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【2018忍殺再読】「クルセイド・ワラキア」

とにかく超おもしろいクソおもしろい

 ニンジャスレイヤー(元)vsドラキュラ伯爵! 字面こそ頭がくらくらするものの、おそらくロヅメイグ調のダークファンタジーだろうなあと予想していたヘッズの目に飛び込んできたのは、己の正体がニンジャだと告白しながらyoutubeでヌンチャク動画配信するブラド・ツェペシュとかいう風邪をひいた時にみる夢みたいな光景であった! リブートレイヴン、ヘルオンアース、レイズフラッグ、ネヴァーダイズ等々、『ニンジャスレイヤー』という小説は折々にそのおもしろさの天井ぶち破る特異点となるエピソードがあるのですが、本エピソードもまたその一つに数えられるもの……すなわち、オールタイムベストに数えるべき大傑作と言えるでしょう。カラテ、ジツ、コトダマ、テーマ、コンセプト。その理由に対し、理屈をこねることは幾らでもできるでしょう。しかし、このエピソードの良さの説明は一言で足ります。おもしろい。本当に、鼻血が出るほど、異様に、おもしろい。

 逆噴射先生言うところの「頭を殴ってぶっ飛ばすような強烈なグー」「血の滴るうまいステーキ」なんですよね。本来ならば感想はここで終わってもよく、「おもしろい」以下の全ては無粋ですらあるほどに素晴らしいエンターテイメントなんですが……あえてその「おもしろい」を私の個人的趣味により希釈するとするならば……その良さは、「贅沢な群像劇」とでもなるのでしょうか。ブラド率いる吸血鬼集団、胡乱な寄せ集め傭兵ニンジャ、聖なる邪悪カルト聖論理教会の三陣営、そしてそれぞれに属する各キャラクターに、一本の長編にしてもよい魅力とドラマとアイデアが詰め込まれており、それらが連鎖反応爆発し、おもしろさの濃度が進行度に対して加速度的に上昇してゆく読書体験はまさに興奮に継ぐ興奮。通常のエピソードをはるかに超える、血の濃度を持つエンターテイメント。それこそがこの傑作「クルセイド・ワラキア」なのです。

KARATE BLOOD

 本エピの魅力の屋台骨が、主役(もう主役と言っていいでしょうこれは)のレッドドラゴン/ブラド・ニンジャ/ブラド・ツェペシュであることに異論のある読者はまあいないでしょう。現代に蘇ってSNSにドハマりしyoutuber活動をし始めるドラキュラ伯爵という設定を、コメディではなくドシリアスな文脈で持ってくる原作者のヌケのセンスは流石としか言いようがなく、忍殺映像描写技術の極限を尽くした神話の如きイクサの描写の直後に、ぶちギレて友達に電話をかけ始めるシーンなどはもう絶品。しかも、その設定が「本能的に領土拡大を求めミームの伝播に努めるリアルニンジャの特性」「活版印刷により破滅したかつての記憶」等、理・情共にしっかり裏打ちされた隙のないものであることがこれまた……! 上述の電話なんかも、我らがフジキド・ケンジが「ニンジャを殺すニンジャ」から「ニンジャと対話するニンジャ」にスライドした記念すべき挿話であり、非常に重要なシークエンスなんですが、それが「フジキドによるインターネットに気を付けよう講座」の形をとって行われるヌケっぷり……! この「笑っていいのか泣いていいのかわからない」読書体験は、忍殺以外ではなかなか味わえないそれでして、もう読んでいてたまらないんですわ。

 また、単なる愛嬌のある高潔な領主ではなく、リアルニンジャとしての邪悪さ・尊大さがしっかり描写されているのもいいですよね。リスペクトすべきモータルには敬意を払うということは、裏返せば「彼が」認めないモータルは容赦なく殺すってことなんですよね。ブラドはやはりどこまでもリアルニンジャ……ヒトを遥か高みから見下ろす半神であり、側近のモータルを除けば、彼の領民への目線は「領民」という集団に対するそれであり、個々の人間に向けられた視線は薄い。というか、彼の視界で、それを観ることは難しいんでしょうな。また、領土・領民を守るためとは言え他者の力を奪い去ること(例:ヌンチャクをパクる)に躊躇がない。「他者の物語を養分とし、自分の物語を優先する」エゴの強さ(ユカノのような領土拡大を図る際の「他者」への配慮や、第三部でのフジキドの迷いは彼にはない)はまさしく吸血鬼と呼ぶべきそれです。

 吸血鬼で思い出しましたけど、フジキドの吸血シーン超エロいですよね。これはちょっと熱弁したいんですが、そのエロさにはいわゆる吸血鬼文学において吸血シーンが濡れ場だとかいうそういう文脈上のエロさ、また、吸血という他人の肉体の一部を己の一部とする行為自体のエロさだけでなく、『ニンジャスレイヤー』という作品における「カラテ」の設定によるものが大きく加算されています。カラテとは自己と他者を区別する力であり、その人物が現在時系列まで積み重ねた物語の力です。そして、忍殺において「血」は「カラテ」の換喩です。わかりますか。他者との同化に対する抵抗・拒絶を意味する「血」が、他者の肉体の一部となることを許容する。承認する。そのエロさ。そこにあるのは肉体的な混じり合いを越えた、精神の混じり合い、さらに言うならば、忍殺世界におけるアイデンティティともいえる「ここまで積み重ねた物語」……自我の混合です。いやはや、モスキートさんの相互血液循環欲求に対する理解がここに来て深まるとは。あいつ、忍殺世界における最悪の凌辱魔だったんですなあ。インガオホー。

