宇野昌磨選手応援記【12】「ゴールではなく、新たなスタート」

フィギュアスケートのシーズンが終わったので、ひさしぶりに『宇野昌磨の軌跡  泣き虫だった小学生が世界屈指の表現者になるまで』(青嶋ひろのさん著)というノンフィクション本を読み返していた。
まだ私がファンになる前の宇野選手のインタビューが丁寧にまとめられていて、読むたびに今の宇野選手に繋がる言葉や成長を見つけられて嬉しい気持ちになる。

スポーツライターの方にはそれぞれ文体に個性があって、読者にもそれぞれ好みがあるから、一人の選手に対して深く観察し長い文章を書いて公表するというのは、すごく難しくて勇気のいる仕事だと思う。

私は一ファンとしてではあるけれど、公開で書くことにいつも葛藤があるし、客観的に事柄や技術を語ることができず感情優先で過剰な文章になってしまうタイプなので、なるべく書かないように、書いたものが誰かを否定したり傷つけることなく過ぎてゆきますようにと祈りながら、残すために書いている矛盾の中で応援記を続けてきた。

それはたぶん、私が宇野選手を大好きになってネットを検索し始めた頃には、応援ブログを探してもファンではない人の批判目的のブログやファンだという人がお説教するようなブログが多くて、読んではずっと泣いていたから、ただただ宇野選手の応援ブログを一つでも増やしたいと思ったんだ。

もしかしたら間違った正義感だったかもしれないし、今でも一字一句これは本当に必要かどうか自問自答しているけれど、どんな思いも凌駕するくらいに宇野昌磨という選手の生き方を見つめることが私はすごく楽しい。その成長を応援させてもらえることが何よりも最高に面白い。

私の楽しみ方は、将棋ファンに例えたら、対局の内容は詳しくわからないけど棋士の人間模様が興味深くて見ているのが好き、という層に近いんだと思う。私もその一人なので、将棋のノンフィクション小説やエッセイ本を読むのが好きだし、漫画『3月のライオン』の登場人物もみんな好き。

将棋では6月から順位戦が行われるけれど、3月に将棋界で一番長い日と言われる最終局がある。どの対局も大事な一局であることは変わらない、それでも名人への挑戦者、昇級降級が決まる一斉対局のその日、棋士は3月のライオンになる。
3月に世界選手権が行われるフィギュアスケートも少しだけ似ている気がした。2月にオリンピックがあった今シーズンでも、3月のライオンだったからこそ宇野選手はあの演技と結果を残せたのかもしれない。

それは宇野選手に4年前の世界選手権の苦い経験があり、シーズン最終戦にボレロを完成させる必要があったからだとも思うので、オリンピックで素晴らしい演技や結果を残したり、悔いなく戦いきった選手たちもまた2月のライオンだった。(樋口新葉選手のライオンキングがとても好きでした!)

『宇野昌磨の軌跡』の中で、13歳の宇野選手がこんなことを言っていた。
「平昌のころは……本当は、日本の一番でオリンピックに行きたい。けれどやっぱり僕は、ゆづ君の次の順位でいい。きっとゆづ君が僕らもオリンピックに連れていってくれるから、僕は僕でがんばって、ノーミスして、滑った演技そのままの成績がついてくれば……それでいいな、と思ってます」

13歳の頃から宇野選手のこういう部分は変わらないなぁと、思わず微笑んでしまった。北京五輪で金メダルを目指していなかったという宇野選手の発言やネイサン選手を応援する姿勢を、アスリート失格だと言う人もいたけれど、その気持ちに至るまでの経緯はちゃんとある。

ステファンコーチから世界一になるために必要なことを問われた宇野選手は、
「ジャンプって言いました。やはりジャンプを跳ばないと2位、3位狙いはできたとしても、ネーサン・チェン選手がいる限り1位は無理。その結果4位、5位になっても、1位を目指すためにはそのリスクを負って試合に挑まなければいけないと思いました」
と答えている。自分がノーミスをすれば優勝できるジャンプ構成を冷静に考えて、宇野選手は多少無理をしてでも練習していた。けれど全日本前の怪我もあって4F-3T、4T-3Loは間に合わず、得意の4F、3A-1Eu-3Fの調子を戻すのに精一杯だった北京五輪では、ネイサン選手の構成を越えることは不可能だった。

