、僕は、そういう春馬みたいな真っ当な人間とはちょっと違う人種なんだ、世界は広くて、その中には僕みたいな人間もいるんだよ」

分かるかな?僕がそう言うと桜子は

「全然わからん。私から見たら、おとうちゃんよりハルちゃんの方が、真っ当でちゃんとした大人に見えるけどな。アホみたいにお酒も飲まへん、喧嘩もせえへん、難しい漢字も読める、パンツ一丁でお風呂から出てきたりせえへん、この家も隅々までめっちゃきれいやし、それにこの前レッスンの後にウチのこと迎えに来てくれた時、ちゃんと同じクラスの子のママに挨拶してくれたやろ、こんにちは、ウチの子がこれからお世話になります言うて。ああいうの、ウチのおとうちゃんは全然でけへんねん、なんや恥ずかしい言うて逃げて行きよるねん、アホか」

桜子は3つの時からバレエを習っている。それを聞いた時、あの優雅とか可憐とかそういうものから1万光年くらい遠い春馬が娘のバレエの発表会を見に行ったりしているのかと思って僕はちょっと驚いた。でも桜子の母親は、競馬場じゃない、歌劇団の方の宝塚がとても好きだったらしく、いずれ娘もという夢を抱いて桜子本人が小さくてまだ何もわからない内に近所のバレエ教室に桜子を入れた。元々細身で手足が長く、運動もよく出来る桜子はそれに向いていたらしい。大阪の方で通っていた教室の先生が、転居しても絶対にこのまま続けて欲しいと、新しい家からそう遠くないここの近くのバレエ教室を紹介してくれて、小学校の転校よりも先に新しいバレエ教室に通い始めた。僕にはその辺の事はよく分からないけれど、割と上のクラスで本格的にレッスンをしているらしい、多分月謝なんかも安くはないだろう、桜子が言うにはそれも春馬が転職を決意した理由のひとつだと言う事だった。それで僕が、夕方の遅い時間まで教室のある日に、帰りが遅くなるとこの辺は少し危ないからと迎えに行った時、そこで同じように子どもを迎えに来ていた全体的にパステルカラーの色調の上品な母親たちの群れに当たり障りのない挨拶をした、それを桜子は褒めた。

「ハルちゃんは自分の事、おとうちゃんよりチビやら痩せてるやら貧相やら言うけど、ウチから言わしたらおとうちゃんなんか年中作業着のゴリラやで。ハルちゃんは…そら確かにおとうちゃんみたいに背は高くないけど、別に特別チビって訳ちゃうし、優しい顔やし、清潔で、シュッとしてて私はええと思うけどな」

「その…『シュッとした』ってどういう事?あと僕、自分を貧相とはまでは言ってないと思うんだけど」

「かっこええって事や。ハルちゃん女の子にモテそうやけどな、料理も上手に出来るし優しいし。ほんでハルちゃんは仕事、一体何してたん、それがあんまり好きじゃなくなって、今はお休みしてんの?」

桜子があまりにも、僕が家にずっと居て何もしていない、その事情と理由を屈託なく聞いてくるので僕は、特に面白い話でもないけどと前置きして、自分は出版社に勤めていたんだと言った。大学生の間ずっとアルバイトをしていた小さな出版社にそのまま採用されて、編集ってわかるかな、本を作る仕事だよ、そういうのをしていたんだと教えた。僕は昔から本を読むのが好きだった、特に春馬と別れて暮らすようになってからは小さな活字だけと会話をして暮らしていたから、大人になったらそれを作る側に回って僕のような子どもに良い本を沢山作ってあげたいと思っていた。でもどうにも同じ仕事をしている人達と上手く関係を作れなくてそれでくたびれてしまったんだ。僕は本と文字は大好きだけど、人間が苦手なのかもしれない、特にうんと年上の大人の男の人が、それで身体の調子が悪くなって、今は休んでいる。でも

「これ、春馬には言わないで欲しいんだけど、自分でも少し文章を書いているんだ」

会社は今、休職扱い、首の皮一枚の、籍だけがある状態で殆どそちらからの収入は無いんだけど、もう一つの書き物をする仕事で細々だけど収入はあるんだと桜子に教えた。だから僕が明日から突然家無しになるとか食べるものが無くなるとか、そんな心配は桜子がしなくていいんだよ。そうしたら桜子は目を輝かせて身を乗り出して来た。

