宇野昌磨選手応援記【16】「自分の演技に感動するようなスケート人生を送りたい」

(次の宇野昌磨選手の応援記は春に書く予定だったけど我慢できなくて、全日本後に…も待てなくて、12月17日の誕生日に!のつもりで書き始めたものを、勢いで11月に更新してしまう成長しない私…。精進しよう)


『ワンピース・オン・アイス』もあった怒涛のオフが過ぎて、また新たなシーズンを現役として戦っている宇野選手は2023年12月17日に26歳になる。
26歳という年齢でまず思ったのは、私にとって宇野選手のスケートの原点でもある16歳の全日本でのStepsから、ちょうど10年なんだということ。

その時の印象を応援記【2】「自分のスケートを見つけたい」で書いた記憶があったので読み返そうとしたけれど、過去の自分の文章を読みたいとは思えなかった。
宇野選手が自分の演技を見返したいと思わないのもこんな気持ちなんだろうか。全然レベルの違う話をして申し訳ないけど、あそこもここも今ならもっとこうできたのにと、自己嫌悪に近い感覚になってしまう。

ともあれ、10年前の全日本でのStepsの印象は今も鮮明に思い描ける。あの時の演技は氷の上じゃなくて広い海の中を自由に、悠々と泳いでいる青い金魚みたいだった。
結果は当時まだ跳べなかった3Aに転倒があって7位だったけれど、試合後「良い演技だったんじゃないかなと思います」と16歳になりたての宇野選手は笑顔で話していた。

たとえ世界に一人でも、どんなに転んでも、無邪気に遊んでいる子どものような、無心に芸を磨く巨匠のような、そんな境地で滑っているように見えた、あれこそまさに自己満足の演技だったのかもしれない。

宇野選手の今シーズンの目標「自己満足」を聞いた時にも、フリープログラムの「タイムラプス/鏡の中の鏡」を繰り返し見ている時にも、何か懐かしいあの場所へ戻っていくような不思議な感覚になったのは、それだけ結果を求めて応援してきた年月があって知らず知らず変わってしまっていた私自身が、今また宇野選手のスケートの原点に立ち返ろうとする過程だったんだと思う。

もちろん試合の度に、スケートの神様に宇野選手の思い描いている完璧な演技をさせてあげてくださいと祈ってしまうのは、全く結果を求めていないと言ったら嘘になるけど、今はそれ以上に宇野選手が「自分の演技に感動するような」瞬間が、どうか試合で訪れますようにと願っている。
それでも試合と同じくらい、練習で一人滑る時にも、自分の演技に感動するような瞬間はあるのかもしれない。

「フィギュアスケートでギアを上げる瞬間はどんな時ですか?」という質問に、宇野選手は「スケートの練習をしている時かな」と答えていた。私みたいな凡人は当然ギアは試合で上げるものだと思っていたので、宇野選手が話していた「試合のための練習、練習のための試合」はそういうことだったのかと腑に落ちるものがあった。イコールなのは練習でギアを上げるからなんだと。

そして試合の公式練習では、自分が調整に時間がかかるタイプだと経験上わかっているからこそ、それまでの練習や試合への意気込みは一旦置いて、その会場の氷を手懐けることに全神経を集中させている感じがする。

宇野選手はいつだってその瞬間に自分がやるべきことに全力なだけで、試合の演技が特別なわけではないんだと思う。
ファンはどうしても試合やアイスショーでの演技を見ることが多く、練習はそのためにあると考えてしまうものだけど、宇野選手を見ていると、人が自分らしく生きていくうえで本当の理想は、本番と練習の垣根がないことなのかもしれないと思った。そのくらい両方が自然ならそれはきっと天職だから。

私が座右の銘のように大切にしている宇野選手の言葉が「僕は成長し続けるプログラムに挑戦しながら、昨日の自分をずっと追い越して練習していきたい」なんだけど、今シーズンのフリープログラムを見ていると、日々の練習にやりがいや楽しさをよりいっそう感じられるんじゃないかなと嬉しくなる。

