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手を挙げるだけ 中原道夫句集『九竅』を読む(8)

「銀化」主宰・中原道夫の最新句集『九竅』(2023年9月発行)を毎月一句ずつ、24回に亘って鑑賞していきます。今回はその第8回です。

手を挙げるだけの挨拶下山せる
            中原 道夫

中原道夫句集『九竅』所収

 ここに『沖』昭和58年6月号がある。当時32歳だった作者の、あの「白魚」の句が初めて世に出た号だ。数年前、はじめてこの号を手にしたとき、そこに在るとわかっていながらも「白魚」の句に釘付けとなった。選集等で目にするのと違い、初出誌の発する「生」のリアリティとでも言おうか、それに触れたときの興奮は今もはっきりと覚えている。
 だが、巻頭を飾る全五句のうち、2, 3, 4句目がどんな句であったか、情けないことに全く思い出せない。けれども忘れることなく、そらで覚えている句が「白魚」の他にもう一つだけある。巻頭五句のいっとう最後に、ひっそりとその句は載っている。掲句を一読したとき、どういうわけか私はその一句を思い出したのだ。

 綿飴をひとくち貰ふ花疲  道夫

「白魚」の句と比べると、全くもって大人しい、これが同じ作者の手に為るものだろうかと思わせる。「綿飴をひとくち貰ふ」という行為は何ら特別なものではなく、その行為自体、それ以上でもそれ以下でもない。しかし、作者はそこに一つの意味づけを試みる。
 掲句「手を挙げるだけの挨拶」もまた、それ自体が特別の意味を持つわけではない。しかし、前者が「花疲」と、そして後者が「下山」と取り合わされたとき、そこに新たな意味が生まれる。換言すれば「花疲」「下山」に対し新たな定義づけを行うことで、季語に新しい生命を吹き込んでいる。たとえそれが俳句の取り合わせというものの常套だとしても、作者の周到な観察眼と、深く透徹した思索に瞠目せずにはいられない。

「白魚」の句も「綿飴」の句も、どちらも32歳の作者の体を濾過して出来た句だ。そのいずれにも作者が宿っている。掲句を読んで自然と「綿飴」の句を想起したのも、39年の時を隔ててなお、中原道夫のDNAが掲句を作らせていることの証左のように思うのだ。(了)

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