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卒業論文 3章「『待つ』ということ」


3-1.私の課題意識 


3-1a. 「前のめりの姿勢」

 本来、未来とは決して何が起こるか分からない部分をもっている。そこには、予想外の、意のままにならない、どうしようもない、じっとしているしかないといったものがあるが、それは私たちの社会にも当てはまることである。社会には、私とは異なる他者の存在が含まれているが、当然他者とは私の思い通りに生きる存在ではない。しかし、私たちはそういった他者と「ともに生きる」ということを前提とした社会の中で生きるのである。その意味で、社会で生きるとは、私の恣意性の及ばない偶然性をも受け入れるということである。それは、私たちが自ら予測して迎えに行ける領域ではない。それはどんなに綿密に分析して備えようとも、想定外が向こうの方からやってくるという点で、私たちは絶対的に「待つ」ほかない。ところが現代は、待たなくてよい社会、待つことができない社会になったと鷲田清一は指摘する。鷲田は、現代において多用される、Project(企画)、Profit(利益)、Prospect(見込み)、Program(計画づくり)、Production(生産)、Progress(前進)、Promotion(昇進)といった“Pro”という接頭辞(「前に」、「先に」、「予め」という意味をもつ)をもつ言葉に囲まれた私たちの生活を「前のめりの姿勢」と表現し、ここで想定される「未来」に見えるものは、現在という場所から想像されたにすぎない点で「じつのところ何も待っていない」と揶揄している³⁷。これを筆者たちのネット社会運動に当てはめれば、私たちが変えた「社会」というものは、個人が自らにとって都合の良い目的を達成するために想定されたにすぎない点で、じつのところ「社会を変えていない」のではないか。個人が社会を変えようとするときに抱く理想像とは、他者が抱く理想と異なり、しばしばその間で衝突を招きさえする。当然ながら、個人の理想を達成するためには、この衝突を乗り切る必要がでてくるが、そこで他者との間で議論や交渉が生まれ、妥協や合意が生まれる。その過程の中で、人びとは自らの理想や思考の変更を伴い、その産物として(ほとんど思い通りにはいかないが)社会が変わっていく。しかし、筆者たちのネット社会運動から見えてくるものは、個人がほとんど変化することなく社会を変えられるという現実である。
 筆者が抱いた課題意識がここにある。二章で見てきた「見過ごしてきたもの」は、まさに運動の主体が想定していなかった事態や他者との出会いの連続であり、しかしそれは社会的な、「みんな」の課題であった。それぞれと向き合うにはフレームの変更や、あらゆる議論や交渉を伴っていたであろうが、それを乗り越える過程に、個人が他者と関係を築きながら社会と結びついていく可能性があり、「個人」の運動が「社会」の運動へと移行していく可能性があった。ところが、実際のところは文字通り「見過ごせた」のであった。他者との議論や交渉といった「面倒くさい」過程を経ることなく、インターネット上で「共感」してくれる個人たちとだけアクションをとることで、十分に社会に圧力をかけられるからである。それゆえにこのインターネットがもつ「組織なしに組織化できる力」は非常に強力である。利益(profit)をともにする個人たちが同時多発的に声をあげることで即座にネット上で影響力を持ち得るために、個人の計画(program)に合わない他者との遭遇はかえって非生産的(non-productive)となる。たとえ抱える困難に共通する部分があったとしても、インターネット上の盛り上がりは移ろいやすく、社会の変化は速いので、できる限り速いアクションが求められ、他者と妥協や合意を図るといった余裕もない。結果として、私たちはますます待つことができなくなり、待たなくてもよくなっている。周辺の諸課題は解決していなくとも、個人の目的さえ達成されればそれで離脱していく。あらゆる社会的な問題は繋がることなく別個の諸問題として存在し、問題を根っこで共有するはずの他者と連帯が生まれる間もなく、分断されたままとなる。そこで新たな不公平といった問題が生じようとも、あくまでも組織ではない個人の運動において、誰かが責任を負うことも、誰かに責任を求めることもできないために、その問題はまた別の個人が抱えることになるのである。

