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空區地車の力学その73.人を取り戻すから神に出逢える!?

私が子供会の綱担当になって久しい。
それ以前は空區子供会の父、一二三(ひふみ)さんが担当していた。かく言う私は一二三さんに憧れて、曳き手から子供会の綱に移籍した。
一二三さんは私の師匠だ。
綱の中では一二三さんを先頭に、私が後方を担当した。その後しばらくは一二三さんの背中を見ながら動きを観察する日々が続いた。第2列の私にとって大きな責任もなく珠玉の時でもあった。
地車に触れることのない、このポジションに行きたがる人は、私の知る限り、少なくとも私が地車を始めてからは一二三さんと私だけだ。
下図の様に地車の指揮系統は、指揮者を先頭にして、地車四隅に四隅責任者を配して、曳き手に伝令される。指揮者が「進め」を指示したなら、たとえ泥沼の中にでも進んで行かねばならない。

本来指揮者の位置に子供会の綱担当はいるので、すべてがよく見える!?

しかし子供会の綱が出ている時は、子供会の綱担当(子供会世話役)が全権大使になる。
指揮者が「進め」と指示を出しても、「止まれ」と身体を張って止めることができる。綱が出ている時は、専制君主体制の朕のポジションだ。
なぜなら子供会は幼稚園から小学校高学年までと幅広く、その数は50名を超えることもある。子供は急には動けないし、止まれない。綱に持たれて寝ている強者もいる。
この状態で地車が指揮者の指示で進むと、前を行く子供会を薙ぎ倒しながら進むことになる。よって子供会の綱担当が専制君主体制を宣言し、ここに子供会独立国家が樹立する。
子供会担当が身体を張って地車の進行を止めにかかると、四隅責任者は指揮者の指示と異なろうとも流石に「止め」を指示せざるを得ないのだ。

しかも子供会のお母さん方にとって子供会綱担当は、我が子を守ってくれる唯一無二の存在なので、頼りにされ愛される。
といってもバレンタインデーにチョコをもらうことはない、断っているわけでもないのに。むしろウェルカムなのに、残念だ。

その子供会の父、一二三さんも宮入り時は屋根に登る。
還暦を越えてもなお屋根に登っていた。この時のため昼間、子供会の綱に甘んじていた訳ではない?だろうが、まるで神との遭遇を屋根の上で果たそうとしているように。
子供会の綱は、一二三さんが私の乱入を快く受け入れてくれたことで、しばらく二人で担当した。
今思えば、二人体制のこの時が最高だった。しかし、ある日を境に一二三さんは、地車後ろに退き、私が一人で担当することに。静かなる世代交代だ。
以来、私は子供会の父に、一二三さんは爺になった。それでも一二三さんは、宮入り時は屋根に軽快に登る。
歳は関係ない。結局、地車なんて元気の良い人間のみが神と出逢えるのだ。

現役の親父たち

閑話休題、それはさておき。
子供会の綱を担当すると、地車とそれを取り巻く若中、その人間関係がすこぶる見えてくる。
そりゃそうだ。綱がなければ、本来は責任者の位置に陣取っているのだから、見えて当たり前!

地車が好きなヤツ、カッコだけのヤツ。地車を知るヤツ、知らないヤツ。初めて曳くヤツ、年数だけ重ねてなお惑う愚直なヤツ。屋根が好きなヤツ、曳くのが好きなヤツ。鳴り物が地車の心臓部だと信じてやまないヤツ。ただただ地車に触れているだけで幸せなヤツ。しかしどの顔も笑顔だ。
とどのつまり、祭りは楽しんだヤツが幸せになれる。

やっぱり人間はすげぇ。地車は一瞬にして人を変える。
いや人を変えるのではなく、人に帰るのかも。
そうだ、祭りは窮屈な社会から解き放たれ、人を取り戻す瞬間なのかも知れない。
そうなのだ、人を取り戻すから神に出逢えるのだ。
だから祭りは人を魅了して止まない。

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