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DV、ネグレクトを乗り越えて

医療事務系専門学校の2年生の女子生徒から、
「総合病院から内定を貰った!」との嬉しい連絡があった。

彼女は中学の3年間、私の所に通っていた卒業生で、母親が離婚と再婚を繰り返す複雑な家庭で育っているが、本人はいつも前向きで、頑張り屋さんで、父親の異なる弟の面倒もとても良くみている。不和な家庭環境に負けない強い子である。

私の運営する塾を卒業し、高校生になってからは、
「アルバイトを始めました!」
「彼氏ができました!」
「検定試験に合格しました!」などと、なにかにつけて連絡をくれていたのだが、
徐々に母親から受ける仕打ちについて愚痴をこぼすことが増えるようになった。

始まりは、無視だったり、母親の思うように家事をやっていないという叱言のようなモノだったが、
そのうち、食事の支度をその子の分だけ用意して貰えなくなったり、アルバイト代を家に入れるよう強要したりと、母親の仕打ちは徐々にエスカレートして行った。母親が手をあげることも時々起こっていたようだった。

家に入れるようと言い渡された生活費については、公立高校に進学した本人が修学旅行代金と、高校卒業後の進学を見据えて学費を貯めるためのアルバイト代であったのだが、その一部を生活費として家に入れ続けることを強いられ、理不尽に思いながらも本人はそれに従った。

そんな彼女の心が折れた出来事がある。
修学旅行先から「楽しく過ごしています。予定通り明日帰ります」と家に電話を入れた際に、母親から「そんなことでいちいち電話をしてくるな!」と、無下に電話を切られてしまった事に、深く傷付けられたのである。

母親も仕事をしていて大変だから、イライラするのも分かるから、文句を言われながらも家事は率先してやっている。
家にお金を入れるのも貧乏だから仕方がないと思ってる。
でも、何をやっても「ありがとう」の言葉ひとつ言ってくれないのが何よりも辛い。と、泣き崩れた。

彼女が欲していたのは、「ありがとう」の言葉ただそれだけだった。

しかし、その想いは母親には届かず、状況は悪くなるばかりで、母親が機嫌が悪くなると父親は知らんぷりを決め込み、怒りの矛先は自分に向けられる。早く大人になって家を出たい。と、よく口にするようになった。

一部始終を聞かされている私に出来ることは、本人の愚痴に耳を傾け、そのような家庭環境の中で、本当によく耐えていること、よく頑張っていることを労ってやることくらいしかなかった。

ところがある日、私の教室に暗い顔をしたその子が、重そうなスーツケース2個とパンパンに膨れたボストンバック1個を抱えて「家を出て来た」と、突然やって来た。

「母親に包丁を振り回され、おまえの顔なんて見たくない。出て行けと言われた。このままでは殺されると思ったので家を出て来ました。
家に残される弟が心配だけれど、私はもう限界です」と。

そう言って彼女がやって来たのは、金曜日の夜7時頃で、役所も児童相談所も週明けの月曜まで連絡が取れない状態であった。(今は改善され、夜間や祝日でも連絡が取れるようになっている)

役所に繋げることはできない。さりとて、このまま家に帰さない方が良いと判断し、私は民間のNPO法人が運営するシェルターに彼女を連れて行くことにした。

その、子どもの駆け込み寺とも言うべき団体では即座にその子担当の弁護士が一人付くことになっていて、その団体の事務所で担当となる弁護士と会い、手続きを済ませた。
シェルターの所在地は秘密、
以降シェルターにいる期間は本人とは連絡を取り合うことは禁止、連絡は担当弁護士を通してのやり取りになるということだった。

これらの措置は、保護者が子どもを取り返しに来ることを防ぐためだそうで、親が迎えに来て連れ去ることを防ぐために、シェルターから学校へ通うこともできなくなるとのことだった。

そのような説明をひと通り受けると、私は彼女とその場で別れることとなった。
緊張した面持ちで「連絡ができるようになったら、真っ先に連絡します」と言う彼女は、知らない所に連れて行かれる不安感もあっただろうが、行き場が見つかり、ホッと安堵しているようにも見えた。

彼女をシェルターに預けた週明け早々には担当弁護士から連絡があり、
彼女は元気にやっていること、
彼女の住む地域の児童相談所に子どもを保護していることを伝え、保護者への連絡と指導は児童相談所が行い、改善策が見つかるまで本人はシェルターで守られることが伝えられた。

そして、高校生にもなると、里親はなかなか見つかりにくいこと、彼女の通う高校近くに孤児院はないことを併せて告げられた。

結局、彼女は1ヶ月くらいシェルターにお世話になった。シェルターの弁護士と児童相談所との連携により、保護者が二度と同じ過ちは繰り返さないという誓約書を書くことで和解が成立したのだった。

シェルターを出た彼女はすぐに連絡をくれ、
「児童相談所で母親と何回か面会したんだけれど、猫なで声で早く帰って来て。とか言われて寒気がした。今は気を使ってくれているみたいだけれど、いつまで続くか?そのうちまた元に戻ってしまうかもしれません」と、ひと回りたくましくなった彼女は冷静だった。

そして何より、シェルターで担当だった弁護士から「なにかあったらいつでも連絡をちょうだい」と渡された弁護士さんの名刺が、どんな御守りよりも心強い護符となった。
きっと今でも大切に保管していると思う。

母親もさすがに反省したのか?その後、しばらくは大きな揉めごとはなかったようだった。
彼女が18歳になるまでは。

18歳のお誕生日を迎えたその日に、母親は「お誕生日おめでとう」の言葉より先に
「18歳になったんだから、もう児相の管轄じゃないから!児相に訴えてもムダだから!」と、勝ち誇ったかのように伝えられた。と、本人からどんよりした声で連絡があった。

もはや、入学した専門学校を卒業し、社会人になって自活できるようになるまでを指折り数えて耐えるしかなかった。

18歳過ぎてからは、食事は与えて貰えなかったので、コンビニでアルバイトをしている本人はアルバイト先で出る廃棄処分の弁当を貰って食い繋いでいる。それでも家賃としてアルバイト代の一部を家に入れ続けている。

「就職したら家を出て自活する」という希望だけが彼女の支えだった。

その、彼女の長年の夢が叶おうとしている。
内定を貰い、職場の勤務先も決まった。アルバイト代の蓄えがあるから、一人暮らしをする物件を探し始めると言っている。

学費を返済しながらの自活は経済的に大変な事だとは思う。けれども、彼女ならば、それもきっとやり抜くだろう。

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