とはいえ宇野選手にも、練習や通常の試合からさらにギアを上げて戦った大会はあった。『ONE PIECE』のルフィはギア2以降、寿命を縮めて戦っているところがあるけれど、宇野選手も無理をすれば選手寿命を縮めそうな足の状態の時、誰かに勝つためではなく自分に打ち勝つ必要がある時に、闘争心が出るタイプの選手なんだろうと思う。

宇野選手は負けず嫌いだし、ゲームなら誰かに勝つための闘争心をちゃんと持っている。それでもスケートに関しては、世界選手権で優勝する前に、宇野選手はトップを狙うには優しすぎる人なんじゃないかと私は書いたことがあった。そして今、同じように私のフィルターを通して見れば、宇野選手はトップで居続けるには優しすぎる人なんじゃないかと感じることがある。
みんな良い演技をしてほしいし、みんな優勝してほしいし、みんな代表になってほしい。そんな心の奥の優しさが、昨年からの宇野選手が抱える葛藤なんじゃないか。そんな中で模索して出した答えが、闘争心ではなく自己満足なのかもしれないと思った。

ならば宇野選手はアスリートに向いていないのかというとそうではなくて、勝つこと以上に成長することに心からの喜びを見出だせる天性の競技者だとも感じる。

できることなら現役とプロの垣根なく、他の多くのスポーツと同じように身体が動く限りその競技を続けることが普通になって、フィギュアスケートの可能性や競技人口が広がっていく未来を見たい。
今の宇野選手が長く現役を続けることを目標としている価値もそこにあるんじゃないかと思うけど、そんな未来が待っているかどうかは宇野選手の意思と取り巻く環境にもよるのでまだわからない。その未知の航海の行方はいつか未来の応援記で書こう。

この海で一番自由な奴が海賊王だと、ルフィは言っていた。そういう意味ではフィギュアスケート界で一番自由な宇野選手は、ルフィが目指している最果ての島にたどり着いて、氷上の王にきっとなれる。

私がルフィと宇野選手の共通点として感じることはたくさんあるけれど、その中でも特に核の部分で同じだと思うのは、ルフィがダダンやマキノの元で育てられたように宇野選手のスケートが満知子先生や美穂子先生に育てられたことじゃないだろうか。
少し古風な見方だとは思うけど、力や知恵を授ける男社会ではなく、愛や自由の中でのびのびと育ってから、シャンクスのような高橋大輔さんに憧れ、海外にも旅立ち、麦わらの一味のようなチームUNOの皆さんや競技仲間と出会い成長できたことが、今の宇野選手を形作っている気がする。

いつか未来で宇野昌磨選手というフィギュアスケーターがどういう演技をする人だったかを振り返る時、ステファンコーチのこの言葉だけでいいくらいだと私は思っているので、そのまま引用させてください。

「昌磨の芸術性は、愛から生まれています。彼の周りには、彼を愛し、彼に芸術のオーラを与えてくれる人がたくさんいる。昌磨は、自分が得た愛のおかげで、情熱に満ちた動きをするのです。つまり昌磨の表現は、彼の内面から出てくる美しさやエレガントさなのです。何かの演劇や舞台に感情移入したり演じたりするのではなく、彼自身の自然な動きに美しさがある。その魅力を、彼はまだ理解していないかもしれません。私は、昌磨が愛すべき人間であること、そのものが表現になっている現象に、いつも感動させられています」

古代ギリシャやローマでは、すべての芸術の起源は舞踏だと言われていたという。現代のカッコいいダンスも好きだけれど、宇野選手の演技には何か古代的なものを感じる。
だからこそ単調なリズムの音楽に共鳴する感覚があるし、表現というよりも自然な状態で没入して滑る時にその真価を発揮することがある気がする。表現を突き詰めるというのは幅を広げることだけではなく、深く潜ることでもあるのかもしれない。

「表現力というのも曖昧ですけど、僕に必要なのは表現の上手さではなく、表現に全力を注いでいる姿だと思います」
「プログラムに自分の魂のようなものがちゃんと乗っかって表現できるか、感情が高ぶって表現できるかどうか」

