私は推しを腫れもの扱いしていたかもしれないと感じた日

先日のあとはご自由にの英会話のターン、村上君の英語力の上達具合に感服させられ、横山君の天才的な耳の良さに笑わせてもらった日。

英語は強く発音する部分とよわく発音する部分があり、tが続くと発音がLに近づいたり(letterをレターではなくレラーのように発音するほうがアメリカ英語?の発音に近い)、前後の音に母音がくっついて聞き取りにくくなったりする。
その聞き取りにくいであろう音までしっかり聞き取ってもなお『あかん、、日本語に聞こえてきた。わかってんねん、そんなわけないねん』といいながらどんな日本語に聞こえるかを力説してくれる横山君。

その横山君を見ながら、いつの間にか英語が上達していた安田君は、あしをじたばたさせ、眼鏡をはずして涙をぬぐいながら大笑いをして、『しぬーーーーー』と言いながら本当に楽しそうに横山君をほめながら超大笑いしていた。

楽しそうにしている安田君を見てうれしくなった。

一方、安田君も絶対死なない状況でしぬーとか言うんだ。と冷静に安田君を見ている自分もいた。

安田君は言わずもがな、死というものに対して厳しい体験を何度もしていて、死生観というか、生き方というか、達観したような感性を持っているように私には見えていた。

安田君がもともと言葉を丁寧に伝えたいタイプの人であること、死という重いワードに付随するいろんな人の経験や状況を慮って言葉を選んで慎重に話題にしてきたこと、アーティストな面を持つ安田君ならではの写真集をもってしておたくに安田君に見えている死生観の一部を示してくれたことなど、他にもいろいろあるけれど、私はそんな理由から安田君は簡単に死というワードを口にしない人だと思い込んでいた。

私自身、言葉使いがよろしくないので死ぬほど寒かったとか、忙しすぎて死ぬかと思ったとか、別に死ぬと思ったわけじゃなくても死ぬってワードを口にするけど、そのたびに、勝手になんだか申し訳ない気持ちになっていたし、安田君に顔向けできないとか勝手に思っていた。

安田君は厳しい経験をしてきた人だから、好きなものを手放してまでつらい状況を乗り越えてきた人だから、今もなおその後遺症と共に生活している人だから。

そんなつもりは全くなかったけど、私はそんな色眼鏡で安田君のこと見てたんだなーと気づいた。

正直、眼鏡してるしてないとか、髪の長さとか、生き方とか、アクセサリーの選び方とか、やってほしい役とか、してほしい仕事とか、素直に言えない自分がいたなーなんてふと思ったりもした。

先日安田君の画像を歴代のものをみて、勝手に安田君の好きなビジュアル選手権を開催していた。

青春のすべてのころの少しやせた安田君を見て(このころ…)となったり、礼儀正しくご飯の時とか鳥居をくぐるときとか、絶対帽子をはずしていた安田君がいつ何時も帽子を手放さなかった頃の安田君を見て(…)となったり、よくわかんないけどめっちゃ眼鏡してる安田君見て『最近めっちゃ眼鏡してるけど普通に眼鏡外してほしい!』と言っていたころの自分のツイートを思い出しながら(そうか…)となったり、

純粋に安田君のビジュアルに集中できなかったり、その後めっちゃ拡張したり髪をそり上げたり、正直好みじゃないけど、(まあ、そういう時期だったし、、)と大目に見てしまうビジュアルがあったり、

どんな安田君でも好きとか言いながら、純粋にその時代の安田君を好きと言えない自分がいた。

当時理由はオタクに言っていないながらも眼鏡が手放せなくなっていたであろう安田君に眼鏡をはずしてほしいと言っていた自分、

のちに、体力をつけるためにたくさん食べていたから今思えば太ってたなと安田君に言わせてしまうけれど、その”太っていた”時代に、自分は言っていないながらも、『あんなに太ってるとかアイドルの自覚ある?』とツイートしていた人に(まあ、そこまで言う必要ないと思うけどその気持ちもわかる)と思ってしまった自分、

そんな過去の自分もいたのに、そのころのビジュアルもいいよね、と今更わざわざ好きなビジュアルにその時の安田君を挙げるのってわざとらしいというか、”贖罪のつもり”にもならない自己満足でしかないというか、

でもその時代を好きと言えない自分ってどうなの?と思ってしまうから

好きビジュ選手権の時にその時代は自分の中でエントリーさせないでいたりなんかして。

もっと前のたぶん20代の安田君のビジュアルで好きじゃないビジュがあっても、それには好きじゃないなーとか言えるのに、その葛藤のあった時代のにはなんか忖度しちゃう自分がいたり。

安田君が生きててくれればいいや、好きなことして幸せであったらいいや、でもできればアイドルしててほしいし芸能人でおたくの目の前に姿を見せ続けてほしいな、

の今の私のスタンスも、たぶん彼の経験を聞いて生まれた推し事観なんだと思う。

きっと安田君はオタクに遠慮をさせたくてもろもろを告白してくれたわけではない。その証拠にレンジャーで言いたいこと言えないようにしてごめんね、遠慮しないでドラマ出てほしいとかいろいろ言ってね、というような内容の更新をしてくれたこともある。

なかなか推し事してて出会う状況ではないからなにが正解?って感じではあるけれど、それにしても、彼が死ぬーと言いながら笑っている姿見て、はっとさせられた時、彼を色眼鏡で見て遠慮して無意識とはいえ腫れもの扱いしてるのに応援してます大好きですって何のお笑いだよ、って自分で突っ込みを入れてしまったけれど、

でも、彼が努力してもできないことを、これしてほしいあれしてほしいとか言って無理させたくないという気持ちは、嘘偽りなく、利他的で自分のことを後回しにしてしまいがちな安田君がおたくの気持ちにこたえられない。。と自分事を責める要因の一つにしてほしくないという、素直に安田君のことを思った気持ちであることに変わりはないけれど、いつの間にかそれがねじれて、ねじれた気持ちが当たり前になっていた。

配慮することと遠慮することは違うけれど、おたくとしての正解のふるまいって何だろう。

そんな答えの出ないことを考えるに至ったけれど。

私は平成生まれの関東生まれ、女性で”普通”の仕事をして自由に結婚も恋愛もできるし、身長も平均、運動も勉強も本当に普通にできるし、逆に普通にしかできないし、まあ、ごくごく平凡な、ふつうすぎるくらいに普通。

紹介するまでもなく、安田君は安田君。

血液型も星座も干支も、本当に、何一つ、私と安田君の一致点はない。

これまたふと、昔読んだ重松清さんのきみの友だちという本の、ねじれの位置という章を思い出した。

その章込みで本を要約するならば、ねじれの位置くらいのほうがうまくいくこともある。というところ。

要は、何一つ同じではないから私は安田君に魅力を感じているんだと思う。

安田君に関して理解できていることは少ないと思うけれど、だから好きなんだと思う。

ねじれの位置の推し。私と安田君では見えている世界が違うから、安田君についていったら自分の世界と安田君におすそ分けしてもらえる世界の二つが楽しめるのかもしれない。

なんだかちょっと憑き物が落ちたような気がしている。

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