「ハルちゃんて、作家さんなん?何?どんなの書いてんの?」

そう言って、桜子は僕の書くものが一体どんなジャンルの何という本なのかと言って、例えばこんなの?と自分が持っている本と、学校の図書室で借りて読んでいる本、そういう物をいくつか挙げてくれた。桜子が読んでいるのは全部、カラフルで優しい学童期の子ども向けのものだ。この9歳の女の子は結構本を読むらしい。桜子は、自分はクラッシックバレエを踊る、コンテンポラリーよりそっちの方がずっと好きだ、そこには物語があるから。それでその古典の持つ意味を理解するにはちゃんとした教養が必要なんだと僕に説明して得意そうに鼻を鳴らした。きっと教室の先生の受け売りだろう、桜子のこういう所はとても可愛い。

「大人が読むものかな、それに僕が書くものはウェブ媒体…ひとつの本になるようなレベルのものじゃないんだ、塵か芥か、少しの間はそこに在るけど、日がたつと淡雪みたいに消えて、一度読んだら皆、直ぐ忘れる。そういう類の物だよ」

つまらない物なんだ、猥雑な世間の中にあって更に面妖な本当にくだらない何かなんだよ。そんな風に僕が書く何かが、桜子のような子どもの読む類の物ではないと言うと、桜子は少し残念そうにした。そして、それなら本になるようなものを書いたらいいのにと言った。時間と共に消えて無くなるなんて寂しいからと。

「そうかな、消えずに残るものが出来ちゃう方が、僕は怖いけどな」

自分の名前で何かを書いて、ちゃんとした形にするっていうのは、僕の存在それ自体を世に問うという事になるんだ、僕はそんな価値のある人間じゃない、そんな才能も力も無い。

「ハルちゃんはあかんたれやな、ホンマ、おばあちゃんの言ってた通りや」

桜子はそう言って突然右手で僕の鼻をぎゅっとつまんだ、僕が痛いよ桜子と言って笑うと、桜子は突然改まった顔をして、僕にこんな事を言った。

「あんな、ハルちゃん、ウチな、去年の大阪のジュニアコンクールでオーロラ姫のバリエーションてわかる?まあとにかく1人で踊るヤツや、それ踊ってる時にな、緊張しすぎて途中で止まってしもてん。アタマの中真っ白になって振り付けが全部飛んでしもた、でも舞台の上やろ?逃げも隠れもでけへんのよ、だから滅茶苦茶な振り付けで持ち時間全部踊って、終わってから先生にどつき回わされるわ思て楽屋の鏡の前でドキドキしてたら先生、ウチになんて言ったと思う?」

「わからないな、僕はそういうの、ちゃんと見た事がないから」

「おとうちゃんみたいな事言うなあ、ちょっとは考えてや、ハルちゃん賢いねやろ。あんな『振付の間違いは大失態の大失敗やけど、桜子は舞台から走って逃げなかった、先生、それは評価します』って言わはったんや。ウチらダンサーはなハルちゃん、ひとたび舞台に出たら、ステップを忘れても舞台をただ走って逃げるなんて事、絶対したらアカンねん」

「すごいな」

桜子はもうちゃんとしたプロみたいだ、そういうのは何て言うんだったっけ、エトワール?プリマ?僕がそう言うと桜子は腕を組んで首を振った

「そういう話ちゃうねん。あんな、みっともなくてもあかんくても、とにかく続けるのがエライて事をウチは言いたいねんて。ハルちゃんは、会社に通うのはお休みしてても書く事は続けてるんやろ、そんならええやん、何でそんなに自分の事アカンアカン言うの?おとうちゃんが今ここに居たら、情けない事言うなって一発シバかれてるで」

「桜子が僕を励まそうとしているのはちょっとわかった、ありがとう。あと桜子がすごく良い育ち方をしているのも分かったよ、君は本当にいい子だ。でも教室や学校で新しくできた友達にそんなに関西弁で『シバく』って使うと皆怖がるよ。それと、もうじきレッスンの時間だろ、送って行くよ、それで終わったらまた迎えに行くから」

