見出し画像

【忍殺第1部再読】「ネクロマンティック・フィードバック」

忍殺初の群像劇?

 「デッドムーン・オン・ザ・レッドスカイ」と合わせて、ゾンビー二部作とでも呼びたいエピソード。ニンジャスレイヤー本人の物語が重点された前者とは異なり、モータルたちが主役が務め、フジキドはあくまで舞台装置に徹しているのが印象的です。何の前ふりも伏線もなくいきなり舞台上にあがりこんでくる赤黒の死神の異物感はちょっと驚かされるものがあり、何かの間違いが起きてしまったんじゃないか、ひょっとしてこれは乱調じゃないのかと錯覚を覚えるほど。「バーナー殺人事件」、「アーマゲドンの預言」といったモータルたちのいずれのシナリオにも乗っかることなく、その上、本人の口からわざわざ「いずれのお話にも乗っからないよ」と語ってしまうフジキドという男の生真面目さ、堪能させて頂きました。また、今では相当数が出ている群像劇型のエピソードの嚆矢となった一作なんじゃないでしょうか。非公式wikiのエピソード公開順をざっと眺めてみたのですが、これが初であるように思います。

 メディアミックスのない作品であるため、ジェノサイド・ブラックヘイズ回であること以外の情報をほぼ忘れてしまっていたのですが、あれですね。ジェノサイド回ではないですねこれ。こんなに本編と絡んでいなかったとは。今ではおなじみとなったキャラクターの懐かしい側面が見れるのは嬉しい所。シンゴさんって妻子いたんだとか、INWショップって一般研究員いたんだとか、忘却していた部分の再発見などもあり楽しかったです。そして、「チャブドメイン~」の感想でも触れましたけど、この頃の忍殺のサツバツさ、無情さは、何というか、心に直に来るものがあり、読んでいてけっこうきっついですね。エンターテイメントとして舗装され切っていない剥き身のえぐさがあります。飲み込むが大変。アンドウさん周りのドラマとかね。ちょっと目をそらしたくなっちゃいますね。

ヒノタマの正体見たりウィルオーウィスプ

 再読して一番驚いたのは、ウィルオーウィスプというキャラクターの完成度の高さです。彼は、彼単体では自我のない、魅力もへったくれもないデク人形にすぎないのですが、この物語の中で他者と関わりあうことにより、この「ネクロマンティック・フィードバック」というエピソードそのものとも言える多面性を見せてゆきます。言ってみれば、「ネクロマンティック・フィードバック」とは、それぞれの登場人物がこの一人のニンジャの解釈についてぶつけあう読書会とも言えるでしょう。アンドウは彼を自身の預言を証明するオカルト存在として読み解き、リー先生は彼を研究の一助となる実験体の挙動としてサンプリングし、ブラックヘイズは彼をターゲットとして冷静にその戦力を解析し、シンゴは彼を連続殺人事件の犯人として捜査します。それぞれが、ウィルオーウィスプをどう解釈するかという点から、逆算的に個々の個性が際立っているのも楽しいですね。ニンジャの存在が既知である連中は当然ヒトダマに怪奇を見出すことはありませんし、一方、ニンジャを知らなかったにも関わらず、彼を怪奇と解釈しなかったという点で、シンゴというキャラクターのデッカー魂もびっかびかに輝きを放ちます。

 また、非常におもしろいコントラストとして、アンドウ以外のほぼ全員が、彼を怪奇ではなく、客観的な物理現象として解体しているところが挙げられるでしょう。

 そのコントラストが明確になった以上、この物語は当然、アンドウが真実を突きつけられ自身の虚妄を叩き壊されることで終わる……わけではないところが、このエピソードの凄まじいところです。なぜならば、このウィルオーウィスプ解釈合戦における暫定的な勝者は、ニンジャを怪奇とも物理現象とも解釈しない狂人……ニンジャをニンジャと解釈(?)して「ゆえに殺す」と結論付けるニンジャスレイヤーだったからです。「このヒノタマの正体は何だと思いますか?」「殺す」 きょ、狂人……! 会話が成立していない……! この無茶苦茶にイカれた野郎がいきなり横合いから割り込んできて、主観と客観、ハレとケ、奇跡と必然の境界線をぐっちゃぐちゃにしてしまったのが、この読書会の結末です。客観的な物理現象として解釈することにより、怪奇を殺すという手続き。今となっては様々なフィクションで使われる推理小説的な技法ではありますが、「ニンジャ」でありながら「ニンジャスレイヤー」である我らが主人公は、「ニンジャ」を客体化することなく「ニンジャ」のままに殺してしまい、モータルの掌の上から奪い去ってしまいます。解釈は自分でしなければなりません。解決編で語られるのは「知るか」の三文字です。カタストロフという優しさを、ニンジャスレイヤーという探偵は与えてはくれないのです。

