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NECRO1:みんなで蜂退治(4)

【ネクロ13:あらすじ】
・不死者の暮らす街、臓腐市で、主人公ネクロが無茶苦茶する。

【ネクロ13:登場人物紹介】
ネクロ:死なずのネクロ。自分勝手な乱暴者。
タキビ:サザンカの妹。口は悪いが押しに弱い。
プラクタ:鼬のプラクタ。軽口を叩きがち。
ヒパティ:ぶっとい右腕のヒパティ。気は優しくて力持ち。
カット:無口。
ネアバス:臓腐市役所暗黒管理社会実現部犯罪鏖殺第3課課長。メガネ。
グンジ:ネクロの恋人。ひどく怖がり。
キイロ:ネクロの恋人。いじっぱり。
その他のネクロの恋人たち:ボタン、サザンカ、ユビキ、など。

(3)より

■■■

「メガネ野郎、てめぇの同行を許したつもりはねぇぞ」

「〈指忌ゆびき町のユビキ〉の協力が得られたとはいえ、〈恐怖のキイロ〉に対するのであれば手札は多く用意した方が得策でしょう。彼女ならば間違いなくハイヴを落とせはしますが、如何せん大きすぎて必ず取りこぼしの屍兵蜂が出る」

「ずいぶん協力的じゃねえか。俺は使えない牢屋じゃなかったのか?」

「その評価は先ほどと変わりません。ただ、ネクロさんが〈指忌町のユビキ〉を味方につけてしまった以上、我々、暗黒管理社会実現部の全課を投入したところで、最早止める術はありません。部長クラスを投入するなら話は別ですが、それならば不完全であろうともネクロさんにしばらくの間〈恐怖のキイロ〉を繋ぎとめてもらう方が得策です」

「しばらくの間、ね」

「ええ、しばらくの間。〈恐怖のキイロ〉は、後に、我々市役所の手で捕えます。ハイヴ屍材製作はこの臓腐ぞうふ市にとって既になくてはならない重要な企業です。彼女の手により、彼らの労働が阻害されることは決してあってはならないのです。臓腐市の皆さまのより一層の安心と健康のために」

「皆さまのためにと言うなら、ユビキを止めたらどうだ。今、こいつの足元で、挫症ざしょう区の大切な皆さんがめちゃくちゃになっているが」

「なっているでしょうね。現在地点は海上ですが、それでも〈指忌町のユビキ〉が歩行を開始して以降、高波と地震により湾岸部が甚大な被害を受けていると通信が来ています。彼女がハイヴを攻略すべく上陸した場合、それこそ被害は壊滅的なものになるでしょう。しかしこの臓腐市においてそれは真の意味での『被害』ではありません。我々には無限の時間と無限のエネルギーがあります。100年でも1,000年でもかけて修理すればいい。実際はこの辺りは公共物が多いため、1ヶ月もあれば修復は可能ですが」

 口の減らないメガネ野郎だった。ユビキの愛らしい右肩の上。彼女が1歩進むたびにすさまじい衝撃が伝わるこの特等席で、このメガネだけが平気な顔をしてヤモリのように貼りついている。聞くところによると奴の両掌は特別製で、指紋と体液の操作により摩擦力の調整が可能らしい。プラクタの顔面を引きはがしたのもその要領だろう。はがされた当の本人は、俺とヒパティと一緒にカットの爪でユビキの肩に縫い止められ、へらへらしている。

『実にいい景色だな、ネクロ。昔はこの街の空にも飛行機というものが飛んでいたそうだ。飛行をする機械で飛行機だ。その機械専用の港が臓腐区にあったらしい』

「ああ、飛行機ならアイサに見せてもらったことがある」

 それは軍用機でしょう、とメガネ野郎が口を挟んできた。

「旧世紀にこの街上空を飛んでいたのは旅客機と呼ばれるもので、〈皆殺しのアイサ〉の肉体を構成するものとは形状も目的も大きく異なります」

『ははは、ネアバス。お前は細かいな。この街の人間にしてはとても真面目だ。いや、いい加減な組織のいい加減な仕事を真面目にしているだけか。この場合、お前は必死に生きていると言えるかな。ただ刺激に反応をしているだけの、屍兵蜂と同じ機械か。ここ一時の必死さがないように思う。もしかしてそれは俺の偏見だろうか』

