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【2020忍殺再読】「ライオット・オブ・シンティレイション」感想

邪悪なるザナドゥ

 ニンジャスレイヤーAOM、プレシーズン4。未熟なグラフィティ・アーティスト・ニンジャ:ザナドゥを主人公としたエピソード。無節操に入り込むノイズにぶつかりお話がピンボールのように跳ねまわるさまは、ネオサイタマの街角……日常を切り取って写したよう。そして、本エピソードの大きな魅力は、そのカメラに映り込む一風変わったニンジャたちにあります。モータルよりはるかに強大なカラテを持ちながらもそれに興味を持たない変わり者たちが、いかに生活に折り合いをつけ、どのような理屈と価値観を持って生きているのか。それはシーズン3のカラテ問答の延長・総括・発展であり、それらを担う彼らも一筋縄ではいかないキャラクターとなっています。

 その代表格と言えるのは、やはり主人公のザナドゥでしょう。ニンジャとしては比較的善良でありながら、そのふわついた軸足や感情的に過ぎるナーバスさ、さらに言葉にして語られることのない「グラフィティ」と「落書き」の差異への拘泥が、彼を素直に飲み込むには小骨が刺さる絶妙な人間像に仕立てています。私も、彼のことを好きにはなり切れなかったというのが正直なところ。覚悟が決まり切らないままに、しかし我だけは強烈に持っている中途半端さには心の中のタイクーンが顔をしかめてしまいますし、人のものに勝手に落書きするのにも心の中のジャスティスが顔をしかめてしまいます。第三部中期のフジキドに通じる、見てられなさ、厳しさがザナドゥにはありました。

 とはいえ、それは彼の魅力を減じません。むしろ逆。しこりは刺激に転化し、最高のスパイスに変わります。これほどに内面の機微が深く描かれたニンジャも珍しく、それに触れる体験は、たとえるなら高級料理を口にしたときのよう。味のレイヤーがミルフィーユのように重なり、情報量で脳がスパークする……。(マグナカルタくんとの交流を通じて描かれるグラフィティ文化の背景や、抽象的であるがゆえに一般性をもって読者との共感を橋渡しするその苦悩の在り様など、たとえ好きになれなくとも、読み進めることが不快にならぬよう絶妙な調整が施されていることも大きいかもしれません。モーゼス&ボンドの技量には毎度毎度驚かされます)

 彼らと土壌を共有せず、また、グラフィティというアートに対して無知な私にとっては、荒廃した街から高層ビルを見上げる生活の中で生まれた「彼らなりと切実さと意志」と、ガゼルジャンプが語る「マジ無敵だから」「交差点で、偉そうでムカつく社長っぽかったから」という動機にさほどの違いを見出すことはできません。後者を評してザナドゥが語る、「ひどく稚拙で、悪意そのものの桃」という評価にも眉に唾をつけてしまいます。ゆえに、これは大きな誤読なのかもしれないのですが……それでも、私にとって見分けのつかないマナウス・ガゼルジャンプの2つの桃と、ザナドゥ(あるいは、名もなきタツジンの桃)は、やはり違うもののように見えます。

 エピローグで描かれた笑み、グラフィティ真っ最中の「なんと愚かだった事だろう」という独白は何を指すものだったのか。それが「俺の為」とエゴを固め、割り切った強靭なカラテを身に着けることとイコールだとは私は思いません。世界は、イクサ場のニンジャの理屈だけで動いているわけではなく、ドラゴン・ドージョーもマスターヴォーパルの素晴らしきニンジャクランも、あくまでもカラテのドージョーに過ぎないからです。簒奪に背を向け創作を志すザナドゥならばなおさら、共感に結びつく弱さもまた重要であると思えるからです。

