見出し画像

気配のこと

凍ったぶどうをもらった。ぴやぴやしていて、まるくて冷たくておいしい。動物園にいる動物のような気持ちだ。ちゃんと飼われていて、ちゃんと芸ができる動物へのご褒美のような、人の手で美味しくされたぶどうを食べている。ほんとうにおいしい。

グラスにあけてみて食べた。ちゃんとしている、という満足感がすぐにわきおこって、自分を認めてやろうという気持ちになる。それが本当にちゃんとしているかどうかは置いておいても、理想を叶えに行った、という行為が満足につながった。
やっぱりわたしは、手の届く範囲の生活を手入れすることが、好きなんだ。仕事の休憩を兼ねて高さ順に並べた本の背表紙がきれいで、また満たされる。

これは正面から堂々とやってくる、わたしの気持ちだ。
一方で、「本当のところはそういう種類の満足ではなくて、生活の些細な「ちゃんと」で、さっき仕事の失敗で感じた、ちゃんとできない自分への後ろめたさを浄化して、気分がよくなっているだけだろう。」そういう気持ちが、気配だけ漂わせてくる。痛いところを突いてくる。

こういう時、気配は痛いところを突いてくるのだけど、
わたしは、人と人が向きあう時、気配だけの距離って結構好きだな、と思っている。

***

人と人との関係は、思い通りにしようなんて気持ちも起こらないくらいに、予測不可能でままならない。あの人と話したいとか、一目会いたいとか、わたしが一番面白いと思ってほしいだとか、願望が全面に主張を始めると、理想を叶えに行きたい気持ちが先行して人間関係が破綻しがちだ。そんなパイ投げみたいな勢いと向かい合い方では、相手の存在を感じる余裕もない。
その点、人生の中で偶然に交わったりすれ違ったりするだけの人に、何気なく自然に接するというのは、ただそこに自分ではない他者がいるという、その出来事だけが大事であって、自分に対してどうしてくれるかにはあまり関心が湧かないからいい。

相手が存在するというだけのことの価値をいちばん大切にできるのは、どこの位置だろう、と考えてしまう。

***

最近、テレビ会議の機会がよくある。
気配のことを考えるようになったのは、テレビ会議をするからだ。
テレビ会議はサクサク進む。信じられないくらいに。オンにすると始まり、オフにすると終わる。

オンにすると、人生の中で偶然のような距離間だった人たち、斜めの距離や左肩で気配を感じていたような人たちが、突然顔面をわたしに向けてくる。
パソコンに、パイ投げさながらの勢いで、話をしている人も頷いている人も、誰も彼もが映し出されるのだ。
気配を感じるために相手との間にあった、余白のようなものがないよう、と初めはびくついていたけど、
ある日ふと、気配と同時に生じる邪魔な存在だった自意識の視線が背中に刺さることがなくなっていることに気づき、笑ったことがなかった部会でちょっと笑ったりした。

一つの会議室で、同じ何かを背負ってる人たち、みたいに見えていた塊が、一人一人異なる背景の前に立って話すことで、ひとりの人として際立って見えた。
「わたしはね」で始まる会話にとても適しているな、と感じた。何となく考えを合わせて、何となく運命共同体になっているような気がしていた会議室。
たまたま居合わせた同じ船の乗客同士ではなく、一人一人が操縦士みたいに決断力があってかっこよかった。

隣同士にいた時、間にあった気配は言外の感覚を共有したりする言葉のない伝達にはぴったりだった。
ひょっとすると、何かを決めるのには向かないのかもしれないけれど、
うまく言語化できない悲しさや難しさを感じて協力し合えたりする。それだけじゃない。手を加えたり飾ったりできる背景と違い、すれ違った後の気配の美しさは
その人の存在にしか立ち現れないし、同じ空間にいる時にしか受け取り得ないものだとも思う。

前や横やいろんな位置から、家族と、友達と、同僚と、上司と向き合ったり出会い直したりしている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?