3‐1b.遠いままの「社会」

 筆者は、社会運動が起こりづらい原因として、そもそも私たち個人にとって社会が遠いということを指摘した。そしてその社会的背景として、個人化や流動化を挙げた。一方、ネット社会運動の世界においてはSNSなどを通じて容易にネットワークを構築でき、時間や手間をかけることなく「組織なしに組織化する能力」を手にすることが可能であり、誰でもいつでもどこからでも、一個人として参加しやすく、また離脱しやすい。そのため、こうした社会的背景の中であっても多くの声を集めて社会に圧力をかけるという戦略の上では理に適っている上に、現に社会を変える力を持っている。だからこそ一章において、ネット社会運動に、個人が個人として「ともに」声をあげ、社会に訴えていくことを通じて、社会が「自分事化」され身近になるという可能性を示唆した。
しかし、これまでの議論から分かったことは、「組織なしに組織化」するネット社会運動が個人の欲求を前提としていて、終始「社会」の運動ではなく、「個人」の運動にすぎないということであった。「前のめりの姿勢」である個人は、現実の複雑さ(社会課題)に直面しても、それを乗り越えるための他者との繋がりや連帯の可能性を待つことができず、また待たなくてもよくなっている。それゆえに、その現実の社会問題は、(私には関係のないという意味で)ずっと「社会」の問題として、私と切り離された「別の」問題として、しかみなされない。ここにおいて、終始「社会」は「私」から遠い存在であり続け、個人は自らの身の回りの小さな世界に閉じこもったままとなる。
 ネット社会運動における人々の動員手法はこうした背景を踏まえている。それは、ある社会問題を個人にとにかく「自分事化」してもらおうとするやり方である。それは、どちらかと言えば個人の側から能動的に「自分事化」するような手法ではなく、まるで社会問題を「商品」のように扱い、個人に“クール”に、“意識高くないよう”に、“映えるよう”に見せることで、「消費」させるような手法である。したがって、運動に「参加」したように見えて、実際は好みの商品(社会問題)を「消費」したにすぎない個人にとって、それ(社会)ははなから現実の遠い「社会」ではあり得ない。SNSやYouTubeといったインターネット上での動員が効果的なのはこの面において説明できる。私が行ったYouTubeでの「パフォーマンス」しかり、Twitterでのハッシュタグ運動やInstagramでの映える写真でさりげなく訴える運動などは、ある社会問題について様々な個人が集い、議論を交わして多角的な視点を提供したり、相互理解にいたり、協働に至るようなプラットフォームとしてのツール以上にその商品(社会問題)が好きそうな個人に一方的に売りつける、マーケティングのためのツールである。もちろん発信の仕方によっては、個人にその社会問題についてじっくりと考えさせることで、本当に社会の問題を自分事化し得るような機会も生まれ得る。しかし、高速のネット社会運動において、そこまでする必要がない。むしろ、“ライト”に、“おしゃれ”に、“ウケる”、といった見映えさえよければ、より多くの個人が気軽にクリックし、タップしてくれるので都合がよいのである。ここに“重たく”あるいは“深く”考えさせるようなコンテンツは排除されてしまう。素早く集めた「共感」や「賛同」としての「いいね」があれば、その数をもってあたかも「みんなの意思」であるかのように示すことができ、社会にプレッシャーを与えられるのである。言うまでもなく、ここでの「共感」や「賛同」によって遠くの「社会」が身近に感じられるようなことはない。
 このように社会問題を“売りつけるようにして”「自分事化」させる中で、個人が手にするものは現実の社会ではなく、個人の世界に当てはまる「イメージ」だとも言える。そもそもグローバル化や情報化で、私たちの日常生活の視野に入る世界の範囲が、ますます広くなって複雑さを増している今日、それだけ直接手の届かない問題について判断し、直接接触しない人間や集団の動き方、行動様式に対して、私たちが予測、あるいは期待を下しながら行動せざるを得なくなってきている。つまりそれだけ私たちは「イメージ」に頼って行動せざるを得なくなってきている。こうした社会的背景があるからこそ、現実の複雑さをシンプルな「イメージ」へと変換して、一気に多数へと拡散することができるネット社会運動の影響力はより強固に働くことになる。しかし、このネット社会運動におけるイメージの拡大の帰結は、共有されるイメージの方が次第に現実味を帯びるようになり、実際の複雑な社会を人々から遠ざけるものである。このことを「日本の思想」の中で丸山は次のように述べる。

