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ゴースト・ストーリーを巡る冒険

「彼女の世界は、内面も外面も混沌としていて、見ているぶんには面白いんですけど、だからこそ時々、作り物の世界で、論理の筋道をつけたくなるらしいんです。本格推理なら、個人の力で世界に決着が付けられます。」

『黒と愛』、飛鳥部勝則、早川書房、p.188

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 飛鳥部勝則が著した『殉教カテリナ車輪』という小説を私が最初に手に取ったのは、2017年のことだった。しばらく間を空けて、2019年に私はその本を読み直し、そこからおよそ2年に渡るゴースト・ストーリーを巡る冒険が始まった。

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 刊行順に読むことがおもしろい作家がいる。その作家自身が抱えた、その作家だけのテーマが、時系列順に深化され、寄り道をし、時には失敗をする……その試行錯誤と苦悩の道程が、記された物語に匹敵する輝きを帯びる小説群がある。自分にとって、飛鳥部勝則の13冊の長編は、まさにそういった本だった。

 13冊に共通する特徴は幾つかある。ソフトフォーカスのかかった黒髪の美少女。美術を中心とした創作行為への拘泥。生黒くタールのように煮詰まった背徳的な感情が、小説の隅々までどくどくと脈打ち行きわたっているアングラ感。そしてなにより、『本格推理小説』というジャンルに対する、底抜けの妄執。『本格推理小説』に向けられた憎悪や殺意にも似た黒い愛は、決してそれ自体をまっすぐに書くことはなく、ねじくれた、ひねくれたミステリを幾つも完成させることになる。原典の周囲を廻り続ける衛星のように、しかしほんの少しずつにじりよる螺旋を描いて、13冊の小説は並べることができる。

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 作者のインタビューを私は読んだことはない。正確さを持って、その執筆経緯を研究したわけでもない。だからこれは、13冊の本を順に読み、そうして生まれた架空の文脈が私の中で結んだ虚像に過ぎない。それはおそらく、幽霊に似ている。

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1冊目~3冊目:幽霊の命名

 1冊目『殉教カテリナ車輪』を初めて読んだとき、私は図像学と探偵的手続きを重ねるチャレンジだと受け取った。絵描きの死の真相を、推理小説が用いる通常の謎解きの他、絵を読み解く図像学からも行い、その2軸をオーバーラップさせてゆく……ほんのちょっとトリッキーな、文体の倒錯度がやや高い「普通におもしろい」ミステリ作品だと思った。

 ただこの時点で既に違和感はあった。「絵描きの物語」は、本格推理小説とは関係がない。図像学と違って、探偵的手続きで真相を追う必然性がない。絵描きの物語が、推理小説に取り憑かれた部外者に汚染され、書き換えられ、読者と作者の間で交わされる謎解き玩具となり果てている。それは誰によって? 何のために? 執着の気配だけが、陽炎のように輪郭を揺らし、正体不明のまま、確かな熱を発している。

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 2冊目『バベル消滅』は、絵描きの物語から少し離れ、熱源の方向に少しににじり寄った作品だった。本格推理小説とは何なのか。それは何故、語られ、書かれなければならなかったのか。偶然の連なりに必然の幻想を見る思考……それを言葉にして発することで主観的な世界の改変を、バベルの生成になぞらえて語る小説が本作だった。

 しかし、そこにすら本格推理小説は紛れ込んでしまう。「読者を騙し、謎を解く」というプロセスが、そのプロセスを説明するテキストにも紛れ込み、説明という本来の目的が正常に機能しなくなる。本格推理的な「騙し」という意図の混入により、大前提であるべき偶然性が喪失し、稼働しなくなるというプログラムのミス。本格推理小説は『本格推理小説』すらも害し、そうして小説は再び、謎解き玩具に堕した。それは誰によって? 何のために? 自問自答は再び堂々巡りし、「小説が、本格推理小説になってしまうこと」は13冊を貫く大きな命題となる。そして。

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「幽霊は幽霊でも、《本格推理の幽霊》……についての話なんです」

『N・Aの扉』、飛鳥部勝則、早川書房、p.44

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 そして、3冊目『N・Aの扉』。13冊に渡るその命題に、《本格推理の幽霊》という名前が付けられた。「これまでの全てはこのためにあった」と思えるような決定的な一冊がこの世にはあり、これはまさしくそういう本だった。飛鳥部勝則という作家の異形性に私が初めて気が付くことができたのも、この小説を読んだ時だった。ここまで描写されていた正体のわからない妄執に、初めて名前が与えられ、問題文が書き起こされた。言葉にすることで、焦点が合う。わからないことがわかるようにはならずとも、一体、何がわからないのかを整理することが可能となる。そして、それはもう逃げられなくなったことも意味する。幽霊が、見えてしまったのだから。