僕は、桜子のバレエの教室には毎回必ず送り迎えをするようにしていた、これは別に春馬には頼まれていない。これから夏を迎える季節の今は夕方の6時をすぎても十分明るいから、桜子も送り迎えなんかいいと言った。でも僕は、君はまだ子供で、世間には常識では考えられないような恐ろしい事をする大人も沢山いるのだからと、絶対に付き添うようにしていた。

「ハルちゃんて超過保護やな」

桜子はそう言って笑ったけど、僕はあの夏の日に春馬とおかあちゃんと別れた時の自分と同じ年ごろの桜子に、万が一にも消せない汚い色の記憶が残るような事が起きるのが嫌だった。

桜子は日向の匂いのする、まっさらな人でいるべきだ、せめて君が子どもと呼ばれる間だけでも。僕がそう言うと

「ハルちゃんの言う事は私には難しくてよう分からんわ」

そう言いながら、桜子は僕の目の前で鏡も見ずにポニーテールにしていた長い髪を器用に頭の上でくるりとまとめてから、レッスン用のリュックサックを取りに、僕が桜子に自由に使っていいと言って明け渡している2階に駆けて行った。

☞5

僕が桜子を春馬から預かって2週間が経過し、春馬が退院して桜子が僕の家を引き払う前日、ちょっとした事件が起きた。

春馬の退院が決まり、あくる日にはこの家に桜子を迎えに来る段になって、桜子には僕の家のあちこちに散らばってしまっている荷物を一つの場所にまとめて、春馬が来たら直ぐに持ち帰れるようにしておきなさいと伝えていた。桜子はこの家に衣類や本やちょっとした玩具や、あと学校の教科書、彼女の日常を丸ごと持ち込んでいたし、それに僕も出先で桜子に小学生向けの雑誌やアクセサリー、そういう小さなものを結構な量、買い与えてしまっていた。

それを桜子は渋った。

「ウチの荷物、ちょっと2階に置いとくとか…したらあかん?また泊まりに来たいから」

そう言って荷物の一部をここに置いておきたいと言った。桜子は、自宅に戻れば平日は大体夜まで1人だ。放課後学童クラブというものが定員一杯で入れない状況らしく、空きが出るまではバレエ教室のある日以外はまだ慣れないこの土地の賃貸マンションで、夕暮れから夜にかけての時間を1人で過ごさないといけない、それが寂しいのだ。あのしんとした時間に生まれる所在の無い感覚は僕にも覚えがある。9歳のあの夏以降、祖父の家で衣食住だけを保障されて、とりあえず生かされてはいた僕は、1人きりの夕暮れ、自分が世界から廃棄された不要な存在だとずっと感じていたし、何なら今でもその感覚を自分の中から拭い切れずにいる。快活を絵に描いたような性格の桜子はそこまでの事は思わないかもしれないが、きっと心もとない気持ちがあるのだろう、大人びた口をきいてはいても桜子はまだ子どもだ。

「僕の家にあんまりあれこれ置いておくと、いざ自分の家で必要になった時に困るだろ」

「お父ちゃんは転職した言うても、結局土日も仕事やったりする事も絶対イッパイあるねん。せやし、例えばな、これからもおとうちゃんが仕事の土曜日はここに泊まるとかしたらあかん?またナポリタン作って欲しいねん。おとうちゃん料理めっちゃ下手やねんもん」

「あのね、今ここで桜子が暮らしているのは緊急措置的で特例的な事なんだ。僕は君の事を姪だと思っているけど、僕と君は本来赤の他人で、もう直ぐ30歳になる何の血縁もない男の家に10歳の女の子の君が1人で泊まりに来るって言うのは、一般的にはちょっとおかしな事なんだよ、世間一般に許容される範疇の事じゃないんだ」

だからそれは出来ないよ。僕はそう言った、そうしたら桜子はすっかりむくれてしまった。

「何やそれ、世間て、ハルちゃんのケチ!」

ケチとかそういう問題じゃないんだ。僕がそう言った所で桜子は聞く耳を持たなかった。この気性の激しさは流石にあの春馬の娘だ。その日、桜子はいつものレッスンの時間に送りも迎えも要らない、