「プラクタさんが何を問われているのかは測りかねますが、我々は臓腐市の皆さまのより一層の安心と健康のために身を粉にして働くのみです」

『なんだそうか、つまらないな』

「………!!!」

 同意なのか抗議なのか、カットが意図のつかめない爪擦音をたてたところで、ユビキは歩みを止めた。見上げても見上げきれない程に大きな顔が、自身の右肩を、つまりは俺を見て、ぼお、ぼお、ぼお、とこれまた言葉として聞き取れない声を発した。だが意味はわかる。俺はユビキの恋人で、彼女を愛しているからだ。

「ああ、必ず。約束する。方法はサザンカに聞いた」

『なんだ、ネクロ。彼女は何を言っている』

 プラクタを無視し、ユビキと視線を合わせる。その大きすぎる眼球の、広すぎる視野の中の、彼女が見つめる1点が俺であることを俺は知っており、だから、俺は彼女と目を合わせることができる。電波塔で俺は2人の女を裏切った。1人目はグンジ、そして2人目はユビキだった。彼女は他のじゃじゃ馬たちと違い、俺に迎え入れられヒトの形に収まることを誰よりも望んだ女だった。15,475人の魂の集合である彼女の自我は、その大きな母数の平均であり、つまりはごく普通の気の小さな人間のものでしかない。俺という等身大のスケールは、彼女にとって望んだ自己の形であり、型であり、枠なのだ。

 ぼお、ぼお、ぼお、とユビキは発し、その大きな左手を俺に差し出しかけ、そして、それが到底不可能なサイズ差であることに気が付き、寂しげにひっこめる。握手ではない。差し出されたのは小指だった。

「それは後でしよう。キイロを迎え入れたなら、できるはずだ」

 ぼお、ぼお、ぼお。

「もちろんだ。さあ、頼む」

 俺の声は聞こえているのか。聞こえていないだろう。だが問題はない。ユビキは今、確かに笑ったからだ。俺がユビキと話せるように、ユビキも俺と話せるからだ。約束。大切なのは魂のレイヤーにその事実が刻まれた後、決して許さないことであり、裏切り自体に問題はない。しかし約束が成立しなければ、それはそもそも裏切りにはならない。「約束を守ること」は「裏切りを許さないこと」ほど絶対ではないが、しかし、それでも、それもまた確かなことなのだ。

『おい、ネクロ』

「着いたぞ。備えろ。ユビキがハイヴを潰したら、そのまま降りる」

 ユビキの姿勢が大きく傾き、俺たちは振り落とされないよう、その肩にしがみつく。天高く振り上げられた、何kmかの、何tかの巨大な拳。ゆっくりと、しかしそれは大きすぎるがゆえに見せる錯覚であって、実際には恐ろしい速度で足元のハイヴめがけて振り下ろされてゆく。ユビキの体の上をまず走り抜けたのは、強烈な衝撃だった。そして、少し遅れて轟音が地上から届き俺たちを肩の上から弾き飛ばす。

「プラクタ!」

『おう』

 ジェット・ガスで落下の軌道を修正し、プラクタが空中で俺とカットを拾う。ヒパティは別の役目があるため、ほったらかしておく。メガネ野郎はどうするか。見ると、スーツをはためかせながら、何か言いたげにこちらを見つめている。プラクタの頭をはたき、それを指さす。しぶしぶと言った様子でプラクタが右手を伸ばす。

「プラクタさん、ネクロさん。ありがとうございます。助かりました」

「筋合いはねえよ」

 2塊の肉体がハイヴ上空を落ちてゆく。そこからは臓腐市の全体が見渡せた。何千何万の死体が腐りながら生き果てるぐちゃぐちゃを、橙色の斜光がこそげ落とすように撫でている。夕陽だか、朝陽だか。どうせ死にはしないからと、あるいはどうせ死ぬからと、睡眠時間すらもがこの街では適当で朝と夕すらどうでもいい。遠くに見える島はバレエのものか、街中に黒くぼっかり空いた領域はミィの縄張りか。街に散らばる女たちの気配にひりつきながら、だが、今、俺が目指しているのは、足元のただ1人だと考え直す。

 みるみるうちに地上が近づき、ユビキの右腕による被害が次第にズームされてゆく。巨大なハイヴ企業墓庫は最早完全に跡形もなく、冥府にまで続きそうな真っ黒な穴が開いている。それを中心に広がるクレーターはヒビを放射状に広げ、その端から海水を飲んでいる。オイルと水と血が混じり合い、表面がうぞうぞと泡立たっていた。落下するに従い、その泡が潰れ損ね地上に逃れた屍兵蜂の群れであることに気がつく。

