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どこに住んでもいいという自由があるということ

私は小学校の4年生の途中まで、社宅に住んでいた。
わりと社員が多い会社に父は勤めていたこともあり、そこは20棟以上のアパートからなる、一大社宅団地であった。

社宅の敷地内には小さな病院、今でいうコンビニのような商店、いくつかの公園、スポーツ広場、屋外プールなどがあり、ちょっとした街のような感じだった。

子どもも多く、私は年上、同級生、年下に関わらず、たくさんの友達と遊んだ。

登校前の僅かな時間も惜しんで、早めに家を出て広場に集まり、プラスチックバットとボールを使って野球の真似事をした。

放課後はランドセルだけを家の玄関に放り投げ、そのまま外に出て、仲間とザリガニ取り、鬼ごっこ、かくれんぼ、ボール遊びなど外が暗くなるまで全力で遊んだ。

社宅の敷地内ということで、何をしていても大人の目が届いていて、比較的安全でなんだか守られている感じがあった。

社宅の夏祭りや運動会も大いに盛り上がっていた。同じ会社の社員と家族という仲間意識があり、大人たちも楽しみながらイベントを運営していたようである。

まだ日本全体に好景気のムードがあった、古き良き時代の話ではある。

現在はこの社宅団地はとっくの昔になくなっていて、今はショッピングモールになっている。

父の会社の名前もこの世から消えた。部門ごとにいろいろな会社と合併したり吸収されたりした。業界再編は長く続き、父や父の同僚は就職した時は同じ会社でも、退職する時には皆、入社した会社と違う会社に所属していることとなった。

父が入社した頃は勢いがあった会社であり、体育会系の社風で仲間意識が強い雰囲気だったので、きっと父たちは退職する時には、社名が変わっているなんて考えもしなかっただろうし、それぞれがバラバラの会社で働くなんてさみしい想いもあっただろう。

会社への忠誠心が強く、終身雇用が当たり前であった時代の話だ。

父の会社がなくなったことが象徴しているように、このような経験は前時代的である。

しかし人間が、人と人の関係性を求める感情は、どの時代になっても変わらないのかなと思う。

人と人が関係性をもち、それを大切にしたいと思うことについて、その方法は変わっても、関係性を希求する気持ちについては変わらないのではないかと私は考えている。

私が経験したような社宅での人間関係のもち方は少なくなっている。

しかし今は、SNS、ネットゲーム、ネット上の掲示板などが流行っている。
それは形が代わろうとも人々が、誰かと関係性をもちたいという気持ちがあるからだと思う。

社宅は現実の関係性を元にした人との繋がりがあった。
現在はオンライン上での関係性を元にした人との繋がりがある。

きっと、オンライン上での関係性など希薄だ、現実の関係性に勝るものなどたいなどと考える人もいるだろう。
しかし、基本的に人間が人との関係性をもちたいと考えている本質に変わりはないと私は考えている。
人と関わる形態は瑣末なことである。

社宅団地の人間関係性だって、それより昔風の農村社会的な、しっかりと地域に根付いて生きる人からすれば薄っぺらいものに見えていただろう。

現代は人間関係の繋がりを深めることは身体的に実感できる場所以外にも存在する。

だから私たちが住める場所というのは昔より、自由になっているのかなと思う。
住む場所だけによって、人間関係がほぼ規定されていた昔に比べ、私たちは居住地の選択肢が広がっている。

住む場所以外にもオンライン上で豊かな人間関係を築けるゆえに、昔に比べてどこに住んでも構わないと思えるからだ。

これはとてもいいことなのではいかと私は考えている。

どこに住んでも、その場の人間関係のみで生きていなくていいと考えるだけでなんだか気持ちが楽になってくる。



私は現在、共働きで子育てをしていて、妻の実家の協力なしには仕事も育児もできないので、妻の実家の近所にマンションを買って住んでいる。

もしかしたら私は、今住んでいる場所に死ぬまで住み続けるかもしれない。

しかし「ここに住むしかない、ここの人間関係がすべてだ」と思うか、「ここの人間関係が全てでもないし、ここ以外の場所にも住むことができる」と思えるかは、精神的な安定をはかる点について大きな違いがある。

私は今住んでいるところにずっといてもいいし、他の場所に行っても生きていける。

「どこに住んでもいいなら、どこに住みたいか?」という問いが成立し、それについてあれこれ考えることができる幸せを今、私たちはもっていて、それは何にも変えられない自由だと私は考えている。

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