「ハルちゃん、ついて来んといて」

そう言って走って家を出て行ってしまった。仕方なく僕はその間、メールをチェックし、どうでもいいものを全部消して、それからキッチンで桜子の好きな鶏のそぼろを作ろうとした。少し前に、それと炒り卵とほうれん草で3色丼を作った時、桜子がとてもよく食べてくれたから。でもふと、今日のレッスンの終わる時間は暗闇とは言わないにしても夕暮れだし、あの辺りは夕暮れから夜にかけて極端に人通りが少ない、そう言えば不審者情報が出ていた、そんな事を考えていたら、どうしても桜子の事が心配になり、鶏のひき肉を冷蔵庫に戻して、とりあえず鍵と携帯だけを持って桜子の教室の場所まで行ってみる事にした。

僕の家、かつては祖父と2人で暮していた小さな一軒家は、この辺りでは1980年代頃に出来た比較的古い住宅街にある。再開発が進んでマンションが建っている区域を除けば、老人だけが住んでいる家か空き家か、立ち並ぶ家屋に対して人間の数の極端に少ない、都会の過疎地のような場所になっていて、夜はとても寂しい。明日を潮に家から出て行ってしまう桜子と喧嘩をしてしまったことを後悔しながら僕は、街灯がぽつりほつりと点灯し始めた夕暮れの斜陽の街を走った。

僕がここに住み始めた9歳の頃、1人で夕方外に出るのが嫌いだったな。そんな事を思いながら5分程走った時、交番のすぐ近くにいるお団子頭の女の子が数人、僕の視界に入って来た。彼女達の傍らには制服姿の警察官が2人、その塊の中にここ2週間ですっかり見慣れたピンク色のリュックサックとそこについている猫のキーホルダーを見つけた僕は、自分でも意図せず、普段ならまず出さない大声を出した。

「桜子!」



丁度、この時間帯に地域を巡回していたと言う、僕より少し若い警察官から聞いた事情はこういう事だった。

「最近この辺りで、女子小学生や中学生に声をかける不審な30代の男性がいるとの通報が何件かあり、それで夕方の巡回を強化していまして、そうしたらこの子達がですね、下半身に着衣のない男性を全員で追いかけていまして、それで保護しました。男性も保護…ではないですね、現行犯ですから、まあ罪状と状況はともかくそのまま署の方に連行しまして、今事情を聞いています。お子さんたちは、今から交番で簡単に事情をお聞きしてから、保護者の方にお迎えに来ていただこうと思っていました。ご本人達は、自分達が変態を撃退したんだと言ってはいるんですが、一応、被害者という事になりますから」

桜子とその友人達は、今日たまたま2時間分ある筈のレッスンが講師の急病でひとつキャンセルになり、普段ならそれぞれが持っているキッズケータイやスマホで迎えや帰宅の連絡を保護者にするところを、ふと

「明るいし、同じ方向に帰るみんなで一緒に帰ろうよ」

そういう話になったのだと言う。春から新しく同じクラスになった彼女達は、週に3回程顔を合わせている間に自然と仲良くなり、急に予定がキャンセルになった今日、夕暮れの街を皆で他愛もない事を話しながら帰りたいねという流れになった、それでお団子頭5人程が固まって帰宅する事にして、その道中

「何や知らんパンツ履いてないオッサンが猛ダッシュで追いかけてきてん」

という事だった。そして、この見た目だけは可憐な未来のプリマたちは、下半身裸の男を逆に追いかけまわしていたらしい。先導したのは中でもとりわけ気の強い桜子だ、でも皆が桜子に追従して走った。日々の過酷な鍛錬と熾烈な順位争いに慣れて長けている彼女達は存外気が強い上に動きが機敏だ。走りながら手近な石を掴んで男めがけて投石までしたらしい、そのうちのひとつは男の頭部にヒットして男は軽い怪我をした。子どもと言えども人間は集団になると強い、いや、そういう事じゃないな。

