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子連れ狼vs発狂頭巾

秋の夜、貼り付けたような満月が古刹を照らしていた。

月明かりが影を落とす堂の中に、男と童子が座している。元公儀介錯人・拝一刀。またの名を子連れ狼。そしてその一子・大五郎。父子ともども冥府魔道に生き、六道四生順逆の境に立ち、刺客道を歩むもののふである。

「御免」
堂の戸を敲き、男が一人入ってきた。旅装であるが、軽輩でないことは揺るぎない足運びからも分かる。三十路余りか、いくらか皺のある角張った顔、くっきりと一文字の眉には、その武士の意思の強さがにじみ出ていた。

「刺客、子連れ狼殿とお見受けする」
「いかにも」
入った男は、それを聞いて床に座し、大小を脇に置いて一礼した。
「刺客引受、五百両」
「そして裏の事情を全て話すこと」
子連れ狼の言葉に、男が繋いだ。
「旗本、鬼頭主税と申す。江戸巷間を騒がす、発狂頭巾を始末して頂きたい」

発狂頭巾の名は、子連れ狼にも聞き覚えがあった。二年ほど以前から江戸市中の噂となっている怪人の類である。
頭巾をまとって夜な夜な出歩き、奇声を発して旗本奴や商家の大店を襲う狂徒であるが、異常に強く捕まらない。被害者が不思議と世上の恨みを買っている輩ばかりであることもあってか、「正義の刃」「神々の使者」「頭巾の下は絶世の美男子」「実は天皇」など、噂好きの江戸市民の話の種になり続けている。

「それがし、鬼頭主税が参ったのは先の北町奉行・近藤銀兵衛殿の命にござる。狂人が市中を徘徊し、二年に渡り捕らえられぬ状況は痛恨の極み。しかれども発狂頭巾は神出鬼没にして、ついに北町奉行所にも乗り入り、咎人を放って逃げだす始末……」

鬼頭は言葉に詰まって俯き、息を整え懐から紙に包まれた何かを取り出して置き、絞り出すように続けた。

「奉行は責を取り、切腹なさった。これがその遺髪にござる。それに関わらず世間は面白おかしく、発狂頭巾が奉行を暗殺しただの、根も葉もない噂を飛び散らせ、我が奉行所の威信は地に落ちる始末。五百両はこれに憤りし御遺族が集めた金。何卒、お受け下され」

一刀は黙考した。
鬼頭の名は確かに、公儀介錯人時代に目を通した御家人名簿の中にある。司法に関わる家筋であり、北町奉行への出仕は自然なものと思えた。子連れ狼を捕らえんとする奉行所の罠である可能性も、少なくはなかろう――。

――だが、黙って平伏している男が、旅装の中に白装束を着込んでいることは襟の隙間から分かっていた。拝一刀に断られれば、ここで腹を切って死ぬ覚悟である。

「承ろう」
「かたじけない」
子連れ狼は金子を取り、立ち上がった。


江戸の東を南北に縦断する大川、またの名を隅田川。その左岸、深川の河川敷に子供たちが戯れていた。

「えーい!」
少年が横手で投げた石が、静かな川面を跳ねる。三度、四度、五度。一回り小さな子が目を輝かせて見つめていた。狼の子、大五郎であった。だが今その目は初めて見るものに目を奪われ、好奇に輝く、三歳の幼子の目であった。

「ちぇっ、六回か。お前もやってみるか」
大五郎は頷き、彼の小さな手のひら二つ分はある石を拾った。少年たちが笑った。
「そりゃちょっとお前には大きすぎらぁな。いいか、こういうなるたけ平べったい石を使うんだ」
先に投げた少年の兄であろう子が、自分が投げるために見つけてあっただろう石を大五郎の手に握らせた。

大五郎は微笑んで、見様見真似で横手で川面に石を投げる。二度、三度、石が跳ねて沈んだ。悔しげな、だが楽しげな表情を浮かべる大五郎。

「三回も跳ねた!最初にしちゃあ上出来だ。お前今いくつだ」
「三歳」
「三歳!おうおう弥助、三つの子が年の数も水切りしてるぞ。こりゃ立つ瀬がねえなあ」
「なんでえ、じゃあ弥彦兄は十一もやれんのか!」