「ネクロ、地下階が潰れて地上までの距離が近づいたんだ。さすがはネクロの恋人。さすがはユビキだ。これなら簡単だ。ヒパティでもクリアできるかもしれない。ステージの数が少ない」

「いや、もうゲームに付き合う気はない。ヒパティ、前に出ろ。お前の重量で最下層までぶち抜く」

「ネクロ、さすがだ。さすがはヒパティの仲間。さすがは〈死なずのネクロ〉だ。そして、ヒパティには、もちろんそれが可能だ」

 てめぇの仲間になったつもりはねえ、と悪態を返す暇すらもうなかった。既に屍兵蜂の数が数えられるほど地上は近い。ヒパティは筋肉を収縮・膨張させ、極端な重心変化によって着弾点の調整を図る。それに追随するようにプラクタが両脚と口中からのガス噴射を駆使して位置をとる。3、2、1、着弾。プラクタのジェット・ガスの操作は精妙で、想定以上の衝撃はなかった。気づけば、手と足が地面に着いている。どろりとした感触。オイルと海水と血の混合液。水音が聞こえないことで、鼓膜が破れていることに気がついた。それも含め、傷んだ肉と骨を後頭部のボタンから補填しつつ、立ち上がる。

 破れ捻じれた無数のダクトが蔦のように壁を埋め、足元で液にひたされている。どろどろと流れてきたのはぺしゃんこに潰れたヒパティの中身か。爪の欠片が混じっていることから察するに、カットは着地に失敗したのか。視界は薄暗く、手探りだった。ユビキの拳はこの階層までは届かなかったらしい。ならば潰れ損ねがいてもよさそうなものだが、悲鳴はなく、静かだった。ボタンを通じて瞳孔を調節する。壁面の階数表記が読み取れる。B8F。最下層。

 慌てて周囲を見回すが、俺の求める女はいない。別室か。気配は間違いなくある。水音。通路の向こう。くぐもった声と共に、前面が平たく圧縮された蜂が現れる。ユビキの攻撃ではなく、自ら壁に顔面を押し付けた結果だろう。眼球は潰れた餃子のようで脳天からは割れた頭骨の先端が開いている。自己防衛よりも優先された、恐怖の機能を逸脱した恐怖。サザンカに聞いてはいたが哀れなもんだ。

 ナイフを取り出そうとしたが、それよりも前に潰れ蜂の顔面は飛び散った。振り向くとメガネ野郎が人差し指を銃のように構えている。末節骨を弾丸にし、発射したようだ。黄泉帰りにしては回復が早い。これまで見せた能力から察するに、こいつは掌を武器にするスタイルのようだ。遅れて立ち上がったプラクタと共に、俺の前に立たせ、蜂の胎道を進み始める。

 途中に現れる蜂は全員が肉体を大きく損傷しており、のたのたと出口を目指して這いずることしかできなかった。四肢が完全に失われ身動きがとれないような状態であっても、床に溜まったヘドロのような液に溺れながら、奴らは蠕動し、恐怖から逃れようとしていた。プラクタもメガネ野郎も、何人目かで殺すのは止めていた。

 これならばてめぇを連れてきた意味はなかったなと俺が言うと、メガネ野郎は結果論ですと真面目くさった様子で返した。むしろ、プラクタも合わせてここからでも追い返した方がいいかもしれない。恐怖の転写に抵抗できるのは俺だけなのだ。しかし、その思案が遅かったことに俺は気がついた。メガネ野郎とプラクタは2人そろって、裂けるほどに瞼を開き、パクパクと口を開閉していた。

 エンジンを空ぶかしするように、呼気が漏れ、それは恥も外聞もない悲鳴と絶叫の前触れだった。外面に貼りついていた軽薄な態度も冷徹な眼光もあっという間に消し飛び、プラクタとメガネ野郎は、叫び、漏らし、反吐を吐き、バラバタと大騒ぎしながら走り出し、壁に激突し、転び、自分の肉体を削り落として泣きわめいた。こいつらに対する情も共感もないが、だがその見苦しさに俺は少しいたたまれない気分になる。

