見出し画像

【20180615-16】今週のよかったこと

信州は松本の5月は、クラフトフェアで毎年静かな熱気に包まれています。続く6月は何があるかといいますと、まつもと大歌舞伎というお芝居がありまして、それはもう楽しい催し物なんでございます。今年も観に行ってきたので、今週はその話をします。

今週のよかったこと
・まつもと大歌舞伎『切られの与三』を見てきた

■まつもと大歌舞伎『切られの与三』を見てきた

東京の渋谷、Bunkamuraシアターコクーンで上演されるコクーン歌舞伎のことをご存じの方は多いかもしれない。コクーン歌舞伎とスタイリッシュに呼ばれるこのお芝居は、コンクリートジャングルからリアル山間部へやってくるとき、ちょっとだけ頭にのせた冠の趣を変えます。それがまつもと大歌舞伎です。詳しくはあの、筋書きとかを読んでください(急な丸投げ)。もう長いことやってるみたいです。

今年は『切られの与三』。ちょっと前に串田和美さんがまつもと市民芸術館で同じ題材をやっていたのも見ていたので、「あたしこの演目ちょっとしってるぞ」という顔をして劇場へ赴きました。本当にちょっとしか知らなかったんですけれど。

センチメンタルなピアノとパーカスに背中を押されて、坊ちゃん育ちの美貌の若旦那は、手を出しちゃいけない女の人に手を出したのが最後、よろりと破滅の道に落ちていくというストーリーです。岩波文庫でも出てるらしいけど、ちゃんと読もうと思うと長いらしい。

江戸の大店の息子、与三郎は木更津の浜で美しいお富と出会い、互いに一目で恋に落ちる。しかし、お富は囲われ者、逢瀬の現場を押さえられ、与三郎は顔も身体もめった斬りにされ、お富は海へ飛び込んでしまう……。

3年後、お富は溺れた自分を助けてくれた男の世話になっている。そこへ蝙蝠安と強請に来たのは、刀傷を売りにする小悪党に変貌した与三郎だった。一度は夫婦になるものの、またまた引き裂かれてしまう二人。ふとした恋が運命を狂わせていく、その先は……。

与三郎に中村七之助、お富にコクーン歌舞伎初出演の中村梅枝という清心な配役で、同じく初出演となる中村萬太郎に、コクーン歌舞伎を支えてきた片岡亀蔵、笹野高史、そして中村扇雀の出演により、名作『与話情浮名横櫛』の真実の姿を浮き彫りにする、コクーン歌舞伎、待望の最新作、『切られの与三』が幕を開けます!
(あらすじ・原作よりhttp://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/18_kabuki/#story)


 『切られの与三』の演出の面白いところは、信頼できる語り手のいないところだと思う。
 かわるがわる語り部が語る与三郎の人生や生れは、どれも少しずつディティールが異なり、与三郎自身でさえ真偽のほどを語ることは出来ない。本当の事なんて本当にあるのだろうか、とは劇中で笹野さんが言っていた台詞だけれど、コラージュのように、編集され、反芻され、噛み砕かれ、本人もふわふわとしているので本当に掴むことができない。

 そういう男として舞台に現れた与三が背負う音楽がとてもよくて、そのジャズっぽい音楽のおかげで、与三郎とお富さんのイチャイチャシーンがあんまりふわふわと夢見心地な場面にできあがっているものだから、ちょっと居心地が悪いくらいロマンチックだった。(語り手を信頼できないうっすらとした怖さと、甘たるいロマンチックさが共存している)

 なんだけど、後半になればなるほどこのセンチメンタルさは与三郎に合ってくるので不思議で、また、この夢見心地は時に与三郎と観客席をとりまく悪夢のようにも思えてくる。
 登場人物の名前や姿を少しずつずらしながら、同じ役者が似たような役似たようなセリフを似たようなタイミングで繰り返しながら、同じ様な話しの筋を繰り返していく与三郎。傷だけがその証拠のように増えていき、悪夢は際限なく進む。誰も与三郎の本当のことを知らない悪夢のなかで、与三郎自身でさえ顛末を把握できない。
 「知らねえよォ」と言った与三郎の台詞が、この芝居のすべてと言う感じだった。ね、知らないよね、こんな悪夢散々見せられたあとにそんなこと急に言われたってさ。

 物語の終盤、走れ、と言われてよたよたと、時に見栄を切りながら走っていく与三を見ていて、私は何年か前の『天日坊』を思い出した。あれはお兄さんの勘九郎が走っていた。「俺は誰だァ!」と叫びながら、アイデンティティを苛烈に求める男の話で、この走った先はどん詰まりの地獄だと、自覚しているような勢いと気迫で走り切っていた天日坊と、「知らねえよォ」と冷めた態度を滲ませながら、周囲に走らされている感も出しつつ、それでも傷を負うと決めて走る与三郎の印象がめっちゃ被るかというとまあそんなことはないんだけど、七之助のすっとした美貌にはそういう人生観を負わせたくなるの、ちょっとわかるなって思った。勘九郎には目をカッぴらいたままどん詰まりの地獄に猛スピードで駈け落ちて行くような人生を負わせたくなるように。

 そうそう、私はお富さんについても書いておきたい。「私は走れない」と自嘲したお富さんについて、客席にいた女性たちがみんながみんな、お富は与三郎に厄介ばかりを背負わせる嫌な女だと、反感を抱くことをそんなに簡単にできるとは思えなかった。男のひとをとっかえひっかえし、囲われる生き方しか選べない女の人の存在を、多かれ少なかれ知っているのであれば。彼女たちが、場合によってはそういう生き方しか選べない状況にあるということが往々にしてあると言うことを、知っているのであれば。

 お富さん、走りなよ。なんて気軽に言うことだってできない。お富さんは走れたはずなのだ。己の芸事や美をあんなに上手に使えた人だ。身につけられた人だ。未来が分かっていた人だ。与三郎のいじけた弱さを叱咤し、刃物を握らせ、でも最後まで寄り添いなんかしなかったあの人がそうしかありえなかったのは、決してお富さんが無邪気にそういう性分だったからというだけじゃああるまい。私はお富さんを雁字搦めにしているであろう様々な障壁を(作中でそこまで描かれていないのに)思って、あの自嘲で泣いた。

 これは私の経験値の浅さからなのですが、歌舞伎座に行って歌舞伎を見ると言う行為は、それだけでちょっと緊張感と「歌舞伎を見るのだ」という謎の先入観が伴ってしまいます。決して悪い意味じゃなくって、「歌舞伎を見た」という満足感と素晴らしさがあるのでよいのだけど、コクーン歌舞伎は「お芝居を見るのだ」という立ち位置から「お芝居を見た」という満足感を得られて、なんというか気負いがないのです。私の中ではね。そういうところが好き。決して筋が現代ナイズされてるからとか、言葉が分かりやすいからとかそういうことばっかりじゃあないと思う。

 コクーン歌舞伎と演目が一緒なんだからまつもとで見なくても、と思う人もいるかもしれない。お芝居だけ観るんだったら東京でおしまいにしたっていいかも。
 でも、本当に賑やかにしている空気ごとこのお芝居を楽しむのだったらきっとまつもとに来た方がいい。劇場中がお祭りをしていて、屋台やら大道芸やら、なんにも気負わないでにぎにぎしくしていて居心地がよかった。

行ったところ:
まつもと市民芸者館
こういう晴れた日は屋上の庭の芝生が柔らかくていいですよ。また松本の濃い青空が近くて気持ちいいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?