 で、個人的にこのウィルオーウィスプというキャラクターが凄いなと思うのは、このニンジャスレイヤーの解釈に対してすら「本当にそうなの?」と思わせる余地を残しているところ。

 たとえば彼の爆発四散は、やや例外的なものですし、

 ニンジャソウル憑依者として蘇った経緯も特殊なものでしたし、

 そのアイサツも、意思を伴うものとは断言しきれず、機械的に繰り返している台詞が「偶然」アイサツのシチュエーションで発されただけではないかという解釈の余地を残します(この「偶然」は忍殺における「奇跡」を構成する重要な要素であり、やはりウィルオーウィスプというキャラクターは「奇跡」のお話である「ネクロマンティック・フィードバック」そのものだと言えるかもしれません)。

 通常のゾンビーニンジャ製造工程をたどっておらず、まともな爆発四散をしておらず、アイサツも実は発していないかもしれない。ここから生まれる「果たして彼は本当にニンジャだったのでしょうか?」という不気味な問いかけは、まさに全てを「わからない」に放り込むホラーの文脈のものであり、さすがはオバケ・ニンジャソウル憑依者と言うしかありません。

地獄ではないがゆえのジゴク

 本エピソードの主役が誰かと言うならば、やはりモータル・アンドウの名前を挙げざるをえないでしょう。このお話は、彼が陥ったジゴクのお話であり、そのジゴクが否定される……のではなく、否定されなかったがゆえに選択を迫られるお話です。恐るべきは原作者の残虐性。ボンド&モーゼスという作家は、自分の創りだしたキャラクターたちに山盛りの愛を注ぐ作家であり、ゆえに、その気になればその髄の髄までそのキャラクターを解体し切り、もっとも苦しむ方法で痛めつけることができる作家です。読者よりも誰よりも、最も効果的なキャラクターへの「凌辱」を知る創作者です。

 この物語において、事件の理由は「偶然」で塗りつぶされています。「不幸な事故」と称される通り、アンドウの身に降りかかったものは誰の悪意によるものでもない偶然の産物であり、そこに納得のできる理由を見出すことは困難です(それが現実で起きたことである以上、当然、理由はありえますが、ここで言う「理由」とは、名探偵の推理のような「納得に足る理由」です)。ウィルオーウィスプの脱走も、ジェノサイドの脱走も、誰かが企む陰謀ではなく、ただの不幸な事故に過ぎません。理由が必要ならば、自分で解釈するしかありません。ウィルオーウィスプの機械音声を「アイサツ」と認識するように。

 では、どう解釈すればよいのでしょうか。誰かが悪いと決めつければよいのでしょうか。こんな不条理な世界は地獄であると読み解けばいいのでしょうか。しかし、ボンモーはそれを許しません。アンドウにオニギリを差し出す店員。転倒したバイカーを心配し自分の仕事の手を止めて駆け寄る作業員。お代はいいからとジェノサイドをスモトリ崩れから逃がそうとする店主。本作に登場するモブキャラクターたちは、ネオサイタマにしては珍しいほどに善意に溢れています。また、アンドウを殺そうとする邪悪なニンジャたちですら、ブラックヘイズはただの仕事として行動しており、ウィルオーウィスプにはそもそも自我がないのです。起きる悲劇は偶然でしかなく、そこには悪意が全く絡まない。それどころか、むしろ、善意のもので溢れている。アンドウが陥ったのは、この世が地獄ではないがゆえのジゴクでした。

 だとすると、逃げ込む先からは客観的な理屈が排除されていなければなりません。つまり、答えは「狂気」です。自分の中だけで成立する、自分のための狂った理屈。他者に参照されず、ゆえに破綻していても成立し続けることができる虚構です。しかし、ボンモーはそれを許しません。アンドウというキャラクターの正気の視点を与え、狂い切ることを決して認めませんでした。それならば、もう腹をくくるしかないでしょう。正気に返り、現実と向き合うしかありません。ゆえに、アンドウは自身が組んだ虚構の設定にタイムリミットを設けました。自分の狂気の正しさを証明する手段に、具体的な現実とのすり合わせを設け、その時点で絶対に破綻する形で己の虚構を組みました。それはとてつもない苦痛を伴う荒療治(カタルシス)ではありますが、しかし、彼が再び歩きだす上でどういても必要な儀式であり、覚悟でした。