「ネクロ」

 生暖かい闇の向こうから、甘ったるく不満げな黄色が滲んだ。

「ネクロ」

 粘性の液にずぶずぶと足をとられ、苦労しながら、彼女は歩いてくる。裾をぬらさないようにと薄布のドレスを持ち上げているが、蜂たちの絞り出された体液の中で眠っていた彼女は既に全身が血みどろであり、その行為にほとんど意味はない。気が強く、意地っ張りだが、どこか間が抜けている。いつも通りの彼女の質感に、俺はたまらなく嬉しくなり、笑ってしまう。

「殺しにきたぞ、キイロ」

「ひどいってば。無茶苦茶だよこんなの」

「悪かった。ゲームはお前の勝ちで終わりでいい」

「大体さあ、彼女んちに遊びにくるのに他の女の子連れてくる時点で、ゲームとかそんなんじゃないじゃんさ。反則だよ、あらゆる意味で」

「浮気という奴か。俺にはわからない。嫉妬というものはよく理解ができない」

「嫉妬かあ。それもやっぱり恐怖だよぅ。奪われるんじゃないかってのが怖い。自分が一番ではないんじゃないかって怖くなるんだって。恐怖って言うのは、たぶんどれも足元の床が急に消えることなんだ。わかってても嫌なんだよ、みんな」

「それなら、俺に転写して嫉妬を教えてくれないか」

 キイロは俺の申し出に、驚いたように目を丸くし、そして顔を赤くした。血濡れの掌で顔を覆い、ごしごしとこすり、絞り出すような小さな声で何かを言った。聞こえない。聞こえなくても俺にはわかるが、キイロは偶にわからない。そのわからないところが彼女の魅力であり、かわいいところだと思っている。

「キイロ、何だ」

「……やだって言ったの」

 突然の後頭部が砕けるほどの衝撃に、俺はつんのめった。獣のような暴力は俺を床に押し倒し、精細さの欠片もなく液をはね散らかして殴りつけてくる。プラクタだった。飛び出るほどに見開かれた瞼からは血と涙が流れ、完全につぶれた鼻を濡らして鼻汁と混ざり合っている。クソが。やっぱり連れてくるんじゃなかった。あれだけ望んだ必死の味はどうだ? てめぇみたいな奴はその養殖もので満足するべきなんだ。ガキみたいに悲鳴をあげやがって。さっきの一撃はジェットガスを推進力にした肘打ちか?

「転写する恐怖の質を変えたんだよ。逃げ出すだけじゃない。怖くて怖くて目の前のそれにいなくなって欲しくて、理性のタガを外しちゃう。そういうのもあるんだよ。ドキドキしてついむちゃくちゃしたくなっちゃうってこと。ネクロにはないか。ないよね。わからないよ、どうせ。……フン、愛とか言っちゃってる癖してさ」

 プラクタを腹筋で跳ね上げ、ナイフで喉笛を引きちぎる。ずぶりとひっくり返った奴は、回復すら待たず千切れた首をぶら下げたまま、俺の足首に絡みつく。踏む、踏む、踏む。上半身がぐずぐずに崩れても奴は動き続ける。そうこうしてる内に、もう1人の方もこちらに向かってくる。メガネはどこで落したんだメガネ野郎。スマートさを失くした奴の攻撃は速さこそ据え置きだが、情けないほどに単純で、簡単に避けることができる。橋でやられた憂さ晴らしをしてやろうと俺はナイフを振りかぶるが、それより先に奴の顔面は爆発して砕け散った。

「おーすごい。自爆したよ。意味ないけどね」

 キイロの言う通りだった。黄泉帰りであるにも関わらず奴は起き上がり、プラクタとおそろいの首無し状態で襲いかかってくる。

「おい、キイロ。これはどういう仕組みだ」

「わたしもよくわかんないんだけどさ、起き上がりってあれじゃん。魂が自分のボディに固定されているから、本当は肉体の行動の結果の魂なんだけれど、それが、えーっと、なくならないから、理由と結果がぐるんして肉体が治るんでしょ。わたしはその魂を恐怖で操作できるから、あー、黄泉帰りだとしても、魂を無理矢理そこにぎゅーっと押さえつけることができるっていうか……回復はできないけど、魂が留まっているから動けるというか。まぁ、感覚だよね。普段のハイヴならやらないよ。これはハードモード」

