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リスである息子の七夕の願い

七夕である。

この季節になると、子どもたちは保育園から短冊をもらってきて願いごとを書く。そして書いた短冊を保育園の玄関に置いてある笹に飾る。保育園にお迎えに行くと当然それを見ることになり、私も七夕の気分を味わうことができるのだ。

私は決してちゃんとした人間ではないものの、こうした世の中の真っ当な人が行うであろう、季節のイベントに末端ながらも入れてもらえると、私もまだ真人間なのだと安心することができる。携帯電話料金がうまく口座から落ちなかったり、もうすぐ車検が切れるという事実に気が付かないふりをして、直前に非常に慌てたりするような人間ではあるが、こうした伝統的社会的行事に参加することで、まだ健全な側にいていいんだよと言われているような気がするのである。

私のような人間が七夕に参加させていただくのは申し訳ないが、どうか末長くその末席にはおいてやって欲しいという気持ちでいる。

そして真人間でいられるうちに、娘(6歳)と息子(3歳)の願いごとのことを記しておきたい。

娘は確か去年は「モデルになりたい」と書いた気がする。今年は「かがくしゃになりたい」と書いた。

どこで科学者というワードを知ったのかよく分からないが、ここ半年くらい娘は一貫して科学者になりたいと言っている。
娘の脳の認知構造は6歳にしてすでにもう、私に似て超文系なので狭い意味での科学者になるのは難しいかもしれない。
ただ、文系の研究者みたいなのになってくれないかなと期待してしまう。

超親バカである。親バカも極まった感じで申し訳ないが、今宵はめでたい七夕デーなので許して欲しい。


息子は今年は「ゾウになりたい」と言った。
これは「大きくなったらなにになりたい?」というのを「大きいものって何?」と聞かれたと勘違いしたのだろうか。

ただ「なりたい」と言っているので、「大きいものはぞう」と答えているのとは違う。

息子の将来の夢はぞうなのだ。

そういえば息子は自分のことをリスだと思っている部分がある。3歳前後から「わたし(なぜかこの頃息子は自分のことをわたしと名乗っていた)リスよ」とよく言っていた。

そしてドングリ拾いに執念を燃やし、チップとデールに異常な親近感を抱いていて、リスの絵を見つけると異常興奮する。

「大きくなったらゾウになりたい」というのは今は小さいリスではあるが、大人になったら大きなゾウになると考えているのかもしれない。

リスがやがて大きなゾウになる。まだ子どもなので、生物における成長という概念を誤って捉えているのかもしれない。

リスは大人になっても大きなゾウになれず、大人になっても小さいリスなんだという、息子にとっては衝撃的な事実を私は告げなければいけないのだろうか。

息子はこの現実を受け止められるだろうか?

まだ3歳である。子どもらしいこの勘違いをあえて正すことはしないでおこう。
息子は、今は小さなリスであるが、大きくなったらゾウになるのだということを心の支えに生きているのかもしれない。今その心の支えを外してしまうのはまずい。もう少し大きくなって、この現実が受け止められるようになってから伝えた方がいい気がするのだ。

とここまで考えていて、先ほど保育園まで子どもたちを迎えに行き、息子に「リスは大人になるとどうなるの?」と聞いてみた。

すると息子は「リスのお父さんとお母さんよ」と答える。相変わらず口調がおかまっぽいが分かっているではないか。決してリスが大きくなるとゾウになるなんて思っていなかったのだ。

そこで「◯◯くんはなんでゾウになりたいの?」と聞いてみた。すると「ゾウはりんごでしょ」と答えた。

りんご?

そうか、分かった。つまりはこういうことだ。

息子はりんごが好きで、りんごをたくさん食べたいからゾウになりたいのだ。

短冊に「りんごをたくさん食べたい」と書けばいいのではと思うのだが、「何になりたい?」と聞かれたので、りんごをたくさん食べられそうなゾウになりたい、と答えたのであろう。

謎が解けた。

そんなにりんごが好きだったとは。息子、気がつかなくて申し訳なかった。

りんごの季節になったらたくさん食べさて、息子のささやかな願いを十分に叶えたい。

息子にはリスのままいっぱいりんごを食べて、立派な大人リスになって欲しいと思う。

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