【忍殺】ニンジャスレイヤーと私
物語的に明白な関係性を、登場人物が言語化しようとする恋愛漫画が好きです。エモーショナルな盛り上がりが最高点を越えてなお、「果たしてそれは本当なのか?」「何に由来する感情なのか?」「この関係性はいかなるもののか?」と、一度立ち止まりすっと温度を下げてみせるその振る舞いが好きです。言葉にするという行為は、ある種、生のままの体験というリアルから、本質も含めて多くのものを切り捨て、単純化による自己催眠を試みる行為でもありますが、それでもそれを試みようとすることは、完成し得ないパズルのピースを祈るようにはめてゆくような趣があって、心地よく思います。それがたとえ本質からずれるバイアスであろうとも、ずれた焦点の先で今まで見えていなかったものの輪郭が定まることもあるでしょう。
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ニンジャスレイヤーが十周年という節目を迎えるにあたって、何かしら自分にしか書けないテキストを書きたいなと思いました。今のところ三本考えてます。一本目は既に書いていて、未読者向けのエピソード紹介記事はあっても「未読者向けのエピソードを選出すること」自体を取り扱った記事は前例が少ないのではないか?という発想に基づくものでした。また、これに引き継ぐ形として、(かなり変則的な方針になるので、紹介するエピは違いますが)実際に忍殺未読者に向けたエピソード紹介記事をお盆休暇を利用して書いてみようと考えてます。最後の一本として考えていたのが(時系列的には二本目になるけど)、この記事……自分とニンジャスレイヤーという小説の関わり合い方について言葉にしてみるというもので。最初は「ニンジャスレイヤーのある生活」という記事名で準備していたのですが、内容を思案する内に、そういった普遍的なタイトルはふさわしくないと判断しました。同じ理由で、この記事や、この記事をリンクしたツイートからはnjslyrタグ、dhtpostタグは外してあります。ほぼ完全に自分のために、自分にむけて言葉のピースをはめてゆくプライベートなテキストであって、内容も散文的で、まとまりもゆるいものになる予定(ここまで1000文字程度実際に書いてみた感触からして、たぶん、この方針のまま最後までいくと思う)。表に出すこと自体が奥ゆかしくないし、このテキストに対して本来求める機能を著しく損なうことに繋がるのではという気がしなくもないけど……。
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一時期、気の狂ったように忙しい時期がありまして。午前一時やらに退社して、翌日も定時出勤では到底追いつかないので朝の六時くらいには職場に出る、家に帰る体力すらないので職場のシャワーで入浴を済ませ、コンビニで翌日用の肌着だけを買って、使用済みの下着とおにぎりの袋が体積した駐車場の車の中で就寝するみたいな。まあ、当然の帰結として肉体をぶっ壊したわけなんですが、こういう生活をしていると何がつらいかって、娯楽のための体力が残らないことがつらいんですね。ゲームをしようにも画面の発光がキツくて開く気にならないし、小説は言うまでもない。当時、記事にもしているのですが、そんな中で特にありがたかったのが、定期的・持続的・強制的にコンテンツを発信し続けてくれる電子版ジャンプとニンジャスレイヤーでした。こちらの自主性など一切の考慮なく、無慈悲に詰みあがってゆくエピソード群の前では、体力などぐだぐだ考慮している暇もなく、「今の隙に読んでおかなければ」と、わずかな時間をぬって、給水するようにスマホを開いていました。
この経験を指して「ニンジャスレイヤーが自分を救ってくれた」なんて大げさなことを言う気はまったくないです。そこまで言ってしまうと、正直、気色が悪いし……。仮にニンジャスレイヤーがなかったとしても、自分はなにかしら別の娯楽を見つけていただろうし、実際、忍殺の他にもジャンプという生命線はあったわけで。しかし、それでも、忍殺の連載がありがたかったのは間違いない事実です。エンターテイメントって、なんかもうインフラじゃないですか。自分を自分の輪郭に留めてくれている、内圧であり外圧であるというか。なければ困る。自分が立ち行かなくなる。そんな領域にまで達しているものじゃないかなあ。いや、別にそんなこともないよって人もいるかと思うんですが、少なくとも自分はそういう風に自分を形成してきました。確か、ラストガール・スタンディングのスーサイドのくだりで、似たような記述があった気がします。調べたらありました。これ。