「ゲームは終わりだと言っただろう」

「知らないよそんなの。ネクロはそうかもしんないけど、わたしはまだやだもん」

「嫌だろうが、こんなものは簡単にクリアできる」

 メガネ野郎の胸倉をつかみ上げ、壁に叩き付け、ナイフで切り刻む。なまくらな愛。腕と脚。こすりつけるように皮を千切り、肉を轢き、骨を断つ。頭部と四肢を失い、しかし回復することもなく、それでもメガネ野郎はうねうねと胴だけで身もだえしている。立派な奴隷根性だ。さっきてめぇが俺を襲った理由はなんだ? それも市民の安心と健康のためだってのか? くだらねぇ。概念が薄い。定義が弱い。だから恐怖程度に乗っ取られるんだ。恐怖は内包されるべきもので、優先されるものじゃないってのに。

「楽勝だ。ハイヴの恐ろしさは狭い空間と数の暴力のかけあわせだ。こんなところで2人ぽっちが襲ってきたところで、ただ恐怖で我を忘れたデクでしかない。メガネ野郎もプラクタも厄介な奴だが、ちびってるならただの雑魚だ」

 恐怖はただそれだけだ。背景がない。物語がない。発露した時点で本来ありえたそれらは全部、小さな情報量に折りたたまれる。

「……ネクロは、わたしが単純だって言うの」

「そんなわけないだろう。お前は俺を愛しているんだから」

「そんなこと言ってないよ。嘘やめろ」

「お前が俺を裏切ったのも、その意地っ張りが原因だったな」

「うるさい!」

 脳髄が沸騰するような、股間が穴に落ち込んだような痺れ。俺は遅れて、キイロの恐怖が転写されたのだと気がつく。強烈な焦燥が呼び起こす胸の鼓動と、自分の体が自分の体という檻に縛られて追いつけないじれったさと、全てを忘れてしまうほどの苛立ち。ドキドキと、モジモジと、イライラだったか。やはりそれは何のこともなかった。こんなものはいつも通りだ。写し取られるまでもない。電波塔に比べたらよほどマシだ。

「なんでよ、ネクロ! なんで、あんたはそうなのよ! いっつもわかったような顔して! ふざけやがって! ふざけやがって! 悔しい! 許せない!」

 キイロが叫ぶ。愛に内包される恋、そしてその恋に内包される、ほんのささやかな情動。この街の奴らは何もわかっちゃいない。キイロはこんなにも愛らしく、恐怖以上であるのに。ほんのわずか転写されただけで、わかったように怯えやがって。抑えきれぬ微笑みで顔筋を引きつらせながら、俺は縋りつくプラクタを引きずり前に出る。キイロは恐怖したように後ずさり、そして、自分のその行動に気がつき、自分のその情動に気がつき、く、く、く、と服を握りしめ、ますます顔を赤くする。

「キイロ」

「……まだよ! 数の力って言ったよね!」

 破裂するような轟音と共に周囲の壁が崩れ落ち、オイルと海水と血の怒涛が襲いくる。潰れ擦り切れペースト状になった肉の山に染み、びくびくとした声にもならぬ悲鳴と絶叫をあげてなだれ込んでくる。それはハイヴの全てであり、キイロの恐怖の全てであり、彼女の魂のほんのひとかけらだった。逃げたように見えた蜂も再び囚われるために戻ってきたのだと直感的に理解した。ボタンに脳を抱きしめさせ、ハイヴの社員が2,130人であることを思い出す。プラクタとメガネ野郎、あと恐らく巻き込まれているだろうヒパティとカットもあわせて、2134人か。

 肉の土砂崩れはキイロ本人を避けて、俺に向けて押し寄せてくる。しかし、この最下層のスペースは小さい。奴らの死骸でここはすぐに埋まり、キイロごと全てを殺しつくして終わるだろう。それがキイロの狙いなのだ。俺に殺される前に、自分ごと俺を殺すつもりなのだ。彼女は起き上がりでも黄泉帰りでもない化け戻りであり、死を経過することでどう変質するかはわからない。より厄介な存在になるのか、肉体のない魂だけの何かになるのか。死別はなくとも、ゲームの難易度が上がることは目に見えている。ここで殺さなければならない。わかってはいたが圧倒的な質量に対して俺は抵抗する術を持っていなかった。肉を裂き、殴り、蹴り、やはりそれは追いつかない。

