小説|ひまわりの足跡①
水曜のローカルニュースを見て、ひまわり畑で有名な、隣県の高原へ行きたいと言い出したのは、妻のほうだ。
今週末が見頃なんだって、ね、良かったら連れてって。 その小さな願いに、僕は苦手な早起きをして、車を出し、急勾配のカーブをいくつも抜けて・・・・・・そして今、眠ってしまった息子を抱いて、ひまわり畑の前に立っている。
「すごいな、これ」
目の前にあるのは、抜けるような青空と、洪水のような一面の黄色。二色のコントラストが、まるで夏を見せつけるように、鮮やかに広がっていた。
「すごいね、テレビ以上」
僕の右側で、妻もため息混じりに呟く。
いったい、どこまで続いているのだろう。視界の奥へ奥へ、延々と続く花畑が、心地よい風を受けて、歌うようにやさしく揺れている。足元から始まる、細い小道に踏み出せば、そのうち花に埋もれてしまいそうだ。
「ふわぁ、ん、パパ?」
腕の中で、眠そうな声が僕を呼んだ。息子がいつの間にか目を覚まして、僕の顔を見上げている。
「おはよう。ひまわり畑についたよ」
「ひまわり? ・・・・・・うわぁ!!」
振り返った瞬間、息子の眠気は完全に飛んだらしい。僕の腕から降りようと、小さな脚をばたつかせ始めた。妻が靴を履かせると、彼は飛び降りるように僕の腕から離れ、ひまわりの中に駆け込んでいく。
「あっ、待って、ひとりで行っちゃ駄目!」
妻が慌てて、その後を追った。程なく息子を捕まえ、手をつないで、ひまわりの奥へと歩き始める。
その様子に、僕はふと、心の箱にしまったはずの、古い記憶を思い出した。ひまわり・・・・・・そう、ひまわりの記憶。
但し、花ではなく、それは一人の女性のことだ。顔中をくしゃくしゃにして笑い、いつも穏やかで、丸い瞳を輝かせていた、あの人。彼女のことを、まるでひまわりのようだと思っていたのは、僕だけではなかった。
◇◆◇
あの人に初めて会ったのは、高校を卒業した僕が、新卒で入った会社の、経理部の片隅。十歳歳上の彼女は、僕の右隣の席で、短時間の契約社員として勤務していた。
まっすぐな長い髪をひとつに束ね、桜色の口紅の薄化粧、白いブラウスに紺色のベストとスカート。絵に描いたような、少しだけ美人の事務員さんだった。
「仕事の指示は俺が出すけど、わかんないことは彼女に訊いて。係でいちばん詳しいから」
教育係の男性社員は、僕の向かいの席にいたが、これをこうしてこうやって、と説明を一度だけした後は、いつも自分の仕事に没頭してしまった。当然、ひよっ子の俺は、それだけで仕事をこなせるはずもなく、ひっかかる度に、彼女に救いを求めることになる。
「すみません、ここ、どこから持ってきた数字かわからないんですけど・・・・・・」
何度も声をかける僕に、彼女は苛立ちもせず、同じ説明を繰り返ししてくれた。
「ここね、Excelの関数を組んであるから、答えは自動で出ちゃうんだけど、それじゃ計算の意味がわかんないでしょ? 事務費をさらにここで分けててね」
彼女はまず、電卓を打つのが、経理部の誰よりも早かった。右手にペンを持ったまま、利き手はない左で、華麗に数字を叩くのだ。専門学校で簿記を学んだ時に、電卓は左で使えって仕込まれたの、と笑っていた。
そして、経理には詳しく、その豊富な知識で、上役からの相談に乗ることもあるほどだった。何しろ、取締役でもある部長が、幹部の決算会議に、彼女を同行させていたのだから。そんな一般社員は、彼女の他にはいなかった。
勿論、日々の業務も、あの人がやったなら間違いないよ、と誰もが言うほど的確で、しかも早い。実際、彼女は十時から三時の勤務時間で、正社員同様の仕事をこなしていた。
「なんで、あの人は契約社員なんですか? あんなに仕事できるのに、短時間なんてもったいないですよね」
教育係の先輩に、思わず聞いてみたのは、入社してふた月が過ぎた頃だろうか。
「そうなんだよ、旦那はいるけど子供はいないし、フルタイムでやれるはずなんだ。部長も何回か、社員にならないか、って声かけたらしいけど」
「本人が断ってるんですか?」
「らしいよ。給料もボーナスも全然違うんだから、受けりゃいいのに。まあ、俺等が知らない家庭の事情とか、あるのかもしれないけどさ」
確かに、その通りだ。しかし、彼女はいつも、悩みなど一グラムもないような笑顔で、明るく振る舞っていた。
仕事はなかなかに忙しく、会社で毎日顔を合わせてはいても、彼女と世間話をする時間は、それほど多くはなかった。
「だからね、この分は減価償却ってことになって、損失を五年に振り分けるの」
けれど、どんなに忙しくても、彼女は僕の疑問に、きちんと説明をしてくれた。処理の方法だけでなく、どうしてそうするのか、根拠までしっかりと。
「随分細かく教育してるね、先生。まだ一年目の新人に、そこまで言ってもわかんないんじゃない? 私だったら、もっと簡単な説明で終わるけどな」
