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楽しいけど苦しい、それでもいい

noteを書き始めて10か月ほど経ったらしい。全然キリのいい数字でもなんの節目でもないし、別にこの10か月を振り返ろうというつもりもない。なんでこんな書き出しにしてしまったんだ。

noteの街には「毎日投稿」という言葉があって、毎日欠かさず記事を投稿している人たちがいる。月に一度は必ず投稿するという目標でいっぱいいっぱいで、週に一回投稿できたら御の字というところを右往左往している私からしたら、本当に尊敬の念があふれて止まらない。

右往左往しつつ、更新頻度も高くないなりに、続けることだけはやってきた。その中で気付いたことがある。私はずっと、書くことが苦しい。

「好きなことをして生きていきたい」と思った。書くことはその中で最も大きな「好きなこと」だった。好きなことをしているときは楽しいに決まっている。楽しいから続けられる。続けられるからうまくなる。うまくなったらもっとたくさんできる。

「楽しいから苦じゃない」という言葉をよく耳にする。他人から見たら「どうしてそこまでできるの」と思うほどの努力を、なんてこともないようにこなす人が、その理由として口にする言葉だ。大変だけど、楽しいから苦しいとは思わない、と。

私もそういうものを見つけたかった。だから書くことは私にとって、楽しいことでなければいけない。書いているときの「苦しい」という感情は、あってはならない感情だった。

苦しいと思うのは、自分に書く技術や能力が足りないから。書くにあたってのマインドが正しくないから。だからインプットもアウトプットもして、もっとレベルアップしなければ。

でも、苦しいからなかなかアウトプットできない。アウトプットできないからレベルアップできなくて、苦しいまま。苦しいという感情はあってはならないという意識もある。この三つ巴の渦にはまって動けなくなったのが、少し前の私だ。

8月の終わりのある日、私の日記にこう書かれている。

「楽しいから苦じゃない!」とよく聞くけれど、「楽しいけどしんどい」「嬉しいけどしんどい」が存在しないわけではない。

どういうなりゆきでこの言葉が出てきたのかはっきりとは思い出せないのだけれど、なにかの拍子でこう思ったらしい。その出来事自体は楽しいこと、嬉しいことだったけれど、その出来事に適切に対応するために求められることが、そのときの私にとってはしんどいことだったみたいだ。

それと同じように「好き」と「楽しい」も表裏一体ではなく、「好きだけど苦しい」という感情も存在する。好きだからって楽しくないとおかしい、というわけではない。

こうして私はやっと自分の中の「書くことが苦しい」という感情を認めることができた。

その次にやろうと思ったのは「書くことに対する苦しさを分解・分析すること」だ。書くときの苦しさは混沌としていて、ただ、何種類かありそうだなということだけはなんとなく感じる。

書くときの苦しさとはつまり「書きながら頭に浮かぶモヤモヤ」である。書きながら、どんなことを自分は思っているのか、書き出してみようと思う。

・もっと詳しい人がたくさんいるのに、私が書く必要ある?
・解釈は本当にこれで正しいの?
・他の解釈を否定したくない
・だからといって「個人的な解釈だが」と書きすぎても、保身に走っているようでダサい
・事実はこれであってる?リサーチ足りてる?
・こんな内容じゃ、時間を割いて読んでくれた人に申し訳ない
・無自覚のうちにだれか傷つけてしまいそう
・また長い文章になった
・自己顕示欲強すぎてまず自分がしんどいし、読んだ人にも引かれそう
・自分語りばっかり
・どの口が言ってんねん
・暗いし重い
・ネガティブな感情を打ち明けることでしか、人と心で繋がる方法を知らない。だから書くことがどうしてもネガティブになる。書いているとネガティブな感情を追体験してしまって辛い
・知人や家族、有名人など、自分以外の人のことを好き勝手書いて申し訳ない
・誹謗中傷は当然書かないようにしているが、相手の名誉を傷つけないよう、どんなに配慮してもしきれてない気がする
・題材にしている人や作品にとって不利益になってないだろうか(過度なネタバレ・誤解を招く表現など)
・「こんなやつが好きな作品、面白いわけがない」と思われたらどうしよう、だったら私の記事は存在しない方がいい
・ちゃんと伝わるのだろうか
・なにかの足しになってるのだろうか

自分の頭の中で鳴っている言葉をそのまま文字にしているので、まあまあ言い方がきつい。過敏に警戒しすぎている部分もある。あくまでこれは、私が自分の文章を書いているときに思っていることであり、他の人が書いた文章を読んでこう思っているということではない。自由な創作を否定する意図は、一切ないということをご理解いただきたい。

でも、内容としては、良識を持って文章を公の場に出すために、最低限必要な視点だと言えなくもない。

自分がどう評価されるかということの怖さ、読んでくれた人への影響、題材にしたものや人への影響。書いている内容や、言葉選びについての不安。

いくら心優しいnoteの街とはいえ、インターネット上で何かを発信するにあたって、気を付けるべきことに気を付けて、気を付けすぎることはない。ただ、それがうまくできなくて私は苦しい。私は書くことを手放したくない。書くことをもっと楽しめるようになりたい。

頭に浮かぶ「問い」がモヤモヤに変わってしまう理由はひとつ、その問いへのはっきりとした答えがないからだ。私が書いているときに感じる苦しさを軽減させるには、自分が納得できる答えを自分の中に持つことだ。

ふむ。「自分が納得できる答え」かあ。

もう一回さっきの箇条書きをじっくり見返してみたけれど、この10か月、いや、生まれてこのかたずっと答えが出せない問いに、そんな簡単に答えが出るわけもなかった。

一方で、私が考えつくような問いなんてものは、ずっと前から考えている人は大勢いて、すでにきちんとした着地点も見いだしている人だってたくさんいるはずだ。

事実、こういったモヤモヤに答えてくれる文章指南本もたくさんある。すがるような思いで読み込んで、読んだその時はすっきり吹っ切れたような気持ちになる。

でも結局、パソコンに向かってカタカタ文章を書いているときには、自分だけの世界になる。「あの本ではああ書かれていたけどやっぱりさあ……」という決まり文句を合図に、終わりなきモヤモヤの徒競走が始まる。

そして「やっぱり」のスターターピストルは、脳内のあちこちに、ところ狭しと散らばっている。

だけど自分に、これだけは絶対忘れるなよと言いたい。今までnoteで書いてきた文章、おそるおそる投稿ボタンを押して投稿した記事を、読んでくれて、スキを押してくれたりコメントをくれたりした人がいるんだということ。

どんなに自信がなくても、書いてきた文章が繋げてくれたものがある。文章を書いたからこそ出会えたものがあるんだ。

人間そう簡単には変わらない。書いているときの苦しさも、そう簡単にはなくならない。モヤモヤに少しずつ一つひとつ着地点を見いだして、そうしたら新しいモヤモヤが生まれて。それでも進んでいくんだろう。

でも、この世には「好きだけど苦しい」という感情が存在すること、どんなに自信がない文章でも、一生懸命書いたのなら、なにかしら繋がっていく人やものがあるということ。このふたつの事実が分かっただけでも、私にとっては大きな収穫だ。

出会ってくれてありがとう。

コンビニでクエン酸の飲み物を買って飲みます