「そんな危ない事絶対しないで欲しい。そうじゃなくても君は」

僕はそう言うと急に眩暈と吐き気がして、その場にしゃがみ込んだ。自分の背中を冷や汗が流れて行くのが分かった。

「ハルちゃんどうしたん、大丈夫」

何でもない、急いで走って来たからかな。僕は心配して僕と一緒になってしゃがみ込み僕の顔を覗き込んで来た桜子に無理に笑いかけた。

「運動不足かな、もう歳なんだよ。でもとにかく変な人を追いかけるなんて絶対したらダメだ、大声を出して誰か助けを呼ばないと、たまたま無事だからよかったものの、もし君に何かあったら、僕は春馬に何て言ったらいいんだ。君は春馬のたった1人の、大切な娘なんだよ」

僕がそう言うと、桜子は急に神妙な表情になった。

「ごめんなさい」

桜子が僕に謝ると、他のお団子頭達もしょんぼりして何故か僕に対して謝罪をし、暫くしてからそれぞれが警察官の連絡で大体は母親が迎えに来て自宅に引き取られて行った。ただ僕と桜子は

「ええと貴方は、この子の叔父…ですか?この子のお父さんが貴方のお兄さん?」

「いえ、僕は過去にこの子の父親と兄弟だった事はあるんですが、今現在、この子の父親と僕は兄弟という間柄ではないんです。この子は今事情があって緊急措置的に僕が預かっていて」

「身分証とかあります?」

「免許証やそういう物ですか?家から急いで出てきたもので今、手元には携帯と鍵くらいしか」

僕が桜子を保護者として引き取るにあたり、必要な諸条件を満たしていないという事になり、引き取りが難航してしまった。だから言っただろう桜子、僕達は本当に赤の他人でこういう現実的な問題が起きた時、とても困るんだ。

「貴方を不審者だと疑っている訳では無いんですが、私達も規則と規定に基づいた手続きというものが必要なもので」

若い警察官は、少し申し訳なさそうに、でも桜子とは何の血縁も無い赤の他人の僕が、親権者である父親の了解なしにこのまま自宅に桜子を連れて帰るのはちょっと出来ない相談なんですよと言って譲らなかった。それで僕は仕方なく病院にいる春馬に電話をかけた。悪いんだけど、今ちょっとしたトラブルがあって、春馬の方から警察に僕が君の了解を得た桜子の一時的な保護者であると証言してほしい、そうしたらこのまま桜子を家に連れて帰って、明日無事に君に引き渡すことが出来るからと。そうしたら

「桜子が?変態に襲われた!?分かった今すぐ行く!」

どちらかと言うと危害を加えたのは桜子の方で、確かにおかしな大人に出くわした事は事実だけれど特に大きな被害はないという僕の説明を一切聞かず、春馬は予定より1日早く、多分担当医に相当な無理を言って強引に退院し、タクシーで交番まで来た。僕が電話をかけて大体1時間後の事だ。

「春馬、病院でちゃんと手続きとか、支払いとかして来たの?」

「そんなもん、どのみち労災で保険証が使われへんからひとまず10割負担なんやぞ。そんな大金今の俺が現金で持ってる訳ないやんけ、会計の子にツケにしといてくれ言うといたわ」

「だから、明日ちゃんと手続きしてから退院してきて欲しいって言っただろ。電話で僕を君が任命した保護者だと言ってくれたらいいって」

僕は呆れた。僕らを足止めしていた警察官は、ジャージ姿で頭に縫合痕がある見た目が反社の男が凄い勢いで交番に駆け込んで来た事に驚いて一瞬腰に手を当てていた、そのしぐさが警棒か拳銃の所在を探るものなのは僕にもわかった。春馬はそれ位の勢いで飛び込んで来たから。でも春馬の見せた身分証を確認してから、春馬が急な怪我で入院していて、桜子の母である妻とは1年前に死別していると言う事情を聞くと警察は僕達に謝罪して、すんなり僕達をその場から解放してくれた。

