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【2020忍殺再読】「ナラク・ウィズイン」感想

『ザンマブリンガー:ザンマ・ニンジャ』

 ニンジャスレイヤーAOM、シーズン3、第7話。他者から与えられた借り物の理由を胸に秘め、3人の主人公がナラク・ニンジャを奪いあう。『ニンジャスレイヤー』争奪戦とでも言うべき本作は、かつてフジキドが復讐の果てに至った答えをより1歩先に押し進めたエピソードと言えるのかもしれません。しかし本作は、それを決してメタな思考遊戯、文学的な実験だけに留めることはせず、どこまでも3人のニンジャの思考と行動と交流……つまりは、血肉の通ったカラテとイクサを、真正面から描き尽くす熱気に満ちたものとなっています。タイトルからもわかる通り、これは『ニンジャスレイヤーAOM』というシリーズの1つの極点であり、『ニンジャスレイヤー』という長大なサーガの到達点とでも言うべき記念碑的傑作でした。本作をリアルタイムで追えたことはニンジャヘッズ最大の幸福であったし、あの夜の余熱は今も自分の中に残り続けています。

「ナラク・ウィズイン」の主役は、マスラダ・カイ(アユミ)、アケチ・ジョウゴ(クセツ)、ヘラルド(ケイトー・ニンジャ)の3人であり、お話は彼らを中心に回ってゆくわけですが……しかし、決して外してはならないのが、彼ら『ニンジャスレイヤー』に敵対する名ヴィラン、ザンマ・ニンジャです。これまで語られてきた各々のエピソード群を引き継いで、それぞれの「ニンジャを殺す物語」を見せつける3人の主役に対し、ザンマ・ニンジャはたった1人、しかもこの1話限りの登場のみで「ニンジャスレイヤーという魔を斬る物語」をぶち上げて見せました。その分厚さ、カラテの重みは、我々が10年かけて読んできた『ニンジャスレイヤー』という小説、あるいはロブスター4643年の歴史にも匹敵する凄まじいものであり、「彼ならばニンジャスレイヤーを殺しても構わない」という納得に足るものでした。

 横合いからいきなり登場し、物語を終わらせてしまう道理を殺す理不尽。デウス・エクス・カラテ。本来、ニンジャスレイヤーが担うその役割を、テツバ、さらにはニンジャスレイヤー本人に対してやってしまうザンマのカラテはあまりにも痛快です。しかし、狂気という点で、ザンマ・ニンジャはニンジャスレイヤーと大きく異なっているように思います。なぜなら彼は狂っている。それこそフジキドやマスラダが足元にも及ばないレベルで、もう完全に狂い切っているからです。ニンジャスレイヤーは狂気の復讐者であると同時に、怨霊性と人間性との狭間で揺れ動く生きたヒトであり、仮にソウルに呑まれ完全な怨霊になったとしても、その物語は必ずナラクとの間でサイクルします。しかし、ザンマは1人です。その物語を共有する者を必要とせず、語り部や聞き手すらも自分で務めてしまう究極の閉じた系がザンマです。孤軍であることが、ザンマが英雄であることを証し、それ以上に狂っていることを証しています。

 忍殺における「狂人」を定義づけるなら、「聞き手の少ない物語を語る者」とでもなるでしょうか。フジキドの物語はソウカイヤの外にあり、リロイの理屈はリロイの中にしかない。しかし、ヤクザ天狗が天狗の国を求め、アマルガムもその世界認識を他者に共有しようとしたように、多くの狂人たちは孤独であることを避けようとし、自分の物語が外部から承認されようとあがく……ネザーキョウ語に翻訳するならば、惰弱な一面を見せることが多いです。なぜなら、物語は読まれなければ意味がないから。承認欲求という健全さが、彼らの片足を此岸に残す余地を生み、ドラマを創る。しかし、ザンマにはそれはありません。ただ1人の中で完全に完成し、読まれることも、意味を持つことも最早必要としなくなった彼岸のおとぎばなしがザンマです。いや、それはもう、お話ですらないただの日記なのかもしれません。そもそもカツ・ワンソーに死体蹴りしようとした時点でぶっちぎりにおかしいんだよな……。忍殺永世狂人チャンピオンだよ。

