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言葉の力と無力

なにか新しいことを始めたくなる新年、noteを再開することにした

基本的には映画の感想を書くために使いたいな。でも、特にルールは決めず、好きなことを書きたい。
誰に見せるためという訳でもないのだけれど、最近、ダンスや歌だったり、写真や絵だったり、自分を表現する手段を持っている人が羨ましいなと思って、私はその手段として、文章を選んだ。


私はやっぱりどこまで行っても言葉の人間だと思う。

映画にしても小説にしても、好きな作品は全部言葉が素敵なもの。
その中で出会った、心に突き刺さって抜けない大切な言葉が、お守りみたいに私の人生を支えていたりする。

人と話すのも好き。自分には想像のつかない言葉や思考が当たり前のように他人の心の中にあって、その断片をつかまえたときのあのキラキラした瞬間が大好き。

逆を言えば、せっかく仲良くなった人でも、「あぁそんなこと口にしちゃうんだ」って感じると、少し距離をおいてしまったりする。もちろん、言葉のひとつでその人を理解した気になっているわけではないし、勝手にジャッジして否定するつもりもない。ただ、言葉の節に感じる直感的な違和感を大事にしないと、気づかないうちに心が蝕まれてしまうから。きちんと言葉にすれば必ず伝わるなんてない、人生の価値観が違えば本当に何も伝わらない。

言葉の力

それでも、私は「言葉の力」を信じたい。言葉にすることを諦めたくない。

というのも、私は元々怒るのが苦手で、言わなかった言葉がたくさんある。でも、言わなかったからって心から消えていくわけではなくて、むしろ蓋をしたせいで心の奥深くで積み重なって大きくなる。
自分を粗末にするというのは、傷ついた時にヘラヘラしたり、言いたかった言葉を飲み込んだり、後から悲しかったのをなかったことにしようとすることだと思う。自分をすり減らさないために、言葉にするということは大切なの。

好きなムーミンのエピソードで、透明な女の子ニンニのお話がある。

ニンニは、声も姿もなくしてしまった透明な女の子。言葉の暴力に何度も傷つけられて、もう透明になってしまいたいと願ってしまったせいで、声と姿を失ってしまった。
ムーミンたちと一緒に過ごしていく中で、だんだん姿を取り戻すけれど、声と顔だけは戻らない。でも彼女は、初めて怒りを表現したとき、顔を取り戻し、「助けて」と叫べたとき、声を取り戻した。

トーベヤンソンは、虐げられた人間は言葉を奪われてしまうということを知っていたし、怒りが主体性にとってどれほど大切かをわかってた。

この社会の中には、弱い立場を強いられて声をあげても誰にも届かなかったり、言葉をあげる手段すら奪われている人たちがいる。だから私は、手の当たる範囲で間違っていることには声をあげていきたい。

言葉には、自分を解放する力、誰かを救う力、そして社会を切り開く力があると思う。自分の言葉に責任を持つこと、そして言葉の力を信じるということは私にとってすごく大切。

言葉の無力

でも難しいのは、言葉は無力でもあるということ。たとえば、大切な人が辛い時は、どんな言葉も空虚に感じる、誰かに心から寄り添うって本当に難しい。

それから、大きく心が揺れ動いた時、心に言葉が追いつかなくなってしまうことはよくあって、言葉にしたら本質的な何かが抜け落ちてしまうんじゃないかというこの気持ちになる。言葉にしたら、純度が低くなってしまう気がするというか、、
一度出てしまった言葉は二度と元には戻らない、だから本当に大切な気持ちは誰にも何も言わないでいたいとも思う。
「どうにか言葉にしたい気持ち」と「言葉にできない気持ち」にどうやって折り合いをつけていいのかとずっと悩んでもいて、


言葉について書いていたら、いつのまにかこんなに長く、、笑
私の中にある言葉への思いを全部書いたら、こんなにまとまりのない感じになってしまったけど、もう気にせずこのまま載せておく!

私が言葉を紡ぐことをやめないのは、自分の中にある感覚を言語化することで、その感覚たちを腐らせないようにするため。いつか誰かに伝えたい何かが生まれた時に、それを言葉にする術を知っておくため
自己表現の手段と言いながら、当分人に見せるつもりはないのだけれど、自分のペースで頑張りたいな。


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