弥助が憤慨し、弥彦が笑う。大五郎も釣られて微笑んだ。日が傾き始め、夕陽が遠く秩父の山の端にかかろうとしていた。

ふと後ろで足音がし、弥彦が振り向き、ぎょっとしながらも二人を庇うように何者かに向かい立った。

男がいた。肌寒い晩秋にはそぐわぬ、ほつれが目立つ着流し、不釣り合いな大小の刀がぶらりと腰に下がり、背は高く六尺(180cm)もあろうか。そして何より男は紫の頭巾を被り、目に満面の笑みを浮かべていた。

「ギャーッ!!」
弥彦の勇気は折れた。転びかけながら河川敷を駆け出して、またたく間に土手の向こうに消えていった。
「ギャーッ!!」
弥助も後を追った。そして河原には大五郎と頭巾の二人が残された。

カァカァと烏の鳴き声がした。大五郎はじっと男の眼を見つめていた。子の黒目がちな眼は大きく見開かれ、黄泉へと続く深い穴のようですらあった。

「逃げられちまったな」

男は悲しげに呟いた。大五郎は黙したまま男の眼を見据えている。その眼は今までに見たどのようなものとも違った。夕陽よりも遠くを見るような、何も見ていないかのような焦点の合わぬ眼差しに、童はなぜか全く似つかぬ父の眼差しを思い浮かべた。

「俺も好きなんだ、水切り」

男はそう言うと、大小を地面に無造作に放り捨て、袖と裾をたくし上げ、石を探し始めた。すぐに男は手頃な石を見つけ、一つは大五郎に投げて寄越した。大五郎がそれを受け取ると男は「ナイスキャッチ」と聞き慣れぬ褒め方をした。

それから二人は順番に川に向かって石を投げた。男が水切りが得意だというのは嘘ではなかった。腕を高く上げ、足を高く上げ、満身の力を込めて投げられた石は凄まじい回転であわや対岸に届くほどに跳ねた。
大五郎も見様見真似で投げようとして、転びかけたのを男は素早く支えて、また笑った。
「慣れない内はセットポジションが良いぞ」
何を言っているのかはわからないが、男は親切で大五郎に手取り足取り投げ方を教えてくれたので、ついに大五郎の石も十回ほど川面を跳ねた。

「やるな少年。明日の大谷翔平だ。メジャー、ダメジャー」
男が真顔に戻り大小を取って振り返るのと、大五郎が振り返るのは同時だった。笠を被った男が夕陽を受けて土手の上にあった。その顔は影になって見えない。

「ちゃん」
大五郎が呼ぶ。

狂気を目に宿した男はすでに袖と裾を戻すと、大小を腰に差していた。笠の男はつかつかと、死神のように真っ直ぐに男に向かって歩みを進める。
男は笠を脱ぎ、投げ捨て言った。

「発狂頭巾と見受ける。刺客、子連れ狼見参。」

発狂頭巾は大五郎を突然正面から抱きしめた。不意を打たれた大五郎が苦しげに呻き、驚愕と絶望の交じった表情を浮かべる。身の危険や死ではない。己が父の足手まといになることを、何よりも恐れる刺客の子であった。

「我が孫よ……」

発狂頭巾は泣いていた。抜刀して迫っていた拝一刀の足が止まった。

「狂うておる……。狂うておるな……」
泣きながら発狂頭巾は呟き、大五郎の額に接吻し、彼を優しく離した。大五郎は父に駆け寄りかけ、思い直して二人から距離を取った。拝一刀の眼は片時も標的から離れなかった。

「礼には及ばん。参られよ」
「うむ」

拝一刀は頷いて、躍りかかった。ピュッと白刃が閃く。二つ。瞬時にして両者の位置が入れ替わっていた。一刀の頬を血が伝った。発狂頭巾が刀を抜く瞬間は、ほぼ見えなかった。

発狂頭巾はゆっくりとした、流れるような動作で柄を両手で握り、八相に構えた。子連れ狼は胸を開き右腕を掲げた構えである。両者は間合いを保ちながら、じりじりと河原を動いていく。石の多い位置を避けながら、やがて葦がまばらに生えた草原で両者は睨みあった。

