「答え合わせの夜」結末編 with Prika
このお話は、先日、ピリカさんが書いた、
「答え合わせの夜」という短編小説の結末編になります。
◇◆◇
その話を聞いたのは、今日の午前十時。課長と一緒に呼ばれた、第2会議室でのことだ。
私の向かい側で、一通りいきさつを語った営業部長の顔は、怒りで真っ赤だった。そして、その隣には、口一杯の苦虫を噛み潰したような表情の、専務取締役。
「今のお話の内容、整理させていただけますか?」
失礼とは思いつつ、私がそう返しても、彼等は何も言わなかった。専務が軽く、頭を縦に振っただけだ。
「要するに、営業部の若きエースって言われてる、あの彼の商談が、今朝、突然断られたっていうことですよね」
「ああ、そうだ。社運のかかった大きな商談だよ」
営業部長の相槌に、怒りと不機嫌さがにじんでいた。
「それで……断られた原因が、昨夜、彼が取引先の相手に送ったメールと、そこに添付された動画だと」
「彼のスマホから、あの女が送ったメール、だ」
「あ、そうでしたね」
先程見せられた動画の声が、耳によみがえる。
いつも受付で微笑んでいた、社内で一番の美人と評判のあの子。
いつも一緒にランチを食べてきた、同期入社の私の友達。
彼女が、本当にそんな、大それたことをしたのだろうか?
『どうもどうも、お世話になってます、いやいや、まだ仕事してましたよ』
その言葉と同時に始まった動画には、ごつごつした指に弄ばれる、女性の胸が映っていた。
『オレしかやれない作業があって。はい、その件は上にもう確認しましたんで、明日には』
聞こえてくる声は、確かに、営業部のあの彼のものだ。親しみやすさを感じさせるよう、わざと砕いた、作り物の話し方。
撮影しているらしい女性は、そこで胸を隠し、寝返りを打ったのだろう。画面の中が、ベージュの毛布でいっぱいになった。
『え? いや、さすがに今は遊びにも行けないっすよ。アハハ』
止まった画面と、止まらない彼の声。
『また、落ち着いたらですね。はい、では、お疲れ様です』
その対比が、卑猥さを強調するような、後味の悪い動画だった。
「断りの電話は、先方の取締役から、私に直々に入ったんだ」
真っ赤になった顔をさらに赤くして、営業部長が再び話し始めた。
「すぐにあいつを呼び出して、問い詰めたよ。本人のスマホに、確かにあのメールの送信履歴があった」
「でも、それだけで、どうして彼女の仕業だと?」
「あいつの口から、あの女のことを聞いたからだ!!」
不意に、隣の専務が大声を出した。
「昨夜、あの女を家に呼んで、一戦交えた後、あいつは客先の担当者からの電話に出たんだとさ。動画は、電話の声が入るように、あの女が隠し撮りしたんだ」
紳士だと評判の専務が、ここまで怒鳴り散らすなんて。
「電話の後で、あの女が持ってきたワインを飲んだら、急に眠くなって、朝までそのまま寝ちまったんだと」
「そして、彼が寝てる間に、あの子が動画を送った……」
思わずそう言うと、専務は私をぐっと睨みつけた。
「あの女、今日は無断欠勤だ。そして、おまえはあの女と同期で、仲もいいと聞いた」
「はい……でも」
「これは、業務命令だ。今すぐ、あの女の家に行って、ヤツをここに引っ張ってこい!」
これでは、完全なとばっちりだ。
しかし、入社以来5年間、叩き込まれた主従関係に逆らう勇気を、私は持ち合わせていない。おまけに、怒り狂った専務の声には、断ったらおまえを干すぞ、と言わんばかりの迫力があった。
◇◆◇
彼女の家は、オートロックもない小さなアパートだ。
1階の、いちばん奥にある玄関のチャイムを鳴らす。インターフォンに向かって私が名乗ると、彼女は素直にドアを開けた。
マスカラやアイシャドウがにじんだ、彼女の顔を見ただけで、昨日の化粧を落としていないことが、すぐにわかる。羨ましいほどきれいな目が、こんなに腫れるなんて、どれほど泣いたのだろう。
「どうしたの、無断欠勤なんて」
「とぼけないで。今頃、会社は大騒ぎなんでしょ。だから、あなたが私の家に来た。違う?」
普段通りを装っても、通じないようだ。
「わかってるなら、ちゃんと説明して」
言いながら、私は玄関に押し入り、ドアを閉めた。
狭いけれど、きちんと整頓されたワンルーム。その部屋に上がろうとした私を、彼女は通さなかった。
「どこまで聞いてきたの?」
玄関先で立ったまま、私を睨みつけてくる。
「彼のスマホから、取引先の担当者に送られた動画を見せられたの。あとは、その動画がきっかけで、大きな商談が流れたことと、それを送ったのがあなただ、って疑われてること」
「それならもう、全部知ってるじゃない」
吐き捨てるように言って、彼女は私の顔から眼をそむける。
「私が動画を隠し撮りして、取引先に送ったの。彼を睡眠薬で眠らせてから、指紋認証のロックを解いて、通話履歴で相手を見て」
そして、そむけたまま、彼女は話し続けた。
「幸せな恋じゃないって、前から言ってたでしょ?」
「確かに、それは聞いてたけど」
「私ね、あの人を、社会的に抹殺してやったの」
泣き腫らした目から、また、涙が落ちる。
「この商談には社運がかかってて、成功したら俺は出世街道だって、彼はいつも威張ってたから」
「だから、商談を潰したの?」
「成功したら出世街道ってことは、失敗したら、ずっと日陰でしょ。だから、そこに追い込んでやろうと思った、ってわけ」
……そして。
そこまで言うと、突然、彼女は大声で笑い出した。
「ちょっと、どうしたの、何がおかしいの」
けたけたという、不自然な笑い声。それはまるで、子供の頃にアニメで見た、醜い妖怪のようだ。私はその笑い声に、気味の悪さを覚えた。
「ねえ、笑うのをやめて。ちゃんと、会社に行って説明しようよ」
「会社って、なんだっけぇ?」
何なの。何なの、これ。
「みんな、困ればいいの。あいつも、あいつを調子に乗せた会社も、全部」
「そんなの駄目だよ。あなたも、会社にいられなくなる」
「もう、いいもん。そうだ、私、もっとみんなを困らせてあげる」
そう、言って。
彼女は、隠し持っていたものを、いきなり私の目の前に差し出した。
「……ちょっと、やめてよ」
冗談でしょう?