 《本格推理の幽霊》が取り憑くことで、小説は、本格推理小説になる。 「ゴースト・ストーリーを語ろう。」という本作の書き出しは、この冒険がようやくスタートラインに立ったことを意味していると私は思う。小説と探偵の堂々巡りは、魔法陣を描きその先へと通じる扉を開いた。そこから飛び出してきたものは、ゴースト・ストーリーであり、本格推理小説ではない。扉の先には全てが含まれる。枯れ尾花を見つけ出すことだけでなく、幽霊に囚われ破滅することも。ただ、とりあえず、次の3冊は、幽霊画が真正面から健全に描かれることになる。少なくともまだ、この時点では。

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4冊目~6冊目:幽霊の創作

 4冊目『砂漠の薔薇』と、5冊目『冬のスフィンクス』は、明確な自覚の元に書かれた作品だと私は感じている。「自分は幽霊に取り憑かれていたのだ」という気付きが、「だったら、その幽霊のことを書こう」という目的に、純粋に結びついている。1~3冊目で見られた、茫洋とした不安の中を手探りで歩き回るような異様さも、すねた子供がそれでもちらちら名探偵の立ち姿に目をやってしまうねじくれた素振りもそこにはなく、まっすぐな小説としてツンと立っている。

 『砂漠の薔薇』を読んだときの、視界の霧が晴れたような感動を私は未だに覚えている。「本格推理小説という呪いに囚われた小説」……あくまで本格推理小説それ自体でなかったはずの飛鳥部作品が、ついに「本格推理小説を題材にした本格推理小説」をやっているという驚き。自己言及的な内容である以上、それはまだスタンドアローンな「本格推理小説」ではないのかもしれないが、それでも謎解きが異物混入したノイズとしてではなく、素朴に謎解きとして描かれていることの爽快感は得難いものがあった。

 『冬のスフィンクス』は、そこから更に角がとれる。《本格推理の幽霊》は、「夢と現実」という題材に翻訳されている。本格推理小説の中で本格推理小説について熱っぽく語る……あえて失礼な書き方をするならばワナビーめいた前かがみの姿勢は緩められ、ゆったりと、余裕をもって、完成された小説がここにはあった。命題考察の進捗は、それ自体をストレートに言葉にすることなく、物語を語ることを通して伝えられる。迷妄を貫く感情の光の苛烈さが、本作の最後には描かれ、それは幽霊に訳し直すこともできる。

 「本格推理小説という呪いに囚われた小説」は、「本格推理小説を題材にした本格推理小説」となり、「別の題材を通じて本格推理小説を語る本格推理小説」に成熟した。つまり、時期が満ちたことになる。1冊目に向き直り、今度は呪いに囚われてではなく、全てをコントロールした上で「絵描きの物語」を本格推理小説の題材にとる時が。

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ヴェロニカ。
私は何を書こうとしているのだろう。

『ヴェロニカの鍵』、飛鳥部勝則、文藝春秋、p.7

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 6冊目『ヴェロニカの鍵』は、挫折した絵描きの物語であり、彼に取り憑いた幽霊の物語だ。その幽霊は、過ぎ去った青春であり、絵を描くことへの執着であり、《本格推理の幽霊》だ。3つの幽霊は継ぎ目なく溶け合い、謎解きは妄執めいて混入するのではなく、この物語に美しく組み込まれている。謎が解かれることで、幽霊が祓われ、青春が終わる。その連動に軋みは一切なく、重なりあう3つのカタルシスは、純度高く共鳴しあい、物語を見事に終わらせる。《本格推理の幽霊》という題材が、不必要な力をこめることなく、あくまで自然に物語の中で機能している……。

 文句なしの傑作だった。

 今思い返しても、13冊の中で最も優れているのが本作だと私は思う。1冊目の語り直し、どころではない。《本格推理の幽霊》という題材において、これ以上の調理は不可能ではないか。そう思えるほどに、本作の完全性は強く、そのコントロール下に飛鳥部作品が秘めた黒い熱や、異形性も収めている。……収めてしまっていた。もうこれ以上がないほどに。ここから語るべきものが何かわからなくなってしまうほどに。開かれた扉は、鍵によって閉じられ、血みどろの苦闘が始まることになる。

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7冊目~10冊目:幽霊の呪縛

 7冊目『バラバの方を』と8冊目『ラミア虐殺』の、無人の荒野でもがき狂うような困惑を、私は偏愛している。《本格推理の幽霊》は未だ変わらず取り憑いている。しかし、書くべきものは最早書けてしまった。では、次に書くものを。次に、何か、あるものを。この2冊は、混沌に満ちている。