「無事でよかったけど、あんまり心配させんなオマエはホンマに」

「だって、みんなで帰れば心配ないて思ってんもん」

「春馬、僕が悪いんだ、桜子とちょっと行き違いがあって、僕が桜子を迎えに行けなくて」

「そんなもん、ハルが悪い訳ちゃう。大体何の為にオマエにこのお高いお子様用の携帯持たしてると思てんねん、ハルが心配しすぎて元から白い顔が更に青くなっとるわ」

「ホンマやハルちゃん、顔面蒼白や」

交番から僕の家に向かう間、春馬は桜子を何度も注意し、そして桜子たちの前に現れたおかしな男について

「ソイツ、いつかこの辺で会ったら腕の一本も折ったらなアカンな」

そう言っていた。春馬は目が座っていた、多分本気だ。そして僕の顔色をとても気にしていた。僕は自分でも気が付かなかったけど、物凄い顔色をしていたらしい。貧血かもしれないね、僕がそう言いながらよろけて転びそうになり、それを心配した春馬と桜子はこの日はこのまま僕の家に泊まることになった。

「ハルを1人にしといたら、死にそうな気がするねん」

春馬はそう言った。春馬は昔から僕にすごく優しい。

優しくて、途轍もなく勘が良い。

☞6

縫合痕の感染予防の為に抗生剤を沢山服用している体でお酒なんか飲むのはどうなのかと僕が言うのを、そう堅い事言うなと聞き入れずに春馬がビールを飲み始めたのは、桜子を2階で寝かせた後、22時過ぎの事だった。

桜子の言う通り、春馬は相当呑むらしい。僕は普段服用している関係もあって飲酒は控えているからこの家にはアルコールの類は料理酒しかないと言うと春馬は『明日世界は終わる』くらいの凄く絶望した表情をして、それなら僕がどこかで買って来るよと言っているのを聞かずに、ここから少し距離のあるコンビニに自分でビールを買いに行ってしまった。

「2週間も禁酒したんは、16の時以来やな」

春馬はそんな事を言って、嬉しそうに缶ビールに口を付け、その発言の年齢設定が少しおかしい気がしたけれど僕はそこにはあえて触れず、怪我はもう大丈夫なのかとか、仕事には支障はないのかとか、桜子は2週間とてもいい子にしていたとかそんなことを春馬に聞いて話した。春馬は僕の住んでいる家の、小さな庭に面した縁側に座って、あたりをぐるりと見まわし

「古いけどええ家やな、ハルは昔から掃除とか片付けとかマメにする奴やったけど、ホンマにキレイにしてんな。桜子がこの家に来た日に、2階のカーテンが洗濯した状態で吊るされずにピシ―っと畳んで置いてあったて言うて驚いてたぞ、おかあちゃんかオマエは」

「おかあちゃんはきれい好きだったからね。僕はホラ、実の母親が死んで春馬とおかあちゃんが僕の家に来てくれるまで、ごみ屋敷みたいな家にいただろう。だから散らかってるのが、何て言うか凄くトラウマなんだよ」

僕はそう言って、春馬がコンビニで買って来てくれたビールを一口飲んだ。久しぶりだ、すごく苦い。

「それで、おかあちゃん…3年間に癌でって、桜子から聞いたよ、ごめんね何も知らなくて、昔あんなにお世話になったのにお悔やみも…何も出来なかった」

そのことやけどな、春馬はあっという間に500ml缶を開けてもう一本ビール缶を手に取りながら僕にすごく意外な事を言った。

「アレ、癌ちゃうねん。いや癌にはなっててんけどな、早晩死ぬような状態じゃなかったんや、乳がんのごく初期で、まだ通院しながら投薬で治療するかいっそ部分的にスパッと切るかってそういう相談してる段階やってん。あん時、俺ら家族とおかあちゃんは同居やなくて、お互いごく近所の賃貸アパートと市営住宅に住んでたんやけど、おかあちゃんな、死ぬ前の日までおばちゃん専門みたいな感じの近所の友達の美容室でパートしてて、その日、美容室のオーナーさんが、おかあちゃんが出勤して来いひんて言うから、俺が仕事帰りにおかあちゃんの家に様子見にいったんや、そしたら」

おかあちゃんは家には居なくて、自宅の直ぐ近くの公園で首を吊って死んでいたらしい。

「なんで?」

「なんでって…何でやろな、もうじき50になるとこやったおかあちゃんが更年期で鬱っぽくなってたとか、急に癌やて言われて人生が虚しなったとか色々あるんやろ。血の繋がった親子と言えども所詮は他人や、心の中までは分かれへん。あの人も中盤までは人生相当しんどかった方の人やし、借金返して、孫が産まれて、一気に気が抜けたとかそういうのもあったんかもしれん。遺書もあったし、一応変死やいう事で警察は来たけど自殺で処理されて事件にはならんかった。桜子に癌や言うてるのは、流石にそんな事、まだ小さかったアイツに言われへんて思たからや」

