空っぽ。

本日、3月4日をもちまして、上田のおうちと、その大家さんとの賃貸契約を終了しました。

退居費用もハウスクリーニング代とエアコン洗浄だけだったし、敷金からちょっとはみ出るから追加で払わなくちゃならなかったけど、それも家賃振り込み用口座の積み立てで賄えたし(そもそもはみ出たと言っても200円)、おそらく円満に退居できたのだと思います! 優秀! やった!!



賃貸物件契約には、超絶大事な大原則がある。

原状復帰。

何日もかけて空っぽにする準備をして、今日、5年間かけてつくってきた、自分だけの秘密基地を無に帰した。

5年前と同じ、空っぽに戻した。



5年前、2015年3月25日に、わたしは松本から上田に引っ越した。

引っ越してきたあの日も当然、おうちの中は空っぽだった。何にでもなれる空っぽだった。

松本では家具付きのおうちに暮らしていたから、引っ越し直後は家具らしいものを何にも持っていなかった。自分で家具を選んで配置や動線を考えて暮らすというのは、この家が初めてだった。

3ヶ月ほどかけて、少しずつ何もない空っぽを『家』にしていった。最後に仲間入りしたタンスは大好きな友だちに組み立てを手伝ってもらった。そのお礼に、その日は家で夜ごはんを振る舞った。


家で自分で作るごはんが好きだから、少しずつ、ほんとうに少しずつ調理道具や食器を揃えて、自分好みの『おいしくて楽しい食生活』を確立した。

行動圏内のスーパーのネットチラシを毎週欠かさずにチェックして、食材の底値を把握した。特売品を基準にして、向こう3日~1週間の献立を決めて買い物へ行くことを覚えた。

休みの日にがんばって作り置きをしておくと、平日の生活が驚くほど楽になることを知った。だから、日曜日は午前中に買い物に行って、洗濯や掃除を済ませて、午後をすべて料理に使い1週間分のごはんを作る、というのが当たり前の生活になっていった。

人をおうちに招いてご飯を出すのが好きで、お客さんに選んでもらうために箸置きを何種類か揃えたりした。食器も、人をお招きする前提の数を持っていた。

煮物と揚げ物をよく作ってはTwitterでそのことをしゃべっていたら、それを見ていた人におすそ分けをする現象が複数回発生した。ここ半年は、配ることを前提に、わりと多めに作っていたくらいだ。


この家に暮らし始めてから音楽を聴くこと、フィギュアスケートを観に行くことを覚えたわたしは、軽率にライブやイベントに行くようになった。CDやBlu-rayといったものも買い揃えるようになった上、いわゆる『推しグッズ』もお迎えし始めた。タンスや収納がいつもギリギリで、何を選んで何を手放すかを常に悩み続けていたけれど、そう悩むことすらも幸せだった。幸せな悩みってこういうものなのか、と初めて知った。この辺りから、『家』というよりは『秘密基地』になっていった、ような気がする。

棚卸しをきっかけに生協の方と仲良くなって、読みたい本を発注して買うようになった。10%オフで買えるからと、タイトルや装丁で一目惚れした作品に軽率に手を伸ばすようになった。いつでも積ん読が積みあがっていて、読んでも結局買ってきちゃうので、未読本が10冊以上あるのが定常状態になった。

高校生の頃に知って以来ずっとやってみたかったTRPGを友だちとやって、TRPGの楽しさを知った。TRPGをやったことでダイスを振る楽しさを知って、マイダイスを持った。

便箋を集めるようになって、LINEもTwitterも知っていて、気軽にいつでも連絡を取り合える友だちと、あえて文通を始めた。お手紙を出す相手の雰囲気や、自分の気持ちに合わせて便箋を選ぶところから、お手紙を書くという行為は始まっているんだと実感した。送る相手を思い浮かべて何かをしているときは、それはすべて『手紙を書いている』状態だと知った。

茶道の心得をお持ちの教授と仲良くなって、お茶会を何度かした。家で抹茶を点てるようになり、懐紙も何種類か揃えた。


起きる時間、寝る時間、何をするかを全て自分の好きにできることの気楽さを知った。自分は朝型だと思っていたけど、放っておくと若干夜型になるらしい。

いつの間にか、自分の帰る場所として思いつくのが、頭に浮かぶのが、実家ではなく、上田の家になっていた。いちばんこころが落ち着くのも、素直になれるのも、何からも解き放たれて自由でいられるのも、この家だった。

たくさんの経験を、この家とともに重ねてきた。いまの自分のかたちがこうであるために、ひとつも欠かせない経験だった。

この家とは、数えきれないほどの思い出がある。

この5年間で、今まで知らなかった自分にも出会った。その全ての瞬間を、このおうちと一緒に迎えた。

すごくだいじな空間だった。わたしを育ててくれた空間だった。



退居立ち合いの直前、5年前と同じ空っぽを目の前にしたとき。てっきりもっと寂しくなるのだと思っていたのだけれど、たしかにすごく寂しいと感じたんだけれど、でも、寂しいだけじゃなかった。

不思議と、充足感があったのだ。この5年間、わたしよくやった、がんばったよね、と。


この5年間で、多分わたしは何者かになりたかったのだと思う。だけど、何者にもなれなかった。

留年や落単は必死になって回避したけれど、成績が特に良かったわけでもないし。

研究だって楽しくやったけど、英語論文を書くとか、学会で賞を取るとか、そういうものはしなかったしできなかったし。

就活にコケて進路的に引きこもった挙句、今も悩みまくって進路未定だし。

かといって、特別他で目立った何かを残せたわけでもないし。

ただ、自分の好きなように5年間暮らしただけだった。

客観的に見れば、それは時間の無駄遣いだと言われても仕方ない、何にもならない5年間。前に進めていない気もする5年間。

でも、充足感を得た。

だったらそれでいいんだろうなって、空っぽを目の前にして思った。

あの空っぽは、たぶん、わたしの何にもならなかったこの5年間を肯定してくれたのだ。

たしかに何者にもなれなかったよ。前にだって進めていないよ。でも、ぜんぶ必要な時間だったんだと、空っぽが教えてくれた。

だいじょうぶ、わたしまだやれる。

だいじょうぶだよ。

そう思えた。



ありがとう、さようなら。


行ってきます。

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