 作中の出来事が全て現実のものなのに、『バラバの方を』の異界に足を踏み入れるような読み心地は強烈だった。朦朧とした意識の中で、登場人物たちの殺意と憎悪だけが過剰に高まってゆき、それはあまりにも凄惨な残虐表現となって結実する。本格推理小説という幹から伸びた、ホラーやサスペンスといった枝葉にも手を伸ばし、ぐちゃぐちゃにかき回す。あるいは、幹の皮を焼き、爛れさせ、ベロンと剥いで、その裏になら何かあるはずだと目を凝らす。

 『ラミア虐殺』は、その皮を剥いだ裏側をねぶり尽した作品だった。本格推理小説という枠組みの中で一体どこまでが可能なのかという、思考実験。先に手を伸ばした枝葉を踏まえながらも、幹を切り刻み、どっかりと座りこんで考えこんでいる。結果としてこの作品は、どこか講談社ノベルスっぽさを持った実験的なミステリ作品になっている。仕掛けは突飛なものだが、コンセプトに対するまとまり具合で言うと、実は飛鳥部作品で最もお行儀がいいのではと私は疑っている。

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 本格推理小説以外と、本格推理小説。サイコ殺人鬼のようにその2つをバラバラに切り刻んだ後に、9冊目『レオナルドの沈黙』は書かれた。この本を読んだときの衝撃を、私は忘れることはできない。事件が起きて、謎が生じ、探偵が登場し、謎を解き、どんでん返しがある。本作はそれだけの内容だ。ただの「本格推理小説」だ。

 「本格推理小説という呪いに囚われた小説」でも、「本格推理小説を題材にした本格推理小説」でも、「別の題材を通じて本格推理小説を語る本格推理小説」でもない。本当に、正真正銘の、ただの「本格推理小説」だ。

 ついに、書かれてしまった。ここには恐らく《本格推理小説の幽霊》はいない。幽霊と名付けるまでもなく、そもそもこれが本格推理小説だからだ。呪縛に苛まれる拷問のような道行の中で、ほんの一瞬返った正気の瞬間がこの1冊なのかもしれない。言い換えると、この小説を単独で読んだならば普通の作品でしかない。しかし、普通の作品であることの文脈が、ここまで飛鳥部作品を追ってきた私にとってはあまりにも重すぎる。読み終わった時、ついに祓われたのか、と私は思った。幽霊は、成仏してしまったのかと。しかし。

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推理小説に禁じ手などあるのだろうか。
おそらく、ありはしない。
面白ければそれでいい。

『誰のための綾織』、飛鳥部勝則、原書房、p.3

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 10冊目『誰のための綾織』は、先に引用した挑発的なモノローグから始まる。本作は作中作の形式をとっている。そしてその作品に対し、本格推理小説か否かの問答がなされる。作品に混入した謎解きが、タイトルにある通り「誰のため」なのかと問いかけられる。そこにはもう、『冬のスフィンクス』『ヴェロニカの鍵』で見られた余裕をもった姿勢などなく、本格推理小説で本格推理小説を熱っぽく語る、暗く輝く眼光だけがある。

 誰のためで、何のためなのか。命題は堂々巡りし、再び1冊目の時点まで巻き戻った。本格推理小説の枝葉も幹も切り刻み、ついには「本格推理小説」を書いてもなお、《本格推理小説の幽霊》は、祓い落されることはなかった。その呪縛と、それがもたらす苦悩だけがただそこにあり続け、そして、それを綾織のように編み上げたものがこの作品だと私は思っている。

 幽霊の命名を行った『N・Aの扉』、幽霊の創作に成功した『ヴェロニカの鍵』。そしてそれらに続く、3つめのゴールが『誰のための綾織』だと私は思う。先の2つのように明確な答えが得られたものではない。ここには途中経過しかない。それでも、その幽霊の呪縛そのものを作品として昇華させた本作は、幽霊に名前を付けたように、その呪縛を言葉に変換して発したという意味がある。ゆえに、本作は、13冊に渡る冒険の中で、重要な位置を占めている。冒険は、ここから閉じられてゆく。

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11冊目~13冊目:幽霊の成仏、あるいは

 11冊目『鏡陥穽』は、本格推理小説以外の総決算だ。ゆえに、ホラー作品となっている。謎解き要素も(ほぼ)混入していない。飛鳥部勝則の13冊は、ゴースト・ストーリーではあるけれど、言うまでもなく、そこには様々なものが付随している。幽霊の呪縛に、磁力のようにひかれて集まったそれらは、それだけかき集めてもひとつの小説になりうるだけの蓄積がされていた。