「アハハハ! ネクロ、どうだ、わたしの勝ちだぞ! ざまみろ! バカ!」

「ああ、お前の勝ちだと最初に言った」

 そして、抵抗する術がないことも追いつかないこともわかっていた。だから俺は諦める。妥協する。必死であることをやめる。本物の行動とは愛に根差したものであり、ゆえに俺は必死なのだとプラクタには言った。だから、奴はそれを羨んだ。奴は間違っている。必死であること、本物であることは、副次的な産物にすぎない。それは愛の条件ではない。それらの概念は薄く、定義は弱く、内包されるものに過ぎない。どうでもいいことなのだ。軸を据える場所はそこではないのだ。

「なに! なんだよ、こんな、どうして……」

 動きが鈍りはじめた肉の雪崩れを見上げ、キイロは困惑で眉を顰めた。そして、俺が何をしているのかに気がついて青くなった。顔色のよく変わる奴だ。

「ネクロ、そんな、ネクロ。好きでもない相手なのに。嘘だよそんなの。なんでそうまでして。最悪だよ……」

 俺は、プラクタを、メガネ野郎を、蜂たちを殺し、女たちにそうするように迎え入れていた。サザンカが提示した第2案。まったくもってろくでもない。それは吐き気を催す行為だった。タキビの方がいいアイデアを出すという自己評価には全面的にうなずきたい。肉ではない、魂を引きちぎられるほどの苦痛。恐怖どころの騒ぎではないアレルギー反応。だが、構わない。構わないのだ。それらも全て、愛の下の概念であり定義だ。そして思っていたよりも悪くない。このクズ共に興味はないが、その魂には今、キイロの一部が転写されている。これだったら、やり切れる。愛し切れる。

「ネクロ! やめなよ! 死んじゃうよ!」

「死ぬわけ……ないだろう……俺は……〈死なずのネクロ〉だ……!」

 肉を飲み込む。血を咀嚼する。街の連中が勝手につけたくだらない名前だがそれも受け入れる。妥協する。揺らがせる。俺の肉と魂の関係性はもう既にむちゃくちゃだった。概念は破綻していた。定まり切らない定義からはみ出るように、俺の化け戻りとしての力も中途半端で、事前にグンジとサザンカが予想した通り、それは人のサイズにまとまらない。食えば食うだけ、迎え入れれば迎え入れるだけ俺の肉体は肥大化してゆく。あの電波塔の記憶をはるかに超える不快感があり、しかしそれすらも受けいれられるほど、そこにまぶされたキイロの魂は愛らしくかわいい。だから。俺の声が届く内に。届かずともわかるのだとしても。

「キイロ、お前は俺を裏切った」

 キイロが腰を抜かし、尻を床につけた。その顔は嬉し気で、恐怖と、そこに接続された何かを噛みしめている。その期待に応じるべく、俺はうずまくように肉の塊から肉の塊を引きずり出し、ナイフに似た何かを作り出す。何千歯を備えた長物は今までになく強く強く震えており、俺はかつてそれを悦びだと解釈したが、それはもしかすると恐怖からの震えなのかもしれず、しかし定義も概念も崩壊した今、それは全てに優先し俺の自我を今もなおぶらさげている愛でしかない。

 つまり、充分だった。

「ネクロ」

 自分の胸を刺し貫いたナイフを見て、キイロは震え、笑い、そしてそれを優しく抱きしめた。回転する歯がその指を切り飛ばし、内臓を引きずり出し、彼女を俺に混ぜてゆく。

「ネクロ、わたしは」

 俺は恐怖ごと、魂ごと、ナイフごと彼女を強く抱きしめる。群がる蜂たちがそれを祝福するように、蜂の羽音のように、恐怖で震え、俺と一体となってゆく。彼女はそれが悔しくてたまらないようで、とびっきりの歯をみせて笑い、俺を睨みつけ、噛みついた。

「ネクロ、わたしはあんたが嫌い。だいきっらい!」

 俺は返さず、キイロを殺す。そんなことは、死ぬより前から知っている。


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【エピローグ】

 ハイヴの全てを迎え入れ、ネクロが立ち上がったのは、その3時間後のことだった。傍らに立つユビキを見て、依然、サイズ差が合わないことを理解しながらも、2人は先ほど約束した行為を果たした。約束のための約束を果たした。

