前進する撤退 "島津の退き口"
どうも
デロリアンです
乗ってください
行きますよ
おはようございます
目が覚めましたか?
今は慶長5年9月の10日
場所は関ヶ原です
令和?
何ですかそれは
島津の退き口
島津の退き口とは1600年9月10日に起きた関ヶ原の戦いにおいて
島津義弘というサイヤ人が行った古今東西類を見ないダイナミック帰宅の事です
関ヶ原の戦いにおいて、石田三成率いる西軍が徳川家康率いる東軍にボッコボコにされ敗走しました
その中で最後まで動かなかった西軍の島津義弘率いる島津軍(約300)が約80000の敵中に孤立してしまいます
普通ならこの時点で撤退...というか孤立する前に寝返るか降伏するんですが
薩摩(現在の鹿児島)から遥々やってきた島津の下した決断は常軌を逸していました
以下、家臣とのやり取り
現代語訳すると
は?
そして戦闘がほぼ終結していたのにも関わらず空気読めない馬鹿島津軍300は東軍8万に対して一斉に攻撃を開始しました
普通ならこんなおいしいチャンスは逃すはずも無いのですが
島津軍がよほど狂ってたのか
勝利が決まっていた東軍の士気は既に戦勝ムードであり今更死にたくなかったのか
なんと徳川軍本隊の目前まで一気に突破し
そのまま脇をすり抜けて一直線にバイバイしていきました戦国版ピンポンダッシュ
この島津の撤退に当然東軍は追撃するのですが
この時の足止め役が、追撃を食い止めるために文字通り捨て身で東軍に襲いかかりました
その勢いは尋常ではなく、井伊直政や松平忠吉を負傷させ、本多忠勝の愛馬をブチ殺し
勝利で終わったはずの東軍にかなりの痛手を与える事になりました
しかし島津軍も無事であるはずもなく、島津豊久や長寿院盛淳が討ち死したものの大将の島津義弘は脱出に成功します
この時、義弘の周りに残ったのは80人ほどだったと言われています
こんな島津軍のダイナミック帰宅を成功させた方法が捨て奸(すてがまり)と呼ばれるものでした
火縄銃と槍刀を持った兵士がある程度の集団を組み本隊から離脱
座禅を組み座り込んで火縄銃を構え敵将を狙撃
撃った直後に槍や刀に持ち替え敵軍へと突っ込んで死ぬまで戦うといった戦法です
とは言っても確実に死ぬ役目なんて誰も引き受けたがらないはずなのですが
彼らは狂戦士薩摩男子
死ぬ事が何よりもの名誉とされていたこの時代でも頭一つ抜けたキチガイ集団でした
この役目も自ら名乗り出る者が多かったと言われています
かくしてこの"前進する撤退戦"は島津のバーサーカーっぷりを全国に知らしめることになります
補足
何故島津がこのような戦法を取ったか様々な考察がされていますが
この時、大勢は決しており徳川はもはや"上様"
それに逆らった西軍は"逆賊"でした
つまり、島津義弘が生きて戦場を離脱し徳川方を納得させる言い訳をせねば島津家が取り潰される可能性があり
島津家を守るための大局を見据えた戦法だったのです
たった300人で徳川率いる東軍を掻き回した島津、本国薩摩にはさらに数万の兵がいる
敵中ド真ん中に突っ込んだ撤退戦は「薩摩に手出したらどうなるか分かってるよな」といった脅しの意味や
徳川の天下で戦が無くなる世になるから最後にひと暴れしようといった意味もあったのではないかと言われています
徳川方も島津を許すわけにはいかなかったので島津討伐の命を出し、これに応じた九州の大名が連合軍を組み島津討伐に向かい
島津義弘の兄、島津義久が全軍を率いてウキウキで出陣するのですが
その直後に義弘から家康宛に謝罪の使者が向けられた事で戦を回避し、2年にも及ぶ交渉の末に家康が根負けした形となりました
ちなみにこの交渉で島津側は一切の非を認めておらず、強気の態度で外交を行いました
家康が義弘を交渉のテーブルにつかせようとするのですが
義弘は「体調悪い」とか「金ない」とか雑すぎる嘘で2年間薩摩に引きこもり
耐えかねた家康が「もういい(´・ω・`)」と拗ねてしまい交渉が終わりました
これに関しては島津軍が馬鹿みたいに強いというのもありますが、九州の南の地方大名であり数万の兵で自国に引きこもられては徳川方も迂闊に手を出せなかったという背景があります
それにより逆賊となった西軍の中でお家取り潰しや領地の大幅カットとなった
石田三成、毛利輝元ポンコツ、上杉景勝と違い
お咎め無しとなった島津家を家康はずっと心残りにしており、遺言で「自分の遺体は薩摩に向けて葬れ」と命じたとされています
ちなみに鹿児島はお酒の名産地としても知られており
薩摩焼酎と呼ばれる焼酎は全国的に高い人気を誇ります
僕は焼酎が苦手なので飲めませんが気になった方は是非飲んでみてください
終わります
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