こうしてイメージというものはだんだん層が厚くなるにしたがって、もとの現実と離れて独自の存在に化するわけでありまして、つまり原物から別の、無数のイメージ、あるいは本物と区別していえば化けものでありますが、そういう無数の化けものが独り歩きしている、そういう世界の中に我々は生きているといっても言い過ぎではないと思います。しかも今、本物と化けものというふうに申しましたけれども、ある対象について多くの人が抱くイメージが共通してきますと、たとえばアメリカってのはこういう国だ、あるいはソヴエトってのはこういう国だというような、漠然とした、それほど体系的に反省されていないような一つの像ですね、その共通の像というものが非常に拡がってきますと、その化けもののほうが本物よりもリアリティーをもってくる。つまり、本物自身の全体の姿というものを、われわれが感知し、確かめることができないので、現実にはそういうイメージを頼りにして、多くの人が判断し行動していると、実際はそのイメージがどんなに幻想であり、間違っていようとも、どんなに原物と離れていようと、それにおかまいなく、そういうイメージが新たな現実を作り出していくーイリュージョンの方が現実よりも一層リアルな意味をもつという逆説的な事態が起こるのではないかと思うのであります³⁸。


 丸山が「日本の思想」を出版したのは1961年であるが、インターネットの登場と誰もがスマホ一つでインフルエンサーになり得る今日において、イメージが共有されるスピードとその影響力は高まっていると言える。と同時に、個人は社会から遠ざかって小さな世界に閉じこもり、同じイメージを共有し得ない他者や想定外への出来事に対する寛容さも失っているように思える。それは、“ライト”に、“おしゃれ”に、“ウケる”ように作り変えられた「個人消費仕様」の社会問題のイメージだけが先行し、現実の複雑さを考慮に入れられないまま、その方がリアリティーを増していくからだと思われる。「エシカル」や「環境にやさしい」、「ジェンダー平等」といった聞こえのよい標語がインターネット上でシェアされていくなかで、実際の現実には相当に複雑な「エシカル(倫理的な)」や「環境にやさしい」、「ジェンダー平等」であることの本質については見過ごされ、その言葉とイメージだけが一人歩きしては、現実以上のリアリティーを帯びてくる。その結果として、そのイメージに反する「エシカルではない」、「環境に悪そうな」、「女性蔑視的な」他者や現実に対してひどく攻撃的になりさえする。人々は「#マイバック」は積極的に肯定しながら、プラスチック袋を使用する人を激しく拒絶する。「#イクメン」を拍手喝采しながら、仕事ばかりの父親を罵倒する。ところが、想定外ばかりの、あらゆる他者が含まれる社会の現実はそんなイメージが容易にまかり通るわけでもないはずである。にもかかわらず人々はマイバックを使用することが「環境にやさしい」と思いながら、それが本当に環境にやさしいのかは分からないままにやり過ごしている。このような現実で推し進められるSDGsという巨大な計画(Program)に対して、斎藤は「大衆のアヘン」として批判しているわけである³⁹。
 筆者の課題意識は、私たちの運動が「見過ごしてきた」社会課題を出発点として、それを素通りしてでも個人が社会に影響を及ぼし得る上に、そういった「前のめりの姿勢」のままネット社会運動への期待が高まっている社会にあった。そして、そこでの「成果」が社会課題を根本的に解決する方向に向かうどころか、新たな分断すら生み出しかねないことへの危惧であった。本当の意味で、社会課題を解決しようと、よりよい社会へ変えていこうとするには、実際の複雑な現実と向き合うほかないのである。そこでは当然、価値観の異なる他者との対話や議論が求められ、私たちは未知の、意のままにならない世界と遭遇する。それらは、最終的にわかりやすい正解を導き出すようなことをなかなかしない。だからこそ、瞬時に多くの支持を集めようとする「前のめり」のネット社会運動からは除かれやすい。しかし、使い方によってはあらゆる世界とつながり得るインターネットに、誰もが手元で容易にアクセスできるようになった現代において、よりよい方向へと社会を変えていくには「前のめり」から一歩引いた「待つ」ことが求められるはずである。だからこそ、本稿において筆者は「待つ」社会運動論を唱えるのである。

3-2. 「日常」と「出来事」の往還

3-2a. 「待つ」ということの実践と運動の反省

 それでは、実際に「前のめりの姿勢」ではない「待つ」ということの実践とはどのようなものであろうか。それは私たちが駆使したインターネットによって省略された手間について考えることで見えてくる。例えば、組織化という営みに含まれる、集会や勉強会の開催やその準備、打ち合わせ、資金調達や集客といった、集団としての能力を構築するのに必要なものである。

(こうした)前インターネット時代に行われていた退屈な作業は、実は他の目的にも役立っており、おそらくその最も重要な目的は、人びとを集合的意思決定のプロセスに慣れさせ、長期的に生き残り成長するため、どんな運動にも必要とされる回復力を生み出すことであろう。それはちょうど、それまでの山登りから段々と本格的な登山の技能を身に着けるプロセスが、何か避けがたく悪い事態が発生した正念場で生き残るための能力を養うのと同じように(Tufekci)⁴⁰。