葦の波間に子連れ狼の刀が隠れた。水鷗流、波切の太刀である。八相に構えた発狂頭巾と拝一刀の合間の六尺は殺意に澱み固まってすらいる。

息を呑んだかのように止まっていた風が、戻った。ビゥッ。一刀の左手が動き、頭巾の剣が閃く。葦波から跳ねた左は無手。

右の逆袈裟が頭巾の胸を裂かんと迫る。ガギィン。残り一寸、胴田貫の鍔を頭巾の剣が捉えていた。弾け飛びすさる二人。間合いは再び一足一刀に戻る。
(できる)
狼が睨んだ。

「水鴎流、波切の太刀を看破るは見事」
一刀は胸を大きく開き、刀を掲げた右腕に力を籠める。技で制しうる相手ではない。
「気だ」
発狂頭巾は呟いた。
「気か…」
無門関、未だ成らざるか。一刀は省みるのをやめた。ただ刺客道あるのみ。河川敷を吹き渡る秋風が再び凍った。

「お前らは狂うておる」
発狂頭巾の目は哀しみを湛えていた。
「いや、狂うておらぬ。狂うておるのは……俺か、お前か、俺とお前と大五郎」
やにわにその目が爛と輝いた。ギャン! 頭巾の剣は狼の頸の側で止められた。無拍子であった。一刀は左手でも柄を握り、鍔迫りを堪える。

怪異の歯ぎしりのような音が響き続ける。大五郎は父をじっと見つめている。父が敵と鍔迫り合いをする姿は、いつ以来のことか――。拝一刀の頬を汗が伝っている。
ふっと頭巾が一刀を押して、間合いを開けた。殺気が消えている。やおら刀を納めた発狂頭巾に、一刀もあわせた。

「士の立ち合いに際し、名乗りが遅れた。失礼仕った」
発狂頭巾は一礼した。
星辰悉悍せいしんしっかん流、吉貝京四郎。その剣、公儀介錯人・拝一刀殿とお見受けするが、如何」
「いかにも。今は水鴎流、拝一刀」
快哉よきかな。戦にありての頭巾は我が流儀によりて、許されよ」
「構わぬ」

知らぬ流派、知らぬ名である。だが、吉貝の剣は真正であった。
歪な鬼剣である。だが、融通無碍の域にあった。
「「参られよ」」
二人の声が奇しくも重なり、吉貝は笑んだ。星天を貫かんばかりの上段の構え。
「星辰悉悍流、九頭龍」

ガバァン! 唐竹割りを受け止めた一刀の足が河原の土に沈んだ。間髪入れぬ二の太刀を身を捩りかわす。剣風で跳ね散る土を斬り飛ばして逆胴を放つ。ガギン。受けられる。完全に入ったはずのタイミングであった。
一刀の左手が閃く。投げられた脇差がわずかに首を傾げた吉貝の頭巾を裂く。射線に重なる軌道の突きを三の太刀が捌く。狼は前転して四の太刀をかわし、膝をつき五の太刀を受ける。降りかかる六の太刀は跳ね上げ、横薙ぎで脛を狙う。跳躍した吉貝が振り下ろす七の太刀が胸先をかすめ鮮血が散る。

八の太刀を掲げようとする吉貝の左腕を胴田貫が捉えた。手甲の奥で鈍い音が響き、斬撃が僅かに鈍る。だが片手の打ち下ろしですら両手でなければ受からぬ。刀が弾かれる反動で身をひねり飛んだ吉貝の右腕が龍の如くうねる。龍の牙がコマ送りで迫る。一刀は裂帛の気合とともに斬馬刀を振り上げ、九の太刀に叩きつけた。吉貝の刀が折れ、宙を舞い、川に沈んだ。

「見事なり水鷗流、見事なり胴田貫。斬馬を超え、龍をも断つか」
吉貝は砕けた左腕をぶらりとさせながら、痛快げに讃えた。子連れ狼もまた無傷ではない。噛み締めた奥歯が欠け、口の端から血が流れた。
「拝殿、感謝する。全て思い出せた。少し、話せるか」
胡座をかく吉貝京四郎。拝一刀も座した。