 最早読み手を必要としないザンマの物語は、本作において語られることはありません。描かれるのは、神話の時代から永く永く磨き抜かれた雄大なカラテのみです。完全な物語として閉じたそれに瑕はなく、物語は常にザンマと共にあり、ザンマブリンガーを手放すも握るも自由自在。海のように荒々しく、水のように行き渡ったカラテは、ただそうであるだけで、強く強く読者の胸を打ちます。ニンジャのイクサとは元々そういうものです。背景やドラマははるか後方に取り残され、ただ、双方の行動だけが、カラテだけが火花を散らす。エゴや意味を逆算・後付けすることすらもイクサという場では不純でしかない。我々にできることは『ザンマブリンガー』の背表紙を撫で、その厚みを確かめることだけでした。彼の孤独にどのような怒りがあり、喜びがあり、悲しみがあったかは最早読むことはできませんでした。しかし、それが開かれないテキストであり、読むことのできない無意味であろうとも、その「厚み」は、間違いなくリスペクトに足るものだった私は思うのです。その完結に『ニンジャスレイヤー』を捧げてしまってもよいと思えるほどに、『ザンマブリンガー』は偉大な小説だったと思うのです。

『アケチ・ジョウゴ:クセツ』

 本作は、アケチ・ジョウゴが「タイクーンを倒す」という筋書きを部外者のマスラダから取り戻し、主人公として立ち上がるエピソードです。このお話の開幕時点で、彼がこの立ち位置につくことを予想できたヘッズはほとんどいなかったんじゃないでしょうか。無意味に暴力を振るう短絡さ、自己中心的な世界認識、ヒステリックで冷静さに欠いた言動、その振る舞いに見合わぬ部下たちの忠心、クセツの苦労……「あまり好かれることのないキャラクター」として、あるいはどこか手のひらサイズのカワイイを持った役どころとして構成されたジョウゴの要素は、クセツが点火したミームの火によって一気に再構成され、このエピソードを背負って立つに値するものへと裏返ってゆきました。

 「……ワシには魂がない」という思春期みたいな独白が、紛れもない真実だと判明した時、そしてその空洞に当てはめる形がクセツによって補われた時、彼は紛れもない「復讐者」として立ち上がり、ナラク・ソウルと共に歩む可能性を手にすることができました。言うまでもなく彼の欠落は、本来、そんな他人によって作られたお話ではなく、父親であるタイクーンとの十分なコミュニケーションによって埋めるべきものです。しかし、一度火が入り、肉体と不可逆に結合して駆動した始めたそのソウルにそんな正論を投げかけることは、マスラダに「アユミは君が死闘に身を投じることは望んでいない」、あるいはフジキドに「ニンジャを殺すことを辞め、妻子を静かに悼むべき」と説教するような、ナンセンスな行為に過ぎません。物語の当事者であるジョウゴの前では、我々傍観者の正論のなんと貧弱なことでしょう。

 しかし、アケチ・ジョウゴというキャラクターのおもしろいところは、間違いなく当事者であるにも関わらず、なぜか火の入った自分自身を、物語の読み手のように傍観し、是非の判定を下そうとするところです。無為の欠片を紡ぎ合わせて「全てに意味がある」とぶち上げる様はフジキド・ケンジのようで、意味を見いだせないままにだらだらと物語を続けている主人公を確固たるエゴの基で打ち負かす様はアマクダリのようで……そして、そのような、比較を、対照を、理屈を、読解を、登場人物という当事者であるにも関わらず、自覚している。自覚し、ゆえに我に資格ありと我々読者に向けて高らか宣言してしまう。「カラテとエゴと意味の物語」であったフジキド編のロジックを極端に誇張し、どうだ正しいだろう、自分はナラク・ニンジャの憑依者足りうるだろうと説得を始めてしまう。