 「鏡に人体を映す」という行為をどこまでも倒錯的に突き詰め、眩暈を起こすほどに艶やかな猟奇と淫猥を高め続け、過剰さを極めた果てに、恐怖とおかしみの境界線が焼き溶ける。暴れ馬のように荒れ狂う、目を覆わんばかりの酸鼻と露悪。その先に、ソフトフォーカスのかかった美少女が、イノセントに立っている。幕切れは、あくまで静かに穏やかに、悲し気に降ろされる。

 異形。酸鼻。露悪。創造。妄執。イノセント。《本格推理小説の幽霊》を切り離したからこそ、本作には飛鳥部勝則という作家のより本質に近い部分が表れているように思う。そしてそれは、裏返すことで、何故、幽霊が取り憑いてしまったのかの理由を描く筆になる。ゆえに、次にはそれが表から描かれることになる。飛鳥部勝則の、本格推理小説の総決算が。

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 12冊目『堕天使拷問刑』。本格推理小説。総決算。《本格推理小説の幽霊》にまつわる小説の、最後のゴール地点。間違いなく、飛鳥部勝則という作家の最高到達点であり、非常に高い評価を受けている作品でもある。

 ここでは全てが昇華されている。ボーイミーツガールへの陶酔、モダンホラーへの憧憬、美術への傾倒、そして、本格推理小説への異常とも言えるほどの執着と絶望と諦念と愛。命名から、創作、そして呪縛に至るまで。全ての過程が凝縮されたインクになり、縒り合わされて紙になり、1冊の本として綴じられている。完全性はおろか、瑕疵すらもここには含まれる。

 最早バカバカしさすら感じるほどにグロテスクが加速した先に待つカタストロフィと、ソフトフォーカスがかかって見えるほどにポエティックな美少女との語らいと。和風のガジェットと西洋の悪魔趣味が節操なくミキサーにかけられた「とある田舎町」の街並みは、1人の小説家/美術家/人間の、愛し憎んだ全てをミキサーにかけてゼラチンで固めたようだ。

 しかし、私はこの作品が好きではない。これは、ゴールだからだ。読書中、これまでの著作の全てが走馬燈のように浮かんでは消えるこの体験に、泣きそうになった。長い長い創作の夢にピリオドが打たれるのを幻視した。私が飛鳥部勝則の作品が好きだったのは、まだその次があったからだ。未完成であるがゆえに、血みどろになっても、未踏に向けて前に進み続ける冒険であったからだ。傑作は既に『ヴェロニカの鍵』で見た。私は、その先が見たかった。冒険が、読みたかった。幽霊は、成仏してしまったのだろうか。

 そして、13冊目。喜ばしいことに、呪わしいことに、その先はまだあった。

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「幽霊が見える人間は、少しずつ狂っていくんじゃないだろうか」

『黒と愛』、飛鳥部勝則、早川書房、p.17

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 13冊目『黒と愛』は、現時点(2022.08.07)において、最後に刊行された飛鳥部勝則の長編作品だ。幽霊が出る噂のある、廃遊園地。嵐の夜に集まった取材クルーの一行は、その怪奇の城の一角で首無し死体を発見する。死。探偵。幽霊。2度目の総決算めいて、本作には飛鳥部勝則という作家の構成要素が多く詰め込まれ、全てにおいて過剰に強調された上で、カタストロフィに向けて突き進んでゆく。しかし、本作が『堕天使拷問刑』と異なっているのは、その全てがたった1人の少女として収斂されてゆくことにある。

 真っ黒なセーラー服を着た美少女、という彼女のデザインには、常にソフトフォーカスがかかっている。しかし、それが物語の進行と共に、描写が過剰さを増すごとに、何度も何度も輪郭が書き重ねられ、線の濃さが増してゆく。本作において、彼女の描写は、執拗に、徹底的に、気が狂ったように重ねられ続け、「ここにいる」「ここに彼女は存在する」という魂の絶叫が、妄執が、読む者の視界をひずませるほどの、力場を生んでいる。それは、己に取り憑いた何かを、小説の中に乗り移らせようとする、熱のようだ。

 扉を開き、鍵を閉め、綾織を編んだ先の、黒と、愛。本作で描かれたものが、成仏だったのか、蘇生だったのか、判別することは難しい。しかし、少なくとも、観念上であったはずのその存在は、示門黒という名前を与えられ、創作され、呪いのように書き重ねられて実在性を持った。幽霊は、最早読者にも見えるものとなり、小説の中の1人のキャラクターとして、そのドラマを完結させることになる。幽霊は、形を持ってしまうと死ぬのだろうか。ゴースト・ストーリーは終わったのだろうか。

 少なくとも、その後で何が残されたのかだけは、この小説の最後に書かれている。


 


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