晩秋の日が暮れていく。土手の上を寒そうに身を縮めながら、家路を急ぐ町人の影が伸びていた。
河原の葦野の中、互いに血を流し、胡座をかいて向かい合う二人の士の間には、奇妙な温もりがあった。
戦は終わったと知った大五郎もまた、一刀の横にちょこんと座った。吉貝ははにかんだような笑みを浮かべた。

「拙者にも家族があった」
発狂頭巾、吉貝京四郎は静かに語り始めた。
「太平の世、戦が減っても、武士の頭数が減るものでもない。士道など抱え損であるが、我が主、松平周防は仕えるに値する人物であった」

拝一刀の眉が少し動いた。松平周防守、かつて公儀介錯人であった拝一刀に柳生家の陰謀を警告した人物である。

「いや」
一刀が何かを言う前に、吉貝は右手を出して制した。
「周防殿に油断があったのだ。柳生烈堂の付け入る隙がな」
「貴殿はそこまで」
「拙者は知りすぎた。そして若すぎた」

吉貝は左腕の痛みに顔をしかめながら着物をはだけ、背を見せた。頚椎の下に親指ほどの大きさの、奇妙な紫の痣があった。

「"草"の毒か」
「脳を狂わせ、人を魔性に変える。げに恐るべき神経毒よ」
吉貝の背がぶるぶると震え始めた。震える右手を砕けた左手で押さえようとする吉貝の眼から涙がこぼれ落ちた。
「お優、新五郎、小雪…。俺は、俺は。俺は家族を、この手で……、本当は全て覚えていたのだ。何もかも覚えている。それに堪えることができず、狂気の淵へ逃げ出し、そしてまた人をそこでも」
吉貝京四郎は慟哭していた。洟水もあふれ、面皰の紫を濃くしていた。土手の影が伸びて三人を覆った。男の慟哭が止むまでに、その影は宵闇となっていた。

「拝一刀殿、伏して頼みたい。拙者の介錯を、お願いできるか。外道に落ち、妻子を手に掛け、狂気に逃げた、士に非ざる外道の、厚かましい願いにござる」
着物を羽織り直した吉貝は、膝を揃え、二人に深々と頭を下げた。
「承ろう」
「かたじけない」

吉貝は微笑んだ。拝一刀は立ち上がり、葦原を丁寧に切り払うと、砂利を手でのけていった。大五郎も黙ってそれを手伝った。やがて四畳半の空間が出来、吉貝は中央に端然と座した。

夜風が静かに吹き抜けていく。土手の向こうには炊事の煙と光がわずかに見えていた。吉貝京四郎は脇差の刃を拭いて膝の前に置き、拝一刀は彫刻めいて微動だにせず刀を構えている。大五郎の黒目がちの眼がその調和を映していた。

「では、参る」
吉貝はやおら言ったかと思うと、脇差を取って深々と己の腹に突き刺し、一気に横に引いた。
「お優ッ!」
妻の名を叫びながら、手を返し、再び突き刺す。さらに逆へ。
「新五郎ッ!」
子の名を叫んで、刀を抜く。凄まじい激痛が白い吐息となる。吉貝は止まらなかった。三度。
「小雪ッ!」
娘の名を叫んで引ききり、うずくまった所に間をおかず刃が振り下ろされた。身体の力は抜け、ゆっくりと前に崩れ、頭巾を被った首がゴトリと落ちて、静寂が戻った。

「見事な三文字割腹の法にござった。吉貝京四郎殿」

納刀した拝一刀は深々と礼をし、瞑目した。冥府魔道に生きる子連れ狼に祈る神は無く、狂った殺人者の発狂頭巾にも迎える仏は無いであろう。だがせめて、吉貝京四郎なる真の武士の魂のみでも、冥土にて安らかならん。そう願わずにいられるほど、拝一刀は人をやめられてはいなかった。

――翌朝、深川河川敷の古刹・平溪寺の住職は、白布で包まれた骸とともに置かれた「この士の菩提を御弔頂きたく候」とのみ書かれた書状と、同封された五百両に泡を吹いて腰を抜かすこととなった。


