宇野昌磨選手応援記【15】「皆さんも変化を楽しんでいただければ」

まず前回の応援記【14】にひとつ訂正があります。昨年のフレンズオンアイスでの4T-3Tのトライ&エラーが北京五輪団体SPで宇野選手を助けてくれたかもしれない、と書いてしまったのですが、時系列が逆でした。

宇野選手が『東京リベンジャーズ』みたいにタイムリープして過去の自分を変えているということでは決してなく、私の思考がタイムリープしていたのかな…、勘違いと確認不足のまま書いてしまい、そして今も修正せずに残していて本当にごめんなさい。

文章をしれっと修正してなかったことにしたい。けれどアスリートは試合で失敗をしても消せるわけではなく、次の試合で記憶を上書きできる活躍をするために、悔しさを抱えて練習に励む。私もすぐに修正するのではなく次に成長した自分で書くために、この恥ずかしい失敗を抱えて過ごしてみよう。
そう考えてはみたものの、私みたいな一般人の、収益を得ているわけでもなく、大好きな選手について楽しんで書いている趣味でさえ失敗は辛い。結局、我慢できずに今こうして訂正文を書きながら、私の失敗の器はなんて小さいんだろうと痛感している。

オリンピックや世界大会で4年単位の失敗を抱えて過ごしているアスリートの心の内は、次元が違いすぎて想像もできない。それほどのものを乗り越えたならば、どんな失敗でも挫折でも受け入れる、人としての器は大きくなりまくるだろうなと思った。

4年前の埼玉ワールドの時に、宇野選手は「このような演技をして恥ずかしい」と話していた。それから紆余曲折の3年を経て北京五輪の後には、「自分のどこを見られても恥ずかしいと思わないように生きていたいなと思っています」と語っている。
これは一般的な、どこを見られても恥ずかしくないように生きたい、とは全く逆の意味だと感じていて、現在の宇野選手らしさを表しているようで、その数年に広げた器の大きさに打ちのめされる思いがした。過去どれだけ人の目を恐れる恥ずかしがりやの少年だったかを知っていればなおさら。

見られても恥ずかしくないように自分を律して生きることに対して、自分を恥ずかしいと思わない生き方は、見られる人間として磨かれる速度はゆっくりになるかもしれないけれど、そのぶん心がすり減る速度も遅くなる。だからこそ恥ずかしいと思う自分から脱したことで、すごいスピードで失敗を積み重ねて成長できるのかもしれない。

私みたいな器の小さな人間にとって、自分の心と人の目の間で悩みながら立ち止まっている間に、自然体で生きようとする宇野選手が自らの決めた方向へ舵を切って進む姿は眩しく、いつも全力で追いかけている。

宇野選手が見ていたことがきっかけで私もアニメの『東京リベンジャーズ』を見たけど、以前はこういう暴力描写の多いストーリーはなぜ意味なく人を痛めつける必要があるのかわからなくて苦手だった。
でも何かで読んだ、ウブな少年は人を愛するために一旦ワルになる必要がある、それは人を愛することが悪いことだとされている風潮のためなんだという内容にすごく納得した。それ以降、程度にもよるけれどフィクションや現実のワルも、人を愛したいという叫びだと感じて愛しく思えてきた。

4年前の埼玉ワールドの後しばらくして、ゲーム配信を始めた宇野選手は自分をワルガキだと言っていたし、実際にそう見られがちで今に至っている印象があるけれど、その間もたくさんの悔しさや失敗を抱えたまま、人を愛するようにもなって、埼玉でのリベンジを果たすまでの戦いの4年間を過ごしたんだろうと勝手に想像している。

これは、そんな想像も含めたファンの応援の記録だから、前回みたいに勢いで書いてしまって失敗したり、他にもいっぱい間違いがあると思う。それでも書き終えて投稿した後に落ち込むことが少なくなってきたのは、続けてきたおかけで少しずつ私の人としての器も大きくなっているからだといいな。

今後はこうやって想いがあふれた時に勢いで書いてしまう癖を反省して、宇野選手がシーズンを通して毎日プログラムを磨いていくみたいに、もっと丁寧に書きたい。

私はこれまで見てきて、宇野選手のスケートの表現の魅力のひとつに丁寧さがあると思っている。言い換えれば上品さだけど、言葉としてピッタリくるのは、プログラムでの動きひとつひとつが丁寧なんだと思う。

その丁寧な動きからプログラムへの愛を私は感じる。でも宇野選手の言葉だけを表面的に受け取ると自分のプログラムへの愛がないと感じられるかもしれない。
「自分が好きだと思えるプログラムにまだ出会えていない。プログラム自体が悪いのではなくて、僕にとって好きか好きじゃないかは、自分で『見たい』と思えるプログラムに完成させられたか。過去のプログラムで、それはまだ1度もない」

宇野選手のプログラムがおまかせで特にこだわりがないことは、スマブラが全キャラVIPなことに似ている気がする。ひとつのキャラを深く愛して取り組めることも素晴らしいけど、全部と同じように誠実に向き合えることも、スマブラそのものが好きだからこそ、スケートそのものが好きだからこそ、どのプログラムでも没頭して滑る瞬間に出会えたら、それが心地好いんじゃないかな。

「芸術に失敗はない」と同時に「芸術に完成はない」という考え方もある。まだまだだと否定して磨いていく日々こそが、宇野選手の一番得意な過程なんだと思う。

落語家の立川志の輔さんが、師匠の立川談志さんの教えの中でも大切にされているのが「自分が納得する『芸術』と、人を楽しませる『芸能』と、その間が、おまえの落語なんだ」という言葉だと仰っていた。

