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【2018忍殺再読】「フリージング・フジサン」

刀は理由を問わない

 AOMシーズン2、第9話。過冬との最終決戦、師弟と親子の決戦の背景で、リアルニンジャたちがついに産声あげ、マッポーカリプスの扉が開く。いやあ、何度読んでも幕引きのシーンには背筋が凍りますね。「この世はニンジャが支配している」という戯言、狂人が信じた陰謀論の恐怖が、確かに実在するものとして顕現する恐怖。計り知れない、底の見えない混沌と闇への本能的な忌避。足元の下を流れる、絶対に逆らえない巨大な流れに気がついてしまうということはかくも恐ろしく、しかし、魂を震わすことのない氷の巨人は、暴力によって、それ以外の何も持っていないがゆえに暴力によって、淡々と家族を守る役割を果たさんとするのです。

 そして、その虚無の男の道行は、あまりにも寒々しく、ついにはザルーニツァはそれに凍えてしまうのでした。一本のカタナであれ、ただ娘という役割を果たす機能であれと望み続けた先に待つ破綻。そも、それを「望む」時点で、彼女は最初から振り落とされていたのでしょう。自分の役割に対し「何のため?」と問いを発してしまった時点でザルニーツァの道行は詰んでいました。「役割」に答えはないからです。「父のために戦う」理由は、「父のために戦うため」です。問いかけが生まれる余地がある時点で、彼女は、揺れている、ブレている、動いている……成長している。成長する娘は、娘であり続けることはない。やがて機能が失われることが約束された機構は、時の凍り付いた真冬の王国の部品にはなり得ないのです。

真冬の男:シンウインター

 私にとってのAOMシーズン2は、最初から最後まで、シンウインターという男を追い続けた物語でした。より正確に言うならば、シンウインターを通じて描かれた「虚無」を追い続ける物語でした(ニンジャスレイヤーの主人公はマスラダであり、シンウインターの「虚無」もまた、彼を描きだす一筆にすぎません。イクサに敗北することは他者の物語に組み込まれることなのですから)。

 本エピソード中でさらりと描かれた、彼の過去は、ドラマとすら呼び難い彼の認識の列挙であり、彼がロジックを完成させるために拾った材料、そして理解と納得の羅列にすぎません。幼少の頃に父に対して向けられた憎悪は、暴力の理論の証明と納得にすり替わり、家族を与えてくれた女は、文字通り「家族を与えてくれた女」でしかない。ドラマがない。感情がない。そこにはただシンウインターの考える理屈を証明する数値と式だけがあり、己すらもその一つに過ぎない。意味を求めない暗記と学習と理解。そこは物語なき巨大な空洞であり、シンウインターという男は、その中で暮らし続けるうちに、ついには空洞自体になってしまった存在なのでしょう。

 全ての行動には背景がありそこまでの物語が積まれています。蓄積を伴う行動には血肉が通い、REALが漲ります。家族愛とは家族と出会い、触れ合い、時間を共にし、体験共有する「ドラマ」が合ってこそ発揮されるものであり、それを源泉として発される「家族を守る」という言葉は、なるほど、魂の籠ったものとなるでしょう。たとえば恋愛漫画において、主人公が「昔から好きだった女の子」を捨て、作中でずっと一緒に過ごしたヒロインと結ばれるのは、作者と読者にとって、前者は設定にすぎず、後者こそがリアルな物語だからです。しかしシンウインターは違います。彼は出会いも接触も共有も必要としておらず、ここまで積み上げた全てを無視して、物語の終わりで何の躊躇もなく設定に従い幼馴染の方を選択するのです。「家族は守るものだから」「それが自分の役割だから」というプログラミングに従い、家族を守るのです。シンウインターにとって、娘がザルニーツァである必然性はありません。そこにザルニーツァという個はありません。彼にとって大切なのは、「娘(ザルニーツァ)」ではなく、代入箇所である「娘()」なのですから。

 そして、シンウインターの造詣において、何よりもすさまじいのは、彼が心や感情のないロボットなどではなく、それこそが本物の家族愛だと心の底から信じている男だという点です。ヘッズや登場人物が彼を観た時に感じる凍えるような虚無を、彼自身は全く自覚していない。彼は、己の虚無に苦しめられてはいないし、そこが凍えるほどに寒いのだと気が付いてすらいない。娘を殴られれば「父親は娘を殴られると怒るものだから」という理由で本気で怒り、家族を亡くせば「父親は家族を亡くすと悲しむものだから」という理由で本気で悲しむ。それは到底、家族愛ではありませんが、しかし、「シンウインターにとって」それこそが本当の家族愛なのです。間違っているのではない、ただ「違っている」。私達の目から見てシンウインターの家族愛が偽物であるのと同じように、シンウインターの目から見ると私達の家族愛こそが偽物なのです。真実は決して多数決で決まるものではなく、いずれもが偽物であるということは、いずれもが本物なのです。シンウインターの家族愛は、フジキドがフユコやトチノキに向けるものとは全く別ものでありながら、同じだけの輝きを持っているのです。

 彼の邪悪は、その家族愛自体ではなく、それを暴力によって他者に強要するところにある。理解しがたいシンウインターの家族愛を否定することは、シンウインターの邪悪に同調するのと同義です。ゆえに、『ヒーロー』たるマスラダとフジキドは、彼の問答に応じることなく、「ゾーイを助ける」「サツガイを殺す」「オマークを滅ぼす」という、その家族論とは完全にずれた線上でシンウインターを殺すのです。(サツガイうんぬんに至っては最早ずれすぎて通り魔と対して変わらねえ!)その愛はどこまでも正真で本物であり、そこに討たれるべき悪はないのですから。

■note版で再読
■12月30日