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『ボヴァリー夫人』★★★★★

※Amazonに上げたのとほぼ同じレビューです。Amazonレビューと同じく星の数で評価を示しています(1~5段階評価)。

この作品は時代を選ばない普遍的なテーマを扱った物語であり、とりわけ「これといって不幸ではないけれども、毎日が退屈で仕方がない」という問題に悩まされている人にとっては共感を呼び起こすこと必至の書である。

<腰をおろした芝生を日傘のさきでつつきながら、エマは心につぶやいた。
「ああ、なぜ結婚なんかしたんだろう」
 別な偶然のめぐりあわせで、ほかの男に出会うことはできなかったか、と考えた。実際にはおこらなかったそういう出来事、いまとちがった生活、見知らぬ夫、を心に描いてみようとした。みんながみんな、こんな夫とは限らない。美男で、才気があって、上品で、魅力があったかもしれない。(略)
 この自分の生活は北の窓しかない納屋のように冷たく、退屈という黙々とした蜘蛛が心の四すみに巣をはっている。(p59)>

<これからこんな日が、永久に変わらず、数かぎりなく、なに一つもたらさずにつづいて行くのか。ほかの人々の生活はどんなに平凡であるにせよ、何かが起こりうる機会はある。一つの出来事がときには無限の転変を呼び、舞台背景が変わる。だが、自分にはなに一つ起こらない。それが神意なのである。未来は真っ暗な一本の廊下で、そのつきあたりに扉がぴったりととざされていた。
 音楽をやめた。弾いたってなんになる? だれがきく? 音楽会で袖の短いビロードのドレスをきて、エラール・ピアノにむかって象牙のキーを軽快な指でたたきつつ、恍惚のささやきが身のまわりに走るのを微風のように感じとることができないのなら、わざわざ骨をおって練習しないでもいい。(p83)>

エマはいわゆるドーパミン的幸福以外は「幸福」と認めない人間であり、そしてそれは毎日の平凡な生活を退屈と感じる現代人にも共通するキャラクターである。エマが現代に生きていたら、SNSの沼にどっぷりと浸かり、虚栄満載の写真を周囲に負けじとアップしまくっていただろう。

エマは本をたくさん読むものの、それをもとにいろんなことを深く考察しようとはせず、ただ物語の表面のみをなぞり、「こういう人がいたらいいな」「こういうドラマが私にも起きたら素敵だな」としか思わない。

<静かなもののありかたに慣れてきた彼女は変化に心をひかれるのだ。(略)物事から一種の自分のための利益をひき出せないと気がすまない。自分のこころがすぐそれを用に供しうるもの以外はいっさい不要として捨ててしまったー芸術家的であるより感傷的な気質で、景色をもとめず、情緒をもとめていた。(p49)>

このような価値観に縛られて振り回された結果、エマは必然的に坂道を転げ落ちるように不幸の底なし沼へと突っ込んでいく。

<なにはともあれ、彼女は幸福ではなかった。これまで一度も幸福ではなかった。人生のこの不満はどこからくる?(略)わざわざ捜しもとめる値打のあるものはなに一つありはしない。みんな偽だ。どの微笑にも倦怠のあくびがかくされている。どのよろこびにも呪いが、どの快楽にも嫌悪がかくされている。(p393-394)>

フロベールは裁判のときに「ボヴァリー夫人は私だ」と言ったそうだが、読者にとっても「これは私だ」と思わせるほどにいくつかの重要な人間性を抽出し、それをエマ・ボヴァリーという一つのキャラクターとして造形したその芸術的手腕にはただ敬服するしかない。

160年前にこの作品を残してくれたフロベールに、ただひたすら感謝の念を捧げたい。読むたびに思う。「ボヴァリー夫人を産んでくれてありがとう」と。

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