見出し画像

【2020忍殺再読】「ウェイ・ダウン・トゥ・ヘル」感想

ヒトは死ねばモノになる

 サムライニンジャスレイヤー・シリーズの第3話。やはりいい。抜群にいい。サムライニンジャスレイヤーからしか摂取できないトンチキとサツバツがあり、それら2つの栄養価は本編からは摂取できないものなのですよ。私はそれを定期的に摂取しないと健康に影響を及ぼすのです。わかっているのですか。現状に年に1話あるかないかのペースですが、頼む、もっと高頻度でこれをくれ……。前者、サムライトンチキの魅力を語るならば、やはりそれはシリアス一辺倒な時代劇風文体の中に紛れ込むパルプカタカナの奇妙さに尽きるでしょう。「目にも留まらぬSWASH、SWASH、SWASHの丁々発止!」や「時折、腐り止めの強いハーブの香りが、鋭い刃物のような切れ味で、彼らの鼻腔に忍び込んできた。」など、筒井康隆が短編でやりそうな奇文の数々を、作為的ないやらしさを持たさないままに仕掛けてくるのが本当に素晴らしい。ぎょっと目を見開いてしまうのに、その口上はどこまでも滑らかで、こちらが間違っているのではないかと周りにきょろきょろ目くばせしてしまいます。

 また、本編とはまた違った、どこまでも乾ききったサツバツの様子もたまらない魅力です。重酸性雨降りしきる反吐の散った路地裏の薄暗さが本編であるならば、ギラギラと照る太陽の下で曝された死体の臓腑が乾いてゆく様がサムライです。その差異を具体的に言葉にすることは難しいのですが、前者があくまでサイバーパンク、自我やネットワークを主題とした「稚気染みた夢を捨て去った諦念」……精神的なサツバツであるならば、サムライの世界は、もっと直截的で、あけすけで、目の前にごろりと転がる死体そのもの……物質的なサツバツであるとしてもよいかもしれません。今のたとえにもある通り、サムライ・シリーズには大量の死体が登場し、それらは強い解像度を持って描き出されてゆきます。ただし、ヒトとしてではなく、モノとして。

 彼らは飢饉や紛争で死んだ無縁者たちの骸を荷車に載せながら、村から村を渡り歩く。そして腐り果てる前に北の港湾都市ハカタノクニへと至り、解剖学医や薬師などにこれを売り捌くのが生業である。
……「ウェイ・ダウン・トゥ・ヘル」#1 より

 それはモータルたちが売り買いする商品であり、健康被害をもたらす廃棄物であり、そしてナラクの力の源泉となる薪に過ぎません。死者は蘇ることはなく、トリロジーのように誰かに解釈されて新たな物語を紡ぐ媒介になることもなく、おおよそ1~2mの寸法と、40~100㎏の目方を備え、切り離すことで長さを備えた部品四本と比較的球体に近い部品1つを得ることのできる、内部にある程度の水を含んだ物体として、執拗に描写が重ねられてゆきます。そして、いともたやすく命が奪われるこの地獄の世において、生きたヒトの死体の差異など薄紙1枚ほどのものでしかありません。戯れにニンジャによって握りつぶされる水袋に、何の意味や価値があると言うのでしょうか。ヒトをヒトではなくモノとして描く冒涜は、私の個人的な趣味でもあり、肌にとてもよくなじむサツバツです。サクリリージの魅力が何かと問われたならば、私は色気と答えます。たまらねぇ。もっとくれ。

ヒトは死ねばニンジャを殺すモノになる

 サムライ流のトンチキとサツバツ。『ニンジャスレイヤー』がニンジャの小説である以上、それらはやはりニンジャという存在を通して最も色濃く描かれています。前者のトンチキ……時代劇風文体に紛れ込むパルプカタカナが最も強く効いているやはりニンジャネームになるでしょう。「スコルピオ」「ヘルカイト」という名前は、このお話の中ではどこまでも浮いていて、その異様さがそのままニンジャという存在を語る手段になっています。しかし、ニンジャのイクサの速度の中で、やがて読者の目はそれに慣れてゆきます。平安時代末期・江戸時代初期というサムライニンジャスレイヤーの時代背景は、ニンジャが半神から人間へと堕ちてゆく境界線上を、巧みに切り取ってゆきます。本作に登場する2人の邪悪ニンジャは、いずれもが人越えた腕前を持つ武芸者であり……しかし、現在本編で活躍するファンタジックな術で世界すらも変えうる魔物たちとは異なり、人間の技術の延長線上……奇しくも今語った通り「腕前」というヒトの尺度で測りうる等身大の達人に過ぎません。そう、まさに「忍者」のような。