人造奇跡は醜悪で美しい

 論理聖教会最高ですよね! 本作に登場する三陣営の中で私が一番好きなのは彼らです。装飾面や演出面における「グロテスクで醜悪な聖性」とでも言うべき悍ましさが本当に最高。「2600Hzの電子合成クラリオン音声による賛美歌斉唱」とか「神罰対象への憎悪をインストールすることで稼働する自我漂白人造天使部隊」とかゾクゾクしませんか。また、後のシャードでも明かさせることですが、崩壊したアマクダリの思想が、10年間の時を経て、おそらくアガメムノンが全く望まなかったのであろう「宗教」という形に変化しているのが、たまらなく愛おしく、かつ悲しいんですよね。アマクダリの目的は、コトダマによる無限の可能性を閉じ、この世を理の通った秩序に落とし込むこと……この世を事物と物理法則しか存在しない、「物語なき世界」/「不明なき世界」=「ニンジャなき世界」に還元することであり、意味づけと解釈の塊とも言える宗教とは最も相容れないものなんですよね。死者のミームは抵抗する術がなく、どこまでも改変され続け、しかし残り続ける。

 奇跡目撃報酬というアイデアもめちゃくちゃいいんですよ。『ニンジャスレイヤー』において、「奇跡」は「偶然」と「不明」と「解釈」の足し算により生まれるものとして描かれています。まさにその奇跡を題材にしたエピソードである「デッド・バレット・アレステッド・ブッダ」がわかりやすいんですが、あれはフジキドによる敵ニンジャの爆発四散とセキトリの札束まき散らしのタイミングが「偶然」一致し、それによって生じた「ゾンビが死んだ」という「不明」を、「聖徳太子の威光による奇跡」と「解釈」したことにょり発生した奇跡なんですね。そして、奇跡目撃報酬というのは、「天使を目撃する」「金が振り込まれる(利益がある)」という本来のプロセス上「偶然」の一致によって発生すべき無関係な二つを、意図的な振り込みにより結びつけたものなんですね。「奇跡」を理と秩序により解体・逆算し、人為による「偶然」「不明」「解釈」を補完するという歪み。グロテスクで醜悪で、何よりリアルニンジャすら殺しうる理の美しさと強さを持った人造の奇跡。そして、天然の奇跡を知るジェイクは、この人造の奇跡を破壊する一要因に足る男なんですね。

寄せ集め傭兵ニンジャ好き

 最後に、ドラクル城突入チームみんないいよねって話をしましょう。主役格であるツインテイルズ&オー・オーコンビもステキ(「猫には九つの命がある」とKILL-9コマンドのコンビというアイデア、天才か?)なんですが、個人的にはアイアンフォージドさんが好きなんですよ。「吸血鬼殺しの吸血鬼」という吸血鬼狩りのお話の主人公足りうるポテンシャル(我らがニンジャスレイヤーは「ニンジャ殺しのニンジャ」だ)を、彼のような一見端役に見える敵キャラが持っているのも秀逸ですし、モータルにとって無限の可能性となるソウル憑依が彼にとっては憎悪すべきものだったというのもいい。理の秩序に縛られる信仰を持つ彼にとって、可能性はノイズに過ぎない。「吸血鬼を憎む」怒りと「何故自分が吸血鬼になった」悔恨。全くそうは見えないですが、彼の源流は限りなくフジキドやマスラダに近しいんですよね。終盤で描かれたアイアンフォージドvsスミソニアンは、「吸血鬼殺しの吸血鬼vs己を吸血鬼殺しと思いこんだ吸血鬼に組する人間」という、「吸血鬼vs吸血鬼殺し」の原型が改変・誤読・翻訳をかけてぐちゃぐちゃになったようなそれであり、実にニンジャスレイヤーらしいひねりっぷりでした。

 スナブノーズとソリチュードのコンビもいいですね。どうしようもないクズであり、サンシタとしか言いようのない二人組なのですが、スナブノーズが死の間際で決死の覚悟でソリチュードを逃がすなど、語られ過ぎることなくそのドラマは強く匂いたっていました。また、大変明るい大団円を迎えるこの「クルセイド・ワラキア」において、読者の中に強烈なささくれを残すソリチュードの死は絶品と言えるものでした。サツバツナイトとレッドドラゴンのカラテによってどこまでも熱く熱く盛り上がってゆく本編の流れの中でで、支流から運ばれてきたインガオホーが、ただひたすら薄暗く救いのない死という水を差す。世界は広く複雑で、ハッピーエンドに見えるそれも、そう見える流れを一部分だけ切り出したに過ぎない。そして、群像劇という大きな切り抜きを行ったとき、編集者が望む「ご都合」に反する部分も一緒に掬いあげざるをえなくなる。彼の死は、『ニンジャスレイヤー』の世界に血肉が通っていることの証明であり、言うまでもなくそんなくだらないことの証明のために、彼の死はあるべきではないのです。彼は、「クルセイド・ワラキア」を高めるために死んだのではなく、彼が主人公の、彼の物語の中で、そのインガオホーにより死んだのですから。

■note版で再読
■1月3日