宇野昌磨選手応援記【17】「どんな出来事も自分のためにある」

「今日までの練習に悔いはありません。
 皆さんに感謝でいっぱいです」

今回の世界選手権の後、六花さんという方のブログで『宇野昌磨さん』という記事を読ませていただきました。こんな温かい眼差しで宇野選手を応援しているファンがたくさんいる、そのことに心の底から安堵して、ずっと私が信じたかったものは目を向ければそこにあったんだと反省もしました。

試合で宇野選手の演技を見守る時も、noteで文章を投稿する時も、手が震えてしまうくらい人一倍怖がりな私は、どんな時にも宇野選手の言葉に勇気をもらって、綺麗なものだと信じてスケートを見てきた…
同じスケートファンの方の文章でそのことを再確認させてもらいながら、宇野選手のこの言葉を思い出していました。

「スケートに出会わせてくれた真央ちゃんにもすごく感謝しています。ただスケートと出会うだけではなく、本当に真央ちゃんのスケートに対する向き合い方が、どの選手よりも、僕にとって素晴らしいと思える向き合い方をしていましたし、そして今もずっとし続けてます。そんな真央ちゃんが一番最初に、一番近くにいたからこそ、スケートっていうものを、綺麗に、自分の中で見ることができるんじゃないかなと思います」

子どもの頃に、浅田真央さんに声をかけられた時から、宇野選手は何かに導かれるようにフィギュアスケートに取り組んできたんじゃないかと私はずっと感じていた。

自分の言葉でその理由をうまく説明することができないけれど、私はYouTubeで講演動画を見るのが好きで、その中でも一番と言っていいくらい人生観に影響を受けた、
『田坂広志が語る「すべては導かれている―逆境を越え、人生を拓く五つの覚悟―」あすか会議』という講演動画を見た時、宇野選手に感じていたものはこれだと思った。

(田坂さんの著書で『人間を磨く』『直観を磨く』『知性を磨く』などの「磨く」シリーズもそのタイトルだけで好きです!)

この動画の中の、田坂さんのどの言葉も本当に素晴らしくて、宗教的だと敬遠されるのでなければ誰の心にも響くものばかりだと思うけど、これまでを思い返してみれば、宇野選手がいつも気軽な言葉で話してくれる考え方に近いものがある気がする。

今大会後のインタビューで「どんな出来事も自分のためにある出来事だと思う。その1つとして、良い出来事だと思う」と語ってくれたことも、宇野昌磨というアスリートの人間力が詰まったハイライトだった。

私はどんなことも神様の采配だと思っているところがあり、宇野選手の演技内容や結果に対しては他のファンの方より落ち込むことが少ないと思う。逆に、落ちて着いた底から、いつも見上げているのかも。

時は遡るけれど、北京五輪での試合前に、テレビの情報番組が公式練習を延々と中継していたことがあった。
しばらくして「宇野選手もいるんですか?」の一言の後に一瞬だけ滑る姿が映った以外、宇野選手のなんの情報もなかった日、一抹の寂しさとともに、でもこれでよかったんだと思ったことを覚えている。

すぐ上に国民的スターの先輩がいてくれたことも、希望と可能性の塊のような後輩がいてくれることも、宇野選手にとって幸いなことだったと私は感謝しかない。

今の宇野選手らしさは、一般の人たちから必要以上には注目されずに過ごせたことで保てたものなんじゃないだろうか。
そのぶん宇野選手は、スケート界では子どもの頃から注目されて、弟のような存在として応援されることもあった。そんな自分の立場が、一方でめぐりめぐって他選手や自身への厳しい見方につながることも、優しい感受性で受け止め続けてきたと思う。

「この2年間、苦しかった方が多かった」「それまでの積み上げや、やらなければという使命感からこの2年間、何とかつないだ」
という宇野選手の言葉に、私はそうなんじゃないかなと思っていたので、今回の結果で、エースとしての役目は終えることができるだろうという気持ちにもなった。

だけど宇野選手が重荷として背負っていたものは、決してエースとしての役割だけではない気がする。それはもう日本フィギュアスケート界に連綿と続く何かだった。宇野選手はある意味ではその象徴だった。

2年前の世界選手権で初優勝した後、宇野選手は「まだスケートしているのかよ!って思われるくらい続けたい」と話していたし、今シーズンの前には「フィギュアスケーターがあまりにも現役引退が早いっていうのを、自分が少しでも新しい道筋になればなっていうのが今の目標です」と語ってくれて、すごく嬉しかった。それでも、と思う。

今の強い日本男子シングルで、世界の舞台で台乗りの成績を出し続けるか、代表の枠を空けるか、否応なく求められるその重たい空気を読まずに、現役のまま自分のスケート道を歩み続けられるトップ選手がいるだろうか。だからこそ宇野選手は「半分プロじゃないけど…」という考え方に、その答えを見出そうとしたんじゃないだろうか。

私は勝手に、たとえば松尾芭蕉みたいな軽みの境地に至って続ける道を拓くことと、長々とつながる重いしがらみを背負って去ることの、どちらが宇野選手の天命なんだろうか、みたいなことをずっと考えていた。

どちらでも、その先には軽やかなスケート界の未来が広がっているし、宇野選手自身はいつだって軽々と自由に翔んでいると信じて、これからもすべてを応援していたい。

先程の田坂広志さんの言葉で、私が一番好きで大切にしている考え方がある。

“野心とは、己一代で何かを成し遂げようとする願望
志とは、己一代では成し遂げ得ぬほどの素晴らしき何かを、次の世代に託す祈り”

