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小説 殺意〔結末編〕withバジルさん

※小説リレー企画「火サスどうでしょう」バトンを受け取りました!
 バジルさんが書かれた、この物語の後半部分になります※

◇◆◇

 思い出してみれば、お母さんは子供の頃からそうだった。

 しゃがみこんだ洋子の背中を睨む、奈緒の瞳の奥が、ぎゅっと熱くなる。

 友達からの手紙を開封したり、部屋を隅々まで調べたり、同級生との旅行に行かせてくれなかったり。
 そして、奈緒が怒ると、必ずこの決め台詞で、するりと身をかわしてきたのだ。

「お母さんは、奈緒ちゃんが心配でね」

 もう、うんざり。もう自由になりたい。
 心配という縄で、がんじがらめにされてるうちに、私ももう、27歳だもの。
 ここで断ち切らなきゃ、永遠にこのままなんだから。

 そう自分に言い聞かせ、奈緒はナイフを振り上げた。
 水音のおかげか、洋子はおそらく、殺意の気配にさえ気づいていない。

 さよなら、お母さん。
 初めまして、私の、自由。

 水音が、大きくなる。
 そして……次の、瞬間。
「やめろ!!」
 突然、奈緒の手首を、何かの強い力が、ぐっと掴んだのだ。

「きゃああああ!!」
 振り向いた洋子が、水音を破るような悲鳴を上げる。

「おまえたち、何やってるんだ……」 
 奈緒を止めたのは、鬼のような形相を浮かべた、父の浩二だった。

◇◆◇

 こういうのを、魔が差す、っていうのかな。
 ベッドに寝転んで、奈緒はそんなことを考えていた。

「自分の部屋に戻ってろ! いいか、俺が呼ぶまで絶対に出るな」
 洋子の悲鳴の中で、奈緒にそう命じた浩二の口調は、いつもの穏やかな父とは思えないほど、厳しいものだった。
 娘を従わせるには、充分すぎるくらいの迫力を込めた、強い声。
 それに圧倒された奈緒は、ナイフをキッチンに戻し、素直に自分の部屋に戻ったのだ。

 私、何をしようとしたんだろう。
 真っ赤になっていた怒りが、熱を失うと、奈緒はどうしようもなく、怖くなった。
 我慢の限界が来たとはいえ、本気で人を、しかも母親を殺そうとしたなんて。
 あまりの衝撃に、泣くことさえできない。

 あの時、浩二が帰ってきたことに、奈緒はまったく気づかなかった。
 きっと、頭の中の何かを完全に失っていたか、あるいは、何かがあまりにも過剰になっていたのだろう。
 もしかしたら人は、そうなったときに、普段は決して近づきもしない境界線を、ぽんと飛び越えてしまうのかもしれない。奈緒も、誰でも。

 泣きたい。
 声を上げて、子供のように泣いてしまいたい。
 それなのに、瞳にも心にも、一滴の涙さえこみ上げてこなかった。


「奈緒。ちょっといいか?」
 どれほどの時間、考え込んでいたのだろう。部屋のドアをノックする音と、浩二の声が、奈緒の心を現実へと引き戻した。
「あ、うん」
 起き上がり、ドアを開ける。部屋着にも着替えず、スーツ姿のままの浩二が、痛みをこらえるような表情で立っていた。

◇◆◇

 浩二と一緒に、奈緒がリビングルームへ行くと、そこに洋子の姿はなかった。
「お母さんは?」
「パニックを起こしてたけど、なだめてなだめて、薬を飲ませて、やっと眠ったよ」
「……薬?」

 ダイニングテーブルの上に、白い処方薬の袋が置いてあった。
 椅子に座りながら、奈緒はその袋に視線を走らせる。
 患者名は、洋子だ。

 浩二は冷蔵庫から、缶コーラを二本取り出し、奈緒の正面に座ると、ふたを開けて一本を差し出した。
「なあ、奈緒。いったい、何があったんだ?」
 娘への静かな問いかけは、すっかりいつもの、穏やかな父親の声に戻っている。
「お父さん……ごめんなさい」
 奈緒の目に、まったく流れずにいた涙が、一気にこみあげてきた。


