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【短編推理小説】五十部警部の事件簿

事件その62

通報を受けた五十部警部と坂木刑事が自動車で現場に乗り付けた。
そこは今井モータースというトタン看板を掲げた、木造のバラックだった。
錆の浮いたトタン屋根はところどころトタンが剥がれ、歪んだ木造の壁のせいで、窓枠はガタガタと冬の冷たい風に鳴っていた。
その日の早朝、今井勝吉が経営する自動車修理販売業「今井モータース」に、専務の高田正平と事務員の野間恵子が事務所へ出勤して来たが事務所の扉が開いていない。
事務所の扉の鍵は社長の今井だけしか持っていなかったので、専務が何度も扉を叩いたが返事がない。事務所には常に社長の今井が真っ先に出勤してくるのが「今井モータース」の習わしだった。
高田は太っていて高血圧のある今井が脳溢血でも起こしたのかと危ぶみ、
最後は力任せに扉をこじ開けて事務所の中に入り、床に倒れていた今井社長を発見したのだった。
扉に足を向け床にうつ伏せに倒れていた今井社長の右脇には、すでに固まった血だまりが広がっていた。
事務員の野間が事務所の電話で警察へ連絡している間に、専務の高田は息せき切って近所の医者を呼びに走った。
そして、やって来た医師はただちに今井社長の死亡を宣告したのだった。
五十部警部はただちに専務へ質問を始めた。

「犯人に心当たりはありますか?」
高田専務は背が高くズングリした体を前にかがめ、重苦しい声音をしぼり出すように語り始めた。
「それは…商売には多少の行き違いから、見当違いのハンメはあるもんですわ。
社長はワシの兄貴も同然の人です。
ワシと社長は一緒に四国の田舎から出てきて、伝手を頼ってXX部屋へ入門して、相撲取りをやっていたんですわ。
中学の時分には、お祭りの村相撲で大人相手にも勝つことができた力自慢だったんです。ところが、部屋での稽古ではまったく叩きつけられるパッカシで、それはもう厳しくて滅茶滅茶でした。
それでも五年ばかり辛抱して、やっと幕下まで出世してあと一息という時に、いつも出稽古ばかりしている春日山という部屋で唯一の関取が稽古をつけてくれるというので、何番か稽古をしていたら、カイナをキメられ釣り上げられて、それで土俵の外へ出されるかと思ったら、頭から土俵に叩きつけられちまったんです。関取はワシのカイナをキメたまま、ちょうど自分も頭から飛び込みでもするように飛んだんです。ワシは土俵に左頬から落ちて、頭を打ってすぐに人事不省になっちまいました。
その時左目が眼窩から飛び出していたそうです。
病院で包帯巻いている間に廃業届が出されていて、退院したらその日から日雇いの土方暮らしでしたよ。
それを社長は励ましてくれて、俺が出世したら金を出すから一杯呑み屋でも始めたらどうだ。土方稼業もそれまでの辛抱だと励ましてくれた。
社長はさらに辛抱に辛抱を重ねて稽古して、とうとう十両に出世した。
それから二場所くらい経ってから出た巡業での稽古で、部屋頭だった春日山関が言い出して、山稽古をすることになったんです。
山稽古っていうのは、土俵の無い場所で気の合った者同士で稽古をすることです。
その時社長は幕内衆に稽古を付けられたんですが、ぶつかり稽古で頭から胸に行ったときに、待ち構えていた拳の突っ張りを合わせられたんですよ。
それで膝から落ちるところを、続けざまに拳で殴りつけられ、最後は持ち上げられて後頭部から土俵に叩きつけられて、そのまま一週間も意識不明になっちまった。
部屋に戻って来た時にはもう廃業届が勝手に出されていたそうです。
社長はその後、社長を気の毒がった部屋のタニマチだった倉山さんという人の世話で中古車販売の商売を覚えた。
そこにワシも呼んでもらって、一緒に商売の修行をしましたよ。
そこには五年もいたかな。
そして、二人してこの今井モータースを始めたんです。
今はマイカーブームですからね。お陰で商売は上手くいっていますよ。
それなのに…なんで社長がこんな目に…誰かが妬んだろうか?
許せん。ブチカマシてやるッ!」
高田は暫し切歯扼腕していたが、すぐに気を取り直し、今井社長の夫人に連絡し、出勤してきた修理工を家に帰し、顧客へも遅れの説明に架電するなど大童だった。

次に野間恵子への質問だった。
痩せぎすで厚底眼鏡の野間は、突然の出来事に神経質になり震えていた。
「まず金庫の鍵を探さないと。月末の支払いがあるし。
扉と金庫の鍵は社長しか持っていないんです。
社長と専務に車のことで文句をつけてくる人たちはいました。
計器がどうのとか。太田という名前の人でした。
社長は昨日、太田さんと今朝の七時に社長に会うといっていました」

妻の清美が車でやってきた。
太っていて、顔が丸々と大きく、口がさらに大きかった。
「あの人は今朝の5時に家を出ていました。
昔から朝は早いんです。
太田慎吾という人がその朝、主人と事務所で会う約束があったんです。
それ以外の事は知りません」
悲しみとか動揺の陰の無い突っ慳貪な調子だった。
野間は五十部警部にそっと囁いた。
「奥さんはどうせこの会社を全部売り払う心算なんでしょうね。
社長の生命保険も降りるはずだし」