これを無理矢理にでも注ぎ込んでくれる忍殺の連載形態は、追う側からすると、必要のない「義務感」をもたらすものにも転化しうるのかもしれませんけれど、それでも、義務感でもなんでもいいから、エンターテイメントを摂取する口実をつけてくれるのは、へなちょこ体力意志薄弱マンとしては大変助かる。食わなきゃ死にますからね。「おもしろい」「おもしろくない」の尺度以前に、とりあえず、エンタメ成分を肉体を入れることが大事。現状は、一口サイズのスレイトがあるのがいいですね。本編を追う体力すらない時には、あれはとてもいいエンタメの栄養補給サプリになるんじゃないでしょうか。私は、幸いにして、今はそこそこ楽ちんな生活をしており、実践する機会はないのですが。しかしこれだけのおもしろさを誇るコンテンツが、おもしろさを損なわないままに、週に数度という異常な頻度を落とすことのないまま、十年継続し続けていることは本当に贅沢の極みだし、同じ時代に居合わせて幸運だったし、ありがたいことだなと思います。水道やガスの整備された時代でよかった~スーパーで食事を買える時代でよかった~忍殺の連載されている時代でよかった~とそんな感じです。
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忍殺に関わるできごとで印象深かったことと言えば、やはり、シヨンでしょうか。当時はまだ実況用アカも作っておらず、プライベートな友人としか語り合うことはなかったのですが……あれは本当に衝撃でした。おもしろかった。本当におもしろかった。私はTVアニメという媒体を楽しむ才能に大きく欠けた人間で、小説・漫画以上に楽しめたTVアニメというものは片手で数えるくらいしかないのですが、そんな私が、毎週、PCにかじりつくように観ていた記憶があります。非常に尖った作風であって、好き嫌いの大きく別れる作りではあるのですが、それが偶然、私にはぶっ刺さっていたんでしょうね。運がよかった。30分/週というペース配分が非常に苦手な自分にとって、あの短さも大変ありがたかった。事前のイメージポスターに対して、実際にお出しされるものがあれなのはひどいじゃないか、それなら最初からそう言ってくれ……という至極もっともな意見もよく見るのですが、私にとってその理屈は真逆に働いていて「事前のイメージポスターで期待していたものよりも、はるかにいいものを不意打ちで出された」だったんです。ラッキーでした。
で、個人的にとても嬉しかったのが、シヨン公開から第三部最終章にかけて、ニンジャスレイヤーの展開(と、シヨン)に対して、否定的な意見・評価も散見されたことでした。もちろん、運用ルール上禁止されているタグ上での奥ゆかしくない行為や、見るに堪えない感情的な内容のもの、作品内容についてではなく作者や各々の感想者の懐に手をつっこむ無遠慮な分析はファックサインなのですが、そういう一部のすくたれものを除けば、多くの人間が冷静かつ明瞭に「自分がなぜこれをつまらなく思うのか」「許せなく思うのか」「悲しく感じるのか」を言葉に翻訳してくれており、これが大変興味深かった。というのも、私は、テキスト媒体の作品は、おおむね何でもおもしろく読めてしまう人間だからです(しつこいようですが、シヨンが楽しめたのは偶然です)。これは「作品の長所を読み解く能力に優れている」などというような長所ではなく、読むからには絶対に楽しみたいというしみったれた根性に基づき、長年自分をキャリブレートし続けた結果です。
私はフィクション作品に対して客観的な評価判定をくだすことへの興味が薄く、とにかく今この瞬間が楽しくあって欲しいタイプであり、バイアスでも誤読でもなんでもいいので、おもしろく読めればそれでいいという無節操な姿勢の持ち主です(当然、例外はありますが)。ついでに言うなら、自分さえおもしろければそれでいいと思っています。忍殺という小説の品質の高さを考慮するならば、今の読者数・売上数は全く見合っていないのですが(誇張なく今の百倍いてもしかるべき内容だと思う)、それを口惜しく思うとかそういうことも特になく、まあ、私が読んでいるんだからそれでいいよねという感じです。この身勝手で自家中毒的なスタンスは常にアガり続けることができて気持ちが良いのですが、やはりどうしても自由とは言えず、「自分からは絶対に出てこない感想」というものを、人並み以上に抱えることになります。なんで「これはつまらない」という感想が、非常にありがたいんですね。「おもしろい」ことは私が十二分に知っているし感じているんで……。無論、自分が読み取れていない「おもしろさ」だって数え切れないほどあることは間違いないし、そういった感想もたくさんたくさんTLからは摂取させて頂いているのですが、これはまあ、栄養バランス的な話です。なので、AOM以降、この賛否両論傾向がある程度落ち着いてしまったのは少し寂しく感じているんですよ。探したらまだあるのかな。