後ずさりしようとする私を、玄関のドアが阻む。
彼女が持っていたのは、大振りの包丁だったのだ。
けたけたけた。彼女の笑い声が、ひときわ大きくなる。
「何、するの?」
「死ぬの」
死ぬって、誰が?
冷たい汗が背筋を伝い、その感覚で、私はふと我に返った。
逃げなきゃ、逃げなきゃ……包丁から眼を離さず、後ろに回した手で、必死にドアノブを探る。
けたけたけた。
お願い、もう笑わないで。
「あなたにはずっと、彼とのこと、相談してたよね。でも、あなたは何もしてくれなかった。友達なのに」
泣き腫らした目が、私を睨みつける。
逃げなきゃ、逃げなきゃ。
ドアノブは、どこ。
「一緒に死んでくれる?」
「やだ、なんで私が」
「私たちが死ねば、あの人はもっと追い込まれる。ますます、日陰の人生を歩くことになるでしょ? だから」
笑いながら包丁を振り上げた、彼女があまりにも怖くて、体がこわばる。
悲鳴を上げなきゃ……駄目、声が出ない!
やめて!!!
思わずぎゅっと目を閉じた、次の瞬間。
どさり、という音ともに。
突然、彼女の笑い声が止まった。
◇◆◇
「精神安定剤の過剰摂取で、一時的に気を失ったのでしょう」
彼女を診察した医師は、私にそう告げると、穏やかな笑みを浮かべた。
「じきに、目を覚ましますよ。大丈夫です」
「良かった……ありがとうございました」
「あなたが、彼女の部屋で見つけた、薬の空きシートを持ってきてくださったから、すぐに判断できたんですよ。助かりました」
そう言って、病室を出ていく医師に頭を下げると、私はベッドに眠る、彼女の寝顔をもう一度見つめた。
穏やかな眠りに抱かれた、整った顔。包丁を振り上げた時の、狂気に満ちた表情は、もう跡形もない。
あのとき、刺されると思って目を閉じた私が、突然の静寂に瞼を開けると、彼女はその場に倒れていた。
一瞬、彼女自身を刺したのかと血の気が引いたけれど、足元に転がった包丁はきれいなままだ。一応、彼女の様子を確かめてから、私は救急車を呼んだ。
「どうして、あんなことをしたの?」
思わず、眠る彼女に語りかける。
「彼も終わりかもしれないけど、あなただって、一緒に海の底じゃないの」
……一緒に、海の底?
口に出して初めて、私は気付いた。
もしかしたら、これは彼女にとって、彼との心中だったのかもしれない、ということに。
容姿端麗な女性しか選ばれない受付と、未来を嘱望された営業部の若きエース。
それだけ見れば、誰の目にもお似合いのカップルだ。
彼女は、大きな商談をスキャンダルで壊すという荒業で、そのエースの未来を潰した。裸の胸を、人目にさらしてまで。
けれど、それは同時に、彼女自身の未来にも、大きな影を落とすことになるのだ。
彼女は、決して馬鹿ではない。そんなことをしたら、自分自身も無傷ではいられないことぐらい、わかるはずなのに。
「そこまで、彼が好きだったんだね」
あの人を、社会的に抹殺してやったの。そう、彼女は言った。
私も一緒に、終わるからね。そう覚悟を決めての、一連の行動だったとしたら、すべてのつじつまが合う。
「いつも、きれいにメイクしてたもんね」
仕事のためだと思っていたけれど、それだけではなかったのだろう。
そう気づいた私は、バッグを持って、病室を出た。確か、病院の隣に、コンビニエンスストアがあったはずだ。
彼女が目覚めたら、崩れに崩れた化粧を、きっと落としたがるだろう。その時のために、クレンジングシートと化粧水、クリームくらいは、用意しておいてあげようと思った。
〔了〕
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