数日後、子連れ狼は日光街道を北に下ること数十里、古河宿を通り過ぎようとしていた。寒の和らいだ心地よい陽気のもと、ガタゴトと箱車が揺れる中、大五郎は手折った秋桜で浮雲を追っていた。その小さなお腹がグゥと鳴った。煮物を炊く良い匂いが街道に流れていた。

「大五郎、飯にするか」
拝一刀は箱車を止め、大五郎を下ろすと飯屋の暖簾を潜った。昼下がり、様々な者が楽しげに食事や会話を楽しんでいる。
「あいよお客さん、何にする。お子さんも食べやすいのがええかえ?」
「すぐに出せるもので構わぬ」
「あいあい。じゃ、ちょうど煮付けが出来てるからね。それにしようかね」
気の良い女将が厨房に戻ると、父子は入り口のそばの座敷の縁に座り、一息ついた。心地よい喧騒の音が、つかの間の平穏をもたらすようであった。

だが、大五郎は父の気配が変わったのを瞬時に察した。元より平穏などがないことを知る子であった。
拝一刀の注意は少し離れた席で瓦版を囲んで世間話をする男たちに向けられていた。

「『発狂頭巾また現る。近江屋の隠し蔵潰れる』ってか。相変わらず江戸は賑やかそうで羨ましいねぇ」
「世直しなんだかキチガイなんだか、この発狂頭巾ってのは何だろうね。ったくウチにも来ねぇもんかな。カミさんをいっちょ懲らしめて……おいおいなんだいアンタ何しやが……」
拝一刀はつかつかと歩み寄ると、机の上の瓦版を奪い取っていた。狼狽して喧嘩腰になりかけた三人の男は、その鬼気の前に言葉を飲み込んだ。

「発狂頭巾……」
子連れ狼は呟いた。刺客の顔には色濃い当惑が浮かんでいたが、その眼には黒い光が爛々としていた。

確かに発狂頭巾、吉貝京四郎は介錯し果たしたはずだ。いかなる秘儀か、名を騙る偽物か。いずれにせよ発狂頭巾を始末するという依頼を受けた以上、それが果たせていないならば、刺客道を折ることとなる。

「……あのお。読み終わったんなら返してくれやせんかね…」
男の一人がおずおずと言うと、我に返ったかのように武士は瓦版を机に返すと、会釈もせずに去った。
「女将、勘定は置いておく。行くぞ大五郎」
「エッ!?なんだいお客さん!もう出来てんだから食ってきなよ!坊やの分もさ!」
拝一刀はわずかに振り返り会釈すると、箱車に置いた笠を被り、江戸へと駆け出した。


街道を早駆けして江戸に戻った子連れ狼は、夜闇にまぎれ依頼主である御家人・鬼頭主税の屋敷に忍び入った。本来、刺客である子連れ狼が自ら依頼主を訪ねることはあってはならない。だが依頼を仕損じた結果になっている以上、自ら申し開くべきであった。

下弦の半月が照らす屋敷には何の気配も無かった。塀の外で響く虫の声は遠く、敷地には一切の音が無い。庭は荒れて雑草が生い茂っていた。

誰も住んでいない。それから時も随分と経っている。
拝一刀は静かな足取りで庭を巡り、やがて一礼し枯葉が積もった縁側に上った。襖や障子戸は開け放たれ、ささくれた畳には埃が積もっていた。

やはり誰もいない。
ここが鬼頭主税の家であることに誤りは無い。江戸における直参の住所は公儀介錯人時代に拝一刀の記憶に刻まれている。介錯の役目が下されて家を誤ったとあっては死を免れぬ恥であった。

一つだけ閉まっていた奥座敷の障子を開こうとし、一刀は手を止めた。障子には黒い影があった。鼻腔を突く錆の匂い、古い血である。鯉口を切り、音もなく速やかに障子を開け放った先には、畳も、天井も、壁も真っ黒に血塗られた八畳間があった。

(血の量から察するに、斬られたのは一人ではない)
畳には血の痕が薄くなっている箇所がいくらかあった。屍が倒れ伏していた痕跡であると彼は知っていた。そして二人の子供と、一人の大人がこの部屋で死んだものだと結論づけた。