 トゥフェックチーがここで指摘している退屈な作業がもたらすものとは、時間をかけて情報取集するなどをして運動をより確実に成功に導くといった正確性よりも、時間と手間をかけているうちに見えてくる運動の失敗や欠点への想像力にある。もっと言えば、どんなに想像力を働かせようとも必然的に発生し得る不都合な現実が存在するということを受け入れる度量ともいえよう。そしてこれこそが、「待つ」ことに通じ、運動において利害を異にする他者とでさえ集合的意思決定を可能にさせるものである。つまり、「待つ」という行為には、絶えず「希望を抱きながらも、自分自身を変えられる用意」が求められる。その過程で培う、自分の恣意性を越えた異なる他者との相互的交渉という「経験⁴¹」の中で人は自らの「位置」と「役割」を取り戻し、「社会」を実感するのではないか。
 私たちのネット社会運動においてはどうであろうか。すでに過ぎてしまった過去の運動を現在の視点から振り返り「こうすればよかった」と反省をしたところで、未来は不測の事態の連続という点で、一見無意味に思われるかもしれない。しかし、たとえこの反省が「今更」であっても過去をつぶさに見返しておくことは、同時に新しい期待を未来に対して抱くことでもあり、この期待無くして「待つ」ことはできない。反省とは過去について振り返る営みであると同時に常に未来を想定している。

<待つ>は偶然を当てにすることではない。何かが訪れるのをただ受け身で待つということでもない。予感とか予兆を頼りに、何かを先に取りにゆくということではさらさらない。ただし、そこには偶然に期待するものはある。あるからこそ、何の予兆も予感もないところで、それでもみずからを開いたままにしておこうとするのだ⁴²。