 しかし、それすらも、ボンモーは許さないのです。ニンジャとは無限の可能性であり、あらゆることを肯定します。ウィルオーウィスプは、アンドウを現実に返すはずのカタルシスすらも、彼から奪いさってしまう。これは筆舌に尽くしがたい残酷です。「逃げるのをやめる」「目をそらすのをやめる」という選択肢すらもが、安易だとする厳しさ。アンドウに課せられたのは、消去法ではなく、無限の選択肢から、自分の意思で一本を選び取れという試練です。「ネクロマンティック・フィードバック」は、決して「自分の中の虚構に逃げ込まず、現実に向き合って生きろ」という生易しいお話ではなく、「自分の中の虚構に逃げ込んでもいいし、現実に向き合ってもいいから、お前が決めろ」というお話です。アンドウは物語の最後で、結局、現実に向き合うことを選択するわけですが、忍殺においてその選択が別に正解でもなんでもないことは、ヤクザ天狗やタニグチを見れば明白でしょう。逆に言えば、ヤクザ天狗やタニグチも、別に正しくはないのです。そこにあるのは、ただの一つのカラテです。

 あらゆる虚構が実在の人の形をとっているということ。ゆえに、決して、真実を突きつけられることはなく、何もかもが胡乱な中で、自らのカラテだけを頼りに荒野をゆかねばならないこと。忍殺が作り上げた「ニンジャ」というシステムは、どこまでも厳しく、残酷であり……しかし、そのシステム自身すら「正しい」解釈は持たず、我々の現実とは異なる甘い甘い優しさとして解釈する余地も持っています。人の形をとっているということは、虚構と会話ができるということでもあり、殺せるということでもあります。なるほど、確かにこの「ネクロマンティック・フィードバック」はアンドウにとって非常に残酷な物語でありました。しかし、実は、とても優しい物語だと読むこともできるのだと私は思います。ボンド&モーゼスは、アンドウの全ての道を塞いだ上で、全ての道を塞いだということを、彼に直接言葉で伝えているのですから。

未来へ……

 「奇跡」を扱ったエピソードであり、ガジェットとしてゾンビが登場するという点で、「デッド・バレット・アレステッド・ブッダ」が本作を意識したものであるということは恐らく間違いないでしょう。そこはやはり後世の作であることもあり、「デッド~」の方がひとつのお話としてより洗練された内容になっていると思います。しかし、改めて再読して思ったのは、この「ネクロマンティック~」の洗練されてなさ……ぐちゃぐちゃとした胡乱な何かを、エピソードという形で切り取ることなく、そのままドンと置いてしまう作りもただならない凄味があるなということです。ウィルオーウィスプの解釈合戦において、ニンジャスレイヤーが登場し、何がなんだかわけのわからない答えがそこに生まれてしまう、答えにもならない、巨大な混沌がそこに現れる「凄さ」は本エピソードでしかありえないものであり、忍殺世界の豊かさ・複雑さを見せつけられます。甲乙つけがたい。いずれも違った形での傑作だと思う。

 あと、やっぱり、第一部のブラックヘイズ、最高ですね~! 私はブラックヘイズに関しては明確に深緑原理主義者(造語)なんですよ。第二部以降の「かっこよく、ウィットに富んだ」ブラックヘイズも決して悪くはないのですが、「かっこよく、ウィットに富んだ」という設定がそれほど明確ではなかったからこそ染み出る、自然由来の旨味がこの頃のヘイズにはあったと思います。実はこれがかっこよさでもなんでもなく、ただのかっこつけたアホなサンシタにも転がりうる不安定性があってそこが凄くいいんですね。解像度が高くない、あくまで端役の一人だったからこそありえた魅力と言いますか。情報量が少ないからこそ生まれうる、ひりひりとした緊張感がみなぎっているように思います。雑味が強い。生の肉を噛みしめているような、スリルがギリギリと引き絞られています。この魅力を言葉にするのは難しいですけどね。

■note版で再読
■2020年11月3日