たとえネイサン選手に近い高難度構成を組めたとしても、今はまだ練習での安定感が全く違う。4年前の平昌五輪で、ネイサン選手のSPの失敗を、練習では完璧だったと残念がっていた宇野選手だから「ネイサン選手に実力を発揮して1位になってほしい」と純粋に願っていただけだと思う。

私は元々、宇野選手の演技が好きすぎて人間性にそれほど注目していたわけではなかったんだけど、その比率が自分の中で逆転してしまったのが、4年前のネイサン選手に対する言葉を聞いた時だった。
正直に言うと、この選手はアスリートには向いていないのかもしれないと、そう思った。だから今回の宇野選手の言葉に、違和感を持った人の気持ちもわかる気がする。私はそれを優しさだと受け取ったけれど、甘さと受け取る人も、他の選手への無礼だと受け取る人もいるんだろう。

その一瞬で自分にかけたフィルターを、人はなかなか変えることができない。だから私は宇野選手のことを、トップを狙うには優しすぎる選手だという見方をしてしまいがちだった。
一見そうは見えないし、一般的には天然で、本人いわく悪ガキで、ファンには精神年齢60歳で、だけど私には自分の殻に閉じこもっていくタイプに見えた。あくまでも私のフィルターを通して。

今だから書けるけれど、埼玉ワールドの時、私はこの試合が宇野選手のトラウマになりませんようにと怖かった。ほとんどのジャンプを転倒しても大声援を受けて涙を流したフランス大会の後でも、ロシア大会で宇野選手がジャンプを跳ばなかった瞬間、もしかしてイップスじゃないかと不安だった。
だから演技のラストに急きょ4回転を跳びにいき、インタビューでいつものように飄々と、靴の中で足がずれて「僕ほんとスルーしやがって」と(言ったか聞こえたか)笑ってる宇野選手を見たら、泣き笑いみたいになって本当にホッとしたんだ。

他のトップ選手たちと違って天性のジャンパーではない宇野選手が、ここまで成長できた一番の要因は努力以上に、ジャンプの失敗を恐れない勇気だと私は思っている。試合でもショーでも観客はノーミスの演技が見たい。転倒すれば会場のため息がきっと選手にも聞こえている。
目の前のお客さんに満足してもらうことがプロの条件ならば、宇野昌磨たる条件は、もう無理だねとか、大したことなかったねと言われても、失敗する姿を見せることが成長する自分を見せることだと信じていたこと、何があっても失敗する勇気を失わなかったことだと思う。

今シーズン、鍵山選手の存在のおかげもあって、その勇気を最大限まで取り戻した宇野選手はどの試合も生き生きとしていた。ボレロのコレオ、イーグルで悠々と滑る宇野選手を見ながら、あの埼玉からトラウマだったのは私だったんだと気づいた。失敗を見守る勇気を失っていたのは私だった。

月光のラストポーズが、私はすごく好きだった。両手を低く後ろに反らして夜の闇に一筋の光を見つめていた宇野選手が、Great Spiritでは反らした両腕を広げて懸命に魂を呼び起こし、ボレロでは天高く掲げた両手いっぱいに希望の光を抱き止めているみたいだった。あのボレロを見ることができたからもう何も怖くないって思えるんだ。

「一番大事なのは、今年経験したケガをしないこと。ケガをしないようにしつつ、自分の限界に挑戦すること。そして、失敗を恐れないこと。
『挑戦する』『成長する』ということは、たくさんの失敗もつきものだと僕は思っています。なので、失敗や成績が落ちることを恐れずに、もっともっとその先を目指す。それが来シーズンも必要になってくることかなと思います」