拝一刀はそれ以上のことは考えるのをやめた。依頼人は不在。そして標的は健在である。仕事はまだ終わっていない。拝一刀は暫時瞑目した後、静かに障子戸を閉ざし、屋敷を去った。


未明、深川河川敷の東屋に戻った拝一刀は、大五郎の寝顔を確認すると、自らも柱にもたれ掛かり、眠りについた。

河川敷の土手と葦原を見渡す東屋に日が当たるならば、昼である。拝一刀は胴田貫の柄を外し、刃を研ぎ直し、歪んだ目釘を取り替えた。大五郎は河川敷で石投げをして戯れている。

冬に差し掛からんとする江戸の短い日が傾き始めた頃、その男は現れ、大五郎に話しかけた。

「俺も好きなんだ、水切り」

大五郎は黒い眼で頭巾の男を見つめた。その声色は、最初に会ったときと全く変わらなかった。男の眼は夕陽よりも遠くを見るような、何も見ていないかのような焦点の合わぬ眼差しをしていた。

男は大小を地面に無造作に放り捨て、袖と裾をたくし上げ、石を探し始めた。すぐに男は手頃な石を見つけ、一つは大五郎に投げて寄越した。大五郎がそれを受け取ると男は「ナイスキャッチ」と褒めた。

それから二人は順番に川に向かって石を投げた。男が腕を高く上げ、足を高く上げ、満身の力を込めて投げる石は凄まじい回転であわや対岸に届くほどに跳ねた。
大五郎もまた、腕を上げ、足を上げ、力を込めて投げた。十三回跳ねた。

「やるな少年。明日の大谷翔平だ。メジャー、ダメジャー」
男が真顔に戻り大小を取って振り返るのと、大五郎が振り返るのは同時だった。拝一刀が夕陽を受けて、葦原の横から現れた。

「ちゃん」
大五郎が呼ぶ。

狂気を目に宿した男はすでに袖と裾を戻すと、大小を腰に差していた。拝一刀はつかつかと、死神のように真っ直ぐに男に向かって歩みを進める。

「発狂頭巾、吉貝京四郎と見受ける。刺客、子連れ狼見参。」

発狂頭巾は大五郎を突然正面から抱きしめた。不意を打たれたわけではない。だが全く逃げられなかった。大五郎は苦しげに呻き、驚愕と絶望の交じった表情を浮かべる。身の危険や死ではない。己が父の足手まといになることを、そしてそれを重ねた恥を恐れる士の子であった。

「我が孫よ……」

発狂頭巾は泣いていた。拝一刀は足を止めない。
「狂うておる……。狂うておるな……」
泣きながら発狂頭巾は呟き、大五郎の額に接吻し、彼を優しく離した。大五郎は父に駆け寄り、父は子を背に負った。

「礼には及ばん。参られよ」
「うむ」

拝一刀は頷いて、躍りかかった。ピュッと白刃が閃く。二つ。瞬時にして両者の位置が入れ替わっていた。一刀の頬に残った刀傷が開き、血が流れた。子連れ狼は止まらない。振り返りざまの横薙ぎを発狂頭巾は刀で受け流し、間合いを取りながら八相に構えた。

子連れ狼は胸を開き、右腕を掲げた構えである。両者は間合いを保ちながら、まっすぐに河原を動いていく。葦がまばらに生えた草原で両者は睨みあった。

葦の波間に子連れ狼の刀が隠れた。水鷗流、波切の太刀である。八相に構えた発狂頭巾と拝一刀の合間の六尺は殺意に澱み固まってすらいる。

息を呑んだかのように止まっていた風が、戻った。ビゥッ。一刀の右手が動き、頭巾の剣が閃く。右の逆袈裟が頭巾の胸を裂かんと迫る。カキィン。弾かれた胴田貫が天高く舞い上がった。
一刀は命中の直前に握りを緩め、刀を投げていた。奇襲。だが頭巾の狂った眼はまっすぐ一刀が左逆手に持った脇差を見据えていた。バオッ! 葦が切り裂かれ、宙を舞う。剣閃はわずかに仰け反った頭巾の鼻を掠めた。飛びすさる二人。すでに一刀は落ちてきた胴田貫を掴んでいた。間合いは再び一足一刀に戻る。