北京五輪後のインタビューで、宇野選手の志が何かわかったような気がした。

「フィギュアスケートは、ライバル選手と戦うわけではなく、競技の特性上、自分と闘っている人が多いスポーツです。皆が皆、良い演技をしてほしいと願っている選手が多いと思うんです。それが選手同士の仲の良さにつながっているのでしょうが、この習慣は僕たちが生み出したものではなく、僕たちよりも先輩、そしてまたその先輩方がつないできてくださったもの。こうした文化は、僕らも後輩たちにしっかりつなげていきたいですね」

私は三代目J Soul Brothersさんの
『次の時代へ』という歌が大好きで…
今ずっと頭の中に流れているので、その歌詞を少しだけここに置かせてください。

“僕たちは 希望の空へ
愛をつないでいくんだ
思い出も くやしい涙のあとも
未来という道標(みちしるべ)
次の時代の光になれ”

宇野選手がいつどんな選択をしたとしても、後輩たちとともに、さらにその先の世代にも祈りを託して、仲良く切磋琢磨する実り豊かなフィギュアスケート界のための、バトンをつなげる役割は全うしたと思う。

昔、浅田真央さんの姿をしてフィギュアスケートへと導いた女神が、何を望んでいたのかはわからないけれど、それがなんであっても「僕はもう最善を尽くしました」と清々しい笑顔で言う宇野選手を見たら、きっと微笑み返してくれるんじゃないかな。

ジャンプの素質だけで考えたら、他の多くの選手たちのほうが持っていたかもしれない。文武両道のような取り組み方なら、今の立ち位置にはたどり着けなかったかもしれない。宇野選手は才能も努力も思考も運も「絞り出したスケート」で行ける最高のところまで、最大限の力を尽くして戦ったと私も思う。

同じインタビューで、宇野選手は東京五輪に対してこんなことも言っていた。

「スポーツはシナリオがなく、一瞬のために何年も、何十年も積み重ねてきたものをぶつけるものです。それは本当に素晴らしいことだと思いますし、全ての競技をきれいだなと思いながら見ていました」

競技を、努力の過程を、きれいだと表現する宇野選手の感性が好きで、私もそんなふうに物事を見ようと心がけてきた。

それでも、宇野選手がスポーツはシナリオがなくて素晴らしいと言っているのに、まるで筋書きのあるドラマのように私の解釈を書いてしまってごめんなさい。

ニーチェの名言に「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」という言葉があって、時々胸に刻む。
これまでの、これからの、フィギュアスケート界のどんな出来事も、そこにあるのは事実ではなく、ファンひとりひとりの解釈だけなんだろうと私は思っている。

田坂さんの講演の中にも、キーワードのひとつとして解釈力という言葉があった。

“人生というのは何が起こったか、それが人生を分けるのではない。起こったことをどう解釈するか、それが人生を分ける”

今回の世界選手権を、良い出来事だと解釈した宇野選手の人間としての強さ、魂の強さを心から尊敬している。そして、世界選手権前のこのインタビューに、宇野選手の魅力がすべて詰まっていたと思う。

「全力は出し切ると思います。でも笑顔で終わっていてほしいなって思いますね。表に立つ時間は有限だと僕は思っている。僕自身が世界選手権が終わった瞬間や、1つ1つの試合の終わった後に笑顔でいてほしい。それが後々振り返った時にめっちゃ悪い演技でも、めっちゃいい演技でも笑い話とか自慢話になる。悲しまなくてもいいだけの日々を送っていたんじゃないって、僕は思っています」

私がファンになった頃の、天然っぽい迷言だったり、表彰台での一挙一動に微笑ましさがあった時代の宇野選手も大好きだったけど、その頃から変わらない純粋さを持ち続けながら成長した現在の宇野選手の考え方や生き方が、心の底から大好きです。

きっとステファンコーチが本当の意味で喜んでくれるのは、素晴らしい演技でも、点数や順位でもなく、宇野選手が「自分を偽ることなく、大きく見せようとすることもなく、ただ美しい心を演技に反映するところ」と、競技以外でも幸せな人生を歩んでくれること、そのものなんじゃないかな。

そして私は、やっぱり宇野昌磨というスケーターを芸術家だと思っている。宇野選手本人は競技者に向いていると言っていたし、性格的にもスポーツのゲーム性に適していたとは感じるけれど、魂の奥深くには今もまだ眠っている何かがある気がする。
それが何かを見つめ続けたい。芸術というのは上手いかどうかではなく、魂の形や大きさがどれだけ表れるかだと思っているので。だけど、それは眠ったままでもいい。

「明日よりも今日が一番大切って思いながらずっと生きてきた」とゲームをしながら楽しそうに話していた昌磨くんも、イキイキとしてとても幸せそうだったから。

心のままに好きなことをして生きてほしい。それでも何かに導かれるように、自分の使命はスケートにあって、大切な今日という日の命を使いたいと思ってくれるなら、ファンとしてこれほど嬉しいことはない。

宇野選手はリンクとスケート靴さえあれば、氷の上だけでなく、大地や森や海、空や宇宙の果ても、自由に冒険するようなプログラムを滑ることができる人なので…!

現役でもプロでも、順風の日も逆風の日も、1日を生ききった後で、あぁ今日も良い旅だったなぁと、心から自分が満足できるようなスケート人生を歩んでいってね。