五十部警部は戻ってきた高田専務に訊いた。
「太田という人は誰です?」
「ああ、きゃつですか。あいつは何か仔細なことで社長に因縁つけて、金をせびっていたトリ屋ですよ。
モーター新報とかいう業界新聞があってそこの記者だと自称してますがね。
出鱈目な憶測パッカシ書き立てて、文句をつけると金で記事を取り下げるという手合いです」
五十部警部は高田専務から、その他退職した従業員や売却した中古車の事で文句をいってきた者の名前をメモした。
また事務所を調べると、社長が持っているはずの金庫の鍵も無くなっていた。業者を呼んで開けると入っているはずの現金はなかった。

坂木刑事はまず、高田専務に聞いたモーター新報社へと向かった。
運よく太田慎吾は社内にいて部屋の隅にある長椅子にオーバーを頭から被って仮眠していた。
坂木刑事に起こされた太田は相手が刑事と聞いて驚愕して飛び起きた。
「俺に何の用だい?」
「あなた今朝の七時半に今井モータースの今井勝吉社長と会っていますね」
「そこへ行ったのは行ったが、社長には会えなかったよ。ドアを叩いても出てこなかった。十五分待ったが返事がないんで社に出てきて、眠いから少し寝ていたんだ」
「今井社長には会えなかったんですね」
「ああ」
「今井社長は今朝がた事務所で亡くなっていたんですよ」
「えええっ!社長はまだそんな年じゃないだろ?」
「殺されていたんです」
「…本当か!…それじゃ、事務所のドアを叩いても出てこなかったわけだ。だけど、誰が…おい、俺を疑っているのか?」
「正直にお話をいただければ、疑惑は晴れるでしょう」
「冗談じゃないぜ。
あそこの中古車は距離メーターを巻き戻して販売しているんだ。
それで、その件を社長に糺す心算で今朝は面会を申し入れたんだよ。
社長は相撲取り崩れだったんだろ。
商売の事では、ほうぼうにクサい尻を向けていたはずだ。
恨んでいる奴は一人や二人じゃないはずだぜ」

五十部警部と坂木刑事は、その日一日聞き込みに周った。

元従業員だった野川克彦。
同じ部屋の元序二段の力士で、現在はバーテンをしている。
「今井モータースの社長の今井さんのことで伺いたいことがあります」
「社長の事を訊きたい?なんで俺なんだい?
俺はもう関係ない。ああ、確かにクビされたよ。
社長は俺がモーター新報に距離メーターの巻き戻しをしているというネタを売ったと思い込んでいるんだ。
それを売ったのは、俺じゃない田中という男だ。
あの男は博打好きで借金があったので、平気でそういう事をするんだ。
とんだゲス野郎だよ。
それで、また、どうして警察が社長の事で嗅ぎまわっているんだい?
どうせ、社長か腰巾着の専務が何かヤラかしたんだろ?」
「社長さんが今朝がた事務所で殺されていたのです」
「へへへぇ…そいつは知らなかった。社長は元からワキが甘かったんだよ。関取の頃から、すぐに左でサシ敗けて上手を取られてヤられちまったんだ。あんな相撲でよく十両になれたと思うよ
今度のもそのザマだったんだろう。ま、自業自得だね」

元従業員だった田中四郎。
「アンタ、野川に俺のことを聞いてきたのかい?
ふん、アイツがクビになったのは当然だよ。
修理に必要な部品を胡麻化して、裏で盗んで売っていたんだ。
そいつを買い取っていたのが、部屋頭の春日山だったんだ。
アイツは相撲でフンドシ担ぎの頃から、社長の付き人をしていたくせに、裏切りやがったのだ。とんでもないクズだな。
で、俺に何が聞きたいんだい?」
「今朝がた、今井社長が亡くなったんですよ。それも他殺です」
「なんだって!…で、俺も疑われているのかい?」
「冗談じゃないよ。金目当てなら、怪しい奴は大勢いるし、ヤクザ者が車の事で押し掛けて来たことも一度や二度じゃない。それに専務の高田はどうなんだい?あいつは事務所の金庫をどうやって開けるか知っている。殺したんならどうせ金目当てだろ。専務は誰かとグルになったんだ。そいつに金庫の開け方を教えて、自分は分け前をチャッカリ貰う計算だったのかもな。
野川の野郎だって怪しいもんだ」

木下大二郎。元の部屋頭で十両だった春日山。
現在は居酒屋を経営している。
「ワシに何の用だい?店なら夕方の五時からだよ」
「今井モータースの今井社長をご存知ですね?」
「ふん。奴から金を借りていたのは事実だが、警察の出る幕ではないだろう」
「今井社長が今朝、亡くなっていたのです」
「へぇ。奴さん、西を向いたのかい?そいつは気の毒なこった」
「他殺だったのです」
「ほほぅ!それは本当かね?」
「心当たりは?」
「無いね。第一、それで俺の借財が消えるわけではないだろう。
あのガマみたいな奴の女房が、巻いてある借用書をニギって離さないだろうよ」
上目遣いに二人の様子を窺う木下の目には残忍な嘲りがあった。
 
署に戻ってきた五十部警部と坂木刑事は昼食も食べず、捜査に駆け回って来たせいで、疲れを覚えて暫し休憩した。
五十部警部は机にしまっていた珈琲セットを取り出した。
豆を挽いてサイフォンで珈琲を淹れた。
坂木刑事は自家製のビスケットを取り出し皿に並べる。
五十部警部はビスケットを齧り珈琲を飲みながら、新聞をぼんやり眺めていた。
不図、その脳裏に閃光のようにある考えが浮かんだ。
「よし、参考人として引っ張ろう」
五十部警部は立ち上がった。
それは誰かな?

五十部警部の考え


元序二段の野川だ。
今井社長の致命傷は左脇の刺し傷だった。
彼の口ぶりは明らかにそれを知っている。

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