 ここで鷲田の言う「みずからを開く」とは、未来における不測の事態に対してであり、それには不都合な結果もあれば期待以上の可能性に対してでもあろう。その意味で、私たちがそのネット社会運動について課題を感じたまま終えることなく、反省するという行為はここでいう「待つ」ということの実践であり、何が起こるか分からない未来において、よりよい社会運動をしていくための徹底的な実践であるために重要である。
 まずS氏とY氏の両者が言及していた、運動の最終目標をどこにするかということの事前共有である。しかし、実際には運動が始まる前から明確に「ここまで」と目標を決めることは無理に等しい。それは例え、全員で「『日本人留学生』に奨学金支給継続が認められるまで」と共通の合意を得ていたとしても、現に私たちが設定していた「日本人留学生」以上の複雑性に遭遇したり、政府の予想外の方針転換によって条件付きで奨学金支給継続が認められるようになったり、それによって不公平が生じたりしたように、常に私たちの想定外が現れるためである。そのため、その都度、新たなビジョンを描き、認識のすり合わせを行い、柔軟に運動を変化させていくこと求められたが、この工程において各々の価値観や当時の境遇などが異なることでの衝突が起きてしまう。それ自体は避けようのないものの、想定外の連続の中で次第に私たちはその小さな認識の食い違いを乗り越えられなくなってしまった。これに対する教訓は、そもそも運動の目標に、最終といった見込み(Prospect)を抱き、そのためのミーティングを企画(Project)していたような「前のめりの姿勢」だけではなく、「待つ」姿勢も必要だったことだろう。それぞれが違う国にいて直接は会えない中で、インターネットを利用して「会う」わけであるが、まだ会ったこともない関係性でもあった私たちに必要だったのは、運動には直接的に生産(Production)性のなさそうな、企画(Project)外の「おしゃべり」であったかもしれない。この目的のない「遅く」、「遠回り」でありそうな作業のなかで、お互いの異なる価値観や人柄が次第に理解できていくということが、後の度重なる認識の擦り合わせという作業をどれほど助けたであろうか。
 H氏が指摘していた私たちの運動の速すぎる盛り上がりと速すぎる盛り下がりについては、私が行ったYouTubeでの「パフォーマンス」やSNSでの速い拡散、手軽に参加できるオンライン署名などによる「組織なしで組織化できる能力」の功罪である。しかし、だからといってインターネットの即効性と拡散性を利用しなければ、移り変わる社会の変化の中で、私たちはその時流を逃していたかもしれない。あくまでもインターネットでの発信はする前提にたったまま、常に前進(Progress)ばかり目指して数集めに走るだけでなく、何度でも運動の意図や目的などを再発信したり、あらゆる人が現状についていったん確認しあえるための公開オンラインミーティングを開催したりするなどして、「賛同」や「共感」してくれた人たちや、あらゆる利害関係者たちとの理解を深化させる行為も必要だったであろう。実際、1000万人の人口のうち2万人が動くのと、1万人の人口のうちで20人が動くのは人口比でいえば同じである。ネット社会運動においては数の利が勝ると考えられそうであるが、むしろ個人一人であっても社会に多大な影響力をもつ「インフルエンサー」となり得る時代であることを考えれば、不特定の大勢以上に、どんな人間と繋がって、協力を仰げるかということを重視することの利だってあるだろう。その上で、H氏が先陣きって行っていた日本人留学生の実態調査などを幅広く共有していれば、多方面の利害関係者と問題の共通の根っこについて共有して「社会」の運動へと展開して継続的な活動に変わっていたかもしれない。このような反省は霧がないものであるが、私たちのネット社会運動の危うさというものは、「前のめりの姿勢」から一歩引いた、「待つ」姿勢によって回避できたところも多かったと言えるだろう。
このような「待つ」ということの実践は、社会運動という「出来事」においてのみ試されるのでは決してない。むしろ社会運動が起こる背景としての「日常」における社会課題といかに向き合うかという時においてこそ発揮されるべきだと筆者は考える。なぜならば、私たちの「日常」にはあらゆる「社会課題」が潜在しており、その意味で私たちは常に社会課題の「当事者」であるはずである。しかし、だからといってあらゆることにつけて当事者意識をもつということは可能ではない。その意味で、筆者たちのネット社会運動が個人の問題を軸として、社会の問題へと広がっていかなかったという課題を、個人の利己主義や社会へ思いを馳せる想像力の欠如などといった個人に帰せるのは短絡的であると考える。実際、私たちが社会課題の「当事者意識」を抱きうるのは、まったくもって想像も予想さえできなかった、ある日突然の「出来事」においてである。私たちはコロナウイルスという誰も予想しなかったパンデミックによって、ある日突然失業して、社会保障や貧困という社会課題と向き合う。私たちは自らが結婚した時に初めて選択的夫婦別姓やジェンダー問題と向き合う。私たちは度重なる台風や大雨、地震などの天災によって、環境問題や社会インフラの脆弱性と向き合う。
 「待つ」ということは、そういった不測の事態に予め備えておく、という行為ではない。だから、データを集め、もはやそういった偶然性や不都合のない世界へとしていこうといったAIの世界にはない。そのような「不測」という予測をしている時点で、私たちは、それでもなお絶えることのない偶然性や予想外を待ってはいないのである。従って、「待つ」という行為は、そうした「応え」の保証がないところで、それでも一方が関係を願いつつ、あるいは信じつつ、それを保持しようとするところに生まれる。待つその対象はもはや定かではないけれど、しかしもはや待たないということでもない。言い換えれば、こちらからの呼びかけは封じ込めたけれど、何かからの呼びかけのうちに身を置くことを封じるものではない。というより、何かを待つこともなく、何かからの呼びかけに応える態勢を何らかの形で持ちこたえる中で、最後にようやっと可能になるのが「待つ」という行為である。筆者はこの「待つ」という営みを「哲学対話⁴³」におけるファシリテーターの在り方に重ねる。哲学対話における「対話」は、何か特定の議題について賛否を問い、どちらが正しそうかといったことを決定するような「ディベート」ではなく、あるテーマについて参加者に自由な発言を求め、予め決まった答えなどない、終わりのない議論をするものである。大学のゼミでの議論やシンポジウムのような場でも同様の試みがなされ得る。そこにおけるファシリテーターの役割とは、無論、ファシリテーターが予め想定していた議論の終着点や期待する方向へと参加者の発言を誘導することではない。そうなってしまっては、そこでの対話はファシリテーターの思い描いた対話に人々は参加させられただけとなる。また、ファシリテーターにとっての新しい学びも発見も生まれない。筆者が批判している「前のめりの姿勢」とはこのことである。ところが、かといってファシリテーターは参加者に自由な発言を任せるだけで、自分は何もしないというわけでもない。それではそもそもファシリテーターの役割を見失うばかりか、対話の内容が、あっちやこっちへと方向性が定めることなく行き交い、まとまりを失ってしまう可能性さえある。これもまた、何も期待しないという点で、「待つ」ことの放棄である。ファシリ―テーターは、だから、参加者に自由な発言を認めながらも、同時にその場における一定の方向性を示すことが求められるという点で、その微妙な判断が難しいとされる。そこで重要となるのは、参加者の発言が単なる意見や不満から始まったときに、それを「問い」へとつくり変える手助けを通じて、その人の疑問を場で共有することや、参加者同士の問いに、その場での脈絡を見つけ出し、問いの繋がりを、あるいは分かれ目を、探っていくことにある。これには「語る」以上に「聞く」力が求められる。
 では、ここでの「聞く」とはどういうものか。相手の言葉を受け止めるということ、人の話を理解ということ、またそれをもって、話す相手を理解することだと思われるかもしれない。たしかにそういう面はありながらも、哲学対話の長年の実践者である梶谷は、そこに落とし穴があるという。

