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ありがとうココア、というはなし。

我が家の周りは、騒々しい。
鳥の鳴き声といえばカラスだし、目の前の大きな道路にはこんなときでもひっきりなしに車と電車が走っている。
マスクをしていては、散歩に行ったところで初夏の香りを胸いっぱいに吸い込むことができないので、せめてもと家にいる間はベランダに面する窓を開けているのだけれど、排気ガスが気になり清々しさには欠ける。無音になれるヘッドホンなどが欲しい。静寂のためにものを増やす、というのは情けない話だな、とおもう。

嫌だ嫌だと言っていてもきりがないので、人の気配を感じられてよい、ということにしようと思うが、無理をするのもよくないので、住環境について日記の中では文句ばかり垂れている。

最近の日記は、誰と電話した、という記録がほとんどだ。それ以外の日は空白になっていたりもする。何もない日を大切に、というのは素晴らしい心がけだと思うけれど、やっぱり自分以外の人と接触することで、事柄を書き留めようというところまで気持ちが動く。忙しすぎても全ての活動が面倒になるので、いまはとにかく丁度いい。

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最近、2日に1度はミッツ・マングローブのことを考えている。
とにかく全てが素晴らしい、というような完璧さではなく、人間らしいところもありつつ、それも相まって美しいので好き。
家にとどまらなくてはいけないことが何の苦でもない。社会不適合者が社会の中でお仕事をいただけていたのね、というようなことを昨日のインスタライブで話しており、つい携帯に向かって、そうなんだよな、と返事をしてしまった。

連休に入ってから、私は私以外の何者も背負わなくなり、とてものびのびしている。
在宅に何の苦労も感じない、という人たちが口を揃えて自分たちは社会不適合者だと言っているが、そうだとして、これからどうしていったらいいのだろう。
何らかの役割を担っていかなくてはいけないのだろうけど、自分が手を出すと途端に邪魔をしているような気持ちになるから、社会に価値を還元しているぞ!というような自信や自己効力感はないんだよな。たしかに、おばあちゃん家の留守番とかが一番自己効力感あるよな・・・と考えたところで、ゴリラとかの中にもそういう奴いるのかな、とおもう。きっと自然界ではそういう種類は死んでいくのかもしれない。詳しいことは知らないし、ゴリラはもっと寛容かもしれないけど。


ともあれココアがおいしい。
気まぐれで買ったが、冷たくて食後のデザートとしてはとても満足している。
450円のココアを買えた自分、買う決断をした自分、面倒がらずにグラスに牛乳を注いだ自分が今一番肯定できる自己だ。素晴らしいと思う。加えて、前髪が満足な仕上がりに切れたので、気分が良くなってさっきまで中島みゆきを歌っていた。

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前に年配の人とカラオケに行ったとき、中島みゆきを歌ったら、暗い曲合うね、という微妙な褒められ方をした。朗らかにカーペンターズを歌ってみても似たようなご意見だったので、低めの声が素敵ね、という意味だと解釈している。
言葉や表現はたくさんあった方が世界の解像度はあげられるのだなあ、としみじみした。


しみじみ、で思い出したが、どうぶつの森でハシゴを携えて走り回り、それを掛けて上り下りする様が健気でとても好きだ。
ああいう元気さをふりまきながら生きていたい。

先日友達と、屈託無く笑うにはどうしたらいいのだろう、人生のどこが転機だったのか、という話で盛り上がった。世界に敵がいないような眩しい笑顔。カルピスのCMみたいなやつ。みんないつどうやって獲得したんだろう。うーん、やはり低音が素敵なのではなく根暗なのだろうか。すこし気分がしぼむ。屈託無くはないけれど、お籠り体質ながら低音も素敵で笑顔も美人なので、やはり暫くはミッツ・マングローブを心の師として生活しようとゆるい決心をした。

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