おじいちゃん、おばあちゃんが教えてくれること。
とある初夏の日の6時過ぎ。
まだ風は涼しいけれど、今日は暑くなっていくんだろうなって思うには十分な、夏が始まっていく空気を感じるある朝。
そんな朝、通勤中の埼京線の車内で大粒の涙を流す。
なぜなら日野笙さんの「がんばんなさいよ」を読んでしまったから。
早朝だけど、すでに通勤者と通学者でいっぱいの車内。
「人前で泣いてしまうのなんて恥ずかしい」読んでいる最中はそんなことすら思わなかった。
ただ夢中で文字を追い、そしてその文章を読んだら出る当然の反応として涙が溢れでる。
そんな感情とともに、この文章は私の心にいろんな思いを生み出していく。
この文章を読んで感じたこと、そして気がついたことをあげてみる。
人は必ず歳をとり、変わっていく。できないこと、忘れてしまうことが増えていく。
でも歳をとる中で得てきた人との関係、特に一番そばにいた人との絆は変わらないっていうこと。
もし大事な人がいなくなったとしても、その人から貰った言葉はずっと誰かの心に留め置かれるということ。
そしておじいちゃんやおばあちゃんが教えてくれることの大切さ。
日野笙さんの「がんばんなさいよ」を読んで、おじいちゃんやおばあちゃんは自分の人生をもって、私たちに大切なことを残してくれるんだなって気がついた。
おじいちゃん、おばあちゃんは親やきょうだいとは違った意味で特別な存在だ。
おじいちゃんやおばあちゃんの愛は無条件で、無責任なんだと私は思っている。
親のようにちゃんとしつけなければいけないという責任はそれほどなく、ただただかわいい存在。
それが孫なのかなって思う。
私もたまに会いに行く祖父、祖母にはとても優しくしてもらって、いい記憶がたくさんある。
健康ランドに連れて行ってくれて、アイスクリームを食べた後に、私が駄々をこねるとかき氷まで買ってくれたおじいちゃん。
「お腹壊すぞ」と言いながら、私のことを見てくれていた柔らかい表情を今でも覚えている。
私が小さい頃に一度だけハッピータンが大好きだと言ったことがあり、それをとてもよく覚えていてくれて、それ以来、必ず私が行く時にはハッピータンを用意してくれて待っていてくれたおばあちゃん。
ハッピータンを食べ、手に粉がつくと、おばあちゃんがまるで壊れやすいものに触れるように私の手を拭いてくれたことを幼き日のことを思い出す。
しかし、日野笙さんの「がんばんなさいよ」は教えてくれる。
おじいちゃんやおばあちゃんは、ただ孫を猫可愛がりするだけではない。
おじいちゃん、おばあちゃんはその身をもって私たちに伝えてくれる。
人は衰え、そして亡くなること。でも亡くなっても大切なものを残していくということを。
日野笙さんのお祖父様とお祖母様は最後まで、お互いに最愛の存在だった。
日野笙さんはお祖父様が亡くなってから、お祖父様のアルバムを見ている中でその証を見つけられた。
人は亡くなっても、その人がどのように生きたかということが証拠として残り、その残った物を誰かが見ることで、その誰かの心に亡くなった人が刻まれるんだなと、この文章を読んで思った。
身近な存在の老いと死。
そしてその死を想うことは、その身近な人の生きていた日々のことに思いを馳せることにつながる。
老いと死を自分の近くにあることとして教えてくれる、最初の存在がおじいちゃんやおばあちゃんなんだ。
そして死んだってその人が生きてきた足跡はしっかり残ることを教えてくれるのも、おじいちゃんとおばあちゃんだ。
今年の夏も暑くなりそうだなと予感できる初夏の朝、日野笙さんの文章を読んで、私は涙を流しながらそんなことを考えた。
そして私は今日、私の祖父母の中で唯一まだ生きている父方のおばあちゃんに電話をしようと思っている。
おばあちゃんの声が聞きたくなった。
亡くなったおじいちゃんの話をたくさんしてもらおう。
きっとまたおばあちゃんは、おじいちゃんが亡くなる直前に朦朧とするなかで「生まれ変わってもまたお前(おばあちゃん)を探しに行くからな」と言ったという話をしてくれるんじゃないかと思う。
私はその話を、照れくさそうに、でもとびきり嬉しそうにするおばあちゃんが大好きだ。
そしてそんな素敵な言葉を、私たちの胸に残してくれたおじいちゃんも大好きだ。
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