だから桜子には間違ってもこのことは言わんといてくれ、そう春馬は僕に釘を刺した。

「遺書には自殺の理由とかそういうのは書かれてなかったの」

「いや、書いてあったのはお前の事や。ハルに申し訳なかったって、それだけや」

「申し訳なかったって…あのさ、ついこの前も春馬に言ったけど申し訳ないのはこっちなんだよ。僕ら親子のせいでおかあちゃんと春馬の人生は滅茶苦茶になったんだ。おかあちゃんがどういう経緯であの父親と再婚する事になったのか、僕には分からないけど、あれは完全に僕の父親が自分と僕の世話係として大阪から連れて来たってことなんだろう?おかあちゃんはその頃まだ今の僕より若かった筈だ、きっと騙されたみたいな…多分何も分かってなかったんだよ。その上父親が事業に失敗して、借金の一部を肩代わりさせられて、申し訳ないのはこっちなんだ、謝らないといけないのは僕だ」

僕は思わず縁側に横並びになってビールを飲んでいた春馬に向き直って頭を下げた、僕達親子が君たち親子を不幸に追い込んだんだ。そんなことを僕が言うと、春馬は突然、僕に向かって大声を上げた

「アホ!そんな謝罪いらん、前から言うてるけど、オマエが一番の被害者やろ、おかあちゃんが申し訳ないて言うてたんはな、オマエがあのキモイおっさんの慰みモンになってるのを知ってて止められへんかったっちゅうことや、俺はな、そのこと知った時、殺すつもりで台所から出刃包丁持ち出してアイツの事、家の外まで追いかけ回したった、それでアイツびびってどっか行きよったんや。ホンマなら殺して東京湾に沈めたるつもりやった。あんな気色悪い奴殺されて当然やろ。大体オマエ『僕達親子』てなんや、ハルは俺のこの世でたった1人の大事な弟なんやぞ、そんな風に俺の事他人みたいに言うな!」

静謐な斜陽の住宅街の夜、春馬の大声は近所中に響き渡った。僕は2階で眠っている桜子が目を覚まさないか、それを少し気にしながら春馬に

「なんだ、知ってたんだ」

そう言った。なんだ、君は全部知ってたのか。


☞7

僕は、死んだ僕の実の母に顔がとてもよく似ていた。多分今も。

そして、死んだのか生きているのかよく分からない父は、母に対しても僕に対しても、ひどく暴力的で支配的な人間だった。母は車に轢かれて、交通事故で死んだと言われているけれど本当の事は分からない。もしかしたら自分から事故に巻き込まれに行ったのかもしれない、とにかく父はそういう人間だった。

母が死んで、納骨が済んだ頃、父が僕の眠っている布団の中に入って来るようになった。僕は最初、それまで僕に特に興味を持たず、せいぜい煩いとか汚いとかそういう理由で、叩いたり殴ったりするだけの父が、母を亡くしたばかりでそれをとても寂しく思っている僕に優しくしてくれるのだと思って嬉しかった。ただ僕の下半身をまさぐる父の指や、ぼくの腹部を舐めてくる舌がなんだかとても気持ちが悪くて、それは嫌だし止めて欲しいと言った、そうしたら父は、次の日に僕の目が開かなくなる程、僕の顔を殴った。

その時から僕は、自分の身の上に何が起きているのか、その意味や不快感や屈辱、そういう事の一切を考えるのをやめた。小学校1年生になる前の事だ、そしてそれは父が僕の人生から退場するまで、断続的に、でもずっと続いた。

「春馬はそれを全部知ってたんだね。でももう昔の事だよ、僕はもう大人で、あの人はもう僕の人生にはきっと現れない人間なんだし、もしおかあちゃんがそんな事を気に病んで死んじゃったって言うなら僕はやっぱり春馬に申し訳ないよ」