「水鴎流、波切の太刀をまたしても破ったか」
一刀は胸を大きく開き、刀を掲げた右腕に力を籠める。真贋はもはや証明された。
「勘だ」
発狂頭巾は呟いたが、その言葉は一刀に揺らぎを与えなかった。河川敷を吹き渡る秋風が再び凍った。

「お前らは狂うておる」
発狂頭巾の目は哀しみを湛えていた。
「いや、狂うておらぬ。狂うておるのは……俺か、お前か、俺とお前と大五郎」
やにわにその目が爛と輝いた。ギャン! 頭巾の剣は狼の頸の側で止められた。無拍子であった。一刀は左手でも柄を握り、鍔迫りを堪える。

怪異の歯ぎしりのような音が響き続ける。大五郎は背中で父の激しく熱い鼓動を感じていた。

ふっと頭巾が一刀を押して、間合いを開けた。殺気が消えている。やおら刀を納めた発狂頭巾に、一刀もあわせた。

「士の立ち合いに際し、名乗りが遅れた。失礼仕った」
発狂頭巾は一礼した。
星辰悉悍せいしんしっかん流、吉貝京四郎。その剣、公儀介錯人・拝一刀殿とお見受けするが、如何」
「いかにも。今は水鴎流、拝一刀」
快哉よきかな。戦にありての頭巾は我が流儀によりて、許されよ」
「構わぬ」

同じ流派、同じ名。だが、この男の剣は真正であった。
歪な鬼剣である。だが、融通無碍の域にあった。

「参られよ」
吉貝が星天を貫かんばかりの上段の構えを取り、その眼が驚愕に見開かれた。

大五郎が拝一刀の肩に乗り、ひしとその頭を抱えていたのである。
わなわなと震えながら、吉貝京四郎はうめいた。
「狂うておる」
「我ら父子、ともに冥府魔道にある」

そして子連れ狼が仕掛けた。勝負は呆気なくついた。


吉貝は右腕の断面から流れる血を葦原の土に流しながら、仰向けで空を見上げていた。
「拝殿、感謝する。全て思い出せた。少し、話せるか」
拝一刀は頷いて座した。


初冬の日が暮れていく。土手の上を凍えそうに身を縮めながら、家路を急ぐ町人の影が伸びていた。
河原の葦野の中、一人は冥府魔道を生き、一人は今まさに死のうとしている、士の間には奇妙な温もりがあった。
大五郎は一刀の背を降り、並んで座した。仰向けの吉貝ははにかんだような笑みを浮かべた。

「俺は"草"だ。だが、今まで忘れていた」
発狂頭巾、吉貝京四郎は静かに語り始めた。
「公儀介錯人の拝一刀殿であれば、公儀里入り忍は御存知のことかと思う」
拝一刀の眉がわずかに動いたが、見せた動揺はそれだけであった。

「何代にも渡りて藩に住み着き、一朝事あらば直に公儀に報告する。大名目付支配下の柳生忍。俺は印旛藩にいた」
「抜け忍か」
「お優という女であった。美しく、名にふさわしく……。子もいた。新五郎、小雪。仲の良い兄妹だった」
吉貝の声が震え、弱まっていた。

「藩主の叛意を知った俺は、草として出奔し公儀に報告する務めがあった。だが、お優も、子らにも、俺は言えなかったのだ。夫は、父は、裏切り者の定めを負っていると、そしてその時が来たらお前達が皆、そうして罪を負い死ぬるほか無いのだと。草として俺は狂うてしまったのだ。叛意を知りながら俺は動くことが出来なかった……。だから、こうなった」

吉貝はよろめきながら身体を起こし、着物をはだけ、背を見せた。頚椎の下に親指ほどの大きさの、奇妙な紫の痣があった。

「"草"の毒か」
「脳を狂わせ、人を魔性に変える。げに恐るべき神経毒よ」
吉貝の背がぶるぶると震え始めた。なくなった右腕に力がこもり、血がさらに落ちた。一刀は自身の袖を噛みちぎり、止血を施した。吉貝の眼から涙がこぼれ落ちた。