 迷いは迷いのままに、惰弱は惰弱のままに、「切実さと意志」を衝動の根源としつつも、それ自体を目的としない純度を、私はタツジンの桃と、ザナドゥのボムに見出します。創作行為が動機の前にくる。アートを楽しみ、手を動かしてゆく自由。「生きるため」という理由の奴隷から外れた自由。目的のための目的、行動のための行動は、カラテの領域においては虚無であっても、アートの領域においてはそうでないのかもしれない、と素人なりに思います。それは、「ニンジャを殺すためににニンジャを殺す」訳ではないニンジャスレイヤーたちとは真逆の結論なのかもしれません。

邪悪なるアマルガム

 しかしそれは、勿論、カラテが重要ではないという話でもありません。重要なのは自らに合致する最適な比率を見つけ出すことでしょう。全てがカラテではないように、全てがジツでもないのがAOMの世界です。他者を踏みつけることを厭わないエゴもまた、当然、ザナドゥの道に必要なものであり、そして、奥ゆかしく善良な彼は、その利己的なカラテ行為を潜む邪悪を自覚し、言葉にします。言語化という未成熟で青臭い手段が、失われた彼我の境界を固定する。戦略的な妥協と許容を身につけさせる。カラテはあくまで、その手段を支える補助輪にすぎない。普通の小説ならばここで終わってもよさそうな決着点なのですが……。

 「俺は俺のためにアートをするんだ!」「わかる!俺も俺のためにアート(腕を切断)するぜ!」「勝手に他人の腕を切っちゃダメだろ」「そうだね、勝手に他人のものに落書きしちゃダメだね」  ひどすぎる。そんなことある? バイオムクドリが狂人の形をしてマッハ893でかっとんでくるのなんなんだよ。トゥー・ファスト・フォー・インガオホー。例によって、ウッキウキで自分の生んだキャラクターの強度試験をやり始めるボンド&モーゼスにも戦慄しますが、それ以上に凄まじいのがこのアマルガムという狂ったニンジャの造詣です。

 「アーティストの腕をもいでつけると、アーティストになれる」という理屈だけならば、まだ凡庸な狂人なんですよね。我々の発想でもたどりつける。アマルガムの凄いところは、アーティストは皆この手段を用いて技量を身に着けており、それは一般的な手法であると認識しているところにあります。その狂気は個人の中で留まらず、彼というレンズを通じて、その背後にアート・パンクとでも言うべきある種のSF世界を完成させている。アマルガムさんは、腕をもいでいる暇があるならば、その世界ひとつをまるまま作り込める才能を生かしてSF小説を書くべきだった。

 そして、最早言うまでもないですが、『ニンジャスレイヤー』の凄いところは、この狂人の戯れ言すらも決して「間違っている」とは限らないことです。いやむしろ、アガートラムや『スズメバチの黄色』、何より直近で織田信長の両腕を継いだ明智光秀を書いておきながら、アマルガムを狂人のように描くことの方が異様と言えるかもしれません。確かなのは、アマルガムがアーティストではない、と断言する資格は誰にもないということです。そこにはカラテの決着、あるいはコトダマの共存だけがあります。

 他人を意に介さず行われるグラフィティへの、「皆も同じだよ」という肯定。真実がどこにもない以上、アマルガムからザナドゥに向けられたそれも境界を隔てて重なり合う共感であったことでしょう。しかし、それに対するザナドゥの回答は、やはりここにあるものはただ「俺の為」である……あるいは、「グラフィティの為」である、というもののように思えます。アマルガムが主張するような普遍的な正しさ(実際は、普遍的でもなんでもないわけですが……)からすらも独立し、自分のアートは存在するのだと、ザナドゥは証明することになるのです。

邪悪なるパースウェイダー

 パースウェイダーというニンジャが残した衝撃を、私は未だに忘れることはできません。理性なく異常性を発揮するニンジャかと思いきや、理性をもって社会的に認められた上で異常性を発揮するニンジャだったと言うどんでん返し。アゴニィさんははもうちょっと彼を見習った方がいいと思うし、モスキートさんにとってはメンターになりうる人材でしょう。そして何より凄いのが、彼が本編と全く関係しないニンジャであったという事実です。それゆえか、彼はアーティストではなく、その欲望もニンジャとしては比較的メジャーな邪悪なものではあるのですが……その邪悪さを社会的に容認されるよう取り組んでいると言う点で、彼は立派なニンジャです。