宇野選手がそう捉えているということは、それこそが宇野選手の呼吸であり、宇野選手の道なんだろうと私も信じている。

そんな宇野選手をありのままに受け入れ、早くからサポートしてくださっているコラントッテさんの、宇野選手モデルTAOネックレスのケースにこんな説明があった。

~TAO~
TAOとは中国哲学で説かれている
「道」を表しています。
宇宙自然の普遍的法則や存在の根源、
美や真実の根元などを広く意味する言葉です。
すべての真理と説かれ、
悠然と変わることなく存在し、
揺ぎないもの。
それがTAOなのです。

私は最近、哲学に興味があってまだ勉強し始めたばかりだけれど、孔子的な言動が受け入れられやすいアスリートの中で、宇野選手は老子的な生き方に近いと感じる。

老子の「道(タオ)」や「水の思想」をもっとよく知れば、宇野選手の無為自然な生き方、器の大きな海のような在り方が、今より深く理解できる気がするので、春にまた応援記を書くまでに探究していきたい。

時々、私にとって宇野選手の言葉が海底におろす錨のように感じられることがある。一時その言葉によって風あたりが強くなったとしても、一方で心に安定をもたらして、自分の進路を見定めるための言葉。
宇野選手の半分プロという思考のかけらも、そこからさらに深く考えるための錨として、この先の航海に落ち着きや拠り所をもたらしてくれるんじゃないだろうか。

『ワンピース・オン・アイス』の稽古に入る前の取材で、プロとして理想を体現するのは苦手という話の流れから、インタビュアーの方の「ここから引退するまでに、ありのままの宇野昌磨というスケーターの魅力をさらに確立していくしかないですね」という問いかけに、宇野選手はこう答えていた。

「そうですね。それでダメだったら無理にその道を歩まなくてもいいかな、と。自分が歩んできたスケートという道は、いろんな可能性があると思っているので。自分がやりたいと思える道を選んでいけたらなと思います」

その後『ワンピース・オン・アイス』を全力でやりきって、全員が同じ熱量で作り上げる達成感や役を演じる表現も好きだと知ることができたのと同時に、(おそらく集客的な意味で)力不足も痛感したという宇野選手は、現役とプロの両方を自分らしく自然に歩める道、中道を見つけようとしているのかも。
(中道=両極端の考え方や行動を避ける仏教の教え。幸せに生きるための王道。『捨てる力  ブッダの問題解決入門』参照)

ステファンコーチいわく「ひとつの章の締めくくり」で、トレーナーのデミさんいわく「彼の中のフィギュアスケートというのを完結していける旅になったらいいかな」という時期にあって、宇野選手がどんなタイミングで、どんな決断をしたとしても、それは自然とそうあるものなんだと私は感じるので、今はただこの瞬間を、感謝と愛をもって精一杯応援していたい。

アスリートはみんな人生の先輩だと聞いたことがある。一般的な人よりも早く世に出て、早くピークを迎え、早く競技人生を終える。私たちはそこから学ぶことしかない。

最後に、これは私のイメージなんだけど…
『ワンピース・オン・アイス』のラストで、ビビが「戦いを、やめて下さい!」と叫んでいる場面の国王軍と反乱軍が、なんだかフィギュアスケートのファンだったり、もっと言えば、日本に生きて今そういう状況にある人たちと重なって見えた。
まるでアラバスタのように、それぞれに正義があってか撹乱されてか反発してか、戦いが止まらない悲劇の王国。それでも希望の雨は降ると信じて叫ぶ人がいる。

そんな希望の雨みたいに、宇野選手が信じている真剣勝負の先にある美しいものを見せてもらえる瞬間が好きで、10年近くを共に冒険させてもらってるんだ。

この章の旅も、また新たな章の旅も、いつだってありのままの宇野選手を応援しながら、それを自分の人生にも反映して、ありのままに美しいものを信じて生きていきたい。
そんな自分の心の鏡を磨けるようなプログラム、宇野選手の「タイムラプス/鏡の中の鏡」が私は大好きです。

なのでどうかシーズンを通して、宇野選手が自分の演技に感動できるようなプログラムになりますように。
自分の演技に感動できるようなスケート人生を送れますように。