「お優、新五郎、小雪…。俺は、俺は。俺は家族を、この手で……、本当は全て覚えていたのだ。何もかも覚えている。それに堪えることができず、狂気の淵へ逃げ出し、そしてまた人をそこでも」
吉貝京四郎は横たわった。洟水もあふれ、面皰の紫を濃くしていた。土手の影が伸びて三人を覆った。影は宵闇となっていき、男の命の灯火を覆っていった。

「寒くなってきたな。新五郎、冷えないか……」
大五郎を見る吉貝の眼は朦朧としていた。一刀は自身の着物を脱ぐと、大五郎の背にかけてやった。吉貝の眼が安堵に包まれた。

「拝一刀殿、介錯を、お願いできるか。忍びの身でありながら、婦人の仁にほだされ、全てを失い、狂気に逃げた……、士に非ざる外道の、厚かましい願いにござる」
吉貝の身体から熱が急速に失われていく。
「承ろう」
「かたじけない」

吉貝は微笑んだ。拝一刀は脇差を抜き、懐紙で拭いた。
夜風が静かに吹き抜けていく。土手の向こうには炊事の煙と光がわずかに見えていた。吉貝京四郎の眼が、天狼星シリウスを映していた。

「辞世はござらぬか」
「士に非ざれば、無用にて」
「では、参る」
そして吉貝京四郎の眼は閉じられた。

河原に冬の静寂が訪れた。大五郎が微かに寒さに震えているのが、かたわらの父にも分かった。
「御免」
拝一刀は、合掌した後、亡骸の頭巾を丁重に脱がせ、頭の傍らに置いた。

そこにあった顔は、三十路余りか、いくらか皺のある角張った顔、くっきりと一文字の眉。

鬼頭主税の顔であった。


――翌朝、深川河川敷の古刹・平溪寺の住職は、白布で包まれた骸とともに置かれた「この士の菩提を御弔頂きたく候」とのみ書かれた書状と、同封された五百両に泡を吹いて、再び腰を抜かすこととなった。


ガタゴト
ガタゴト

ガタゴト
ガタゴト

子連れ狼が箱車を押して江戸を歩いていく。拝一刀の笠にも、箱車の大五郎の笠にも、白い粉雪が降り積もっていく。

冬である。道端では焚き火を囲んだ若衆たちが、串に刺した餅が焼けるのを待ちながら世間話にふけっていた。

「知ってるかよ平の字。最近の流行りをよ」
「おう、そらもうビッチシのバッチシよ」
「んじゃ同時に言うぜ、せーの」

「「発狂頭巾」」

ワハハハハと笑う二人の傍らを、子連れ狼は通り過ぎていく。

「発狂頭巾を始末する」という任は果たした。金は受け取り、依頼人もすでにこの世にいない。自らが成すべきことは成した。

拝一刀はそう心に刻んだ。大五郎の黒い眼はただ西に続く道の先をじっと見ている。

「あぁ~!寒い寒い寒い寒い!なんだってこんなに寒いんだか!気が変になっちまう!見廻らなくたって誰も表に出やしねえよ!こんなに寒いんだ!」

同心らしき男が大声で愚痴を吐きながら、小走りでやってきてすれ違う。子連れ狼は静かに歩いていく。西へ。西へ。

箱車を押す侍とすれ違った後、同心の男はふと立ち止まり、その背を見て首を傾げた。

「なんだか、旦那に似た眼のお侍だったな」

同心は子連れ狼の背中をしばらく見ていた。白い紙のように雪に染まった街路で墨のように際立つ黒い影が、少しずつ小さくなっていく。

「――まぁ、いいや。あー、寒い!師走に走ってるってことは、俺もナンカの師匠ってことになんねぇかなぁ!」
同心はふと長屋の吉貝は凍って死んでやしないかと気にかかり、何か炬燵でもつけてやって見廻ったことにするかと考え、くしゃみを一つして駆け出した。


【子連れ狼vs発狂頭巾 完】







用語集・元ネタ解説

テンポ重点で原作マンガや時代劇一般イメージに甘えて描写を端折っている部分も多いため、補足をつけました。(ネタバレあり)


参考&スペシャルサンクス



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