 そして奈緒は、今まで抱えていた、母への黒い感情を、すべて父に話した。
 どこまでも、どんな手を使っても、無遠慮に詮索をしてくること。
 奈緒を思い通りにするために、嘘すれすれの誇張をすること。
 娘の幸せを願うどころか、その芽を見つけ次第、摘み取ってしまうこと。
 そして、ずっとずっと、奈緒の世界に、土足で踏み込んできたことを。

「お父さんは、そんな小さなことで、って思うかもしれないけど」
 幼い子供のように、しゃくりあげながら話す奈緒の話を、浩二は一度も否定せずに、黙って聞いていた。

「私、男の人と出かけるのに、新しい服を買ったの」
 洋子に壊された、今日のデート。俊哉はもう、二度と自分を誘わないだろう。
「でも、それは、その人が素敵だからじゃなくて、この人ならお母さんが気に入るだろうって、そう思ったからだったの」
「奈緒は、男を選ぶのにも、お母さんの目を通すようになってたのか」
 そこまで聞いたとき、浩二はため息をつくように、静かに呟いた。

「奈緒には、話してなかったけどな」
 そして、浩二はテーブルの上にある、処方箋の袋を手にした。
「もう、三年くらいになるかな。お母さんはずっと、心療内科に通ってるんだ」
「診療、内科?」
 思いもよらない、その単語に驚いて、奈緒は顔を上げた。

「ああ。奈緒が学校を卒業して、就職して、大人になっていくのが、お母さんには、自分から離れていくように見えたんだよ。それで、かなり情緒不安定になったんだ」
「情緒不安定……三年前くらいから、なんだよね?」
 奈緒が初めて、会社の男性から、デートに誘われた頃だ。
 その恋を潰され、嫌悪感の処理で精一杯な娘には、母の心を見る余裕など、まったくなかった。
「そうだよ。今も薬は飲んでるけど、ここまで悪くなってたんだな」

 浩二はそう言うと、視線を少し右に流し、黙って何かを考え始めた。

◇◆◇

「やめて、何を考えてるの!」
 洋子の金切り声が、家じゅうに響き渡った。
「私、そんなこと聞いてない! お父さん、奈緒、どういうつもり?」
 情緒不安定とは、こういうことか。その様子を見るのがつらくて、奈緒はそっと、母親から視線を外す。
「おまえが聞いてなくても、これがいちばん、いいことなんだよ。おまえのためにも、奈緒のためにもな」
 浩二は妻に、落ち着いた口調でそう告げると、玄関のドアを開け、そっと奈緒の背中を押した。

 あの日、長い沈黙の後、浩二は奈緒に、この家を出るようにと命じた。
「このまま一緒に暮らすのは、絶対に良くない。お母さんも追いつめられるだろうし、奈緒も幸せになれないからな」
 行動の早い浩二は、二日後にはもう、家具家電付きの小さなアパートを契約してきた。奈緒には大至急、家を出てほしいんだ、と。
 母を殺そうとする自分の姿を、二度と父に見せたくない。奈緒も、浩二のその決断が、最も正しいと納得していた。

 そして今、奈緒はこの家を、洋子が作った巣を、飛び立つのだ。

「奈緒、なお、奈緒! 私を捨てないで!」
 閉じたドアの向こうから、悲鳴のような洋子の声が、奈緒を引き留めようと追いかけてくる。

 ごめんね、お母さん。
 でも、私はあんなふうに、誰かに殺意を抱くなんて、もう絶対に嫌なの。
 重い気持ちを吐き出すように、ひとつ深呼吸をしてから、奈緒はまっすぐ前を向いて、新しい日々へと歩き出した。

〔了〕

※こちらの企画の小説リレーです。
 バジルさん、ありがとうございました!※

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