見出し画像

長友と一緒に叫びたかった

『学生時代は体育会セパタクロー部に所属し、精力的に活動を続けて参りました。』僕は就職活動において必ずと言っていいほどエントリーシートのガクチカ(学生時代に力を入れたこと)の欄にこの口上から始まるエピソードを書き込む。この口上をエントリーシートに書き込むほどに僕は僕を嫌いになり、自分の卑怯さを恨む。なぜなら僕はセパタクロー部の活動において、精力的な活動はおろか、ほとんど参加すらしていないのだから。

僕の同期は凡そ悪魔に憑りつかれたかのようにセパタクローをしていて、一年生の頃は僕も同じ気持ちを共有していたつもりだった。セパタクローは面白かったし、部活のメンバーのことも好きだった。けれど僕は大学生らしい遊び、といえば聞こえは良いのだろうが(?)、下らない遊びを知るにつれて部活に対する気持ちは段々と薄れ、やがて部活に参加しなくなった。
言い訳はいくらでも用意することができた。コロナ禍で部活に参加するのが難しくなった、仲良くしていたチームメイトが辞めていった、等々。ただ、そんな中でも正に“精力的に”練習をしていたメンバーはいたし、僕は単に競技に飽きてしまっていたただけなのだった。

僕が大学生らしいお遊戯に没頭していた間、真っすぐに競技に向き合ってきた同期が先日日本一という結果を残した。僕はそれを見て涙を流した。達成感ではない。人の送ってきた苦悩や努力が結実した瞬間に、ただただおめでとうと感動したのだった。その時点で僕は、彼らの外側に立っていたのは明らかだった。昨年のサッカーW杯での日本代表の快進撃を見て感動する、顔面に日の丸をつけた渋谷のお姉さんと全く同じ感情だ。ただ僕とお姉さんの違いと言えば、僕はカタールのピッチに立てないまでも、試合終了のホイッスルと同時にベンチから飛び出し、長友と熱い抱擁を交わす権利くらいは持てたかも知れない点だった。つまらない誘惑で純粋な感情を投げ出した自分を省みて、何か一つの競技に熱中し、イチバンをとれる、その情熱の尊さに目が眩むようだった。

僕はただ彼らの戦いを遠くで応援する傍観者でしかなかったのに、自らの努力で勝ち得た誇るべき結果を残してなお、彼らが口をそろえて言う『応援してくれてありがとう、力になった』という言葉がいやに僕の心に突き刺さった。

こんな考え方は捻くれているのかも知れないけれど、スポーツ選手たちがインタビューで使う『サポーターの皆様の応援のお陰です』という常套句を渋谷の日の丸お姉さんたちが間に受けていたら僕は笑ってしまうだろう。

今年になって就活で何も話すことがなかった僕は、彼らの努力を我がものの如く話すようになった。自分が優勝したとまでは言わなかったが、あたかもそれに多大な寄与をしたように話すことに、後ろめたさや恥じらいを感じない訳がなかった。最大限の贖罪として彼らにその事実を話すと、『ええぞええぞ』と彼らは笑い飛ばした。

『お前らの優勝を就活に利用させてもらうわ』僕は冗談めかして彼らに赦しを乞うのだった。

いつか自分の言葉で自分を語れる日が来たら、僕は彼らとブラボーと叫び合いたい。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?