同僚がからかい半分にそう言っても、彼女は気にも止めなかった。
「うん、今はわかんないと思う。でもね、この先、仕事を続けてれば、知識も増えてくじゃない? その時に、二年後でも五年後でも、私がこんなこと言ってたな、って思い出してくれればいいなって」
「先の長い話だわね、できる人は言うことが違うわ」
「そんなんじゃないよ、私の自己満だもん」
「自己満かあ。でも、もしかしたら、それで大化けしたりしてね」
恋愛感情を持っていたわけではない。後から考えると不思議なほど、当時の僕にそれはなかった。
抜群に仕事ができ、何故か僕に、その知識を惜しみなく教えてくれる。そんな彼女に対する感謝は、女性にというより、師匠に向ける性質のものだったからなのかもしれない。
それでも、社会に出たばかりで、右も左もわからない僕の目に、彼女は眩しいほど素敵に見えていた。空に向かって、真っ直ぐに凛と咲く、一輪のひまわりのように。
彼女は毎月、第二月曜に休みを取る。入社して四ヶ月が経った七月、僕は初めて、そんなルーティンに気付いた。
「ああ、あの人は毎月そうなんだよ」
教育係の先輩が、唾を吐くような口調で言うのを聞いて、彼が彼女を良く思っていないことに、僕は初めて気がついた。
「何か用事あるんですかね?」
「用事っていうかさ、不妊治療してるって噂だぞ」
「不妊治療・・・・・・」
聞きなれない単語でも、意味はわかった。
「大変なんですね」
「ってか、そのくらいあっても仕方ねえだろ。部長のお気に入りだし、旦那も営業にいるけど、エリートコースでさ。不妊治療がなけりゃ、社員でばりばり働いてたかもしれないけど、俺等にとっちゃ、そんな女目障りだし」
良く思わない原因は、ただの嫉妬だったらしい。
その頃、彼女が教えてくれる経理やパソコンの知識を、僕は正直、あまり理解できていなかった。商業高校で、簿記や表計算については学んだものの、通り一遍なその知識を、なかなか実務に結び付けられなかったのだ。
それでも、僕はわからないなりに、彼女に教わったことを、全て書き留めていた。三時に彼女が帰宅すると、僕は机にノートを広げ、その日に言われたことを、機械のように綴る。何となく、そうしておかなければ、いつか強く後悔するような気がしていた。
「短時間より正社員の方がいいなって、思うこともあるんですか?」
ささやかな疑問を、やっと声に出せたのも、同じ頃のことだ。思い切って聞いてみると、彼女は少しだけ考えてから、時々思うけどね、と口を開いた。
「でも、ほら、私結婚してるしね。社員になれば、月末月初は残業確定だし、旦那のご飯作れなくなっちゃう」
「そうかもしれないけど、でも、勿体なくないですか? 社員になれば、仕事のやりがいも増えそうだし、ボーナスだって上がるのに」
僕の不躾な問いに、彼女はきゅっと笑顔を浮かべた。二重瞼の目尻が思い切り下がり、桜色の唇から白い歯が覗く。くしゃくしゃの、子供のような笑顔。
「それより、私は旦那が大事だもん。仕事も好きだし、すごく大切だけど、最優先なのはそこじゃないし」
ああ、この人は幸せなんだな。単純な僕は、そんな彼女と、営業部にいるご主人を、ただただ羨ましく思っていた。彼女の言葉の後ろに、もっと深刻な、本当の理由があることなど、これっぽっちも見抜けずに。
お盆休みがあったせいか、八月は第一月曜だったが、彼女は九月も第二月曜に休みを取った。
不妊治療という噂が本当なら、早く望みが叶って欲しい。そう思う一方、彼女が産休や退職ということになったら、もう仕事を教えてもらえない。それは困る、というわがままも、僕は同時に抱えていた。
今は新人でも、いずれは彼女のように、周りから嫉妬されるほど、仕事をこなせるようになりたい。僕の中にもいつの間にか、そんな欲が、少しずつ生まれ始めていたのだ。
本当に、本当に僕は、何もわかっていなかった。
◇◆◇
「パパー!」
幼い声に呼ばれて、過去に思いを馳せていた僕は、ふと我に返った。
一面に咲く、海のようなひまわり。その隙間から、息子が笑って手を振っている。僕の幸福と、確かな現在の象徴。
「どうしたの? ぼんやりしちゃって」
その隣から、妻も僕に声をかけてきた。
「あ、ごめん、ちょっと考え事してた」
「仕事のことなら今日は忘れてよ、休みなんだから」
「大丈夫だよ、忘れてるから。そうだ、写真撮ってやるよ」
スマートフォンを取り出し、妻と息子にレンズを向けたる。ピースサインの笑顔を、風景ごと何枚か切り取ると、二人はまた手をつないで、ひまわり畑の奥へと歩き始めた。
ああ、さっきもこうだった。過去への回想は、この後ろ姿を見ているうちに始まったんだな。
そしてまた、僕の中の記憶時計が、あの頃へと巻き戻って行く。
〔 ひまわりの足跡②へ続く〕
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