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自分の忍殺遍歴をまとめると、ニンジャスレイヤーを初めて読んだのが物理書籍第一巻(2012年)、twitter上で連載を追い始めたのは「デス・トラップ、スーサイド・ラップ」(2013年)、そして実況に参加し始めたのはAOMシーズン1頃の2017年となります。自分でまとめていても思いますけど、実況に踏み出すまでえらく間がありますね。これには明確な理由があって、単純に実況行為に興味がなかったからです。他人の感想を読むのは大好物なので、njslyrタグに放流されている実況の様子はよく読んでいましたが、まあ、別に自分からリアルタイムに発信しなくてもいいよね、感想ならば物理書籍が出るごとに読書メーターに書くし、みたいな。そもそも、読書をする際にあたって、最初のファーストインプレッションは言葉ではなく体験でありたい(いきなり言語化して解像度を落としたくない)という嗜好の持ち主であり、ファン・コミュニティ活動や二次創作、見知らぬ人と一緒になってワオワオすることにほとんど興味がない性質(たち)なのです。
……興味がないというか、ぶっちゃけ意図的に避ける節すら見受けられます。そういった分析を踏まえて、自分のツイートをざっと見すると、こいつヘッズスラング露骨に使ってねえし、ニンジャを呼ぶときかたくなに=サン付けしてねえな、と少し笑ってしまいました。この性分は、実況に参加するようになった現在も全く変わっていませんし、実を言うと「ヘッズ」というくくりに入れられて、それを自称するのは未だ若干の抵抗を覚えるというのが正直なところかも。オールドスタイルな小説と読者の距離感に固執しているのかもしれませんね。まー、そういった「入れ込みすぎない」姿勢みたいなのは、twitterとnoteのアカウントを実況用に特化させ、ニンジャスレイヤー以外のプライベートをほぼ発信しないようにしているところにも表れているでしょう。数年使い込んだ結果、近頃はなし崩し的になっており(特にnoteよ)、推理小説の話とか胎界主の話とかもしてしまっていますが、それでもtwitterの方ではどんな話題も忍殺に絡めようとしているあたり、ちょっと気恥ずかしいまでのかたくなさを感じられます。
当然、そんな人間が実況に参加し始めたのにもやはり理由がありまして、早い話が、ロンゲスト~ネヴァーダイズ当たりの連載手法、そしてAOM開幕後のプラス展開に感動したからです。ニンジャスレイヤーは凄まじい小説です。奇跡と言っていいかもしれません。「十年間、ずっと最新話が一番おもしろくあり続ける」をほぼ成功させていることもそうですが、何より、フィクションの発表手法として、新しいものにチャレンジし続け、効果をあげ続けているその体力がとんでもない。私は自我のほとんどを京極夏彦・森博嗣・舞城王太郎作品で構築した血中に講談社ノベルスが流れている編向者であり、おおよそのテキストをこの三者に翻訳をかけて読み解いている馬鹿者なので、忍殺の内容それ自体に新しく蒙(もう)を啓(ひら)かれたということはほぼないです(ここ五年の例外は飛鳥部勝則と胎界主と円城塔くらいでしょうか)。しかし、小説というやり口の上での新しさと実際にあがる効果の相乗性という点で語るなら……私の知る限り、テキスト作品において忍殺を越えるものは一つもありません。筒井康隆よりも上だと思います。で、思ったんですね。それほどまでに新しいことを挑戦してきたほんやくチームが、十年間手を入れることなくずっと使用し続けている「小説のタグ実況」という手法がおもしろくないわけないだろう、と。とんでもないごちそうを自分は見逃しているのではないか、と。その結果は、現在も私が実況行為を続けているという事実からも明らかでしょう。そして今のところ、その姿勢は、次の十年も特に変える予定はありません。