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「エモいが使えない」(20代・女性)

今使っているボディーソープは、市民プールの匂いがする。だから毎晩、低い目線から見ていた無人の受付を思い出す。あまり人のいない更衣室へと続く廊下。声が響く屋内プール。学区内にはタバコ屋が1軒あるだけの田舎に住んでいたので、学区外の市民プールに行くには、いつも車だった。自転車で行き来していた場所の景色は、肌にあたる風とともに季節の記憶も思い出すが、空気の動きのない車移動をしていたため、季節のことはあまり覚えていない。蝉の声とか夏の日照りが連想されないプールの思い出。まあそもそも市民プールへは、夏の記憶になるほど何度も行ったことはないが。

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この間、記憶にとどめておきたい場面に出会った時に香水のはいったカプセルを割り、香りとともに出来事を強く記憶させる、というドラマチックな品があることを知った。香りは記憶と結びつきやすいらしい。実体験を省みても、そうだな、と思う。そして、もしそれを持っていたら、私はいつ割るだろうか、と考える。過去の記憶から、インデックスを付けておきたかった出来事を思い返すが、友達と自転車に跨がりながら信号待ちをした時とか、体育館のモップがけに正義感の全てを注いでいた時とか、運動会で転んでちょっと達成感を感じていた時とかに戻ったとして、その瞬間に割りたい香りが思い当たらない。おそらくそれらの瞬間には香りなんてほどのものは漂っていなかったのだろうけど、やんわりと遠い記憶から思い出される後付けかもしれない懐かしい香りが、いまこの時に鼻腔をかすめたような気がしている。

ちなみに、未来のことも想像してみたが、インデックスしたいと思われる出来事が大げさすぎたので恥ずかしくなって書くのをやめた。空想力は豊かなようだが、想像力には欠ける。お気楽なことしか考えられない。空想のなかの人生が厚かましいほどに自分が主人公だったので虚しくなる。

そもそも、想像力もなければ計画性もあまりないので、この先たいして驚くような出来事はないのではないだろうか。行為の先にしか実際のイベントは起こらないのだと思わされる。私は何か頑張れるだろうか。

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1日1日はあっという間に過ぎていくのに、80年はとてつもなく長く感じる。先日の英会話の授業で、永遠の命を得られるようになったら手に入れたいか、という質問をされたが、寂しがりなので家族や友達が誰もいなくなった世界には生き続けられなそうだ、適当なところで終わりたい、という消極的な回答をした。常に友達を作り続ければいいじゃないか!と先生に言われた。ロサンゼルスの太陽を浴びて育つとやはり違うようだ。生きているうちに、そういう太陽を浴びに行ってみようと思う。パスポートはあるので、お金があれば達成できる未来だ。確度の高そうな未来があり少し安心する。

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今日は夜になって散歩に行ったので、人のいない道で久しぶりにマスクを外してみた。3月ごろから季節の香りの記憶がほとんどない。1年のうちで一番、生命力あふれる匂いがする時だというのに。

雨上がりの匂いはよかった。いつまでもなんでもない日常が繰り返されるような気持ちにさせられる。安心感という言葉はこういう時に使えるな、と思った。なんでもない日常なんかじゃないのに、なんだか穏やかな気持ちになった。きっとそのうち夏も来るさ、という落ち着きようで、キリンレモンを買って帰った。

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