僕はつとめて何事も無いような顔をして春馬に言った、例えば僕が桜子みたいに女の子なら、それは大変な事だけど、僕は男なんだし大丈夫だ。大体本当に昔の事で、僕だってもうすっかり忘れてたよ。そう言って春馬に笑いかけたけれど、春馬は怒ったような哀しいようなそんな顔をしてから、静かな低い声でこんなことを言った。

「でも、オマエは、俺と桜子が明日ここから出て行ったら死ぬつもりでおる」

「何言ってるの、春馬。どうしてそんな事思うんだよ、僕はそんな事しないよ」

「なあハル、あの時おかあちゃんが、どうして自殺やて警察に判断されたと思う?」

「え?急に何?だっておかあちゃんは遺書があったんだって、それで」

「遺書言うても、おかあちゃんが残してたんは毎日日記がわりにつけてた手帳の中にあるメモ程度のモンやったんや、それが遺書やと判断されたのはずっと後の話や。おかあちゃんはな、死ぬ時、家中ピッカピカに掃除して、家中のカーテン全部外して洗って畳んで部屋の中央に全部置いてたんや。それでここまで家ん中きれいに後始末して首吊ってる人間は確実に自殺やろて、警察の人は判断しはった。なあハル、この家の2階のカーテン、何で洗った後に畳んで置いてたんや、普通なら付けなおすやろ」

僕は春馬の顔を見た、春馬は僕から目を逸らさなかった。春馬は昔から本当にこういう時、動物的に勘が良くて困る。

僕は深く深呼吸をした、この兄には何をどう誤魔化したって駄目なんだ。

「ねえ春馬、僕は去年祖父を見送って、もう身内が全然居ないんだ。だからもし今、僕が死んでも誰も困らないし、誰も悲しまないよ、だったら」

「俺がおる」

「春馬は今、僕の兄でも何でもないじゃないか」

「桜子もおる」

「桜子も僕にとっては本来他人なんだ」

「それでもおるんや」

「でも」

「それでもおるんや」

春馬は、節だらけの大きな手で僕の手を痛い位握った。そうしたら僕には、もうそれ以上の言葉が出てこなかった。

ねえ春馬、僕は君が僕の人生から居なくなってしまったあの夏の夜から、何事もないような顔で、普通の人間を擬態して生活しながら、ずっとこんな汚くて下らなくて無価値な自分の人生の幕引きを自分の意思でやり遂げる日が来るのだけを夢見て生きてきたんだ。僕の人生はあれからずっと暗闇のままなんだよ、だって、君が僕の人生の光そのものだったから。

僕のこの独白は自分の嗚咽にかき消されて春馬には聞こえなかったと思う。でも春馬は僕が鼻水を垂らしながら嗚咽する姿を隣に何も言わず、ずっと僕を静かに見守ってくれた。そうして僕は9歳のあの夏の夜のように、この優しい兄の前で声を上げて泣きたいだけ泣きながら、その反面、頭の中が段々と冷静に冴えて来て、ふと、桜子が少し前に言っていた言葉を思い出した。

『ウチらダンサーはなハルちゃん、ひとたび舞台に出たら、ステップを忘れても舞台をただ走って逃げるなんて事、絶対したらアカンねん』

そうだね桜子、本当にそうだ。僕はダンサーじゃないけど、真っ当な生き方をすっかり忘れてしまっていても、ただ走ってこの優しい兄の前から逃げるような事はしてはいけないのかもしれない。僕は顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにして泣きながら、明日朝になったら、桜子にひとりぼっちの土曜日が寂しいなら泊まりに来てもかまわないよと言ってやろう、その時、夜に春馬が一緒に泊まる事を条件に僕は2人を受け入れよう、それであと少しだけこのろくでもない人生を継続してみよう。そんな事を考えて春馬に

「大丈夫だよ春馬、僕はやっぱり直近には死なない事にした。桜子が僕のナポリタンをまた食べたいって言ってるんだ、だから」

そう言ったけど、春馬は

「直近て何やオマエ、そしたら数ヶ月後とか1年後とかに死ぬて事か、そんなん絶対アカンぞ、大体ナポリタンてどういう事や」

そんなモン、俺かて食いたいわ。そう言ってなかなか僕の手を離してくれなかった。

この夜、月は僕らの頭上高く、静かに世界を照らしていた。

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