この先のスケートを明快に語る今の宇野選手が存在するのは、3年前のフランス大会で宇野選手が閉じこもっていた(ように私には見えた)分厚い殻を割ってくれた観客の大声援があったからだ。そして、そこへ手を差し伸べて明るいほうへ連れ出してくれたのはステファンコーチだった。

『3月のライオン』の15巻に、私のお気に入りのセリフがある。真っ暗な部屋で悩んで、自分のバランスが取り戻せない。そんな時にでも…食べることができるおにぎりがあるのなら、他は全部忘れていい…「そのおにぎりは絶対に手放すな」

この漫画の主人公と宇野選手に、共通点はほとんどない。宇野選手には「何でもいいよ笑顔なら」と言ってくれる優しい家族がいて、どんな時にも無邪気に癒してくれる愛犬たちがいて、何も考えずに笑い合えるゲーム仲間もいる。
落ち着いていて真面目なところも根っこにはあるけれど、私は宇野選手のいい加減なところが、良い加減ですごく好き。日常生活やフィギュアスケートのファンをしていて知らず知らず身構えてしまう、肩の力をフッと抜いてくれる。

だからファンやスポンサーさんへの配慮も、私はスケートでさえも、宇野選手の良い加減で充分だと思ってるから、もしステファンコーチ以外にも宇野選手を明るいほうへと引っ張ってくれた手があるなら放さないでほしいし、ステファンコーチに感謝したぶんと同じだけの感謝を届けたいくらい。

同性異性問わず、トップスケーターであればあるほど、小さな頃から閉塞した世界で好奇の目にさらされて同じような痛みを持っていると思う。だからこそ唯一無二の、理解し合える生涯の友や特別な人になれるかもしれない可能性を、ファンが妨げてしまうことほど悲しいことはない。
ファンは直接手を差し伸べることも、おにぎりを作ることもできないけれど、温かい声援を送れば選手が閉じこもっている殻を破ることはできるかもしれないと宇野選手が教えてくれたから、私はこれからもここで、ずっと応援していたい。もちろん会場でも。

『宇野昌磨の軌跡  泣き虫だった小学生が世界屈指の表現者になるまで』の中で、こんな問いと答えがあった。2015年秋、17歳。シニアデビューの年のグランプリシリーズ。フランスでの初めての試合は、どうてすか?
「いや、僕は街を歩かないので。会場に行く以外にホテルから出ないから、世界中、どこで試合をしても同じです」

それからフランスでの試合は、中止になったり、体調不良だったり、どん底だったり、本当に様々なことがあった。2022年春、24歳。シニア7年目の世界選手権。試合後のインタビューで宇野選手はこう答えている。
「(この国は)自分の分岐点だったんですけど、再びこの舞台で、素晴らしい成績を取れたことに感謝しかないです」

私はフィギュアスケーター宇野昌磨以上に、人間宇野昌磨が大好きだから、毎日を幸せに楽しく生きていてくれたら、スケートで宇野選手に望むことは何もない。でも…やっぱり望んでもいいのなら、一つだけ…
来シーズンの世界選手権で、代表に選ばれて出場することができたら、どうか埼玉の地で笑っていてね。

ふと、本のタイトルが似ている『泣き虫しょったんの奇跡  サラリーマンから将棋のプロへ』(瀬川晶司さん著)を思い出した。
泣き虫ってことは実は心が強いってことなんじゃないかと、全然泣かなかった自分の子供時代を振り返って感じる。弱くて逃げてばかりだったけれど、本当は泣きながらでも何かを頑張りたかった。

そのぶん大人になって、フィギュアスケートのファンとして私はたくさん泣いた。宇野選手が18歳くらいの時からだけど、それでも充分に「泣き虫しょうまの奇跡」を見せてもらっているし、宇野選手の応援を時には泣きながら頑張ることができて、少しだけ心が強くなれた気がする。

「僕にとって優勝がゴールではなかった。ここからスタートするんだ、という気持ち」という宇野選手の言葉を聞いて、私は満面の笑みでガッツポーズをした。泣き虫なファンだった私も、笑ってばかりいるファンとして、ここからスタートするんだ!