私たちは普段、簡単に他人のことを理解するとか、思いやるとかいう。とくに「思いやり」というのは、世の中で絶対的な善であり要請である。思いやりのある人はいい人であり、思いやりのない人は悪い人である。思いやりがあるためには、他人のことが理解できないといけない。そうして人とのコミュニケーションにおける想像力の重要性が説かれ、その一方で、想像力の乏しさを嘆く声が聞かれる。そのせいだろう。私たちは、相手の言うことを聞いて、あまりにも安易に理解した気になっていないだろうか。軽く「あ、それ、ワカルワカル!」とすぐ共感する人。あるいは「なるほど、よく分かりました」と言って、間髪容れずに話を続けながら、ピントがズレている人。「あなたが言いたいのって、こういうことでしょ」と言わんばかりに勘違いしている人。「そうだよね」と言いながら、結局自分の話ばかりする人⁴⁴。


 梶谷は、このような姿勢において、本当に相手の言うことを聞いているのかと疑問を呈し、「相手を理解するということが先に立つ」ことについて批判する。相手の理解が先に立つと、意外に人の話を聞けず、理解できなければ、意識的にか否かにかかわらず、拒絶ないし、無視することにつながりやすい。だから、「聞く」ことを、理解することから切り離した方がよいと説く。その上で、むしろ重要なのは、「受け入れる」ではなく、ただ「受け止める」ことだとし、ただその場にいてちゃんと聞いてくれていることだという。ファシリテーターとは、その意味において、ほかの参加者の誰よりも、ちゃんと「聞く」ことが求められる。だからこそ、その場で出てきた言葉や文脈を大事にすることができ、その場を“ファシリテート”できるのである。筆者が思う「待つ」ということはこの姿勢である。それは、根本的にあらゆる問題の解決を目指すものではないのかもしれない。しかし、あらゆる可能性に対して、自らを開いた状態で「待つ」ということが、その場で「別」の、「他」の声として上がった諸問題とも、繋がりを紡いでいくことになり、「社会」と出会う可能性、それをもって「私」の存在を確かめる手掛かりになるのではないか。