 登場人物でありながら読者の肩を親し気に叩く増長を指して、傍観者に堕したと評すことはしたくありません。たとえばザンマの自己観測の果ての敗北と重ね合わせ、「だから、ジョウゴは負けたのだ」と偉そうに評価するような恥知らずな真似だけはすべきではありません。ありませんが、ジョウゴがカラテによって正しさを勝ち取るのではなく、読者を直接説得することによって正しさをQEDしようとした時、彼がまとっていた力が、急速に冷えてゆくのを感じたのは確かです。あけすけに言うならば、それは「ヘタクソなメタネタは冷める」という一般論であり、「もっとまじめにやってくれ」という失望でもあるのでしょう。君は当事者なんだから、こちらにお伺いをたてる必要はないんだ。我々読者のことなんて気にせずに、まっすぐに前を向いて、堂々とカラテを振るってくれればそれでよかったんだ……。

 借り物の理由も、エゴの未熟も、主人公たる資格をはく奪する理由にはなりません。読者である私が偉そうに持ち出すそれらの理屈は、所詮はただの理屈であり、実のところ「資格」なんてものは何もないのです。そう言った理屈でもって、私はジョウゴの敗北を分析したくはありません。なぜなら、それはジョウゴがマスラダのローカル空間を侮辱したのと同様の行為だからです。私はアケチ・ジョウゴが好きなので、そのアケチ・ジョウゴを否定するアケチ・ジョウゴ本人の理屈には表立って反駁します。アケチ・ジョウゴというニンジャは、アケチ・ジョウゴ本人が語るようなつまらない正当性の塊ではなく、今、ジゴクの中に立ち、その物語を全うしてゆくまぎれもないREALだと私は信じたいのです。

『ヘラルド:ケイトー・ニンジャ』

 本作は、ヘラルドが「ニンジャスレイヤーを倒す」という筋書きを部外者のケイトー・ニンジャによって補強され、主人公として仕立て上げられるエピソードです。ヘラルドくんについてはもう既に反吐が

出るほど

感想行為しているので、

 今回は彼の物語を騙り、彼に理由を貸し与えたケイトー・ニンジャの話をしたいと思います。ザンマ・ニンジャがこのエピソードにおいて最も狂っているニンジャなのだとしたら、ケイトー・ニンジャはこのエピソードにおいて最も強いニンジャでした。それはカラテに優れているという一側面だけでなく、対応力や思考力、判断力に運命力、全てにおいて他よりも上に立ち続けたということです。本来ニンジャを殺しうるはずの「1000発目のスリケン」……ニンジャスレイヤーが司る例外の領域に堂々とあぐらをかき、余裕のあくびすら浮かべて見せる様は、感嘆を越え、最早恐怖すら覚えるほどでした。

 ケイトー・ニンジャの最も恐ろしいところは、彼が失敗する憎めないニンジャであるところだと思います。「完全な物語」を嫌うボンモーによって描かれる悪の在り方は、おおよそが完全を名乗り計画通りと嘯くものであり、そのイーグルのおごりは、ニンジャスレイヤーという蟻の1噛みによって打ち破られる大きな隙になりえます。しかし、ケイトーにはそれがありません。最初からぐだぐだでボロボロで、計画をその場のノリで書き換え自由自在の複数のシナリオラインを飛び渡る彼は、むしろニンジャスレイヤー側の領域を縄張りとするニンジャであり、最初から破綻しているそれに、破綻を突き付けることはできません。部分をあえて壊すことで倒壊を防ぐ建物のように、彼はピンチになれば自動的に左に傾き、滑稽な負け姿をさらしながらおもしろおかしく舞台から去ってしまいます。ケイトーにヤジを飛ばす実況行為は確かに愉快ですが、我々ヘッズもまたケイトーの術中にあり、意図的に彼を「ヤジらされている」……彼を左に傾かせることで、彼を助けてしまっているのだという恐怖を感じます。

 そして、生き延び続ける限り、どれだけの失敗と敗北を重ねようともケイトーは必ず目的を達成してしまうのです。失敗と敗北を自らを生かす滑稽味に書き換え、鼻紙でも丸めるようにいともたやすく「全てに意味がある」を作り上げて、自分をたった1点の成功へと運んでゆく書き手。リアルタイム連載の王。フェイクニュースの主。誰よりも傍観者然としておりながら、クローザーと名乗り現場に飛び込んで当事者にもなり、「」と比喩させる得物を振るって、物語を好き放題に歪め、偏らせ、時には存在しない1文すらも書き足して見せる。虚実転換を越えた、虚の創出、あるいは実の転換。ミーム生物でありながら、ドージョーを持たず、支配もせず、ただただ言葉(フェイクニュース)を振りまいて世界を本来の流れから恣意的に歪めてゆくコントローラブルな戯言遣いこそがケイトーであり……その在り方は「嘘のニンジャ」とでも呼ぶべき、物理的な縄張りを持たないおぞましきミームの異端児です。