 一方で、ニンジャは依然、平安時代から引き継がれるモータルにとっての災害であり、どうしようもない存在としても描写されています。モータルたちの声がうねりとなってニンジャすらをも飲み込んで行ったトリロジー、モータルたちの社会の中にニンジャたちが取り込まれたAOM、いずれのようなこともこのサムライの時代では起こり得ず、モータルはどこまでも踏みにじられ、消費されるモノでしかありません。世界全土を電子ネットワークが覆いつくしておらず、サイバネティック技術が普遍化していない過去において、どこまでも個でしかないモータルはニンジャに抗うことはできません。ただの1点を除いては。

 殺伐。これぞ真の地獄絵図か。ヘルカイトの視界いっぱいに、十数個の死体が舞っていた。塵芥にも等しいモータル。ましてその死骸が、ニンジャの己を撃ち落そうというのか。
……「ウェイ・ダウン・トゥ・ヘル」#3  より
 断末魔の俳句とともにヘルカイトは空を仰いだ。罪罰影業七本槍の本分を果たせぬまま、虫けらの如く死ぬことの不名誉を悟った。「あ……ッ……!」彼は血涙を流し、事切れ、爆発四散した。「サヨナラ!」
……「ウェイ・ダウン・トゥ・ヘル」#3  より

 ヒトは死ねばモノになる。それは、死ねば爆発四散してしまうニンジャには難しい芸当であり、モータルがモータルであることニンジャに対して有利を取れるただ1つの手段です。ニンジャ同士の殺し合いの中で、撒き散らされ利用される武器となることでニンジャを殺せる。憎悪と怒りのままにナラクの炉に投身し、エネルギー源となって消費されることを選んだユフコのように、我が身をモノに変えることで、モータルはニンジャを殺せるのです。これは、底冷えすら覚えるおぞましき手段です。シェリフの撃つ弾丸や、ヤクザ天狗の狂気とは全く異なる、何1つの救いも残さない怨みと怒りに満ちた心中です。モノになって散らばるだけのその選択は、ミームを誰かに伝え、物語を繋げる余地すら遺しません。その手段を選ばせるほどの激しい怨みや怒りすらも、全て投げ捨ててしまっても叶わないという怨みと怒りです。ギラギラと全てを均質に乾かせてゆく太陽の下で、ニンジャごと己の生きた意味と価値を全て放棄して、何もかもが塵芥の無常に散って消えてゆく……。

 そして、それらの散ってゆった意味と価値を、かき集めて進むただ1人の存在がニンジャスレイヤーなのでしょう。その重みを分散させうるネットワークがないこの時代において、個のままに全てを背負って進むその旅路は、地獄へ続く下り道を転げ落ちてゆくに等しい、狂気の沙汰と言えるでしょう。

未来へ……

 未来……ありますかね。キルジマというニンジャスレイヤーは、あまりにもノーフューチャーであり、救われるビジョンが全く見えません。ヒトがモノとなってゆくこのサツバツたるサムライ・シリーズにおいて、彼が迎える顛末は、フジキドが無事回避した「ニンジャ絶対殺すマン」ENDであるように思えてなりません。ユフコを背負ってしまったことで、一線を越えてしまったような気がするのです。

 あまりにも気が重い先行きではあるのですが、無責任な傍観者である読者としては、モータルもニンジャもまとめて殺しつくす悪鬼羅刹となり、「ニンジャを殺す現象」に堕したニンジャスレイヤーの姿を見てみたいというのも正直なところです。ナラクや原作者によって「典型的なニンジャスレイヤー」の末路は何度も語られてはいるのですが、フジキドもマスラダも例外ケースであるため、実は我々はまだ一度もそのベーシックなニンジャスレイヤーの姿を拝むことができていません。そう考えると、この一連のサーガに『ニンジャスレイヤー』というタイトルがついているのって、ちょっとおもしろいですよね。

■2021年5月2日にnote版で再読。