これまでジャンプと表現の間で葛藤してきた宇野選手を待っているのは、表現においても芸術と芸能の間での葛藤なのかもしれない。その間で、見つけた場所がいつか宇野選手のスケートになる日を楽しみにしたい。

思えばファンだって、応援するということは何かと何かの間での葛藤の連続なんだとも言える。会場に行く行けない、グッズを買う買えない、発信するしない、どちらを選ぶのも自由でそこに優劣はなく、ただ、物事の受け取り方には光と影があると思う。

昨年のザ・アイスを多くのファンが楽しんだと思うし、宇野選手は声が変わるくらいの状況の中で全力を尽くしていたと思うけれど、一部ファンからも公私混同や新プロ広告詐欺のような言葉を見かけた。
以前の私なら、自分と違う見方を受け入れることができずに傷ついていたけど、今はそういう見方をする人もいる、いてもいいんだと受け止められるようになった。

映画『コーダ あいのうた』の中の、“Both Sides Now”(邦題「青春の光と影」)という歌が大好きで、毎日1本映画を見る前に必ずそのシーンを見ている。そして、どんな物事にも両側があるということ、私は何も知らないんだということを心に刻む。

「私は両側から人生を眺めてみる。上からも下からも。でもそれは私が抱いた人生の幻影、人生の本当の姿はわからない」

私は両側から“宇野昌磨”という選手を眺めてみる。上からも下からも。でもそれは私が抱いた幻影、本当の姿はわからない。

そういえば最近、宇野選手が何と呼ばれたいかという質問に「呼び捨て以外で」と答えていた。普段は昌磨くんと呼ぶ私がここで宇野選手と書くのは、考える時にはその呼び方に影響を受けると思っているから。

英語だと呼び方が感情や考え方に影響することはないだろうけど、日本語のニュアンスの難しさなのかも。宇野選手の場合、小さな頃から見守るように応援されていたこともあって、親しみを込めて名前をそのまま呼ぶスケートファンが多い印象がある。

これはスケート界では宇野選手限定で、他の人気スポーツのが顕著な現象だと思っているけれど、親しみと上から目線がいつも紙一重という気がする。はたしてスケートファンが感情を込めて呼ぶ「昌磨」と、一般人が呼び捨てる「宇野昌磨」の違いを、選手は瞬時に感じ取れるものだろうか。

もうひとつ似ている疑問があって、私は会場へ応援に行くといつも、宇野選手の演技の前には緊張して手を合わせる以外の言動が何もできなくなってしまう。でもそんな私みたいなファンが生み出してしまう張り詰めた空気と、自分のことを嫌っている人たちの視線が刺さる冷たい空気、どちらも演技前の選手には会場中のピリッとした空気としてしか届かないんじゃないだろうか。

だとすると、埼玉ワールドで最終滑走の宇野選手が、演技前のリンクで感じた独特の空気に立ち向かって、スケート人生でおそらく最も極限の状態で戦った、直後の会場インタビューや会見でファンの応援に感謝する言葉がなかったと責めるのは、その前に思いやりをもって想像してみなかった、ファンを少し棚に上げた見方という感じがする。
それならば、宇野選手の座右の銘「棚からぼたもち」的な、幸運をもたらすような温かい応援、それは演技後の盛り上がる歓声と同様に、演技前の背中を押す声援で、練習以上の力を発揮できる空気を作り出せるようなファンに、これから変わりたいと思う。
つまり、私はぼたもちになりたい。
(2023年7月7日、七夕の願い)

そんなことを考えずに、純粋に応援したい、楽しく観たいだけだという気持ちもわかる。そうやって楽しく観に来たお客さんの作り出した温かい空気が、PIW佐賀の会場だったんだろうと憧れてしまうから。
初心忘るべからずと言っても、私は一度考え始めてしまったらそこには戻れない。ならば考えられる可能なふたつの空気の間で、模索しながらも自分の思い定めた場所を目指して成長できるファンでいよう。

私はあくまでファンとしての立場で、普段と少し視線を変えて見ることはできても、選手としての視点から考えてみることは難しい。選手は人形じゃないし、人間として万能じゃなくて当たり前なのに、そうであるように求めて、そうじゃないことを怒る、注目度の高い競技や選手に対してほど、そういう一方的な応援をしてしまいそうになる。
応援あってのアスリートだとしても、同じくらいのクレームの存在を受け止めたうえで、感謝の言葉を伝えるほうを選んでくれているんだということを忘れずにいたい。

と、私の癖でわりと重く受け取ってしまってここまで書いてから、今年の埼玉ワールドで絶不調の宇野選手が「変化を興味本位で見ていただけたら」と話していたことを思い出した。そうだ、私はもっと興味本位で軽やかに受け取る人になりたいんだった!

もうすぐ真夏の祭典ザ・アイス。新しい挑戦の「ワンピース・オン・アイス」。そして夏よりも熱い、真冬のシーズンが待っている。それらを経て生まれた私の変化を、春にまた次の応援記で書けたらいいな。

これからは失敗をしないように…はできないと思う。もちろん迷惑はかけたくないけど、どちらかの側で変化しない人生より、むしろ失敗しながら、間違えながら、何かと何かの間で自分の場所や個性を見つけることこそが生きることだとわかってきた。

宇野選手の変化も、自分自身の変化も、両側から今を楽しんで応援することができれば、きっと思いやりの行き交うWin-Winな関係になれるんじゃないかな。(Win-Winの言い回しが気に入ってて、有料のNowVoiceじゃなければタイトルにしたかった!)

「すごく新しくなる年に、僕はなると思うので、僕も含めて皆さんも、その変化っていうものを、しっかり楽しんでいただければなと思っています」

はい!しっかり楽しみます。
昌磨くん、いつもありがとう!