3-2b.孤独な群集

 ここまで社会運動における「待つ」ことの重要性とそれがいかに実践可能であったかについて述べてきた。ところが、個人化や流動化の波の中で、待つことができない社会、待たなくてよい社会になっているという背景を考えれば、「待つ」ことを実践していくことの虚しさを覚えるかもしれない。実際、今日の多くの社会運動が、参加や離脱が容易にできることを前提としている理由は、参加者同士が個々人の生き方をめぐる差異に配慮したためだと考えられる。最近の若者はどのような活動をしていても、自分たちは「組織」ではなく、自分もこの問題の当事者の一人であると強く主張するが、それも自分と異なる他者を自分自身の論理で解釈しないための重要な作法の一つである⁴⁵。学校や会社で重要視されるのは、個人が異なる他者との間で関係を築くために重要な対話や複雑な社会問題について「あーでもない」、「こうでもない」と“面倒くさい”議論をすることではなく、端的に分かりやすく伝えながら、相手の共感を得られるようにするプレゼンテーションである。その上で、社会問題といった複雑な現実を直球に訴えかけることは煙たがられる可能性が高いので、私たちはSNS上でできるだけ“映える”ように、“ウケる”ように着飾るのである。
 ところが、そういった中で社会から距離を置く個人がどことなく「生きづらさ」を抱えているというものまた現代社会の特徴である。それは、「前のめりの姿勢」である個人でありふれた今日において、自らの意のまま自由に選び取って個人の目標を達成しようとするという行為が、個人にとって当たり前に認められるように、他者にも同様に認められるという点にある。あらゆる活動において好きな時に参加し、好きな時に抜けられるといった自由は、私だけの権利ではなく、他者にとっての権利でもある。それは、自分が都合のよい他者を選んだり、都合の良い世界の中で生きることを選んだりするように、自分もまた他者の都合によって選ばれたり、排除されたりするといったことを意味しているのである。これにより個人が抱く不安もまた増大しているのではなかろうか。
 たしかに「待つ」ことの実践には困難が付きまとう。「待つ」ことに求められる「意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないものへの感受性」に反して、「世界の脱魔術化」⁴⁶をはかってきた近代の中、そうした不都合や不合理を排して、外界のすべてを制御下に入れることが自律であり、外からの影響を断てば断つほど、自由になれると信じている近代的個人⁴⁷にとって「待つ」ことは苦痛である。ところが、待つことをやめた「前のめり」の個人は今日、とかくせっかちになり、ことごとく焦っては自由に生きる余裕を失っているようである。このような近代的個人をチャールズ・テイラーは”buffered self(緩衝材で覆われた自己)⁴⁸“と表現した。自分のまわりを覆う何か厚い「緩衝材」のおかげで、「個人は直接外界にさらされずに済んでいる。言い換えれば、外に対して『距離』をとることもできる。その結果として外界と隔てられた「内面」が形成され、その「内面」が自分にとってのあらゆる意味での源泉となる⁴⁹。」ところが、そうした「内面=“アイデンティティ”」を支えるための個人をこえたもの(民族や宗教、国家や地域=“コミュニティ”)との強い繋がりを失ってきた私たちは、常に不安を抱えた状態で自分を支えるための代替物を探している。日本人の場合で言えば、「世間」に代わって「共同体(コミュニティ)」の匂いを感じさせる「空気」が強固に働く。SNSのようなインターネット空間は、脆く、心もとないアイデンティティを構築することを目指し、「個人的に経験する恐怖や不安を一緒に掛けることができるペグ(くぎ)を探し出し、その後は、自分と同じく恐怖や不安を感じる人々とともに、悪魔祓いの儀式を行うように駆り立てられる⁵⁰」ような「ペグ・コミュニティ⁵¹」である。このような世界においては、自らにとって不都合なものやどうにもならない煩わしいものは排除されやすいが、同時に自らの存在も、他者にとっての“ペグ”に過ぎない点で、いつでも排除され得るのであり、不安がぬぐいきれることはないのである。このような状況で、みんなが共有している「イメージ」を自分も共有しているかどうかは「空気」を読めるかどうか同様に、孤独から紛れるために大変重要である。そうした現代人の性格をリースマンは「他者志向型の個人⁵²」として捉えた。彼らは他者の期待にそって行動することを選び、多数派への同調傾向が強い個人である。だからこそ、現代において人は世間の出来事にひどく敏感であり、それに「気をとられ」ながら同時にそれはどこまでも「よそ事」なのである。逆に無関心というのもしばしば他者を意識した無関心のポーズであり、したがって表面の冷淡のかげには焦燥と内憤を秘めている⁵³。
 こうした孤独を抱きながら、他者が気になって仕方ない個人の在り方は時代を追うごとにますます強化されていると思われる。それは自己を覆う「緩衝材」は人類の長い歴史における「近代化」の営みによって次第に分厚くなってきたことにも起因する。文字と紙の発明は、人間の忘却からの回避であり、その場や時間を越えて後世に語り継いでいくことを可能にした。印刷という技術の発明は、それまでの手で書いて写すという「手間」を省き、同じものを量産して多くの人々が書物を手にすることを可能とした。インターネットの登場によって、私たちは本屋まで行くことや、そこで目的の本を探すまでにかかる「時間」を節約できるようになった。そして今日、人工知能の導入によって、私たちは今、自分で何に関心を持っていて、何が必要なのかを考える、あるいは他人に教えてもらう「機会」をも排し、「正確」なデータを基にしたコンピュータに良本を提案してもらうようになった。その結果としてますます外界との距離が隔てられた「内面」としての自己は「社会」から距離を置くことになるが、同時に自己を支える基盤がますます曖昧になっていくことによる不安から逃れようと、他者を気にすることに余念がなくなっていく。それは一つ前の世代であれば、まだ「個性的」という言葉にプラスの意味が認められていた点にも見て取れる。それは未だ人間関係が不自由であった社会において、強制された関係に縛られない「一匹狼」に人間的な魅力すら感じた時代だったからである。ところが、人間関係の流動化や希薄化が進行する今日において、若者にとって「個性的」という言葉がもつのはむしろ否定的な意味である。一人でいることは関係からの解放ではなく、むしろ疎外を意味するため、「ぼっち」と呼んで蔑みの対象となるからである⁵⁴。
 時代の進展とともに移り変わる上記のような「日常」の変化は、社会運動のような「出来事」にも色濃く反映されている。個人を支える確かな基盤を失い、常に他者の存在がきになりながら孤独と闘っている個人にとって、そもそも集団に対して声をあげることのリスクの方が大きい。そのためによほどの社会的な理不尽を受けようとも、それに抗うことよりも我慢して周囲に合わせることのほうを望むがゆえに沈黙が生まれると考えられる。また社会に対して勇気をもって声をあげようとも、自分がコミットメントするようには他者にコミットメントを要求することもできない。個人が好きに発言できるのと同様に、他者からも評価される立場にある個人は、むしろ、自分の言いたいこと主張する以上に、他人に好かれやすい主張ばかりするようになる。それでもネット社会運動においては、その瞬間的な「共感」を集めることによって、社会を動かし得る影響力を持ち得てしまう。しかし、そこから「社会」の運動へ繋がっていくことよりも「個人」の運動として完結してしまう。ところが、こうした運動の結果として個人はまた別の「自己疎外」にも陥り得る。多くの人の「共感」を得るために発信する「イメージ」は拡散されるほどに現実以上のリアリティーとなって、それが一人歩きしていく。現実とのギャップが拡大すれば方向修正の必要が出てくるが、高速で拡散されていくインターネット上ではもはや修正も困難である。むしろ、拡散されて注目が集まっていくことの方が、都合が良いとして、自分についてのイメージに逆に自分の言動を合わせていくという事態が起こる。こうして何が本物だか何が化けものだかがますますわからなくなり、現代的な「自己疎外」に通ずる⁵⁵。
 以上の議論から、近代化の背景で形成されてきた個人(buffered self)にとって、「待つ」ことは困難であることは認めるものの、結果としてますます自己の身の回りにある小さな世界の中に閉じこもっては、他者の存在をうかがう傾向が高まっている現代において、「待つ」ということの実践は孤独な群集への処方箋と言えるのではなかろうか。私たちの「日常」が「前のめりの姿勢」へと移ろっているのであれば、私たちの「日常」から「待つ」ことの実践を繰り返すことが、ひいては、誰もが社会問題の当事者になり得る「リスク社会」と呼ばれる今日において、社会運動という「出来事」においても「待つ」ことを容易にさせるであろう。いまこうしている間にも社会は私たちの認知できない範囲で変化している。私たちが日常において「意のままにならないもの」、「どうしようもないもの」、「じっとしているしかないもの」に対する感受性を取り戻すことによって、ある日突然やってくる社会課題にも立ち向かえるのである。それは、これからも進んでいくだろう個人化と流動化の波においても、私たちが「個人」の運動から「社会」の運動へと転換していくための道であると同時に、個人が遠く離れた「社会」との繋がりを取り戻すための道でもある。