 傍観者であることを極めた者は、その観察眼を駆使しして当事者であることもできる。ケイトー・ニンジャという怪物の許容量は、両者のいいとこどりという「ずる」すらも受け入れてしまう……。失敗をとりつくろうことに誰よりも長けたケイトーにとって、ソウルの欠落を抱えたジョウゴや、目的を見失ったヘラルドを操ることは、赤子の手をひねるよりも簡単だったことでしょう。エラッタのあるテキストや、プロットが破綻した小説は、彼にとって世界を思い通りに書き換えるための素材であり、常日頃から親しんでいる最良の友でしかないのですから。

『ニンジャスレイヤー:アユミ』

 本作は、マスラダ・カイが「ネオサイタマを守る」という意志をアユミから継ぎ、『ニンジャスレイヤー』として再びナラク・ニンジャを手にするエピソードです。そして、その物語はザンマの、ジョウゴの、ヘラルドの物語を打ち破り、ただ1つの『ニンジャスレイヤー』の本編となりました。では、彼は何故イクサに勝ち、ナラク・ニンジャを手に入れることができたのでしょうか。読者とここまで共感し合って物語を紡いできたマスラダが今更主人公から降りて、ろくに知らない奴の話を始められてもつまらないと言う作劇上の都合でしょうか。身勝手でありながらも根底に弱者が虐げられることへの怒りを持ち続け、モータルと故郷のためにカラテを振るう様がナラクを手に入れる正しい資格だったからでしょうか。借り物の動機でありながらそれを本物になるまで研ぎ澄ませ、自らの歩みを見失うことなく真の男のパルプを書き上げているからでしょうか。

 ……きっと、違うはずです。

「物語は読まれることで初めて意味を持つものであって、自分1人だけの世界に逃げ込んでエゴをつくりものにしてしまったザンマはマスラダに負けて当然だった」「クセツから与えられただけの理由を偉そうにふりかざし、モータルを躊躇なく苦しめ、殺してしまうジョウゴのような紛い物がナラク・ニンジャの憑依者である資格はなかった」「自らのエゴもろくに鍛え上げず、ふわふわした状態でただ他人に責任転嫁してよくわからないままここまで来てしまったヘラルドが、その軟弱なカラテでマスラダに勝てるはずがなかった」

 ……それは違います。断じて、違っているはずなのです。

 小説はテキスト情報によって構成される物語であり、その虚構の全てを描画することはできません。読み解く側も、書く側も使用する語彙は微妙に異なっており、理想的な伝達は望むことができません。エラッタがあり、破綻もある媒体を言葉によって舗装してゆく果てにあるものは、ケイトー・ニンジャの邪悪な笑いです。「実質」というフリの後には、大体の結論を接続することができ、「物は言いよう」で全てが均一にならされます。「でも、マスラダだって身勝手にSOC殺したよね」「ナラク本人がモータルを燃料扱いしてるよね」「サツガイを討った後のモチベはふわついてるよね」……小説は学術論文や公文ではない娯楽であり、厳密性よりも「おもしろい」を優先したそのテキストにおいて、言葉でこねた理屈はあまりに自由度が高すぎるのだと思います。私自身も、こうして好き勝手に感想行為をやっている。

『ニンジャスレイヤー』は残酷な小説です。登場人物たちが奇跡だと尊んだ事象は客観性をもってバラバラに解体され、再現可能なScience Fictionとして後の物語の中でリフレインされ、拡散し、普遍化してゆきます。トリロジーがフジキドの戦いを通して「ニンジャ」の神秘を解体したように、『主人公』という座、『ニンジャスレイヤー』という物語、怨霊ナラク・ニンジャの仕組みですらも、バラバラに解体され、再構成され、時には別物のように装飾されて差し出されます。オマーク、ギンカク、アンコクトン、エメツ……そしてネザーキョウのように。