「自らの邪悪を受け入れる」道を選んだザナドゥにとって、「自らの邪悪を受け入れさせる」パースウェイダーの在り方は、ある種の進化形であり、ここから先の指針になりうるもののように思えます。アマルガムとの交流で磨かれた、善悪も是非も関係なく、ただ「俺の為」というカラテは、行き着く先に抵抗を呼び、暴力となる。それもまた、アートに力を与える必要な刺激であることは違いはないけれど、しかし、あくまでもそれを誰かに見せる以上、見せることを望む以上、絶対にそこに「他人の為」は混じらざるをえないと私は思うからです。落書きは、ちゃんと許可をとってやろう!

 ヨウナシの無邪気なコメントに、深く傷つくようなナイーヴさこそが、ザナドゥというアーティストの武器であり、ジツであると私は思います。これはシーズン3の延長であり、総括であり、発展です。世界は、イクサ場のニンジャの理屈だけで動いているわけではなく、ドラゴン・ドージョーもマスターヴォーパルの素晴らしきニンジャクランも、あくまでもカラテのドージョーに過ぎない。簒奪に背を向け創作を志すザナドゥならばなおさら、共感に結びつく弱さもまた重要である……「惰弱」であるがゆえに、それは広くに通じる価値を持つ。

 パースウェイダーの邪悪。カラテを自由に奮わない惰弱。それは、ザナドゥが向かう「」の話であり、このエピソードはそこに到達せずに幕を閉じることになります。パースウェイダーは、ゆえに本編と関係ないニンジャであり、ザナドゥのアートの道の先にある可能性の1つに過ぎません。……いや、もしかすると……ここまでの文章をほぼ全部ひっくり返すことになりますが……彼が無関係であったのは「パースウェイダーのような振る舞いは、アートとは異なっている」ことを示すのかもしれません。やはりアートは、ただ「俺の為」であるべきものであり、その純度が重要なのかもしれません。許可を取って描かれたグラフィティは、何かを欠いているのかもしれません。そこは私にはわからない。

未来へ…(邪悪なるマスラダ)

 アマルガムよりもさらに極端な例が、マスラダであることは言うまでもないでしょう。「俺の為」路線の権化。しかしマスラダくんはひどい。本当にひどい。「どうでもいい」は、ザナドゥが本作で辿り着いた境地の1つでもあるわけですが、それをわざわざ口に出さないところがザナドゥの奥ゆかしく善良なところであり、マスラダのよくないところですね。角が立つだろ!いちいち何でもかんで言うんじゃありません! しかし、カラテの住人であり、元アーティストであるマスラダにとって、角など立ってなんぼの商売なのでしょう。ニンジャスレイヤー屋は、そういう稼業だからです。痛快なニンジャ・エンターテイメントであるからです。

 マスラダに薫陶を受けザナドゥが取り組んだグラフィティは、ゆえに、パースウェイダーのように社会との折り合いがつけられないままに、他人の持ち物の上に厚かましくも描かれます。確かな技量をもって描かれたそれは、サペウチCEOの心をほんの少し動かし、しかし、経営的な判断という理を覆すものにはなりえなかった。ゆえに、話題性という理においてしか、その身を守ることができなかった。ザナドゥのアートだなんて身勝手は誰もゆるさず、誰も許さないからこそ、彼の覚悟には意味がある。「俺の為」であった、甲斐がある。私にはどうなるかわからない、その先がある。

 ザナドゥのドラマは、ザナドゥのドラマに過ぎない。彼のアートなんて、他人にとっては「どうでもいい」。しかし、その自他の境界を溶かし消す力が、彼のジツには、「」のアートには秘められている。それこそが、ザナドゥという邪悪なニンジャが持つ危険性であり、可能性なのだと私は期待せざるをえないのです。

 ……とはいえ、やっぱり、落書きは許可をとって描いた方がいいんじゃないのかなあ。

■2021年12月23日にtwitter版で再読。