37.鷲田清一「『待つ』ということ」p18
38. 丸山真男「日本の思想」p141-142
39. 斎藤幸平「人新世の『資本論』」におけるSDGsへの批判として使用された言葉
40. Zeynep Tufekci 「ツイッターと催眠ガス」 p9
41.藤田省三「藤田省三セレクション」p382
※ここでいう「経験」とは藤田の言う「人と者との相互的交渉」を想定している。
42. 鷲田清一「『待つ』ということ」p19
43. “Café Philosophy”として世界中で実践されている。5人から20人くらいで輪になって座り、一つのテーマについて、自由に話をしながら、いっしょに考えていくというもの。※梶谷真司「考えるとはどういうことか」の序文を参照。
44. 梶谷真司「考えるとはどういうことか」p168‐p169
45. 富永京子「社会運動と若者‐日常と出来事を往還する政治‐」p238
46.Max Weber(1864-1920)の理論
47.宇野重規「民主主義のつくり方」p77
48.Charles Taylor 「A Secular Age」Belknap Press  (2007)p37
49.宇野重規「民主主義のつくり方」p74
50.Zygmunt Bauman「コミュニティ」p28,p29
51.「ペグ・コミュニティ」は、社会学者E・ゴッフマンの「アイデンティティ・ペグ」(「スティグマの社会学」参照)に触発された概念と推察される。(「コミュニティ」注3)
52. David Riesman「孤独な群集」p15
53.丸山真男「現代政治の思想と行動」増補版 p486‐p487
54. 土井隆義「いまの若者たちにとって『個性的』とは否定の言葉である」現代ビジネスネット記事(2017年6月6日)を参照 いまの若者たちにとって「個性的」とは否定の言葉である(土井 隆義) | 現代ビジネス | 講談社(1/4) (ismedia.jp) 閲覧日2022年1月17日
55.丸山真男「日本の思想」p143

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