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 サザンカはタキビとの話を中断し、その様子をラジオを通じて見ていた。タキビは愛すべき妹だが、自分の恋愛に対しやはり理解を示してはくれなかった。母親の血を継いだのだろう。しかし彼女は自分の人生は自分のものだと考える。自分は誰よりもネクロを愛している自信があったし、そのためにはネクロのために何でもしてやろうと考えていた。たとえそれが他の女を迎え入れる手伝いであっても。たとえそれがこの街に住む全員を皆殺しにする算段であっても。それに、ユビキは嫌いじゃない。彼女の力にもなってやりたい。〈全てのサザンカ〉は、自らに接続された市内のラジオ・ケーブル・ネットワークを1本を除いて全て手放し、その残った1本を使ってグンジに連絡をとった。

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 バレエは遠く離れた「島」の上からネクロとユビキの様子を見て、涙もろい彼女らしく目を潤ませていた。彼女は嬉しかった。キイロもユビキも大好きだ。彼女にとって、他人の恋路も自分の恋路と同じく大切だった。しかし、それを良しとしないひねくれ者がいることも彼女は知っていた。だから彼女はネクロを手伝うことにした。背中から巨大な翼を生やし「島」を蹴る。「島」は彼女が海を埋め立てて作ったものだ。材料になったのは何億羽ものリョコウバトの死骸だった。それは創りだされた時点で最初から死んでいた。〈生命いのちのバレエ〉。しかし、そのその名に反するように、彼女は肉しか創りだすことができなかった。ただし、彼女は人間以外の全ての肉を創ることができた。ハトも、ウシも、ヘビも、クジラも。いくらでも。どれだけでも。無限の量を。この星を埋め尽くせるほどに。しかしそれも、今、ネクロを目指して飛ぶ彼女の博愛に比べたら、ほんのささやかなものでしかなかった。

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 衛星軌道上でネクロとユビキの逢瀬をにやにやと覗いていたアイサは、サザンカたちが始めたことと、バレエが飛びたったことを感知して、ついには声をあげて笑いだした。なるほど、なるほど。そうまで言うなら邪魔してやろう。お前たちの恋愛を、一切合切なんもかんもめちゃくちゃに全部の全部台無しにしてやろう。彼女は悪い人間ではなかったが、喧嘩っ早いひねくれ者であり、犯罪者たちの中でもある意味「主犯」の1人だった。臓腐市の外に広がる果てなき荒野。池は干上がり、草は枯れ、人という人、生命という生命が殺しつくされたその全てが彼女の犯行だった。旧世紀のあらゆる国家の抵抗は、特殊な起き上がりである彼女の血肉となった。彼女は全ての兵器であり、全ての軍隊であり、全ての鉄と火だった。あまりも直接的にその名前の通りに〈皆殺しのアイサ〉は自らの肉体を15,200発の核弾頭に変え、臓腐市めがけて落下していった。愛する男の恋路を邪魔するべく。嫉妬ではなく、心底の悪ふざけによるもので。

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 グンジはネクロとユビキの様子を見てはいなかったが、サザンカの連絡を受けて、今それが果たされたのだとということを知った。彼女は即座に自身の魂を数億個に分割し、臓腐市全体に散布した。まだ、市民は死んでいない。とり憑かせることはできない。しかしそれも時間の問題だった。サザンカから手渡された1本のケーブルは、今、市内の全てのラジオに繋がっていた。彼女は迷いなく語りかける。全土に散らばった女米木めめぎ生研の製品にむけて、臓腐市に暮らすありとあらゆる不死者にむけて、殺し合い、自殺するよう命令をする。そうして隙間の空いた肉体を自分の魂で黄泉帰らせるために。キイロの転写体のようにネクロが全市民を迎え入れやすくなるように。彼の背丈をユビキに合わせるために。愛した男をまた愛せるように。永遠に続く生を得るために。〈腑分けのグンジ〉の号令により、臓腐市は殺意に塗りつぶされた。

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「ネクロ、キイロさんを殺せたんだね。おめでとう」

「ありがとうユビキ。次はお前の番だ」

「嬉しい。嬉しいよ。でも、本当に? 私はこんなに大きいのに」

「グンジとサザンカの力を借りた。今からこの市をぐるっとまわって、背丈をそろえて帰ってくる。ここで待っていてくれ」

「そんなことができるの。本当にできるの」

「ああ、約束だ」

「わかった、約束ね」

 2人は気持ちを交わし、約束を果たす。サイズの合わない小指を絡ませ、指切りをする。それはもちろん、次の約束のための行為であり、その内容はネクロがユビキを殺すというものだった。

 次回、怪獣大戦争。


【NECRO1:みんなで蜂退治】終わり
NECRO2136:指切りげんまん】に続く