母と娘の無償の愛

一般的に母親は子に対して“無償の愛”を与えると言われるが、私は本当の意味での“無償の愛”を抱いてしまうのは母親ではなく子供の方なのではないかと思う。母親の娘への愛は無条件ではなく「母親の言うことをきちんと聞く娘」に対してという条件付きの愛情。一方子供はどんな親に育てられても親を心から嫌いにはなれないし、親に愛されたいと無意識に願ってしまうのではないかと、いつしか思うようになった。

昨今、子育ての大変さに対して、今まで家事の中心を担ってきた女性達が声を上げやすい風潮が広がっており、少しずつではあるが“母”という立場への理解が世間的に得られてきていると感じる。従来日本は子育てへの理解や支援が遅れていたため、これからの時代にこのような風潮は必要不可欠で喜ばしいことであるのだろう。しかし私は、子育てにおける苦労話によって如何に自分が苦しんだかを子育ての“被害者”として大々的に語られている文章を読むと、何故か“子供”として生まれてきた自分が“加害者”であると責め立てられてるような気分に陥ってしまう。罪悪感を突きつけられながら『私だって生まれたくなかったのに。』という想いに苛まれる。自分の生まれてきたことが全否定される。自分のことを愛せない子供が、産み落とした張本人である親からも歓迎されていないのであれば、この世に自分の存在を認めてくれる人は居ないのではないか。私が生まれたのは間違いなのか。

毒親とはどんな親を指しているのだろう。そして世間的に毒親と評されている本人は自分自身が毒親と気づいているのだろうか。もし自分自身は子供の為に完全なる善意として行っていたと言うならばその親は果たして毒親と言えるのであろうか。そもそも“普通の親”ってなんなのだろう。一切毒がないのが“普通”なのか。だとしたら、そんな“普通の親”に育ててもらえた人なんて、この世にどれ程いるのだろう。

湊かなえの小説『母性』の中で『人間には2種類の女性がいる。母か娘だ。』という言葉が私の中でかなりの衝撃だった。子供を産んだ瞬間から誰もが“母”になれる訳ではない。それでも子を産んだ瞬間に『自分は母になった。』と勘違いする女性がいる。“母”になろうと努力する行為を放棄する親もいる。それによって“娘”で居させて貰えなかった子供が多く存在するのではないか。“母”になることは想像より遥かに難しい事であると深く感じさせて貰えたのが、この言葉である。

『産んでくれた親に感謝する』のは子供に対して当たり前に求められることだろうが、果たして子供を産むという行為が絶対的善なのか私にはわからない。子供を産むことが当たり前ではないこの時代に、子供を産むことを決意した人には、どうか“母”になろうとしてくれる母親であって欲しいというのが“娘”の私からの切なる願いである。


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