 ニンジャのイクサは残酷なものです。その背景や熱量と無関係に、ただただ時の運と双方のカラテの大小が結果を決めることになります。どれほどに盛り上がった物語であろうとも、カラテに劣れば爆発四散し、後には死体も残らない。エゴなんてものは所詮カラテを構成する1要素にすぎず、意味も決着のついたカラテに対して後づけで施すものに過ぎません。イクサとはカラテの場であり、その他の理由を言葉を弄してこねあわせることは、ナンセンスな逆算であり、都合のいい後付けにすぎません。意志も物語もそこにはない。カラテだけが正しい……ネザーキョウのように。

 ……しかし、それもまた違うはずなのだと、私は思います。

 マスラダの勝利や、ザンマ、ジョウゴ、ヘラルドの敗北に、言葉で理由をつけることはできません。それらは全て逆算であり、後付けであり、この『ナラク・ウィズイン』という小説の中で直接言葉で記述されることはありません。でも、だからと言って、この4名が「実質同じ」であると断言することも私にはできません。

 そもそも本来、その手の象徴への当てはめをするならば、例外要素が一切あってはならない。しかし往々にして、解釈時に説の否定となる例外要素は都合よく無視されてしまうので、それでは何でも当てはまってしまう。

……「ドゥームズデイ・ディヴァイス」、B&Mメモ より

 言葉にしてしまえば、理屈にしてしまえば、それはコピーアンドペーストのできる、再現可能なモノになる。全てが均されて、意味もまたカラテの名の下に解体される。弱肉強食の論理に飲み込まれ、消えてゆく。それに反論する言葉も理屈もここにはありません。ただ、そんなはずはない、という確信めいた何かだけが、イクサの果てに残るのです。この「ナラク・ウィズイン」は、その何かを描き出すエピソードでした。たとえ不自由なツールであったとしても、それが通じるはずだという祈りのような物語でした。マスラダが勝った理由は必ずあったはずだと。これがト書きではなくストーリーであった必然性がここにはあるのだと。物語という型式が、言葉以上の何かを伝えうるのだと。言葉ではなく、理屈ではなく、小説という形をとって。

 『ニンジャスレイヤー』は言葉によって全てを残酷に解体し、同時に物語によって虚構の力を微塵も疑うことなく描きぬいた小説です。そのことを、ナラク・ウィズインの旋律の中で振るわれたニンジャスレイヤーのカラテを通じて私は実感するのです。マスラダが勝った、カラテ以外の揺るぎのない理由と共に。

未来へ……

 ミームの伝承や、事象の書き換え、そして借り物の理由が本当になってゆく様。イクサにおけるカラテの重要性と、言葉の果てに主観の世界から意味が擦り消えてゆくこと。バラバラに解体された客観の中で、厳然としたルールであり続けるのはカラテだけであるということ。しかし、それは違うのだと主人公が言葉ではなくカラテによって示してみせたこと……本作を彩る種々の要素は、「ナラク・ウィズイン」という作品の形をとって一度完成をみせているわけですが、いざ再読してみると、それらすべてのファクターが、後にタイクーンという存在を描き出す布石になっていることに驚かされます。思えば、シーズン3とは、プレシーズンからずっとそういう作りをとっている気がします。「エスケープ・フロム・ホンノウジ」で描かれたファイアストームの継承すらも、彼の過去回想にて回収されるのだから恐ろしい。

 また、お話を語るということ、お話を読まれることで承認されることについて、今回、私は小説に比重を置いて感想行為をしたわけですが、twitter連載を行っている忍殺が、SNSという観点からもこの「ナラク・ウィズイン」を紡いでいることは間違いないように思います。シーズン3はカラテとインターネットの物語であり、全ては卑近なネットリテラシーへと還元される奇妙な読み味を保っています。フォロワー0の鍵アカで延々自作小説を呟く行為に果たして意味はあるのかという話でもありますし、オープンアカウントで好き放題やってたらヤバい奴から絡まれたり炎上したりするよという話でもあります。ケイトーなんてSNSの負の権化ですからね。そして、それらのインターネットの要素は、次話において1つの完成を見るわけなんですが……それはまた、次の感想で。

■twitter版で2021年5月7日に再読