出口がない。矛盾の迷路

みんな違う

人それぞれに自分の緊張を緩める方法は違うでしょう。人と話して、ストレス発散をする人、1人で映画や音楽を楽しんでリラックスできる人、様々でしょう。また、ストレスの発散の仕方と言っても、画一的ではなく、時と場合に応じて変わってくると思います。1人がいい時と人といる時が良い時、どちらがいいか、その割合も百とゼロではなく、しかも固定的でなく流動的だと思います。ただ、傾向として、1人が楽、というのが多めの人や人といる方が良いというのが多めの人、というのはあると思います。そんな時に、自分にとって最適な方法をとる際に何に注意しないといけないのか。

それは、それぞれ、何が楽かの割合が違うし、それは変わりうる

ということだと思います。

例えば、人と過ごすことで気が楽になる人(Aさん)と、1人で過ごすことが楽な人(Bさん)がいたとします。AさんはBさんといることで気が楽になり回復します。その時、Bさんには何が起きているか、Bさんももちろん楽しんだりリラックスしています。だけど、やっぱりBさんは疲れている部分もあって、1人の時間を過ごせて初めてほっとできるようです。

僕は、このあと、AさんはBさんに1人の時間を提供してあげるべきだと思います。言葉は悪いかもしれないけど、Aさんは一時的であれ、Bさんを消費して、自分の回復に使ったのだから、次はBさんに1人の時間をあげるということなんだと思います。

ただ、僕が困るのは、この時Aさんは「じゃあ、あなたは私といて、回復しなかったの?リラックスしなかったの?」となってしまうことなのです。これにはさきほどのとおり、

それぞれ、何が楽かの割合が違うし、それは変わりうる

を理解しなければならないのですが、とにかくこれを認めることができないようです。自分と同じように感じないことが悲しく、それによって、いままで得たリラックスものとも全て無かったことになってしまいます。自分と同じように感じてくれなかったことが悲しい、それはすごくよくわかります。同じように喜び、同じように悲しみ、そういうことが共有できればとてもとても嬉しいものです。それは大のご褒美だと思います。だけど、それをご褒美だと思えるのも、お互いが違うという前提で生きているからだと思います。違っていて当たり前だから、ふとしたことで一緒だと嬉しい、のだと思います。

同じを前提にするとどうなるか

ところが、「自分たちは同じ」を前提にしているとどうでしょうか?違うことが全てマイナスに見えてしまうと思います。これって、単に人生を楽しむという目的からしても全くうまくいく考え方でないように思います。

それに、違うからこそ生み出せる価値、違うからこそ話し合う価値というのがあるはずなのに、同じであることが前提になると、自分が思っていることと違ったことを言われた時に拒否反応が出たり、同じでない、ということが否定になったりします。

違うを前提にするという矛盾

さらに難しいのは、違うことを前提とする、ということを前提にすること自体が、同じであろうとすることですから、大変矛盾してしまいます。相手に我々は違うのだ、ということを理解させるという行為自体が、実は、同じでないと嫌だ、というところから出ているわけです。

そうすると、いったいどうしたらいいのか。違うという前提で話を進めたいけれども、その前提を受け入れてもらおうとすることは同質化を求めていることであり、そもそも自分が言っていたことと極めて矛盾してしまいます。

そんな風に考えると、もう出口がなくなってしまいました。それが価値観の違いというものでしょうか。AさんとBさんは再び同じ世界の言葉で話し合うことはできないのでしょうか。

前提より大事にすることは何か

ただ、ここまで書いてみて、少なくとも、Aさんにわかって欲しいな、と思うのは、矛盾云々のそんな難しい話じゃなくて、Bさんを心の底からリスペクトしていれば、Bさんが言っていることはわかるはずだし、Bさんにもゆったりして欲しいと思うはず、ということです。だって、Aさんにとってもそれがハッピーなのですから。だから、是非、Aさんには、Bさんと同じで無かったという悲しさもみとめつつ、自分の幸せがBさんの中に花咲くようにしたらどうしたらいいか、考えてみて欲しいな、と思います。Bさんが自分のなかに咲かせてくれたように、次はAさんがBさんに同じ気持ちを感じてもらえばいいとおもうのです。少し寂しい瞬間があるかもしれないけれど、自分の気持ちをくみとって一緒に過ごしてくれたBさんです。1人でリラックスして、より元気になって帰ってくれることを信じましょう。そのちょっと悲しい、もしっかり汲み取ってくれていると思います。

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